風呂を出た俺たちは旅館の浴衣に着替え、そのまま向かいの食堂へ入った。広い食堂は全席テーブル席で、部屋ごとに机が分かれている。
机の上に所狭しと並ぶ豪華な食事。
俺と千冬以外はビールも飲んで、賑やかな時間が流れていた。
「すき焼きの匂いって、匂いだけですげぇ美味いよな」
「伊織先輩、追加のお肉ですよ。あ、お野菜も食べてくださいね。はい、どうぞ」
「あははっ、千冬くん、彼氏通り越して伊織のお母さんぽいね?」
「柑奈氏、あの…、もう少し向こうに寄ってもらえないか?」
「ねぇ誰かぁ、この白のモチモチしたの食べたぁ?」
「あ、食べたよ!お豆腐…?なのかな?おいしかったよ!」
「柚月チャーン、ビールのおかわり取ってくれへん?」
テーブルの上を飛び交う会話と笑い声。
美味ぇし、楽しい。
みんなで旅行できて、すげぇ嬉しい。
「伊織先輩、フォークだと食べ辛くないですか?やっぱり僕が食べさせてあげます」
「いいって。それじゃ千冬が食えねぇだろ?これでも普通に食えるから心配ねぇよ。ありがとな」
「…………そうですか…」
微妙な間をあけて答えた千冬は、唇をちょこっと突き出して、自分の食事に向き直る。
皿の上に落ちた視線は、どこかつまらなそうに料理を眺めている。
さては千冬、先に肉を全部食べちゃったのか?
千冬にフォローしてもらいながらマイペースで食べ進めていると、マロが「そういえば」と声を上げた。
「伊織も、学祭のステージ見に来てたでしょ?」
「おう?」
俺の斜め前に座るマンティスの横から、マロが少し身を乗り出して俺に尋ねる。
チラリと見えたマロの皿の中は、殆ど空になっていて、デザートのフルーツに手をつけていた。
マロ、今日は食うの早ぇな。
「赤エレキの『爆メロ男子』、見たぁ?」
「は?何だそれ?芸人?」
「違うってぇ。軽音部のステージに突然現れた、正体不明の歌うま高校生」
「高校生…?知らねぇな」
「おー、『爆メロ』クンなぁ!俺も見たわぁ。めっちゃ目立っとったよなぁ。でも柚月チャンも柑奈チャンも知らん子やったんやろ?」
アルコールでいつもより5割り増しで調子の良さそうなカゲヤンが口を挟む。
確かに、柚月と柑奈は軽音部でステージに上がってたから、俺らより知ってそうだよな。
話を振られた柚月はパッと目を見開いてから、俺と千冬を見て、うんうんと何度も頷き、それから「知らない」と言うように横に首をぶんぶん振る。かと思えば、戸惑うように首を傾げた。
よく動く首だな。動きが面白れぇ。
面白がって柚月を見てると、視線を感じて前を向く。俺の目の前に座る柑奈が俺を見て何か尋ねたそうにしていた。
…何だ?
