翌朝、小さな呻き声で目が覚めた。
声の主は隣にいる千冬。他のみんなはまだ眠っているようだ。
千冬は、両肘を天井に向け、手のひらで顔を押し込むように覆っていた。
重力でずり落ちた袖から、しなやかに筋肉のついた腕が見えている。
「千冬、起きてるのか?」
「っ!い、伊織…せん、ぱい……」
みんなを起こさないよう、小声で話しかけると、顔を隠していた指が動き、合間から見開かれた栗色の瞳がこちらを見た。
指の隙間から見える頬は、昨日と同じくらい赤い。
まだ酒が残ってる…のか?そんなことあんのか?
「はよ。頭痛とか吐き気は大丈夫か?」
「……それは大丈夫です…」
「ならいいけどよ。昨日、お前結構酔っ───」
「いいい伊織、先輩っ!昨日のことは、全部、忘れてくださいっ!」
「はぁ?」
「は…、恥ずかし過ぎて、消えたいです………」
声は尻すぼみに小さくなり、目だけ見えていた顔も再び両手で全て隠されてしまう。
顔は隠れても、真っ赤になった耳までは隠れてねぇけどな。
俺は口の端を片方だけ吊り上げ、千冬に体を向けた。
「お前、『わんっ!』とか言ってたな?」
「き…、記憶に、ないです」
「あと俺に膝枕しろとか…」
「っい、伊織先輩!」
真っ赤な顔の恋人は片肘をつき、少しだけ起き上がる。緩んだ浴衣から綺麗な胸元が顕になるのも厭わず、千冬が指先を俺の唇にムニっと当てる。
「もう!忘れてください…っ!」
「ふ、ふふっ」
唇を突き出しジトっとした目で俺を見て、小声で抗議する。不満そうな様子を露骨に見せる千冬に、俺は口を塞がれたままクスクス笑った。
千冬のそういう反応も含めて、かわいくて、愛おしくて、なんか幸せだ。
そんな俺をじっと見ていた千冬の目が、更に細められた。
薄暗い室内で、千冬の瞳が妖しく光った気がした。
「……それ以上言ったら、口、塞いじゃいますからね…」
「ん?」
「………」
塞いじゃうって、既に塞いでんだろ。
千冬の言ってる意味がわからず小首を傾げる。
必然的に少し上目遣いに千冬を見上げた。
俺の唇を塞ぐ千冬の指先が、ぴくりと動いた。
「……っ、あーもう…。こんなかわいいのに、キスできないなんて…」
「………」
千冬の指先が強弱をつけて俺の唇を押す。
千冬の指に従順に、俺の唇はふにふにと圧力を受け止めた。
その傍ら、俺は千冬の言葉に少しの間だけ固まっていた。
千冬の、キス。
喉をごくりと鳴らし、唇に当てられている手に自分の手を重ねて、そっと下げる。
最後まで千冬の指先に引っかかった下唇が、微かに震えた。
「………て、」
「?」
千冬は甘さを含んだ瞳で物足りなそうに俺を見つめている。
俺は掠れる喉で小さな小さな声を絞り出した。
「……して、くんねぇ…?」
「………え?」
心臓はバクバクとうるさい。
顔に熱が溜まる。
千冬のピンクの髪先が朝の微かな光に透明に輝く。
寝起きのふわふわの髪。まだ気怠さを残した目元。綺麗な鼻筋と少し冷たそうな鼻先。形が良くて柔らかそうな唇…。
その全部が愛おしかった。
恥ずかしさに潤む瞳で千冬を見上げ、指で自分の唇を指し示した。
「き、す…。して…、ほしい、んだけ…ど……」
「え…、…っ、」
小さな驚きの声を最後に、俺の欲しい唇は薄く開いたまま微動だにしなくなった。
目を見開き、揺れる栗色の瞳が俺を見つめる。
千冬が息を呑む音が聞こえた気がした。
…てか、え?
なんでキスしてくれねぇんだ?
俺、なんか伝え方間違えたのか…?
たった数秒かもしれない。だけど、緊張のピークの俺には異様に長く感じられた。
固まっている千冬から目を逸らし、急速に考えを巡らせる。
千冬、キスして欲しいときは俺から言えって言ってたよな?
なんで固まってんだ?
もしかして俺、なんか勘違いでもしてたのか??
もし、そうなら…、めっちゃくちゃ恥ずかしいじゃねぇか…!
「ちふ…」
「伊織?いるのか?」
「っ!」
「ぐ、」
不意にマンティスの声が聞こえ、俺は布団の中に深く潜り込んだ。
千冬の腹に頭をぶつけ、千冬が小さく呻いた。
しかしそんなこと気にすることもできないくらい、俺は動揺していた。
こんなタイミングで話しかけてくんなよ…!
てかマンティス起きてたのか?き、聞かれてた…!?
「……千冬氏?」
「………ハイ…、…ぅ、」
布団の中で千冬の腹に頭をつけたまま、クッションがわりに手元にあった千冬のももを抱き寄せた。
千冬の体がぴくりと跳ねたのを感じた。
だけど俺はそれどころじゃねぇ。
身体中、熱すぎる。
千冬ならまだしも、友人にこんなところ見られるのは恥ずかしいって!
「千冬氏、顔が赤すぎないか?大丈夫か?」
「……、ハ、イ…、すみま…せん…。大丈夫…です」
「謝ることはない。あ、伊織を知らないか?布団は空みたいだが見当たらな……」
「………」
「………」
俺が身じろぐと、布団の向こうで聞こえていた二人の声が止まった。
マンティスはどうやら俺を探してるようだけど、今、俺はとても出られる状態じゃねぇ。
早く去ってくれと念じて、千冬の腿を抱き込む力を強めた。
「……ぅ…っ、」
「あ、あの…千冬氏……?」
「マンティス先輩……。僕…、まだ寝てるんでしょうか…?これは、夢…?」
「千冬氏、しっかりするんだ。そろそろカゲヤンとマロも起きる」
「……はい……」
「決して邪魔したいわけじゃないが、その…、け、健全な範囲で頼む」
「………はい…、先生…」
「じゃあ俺は…、顔でも洗ってくる」
俺が千冬の足を抱き寄せて羞恥に耐えている間、布団の外で会話が交わされる。
マンティスは俺を探してたようだけど、途中から俺の名前は聞こえなくなったから、どうやら千冬が上手くかわしてくれたようだ。
マンティスの足音が遠ざかると、千冬から深呼吸に近いため息が聞こえ、千冬の手が俺の頭を撫でた。
「伊織先輩、そろそろ起きますか?」
「……おう」
上がっていた心拍数が、千冬の手に癒されて落ち着いていく。
「今日は僕と雪遊びしましょうか」
「雪遊び?雪だるまとかか?」
「はい。あと、クレープ食べましょうね」
「あ!…へへっ、おう!」
キスのことは、旅行から帰ったらにしよう。
なんか間違えてたみてぇだし、なにより、今はみんながいるから、無理だ。恥ずかしすぎる。
今は、あと半日のゲレンデをめいっぱい楽しまねぇと損だし!
クレープも食わねぇとだし!
千冬が食べたがってるからな!
気を取り直して布団から顔を出そうとすると、逆に千冬が布団の中を覗き込んできた。
二人の吐息だけが交わる、閉鎖的な空間に心臓がドクンと脈打つ。
「それで…、帰ったら、キスさせてください」
「…!」
「伊織先輩、大好きです」
「……お、俺、も……」
甘やかすような声と、優しく細められた栗色の瞳。
俺は熱くなった頬でへにゃりと笑うと、千冬の腿に回した腕の力を弱めた。


