ぼくの神さま。


「……妹さん、正直言って男の趣味悪いですよ」
「そ、そんなに酷いやつなのか?」
「ちょっとスマホ借りてもいいですか? 今の番号、その男子のか確認してみます」
「番号、覚えてるのか?」
「はい。アキラさんの番号も言えますよ」

 ぼくが試しに暗記した番号を伝えると、アキラさんは驚いたようにしながらスマホを貸してくれた。

「あー……なるほど。この番号は確かにクラスメイトのです」
「どいつだ!? キラサを好きなやつか? キラサが好きなやつか?」

 ヨイチくんやタクロウくんの電話番号なんて知りもしないが、適当に話しながらぼくは、辿り着いた橋へと無理矢理意識を向けさせる。

「あ、アキラさん。見てください! 川の向こうに夕陽が沈みますよ。今がベストタイミングです!」
「え……いや、今はキラサの……って、うわ、本当だな……すごく綺麗だ」

 ぼくは無邪気なふりをして、川に架かる橋の欄干へと近付く。
 沈む夕陽を受けて、光を散らすように煌めきながら流れる水面を指差した。

「今日の夕陽は本当に真っ赤で、怖いくらい綺麗だなぁ……リヒトさんにも見せてあげたい」

 身を乗り出すように見下ろすと、透き通った水の底に沈む砂利が白い宝石のように見えた。
 止めどなく流れ続ける川の音、石や木に当たり水の跳ねる音、そこに重なるように、やけに大きくなるぼくの心臓の音。
 道路にも、河川敷の散歩コースにも、誰もいない絶好のタイミング。
 こんなに美しい光景を壊してしまうのは少し残念だが、仕方ない。

「おい、あんまり身を乗り出すと危ないぞ?」

 欄干へと凭れながら、ぼくは景色に見惚れる素振りで、持ったままだった彼のスマホを川の中へと落とす。

「はぁい……あっ!」
「え……!? ちょっ!?」
「す、すみません……っ! えっと、向こうから下に降りられるんで、行きましょう!」
「あ、おいっ」

 ぼくは慌ててスマホを回収に行こうと、橋の終わりまで駆け出す。アキラさんを川縁まで誘導して、突き落とす作戦だった。
 しかし、河川敷まで降りたところで、追い付いたアキラさんがぼくの手を掴んだ。

「おい、待てって!」
「なんですか? スマホ、早くしないと流されちゃいます!」
「危ないだろ、川の近くに行くなって、習わなかったか!?」

 川は近くで見ると、思いの外早い流れをしている。それに気付かれる前に焦らせようとしたけれど、アキラさんは予想に反して冷静で、ぼくを大人の顔をして叱ってきた。

「はー……スマホは買い替えられるけど、もしおまえが溺れでもしたら洒落にならないだろ」
「……っ」

 ぼくは本気で彼を殺そうとしたのに。それを知らずに心配するだなんて滑稽だ。
 けれど、ぼくをこんな風に叱ってくれるアキラさんに、固めたはずの決心が揺れた。

「……でもぼく、……ぼくが落としたんだ、見つけないと……」

 スマホは故意に落とした。しかしそれなのに、揺れる心の隙間から、かつてミーティアを死なせてしまった時のような、オレンジ色の櫛を踏んで壊した時のような、とてつもない罪悪感がじわじわと溢れた。

 同じ故意なのに、覚悟の上のものなのに、それは罪を作るために物を盗み壊してきた時とは違う感覚だった。

「ぼく、が……」

 自然と浅くなる呼吸と、定まらない視線。彼の触れているぼくの指先は、きっと夏にも関わらず冷たくなっているだろう。
 そんなぼくの様子に、アキラさんは深く息を吐き、そっと手を離した。

「……わかった。俺が探してくる」
「え……?」
「少年はここで待ってろ。絶対川には近付くなよ?」
「アキラさん……でも……」
「いいから。兄ちゃんに任せとけ!」

 買い替えてもいいと言っていたスマホを探しに行くのは、他でもないぼくを安心させるためだ。
 ぼくが手を下すまでもなく、彼は危ない場所へと降りていく。本当に、どこまでも善良な、愚かなまでにいい人だ。

 アキラさんは川縁まで降り、慎重に川へと入っていった。ジーンズは水を吸い、重たくなったのか足取りが悪い。
 最初は膝下程度で、真ん中に近付くにつれて、流れは増し水も深くなる。そのうち夕陽は沈み、辺りは暗くなっていった。そんな中、既に流されてしまったかもしれない水底のスマホを探すなんて不可能だ。

「……っ、アキラさん、それ以上は危ないです!」

 計画通り。寧ろ暗闇の中自主的に入ってくれるなんて、予想以上の成果なのに、ぼくは自然と何度も「やめて」と口にしていた。
 どこからどこまでが本心で、どこからどこまで容疑者とならないための演技なのか、わからなくなった。時間が経つにつれそんなことを考える余裕もなくなり、ぼくは泣きそうになりながら彼に向かって声をかける。

「アキラさん、もう暗いし危ないです、戻ってください! お金、すぐには無理だけど弁償します……! だから、もう……」
「大丈夫だって。猫のステッカー、蓄光で目が光るから、暗くなった方が見つけやすいんだ……あ、少年! あったぞ……!」

 全身ずぶ濡れになりながらそう叫んだアキラさんが、奇跡的に見つけたスマホを掲げる。水没してスマホの電源は切れていたけれど、確かに猫の目と思われる部分が、ぼんやりと光っているのが遠目にも見えた。

 その光景に、かつて薄暗い教会でぼくを出迎えてくれたミーティアを思い出し、ぼくは無意識にほっとする。緊張が解け、すっかり彼を害する気なんてなくなったぼくは、彼に向かって手を伸ばした。

「すごい! よかった、早く戻って……あ……」

 そして、ぼくに手を伸ばそうとしてバランスを崩したアキラさんは、そのまま暗い波の中に消えていった。