「……うわ、寒っ」
翌朝、お母さんはやはり口紅の紛失に気付かなかったようで、いつものように酔い潰れて眠っていた。
なんだか拍子抜けしつつ家を出ると、地面にはうっすら雪が積もっていた。天気予報の通り、昨夜は雪が降ったようだ。
この白は、リヒトさんの罪を土の上からさらに覆い隠しているのだろう。そう思うと、昨夜彼の共犯者になれなかったぼくは、雪にさえ嫉妬に似た感情を抱いた。
しゃくしゃくとした薄い雪の感触を踏みしめながら、ぼくはまっすぐ学校に向かう。
すると人通りの少ない通学路で、不意に後頭部に冷たい衝撃を受けた。
「っ……う、わ!?」
「よっしゃー、クリーンヒット!」
「タクロウ選手、百点!」
痛みに頭を押さえながら振り返ると、ガッツポーズをして得意気に笑うタクロウくんと、少し汚れた雪玉を構えるヨイチくんが見えた。今のはタクロウくんが、ぼくの頭に直撃させたのだろう。
「……ほんと、雨宮クンは朝から辛気くさいよなぁ。おれたちが活を入れてやるよ」
そう言ってヨイチくんが投げた雪玉は、ぼくの顔面に直撃する。
「痛……っ!」
「ぎゃははっ、やべー! ヨイチ選手、百二十点ー!」
「あははっ、頭と顔を洗う手間が省けてよかったな。感謝しろよ?」
痛みに顔を押さえながらしゃがみ込むと、二人は品のない笑い声を上げながら、ぼくの横を通り抜けていった。
幸い鼻血などは出ていないようで、ぼくは深く溜め息を吐いて立ち上がる。顔面が冷たくひりひりとした。
先ほどまでのぼんやりとした思考は、やがて濡れた髪と冷たい空気により芯まで冷やされ、固められていく。
そうだ、リヒトさんに会えるまでの間、ぼくはもっと罪を犯さなくてはいけない。
他人に迷惑をかけるのはダメだと思っていたけれど、こいつらにはいつも害されてきた。
ならばこれは、正当な復讐だ。ぼくは最善の道を見つけた気分だった。
「よし……次のぼくの罪は、あいつらだ」
学校に着いてから、ぼくはタクロウくんとヨイチくんを観察した。普段なら視界に入らないよう努力したし、視線ひとつさえ彼らの神経を逆撫でしないかといつも俯いていた。
けれども、ぼくは自ら罪を犯す覚悟をしたのだ。失敗しないために、真剣に考えなくてはいけなかった。
「……それでさー、この間誕生日プレゼントにって、これ、駅前の百貨店の文房具屋で買って貰ったんだ。筆記体で名前の刻印入りの、高級シャープペン!」
「へえ、本格的で格好いいじゃん。大人っぽいデザインだし」
「だろー? 来年受験だしさ、いい文房具使った方が勉強にも身が入るだろうって。安物より書きやすくて、結構いい感じなんだよなー。……まー、ユウヒとかは、こんないいやつ買って貰えないんだろうけど」
ぼくの視線に気付いたらしいタクロウくんが、わざとらしく手元のシャープペンシルを揺らした。ぼくは咄嗟に俯く。
タクロウくんの自慢したそれは、金属製で濃い紫色をした、大人の持っていそうな立派なシャープペンシルだった。確かにぼくには縁のない代物だ。
「ヨイチは? プレゼントとかでお気に入りのものとかあるのか?」
「おれ? んー、そうだなぁ……あ、鞄に付けてるこのストラップ。家族のハワイのお土産なんだけど、なんか限定品らしくて」
「すげー。なんかキラキラしてるとは思ってたけど、ガチでレアじゃん!」
「そうそう。海外の高いガラス? らしくてさ。でもそろそろヒモ切れそうだし、直すなりしないとなぁ」
「……、……」
大切なもの。自慢になるもの。高いもの。誕生日プレゼント。
普段なら、他人のそんなものに触ろうと思わない。壊したら怖いし、ぼくなんかが触れると価値が落ちるかもしれないと不安もあった。
けれど今のぼくにとって、それほど魅力的な罪はなかった。お母さんの口紅とは違い、大事なものならば大事であるほど、罪の純度が高い気がした。
授業中、タクロウくんにシャープペンシルの芯や消しカスを投げつけられながら、ぼくはそれをどんな風に盗み出し、どんな風に壊してやろうかと考える。
櫛を壊した時にはあんなにも苦しかったのに、ヨイチくんのストラップや、タクロウくんのシャープペンシルを壊す想像をする間は、悪いことのはずなのに、不思議とわくわくとした。
「まずは、どうやって盗ろうかな……」
ヨイチくんのストラップなら、彼に気付かれないよう引きちぎることで、直すまでの間にヒモが切れて落としたという状況を作りやすい。鞄に付いているから、いつでも機会は来るだろう。
ただ、自慢話をしてすぐ消えたら窃盗を疑われるかもしれないから、少し日を空けて。だけど、早くしないと直されてしまうかもしれない。そうなると落とすのは不自然だ。タイミングを見計らう必要があった。
「……」
問題は、タクロウくんのシャープペンシルだ。体育の授業中、仮病を使って保健室に行くふりをして、無人の教室から盗み出そうか。
否。それでは状況的に、ぼくがやったとすぐにバレてしまう。タクロウくんは絶対に騒ぐし、ぼくの荷物を徹底的に確かめるだろう。
あのシャープペンシルには、名前が刻印されているのだ、発見されては誤魔化しはきかない。そうなると罪はその場で暴かれてしまう。
だからと言ってどこかに隠しても、友達の多い彼は人手を駆使してすぐ探すだろうし、捨ててしまうと埋めることができなくなってしまう。それでは意味がない。
「そうだ……ぼくが持たなければいいんだ」
しばらく考えた末、ぼくはある計画を思い付いた。
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