俺が眉間に皺を寄せると、柑奈には何かが伝わったようで、俺に小さく頷いた。
謎のアイコンタクト。
頭にハテナを浮かべる俺を他所に、柑奈はマロとカゲヤンに向かって答える。
「そうなの、飛び入り参加で素性もよく分かんなくてさ。演奏終わったらすぐいなくなっちゃったし。ね、ユズ?」
「そ、ソーソー!」
「あー、最後もすごかったよなァ!女子達がキャーキャーキャーキャー騒いで司会の人も困っとったわ!ハハハ」
「へぇー」
みんなの会話を聞きながら学祭のステージを見てた時の記憶を辿る。
軽音部のステージは最初から観てたけど、高校生が出てたかなんて知らねぇしな…。
それにあの時は千冬の歌のあと、そのまま会場を抜け出したから他のバンドは見てねぇし……。
ふと、あの日、会場から抜け出して辿り着いた、西陽の射す教室の景色が蘇る。
───ディープキス、しようと…しました。
黒髪と黒縁メガネの変装をした恋人は、そう俺に言った。
頭の中では千冬の息遣いとか掠れた声がそのまま再生され、心臓が大きく跳ねる。
───伊織先輩が、よければ…、…その先も…、俺はしたいです。伊織先輩が、…欲しい。
赤く色付いた千冬の頬。俺を射抜く熱っぽい栗色の瞳。
見つめ合いながらした、恥ずかしくて、でも蕩けるような気持ち良いキス…。
「そっかぁ。ぼくも部活の片付けで中抜けしてたから、全然知らないんだよねぇ」
「嘘やろ!?アレは見とかな損やったで!柚月チャンと柑奈チャンもバチバチにかっこ良かったし、『爆メロ』クンもプロみたいに上手かったしなァ」
「ゴホンッ。…それで、その『爆メロ』氏がどうかしたのか?」
右隣に座る千冬の横顔をそっと盗み見ると、俺の視線に気付いたのか千冬が振り向き、目が合ってしまい、慌てて逸らした。
いつの間にかみんなの会話はBGMと化し、頭の中では千冬のことでいっぱいになってしまう。
箸を持つ千冬の綺麗な手。
さっき風呂場で触れ合ったばかりの肌の感触。
素肌で感じた熱いほどの体温。
「伊織先輩?」
「……」
……なんだか無性に、千冬の手に触れてみたくなった。
千冬に触れたい。
そう思うのは、今日、二度目だ。
「なんか反響すごくてさぁ、実行委員会に問い合わせが来てるのぉ。『SNSのアカウント知りたいです』とか『どこのキャンパス行けば会えますか』とかぁ」
「一曲だけでごっつ盛り上がったのに、ステージ飛び降りてあっちゅう間に消えてもうたからな。もっと聴きたいっちゅう気持ちは分かるで?」
「そーなのぉ。しかも学祭のライブ動画のSNS投稿は禁止してるはずなのに、仲間内とかでこっそり共有されちゃってるみたいで…」
触れようと思えば、触れられる距離にある千冬の手。
包帯が巻かれた自分の右手に、ぼんやり視線を落とした。
触りたいのは、“恋人だから”。
マロはそう言ってた。
…触って、みようか……。
「伊織先輩、熱いですか?」
「はぇッ!?」
千冬の声に気付き顔を上げた。
心配そうな表情の千冬が、俺を見つめていた。
食堂の橙色のライトを反射したガラス玉のような瞳と、桜色の柔らかそうな唇に目が奪われる。
「冷たいもの飲みますか?お水か、ウーロン茶か…」
「え、えっと、そう、だな…」
千冬がドリンクメニューを取ってくれて、一緒にメニュー表を覗き込んだ。
軽くぶつかった肩に、心拍数が上がる。
ち、近ぇ…。
「なんや伊織、飲み足りんのか?」
「伊織先輩、熱いみたいなんです」
「確かに、食べてちょっと暑くなったな」
「そーだねぇ。そろそろ部屋戻らない?どうせ部屋でも飲むんでしょ?」
「いいね!飲も飲も!」
部屋飲みの話が出て、俺は飲み物の追加は要らないことを千冬に伝える。
ていうか、みんなもう食い終わってんじゃねぇか。
俺は、まだデザートのオレンジが残ってる。
六等分くらいのサイズでくし切りになったそれは、皮を剥がして食べる必要があるけど…、噛みついて、左手で引き剥がせばいけるか…?
「先輩、剥きましょうか?」
「ほんとか?助かる」
「ふふ。任せてください」
千冬がふわりと笑って俺のオレンジを手に取る。実と皮の間に入れられた切り込みに指を添え、するりと実を剥がした。
「どうぞ?」
「おう、ありがと」
「いいえ…、っ!?」
千冬に差し出されたオレンジをそのまま口で受け取る。
一口で食べようと勢いよく口で迎えにいったせいで、軽く噛んだ瞬間、千冬の指まで口に入れてしまったことに気付いた。
「あ、あいぃ…」
「……っ、…」
閉じることができない口で、軽く謝罪する。
全然喋れてねぇけど。
喋ろうと舌を動かすと、千冬の指先が当たった。
甘ぇ。オレンジの味だ。
「………、」
「ひふゆ?まっへほ」
噛んだ瞬間はびっくりしていた千冬だけど、なかなか手を引っ込めようとしない。
俺は千冬に「待ってろ」と言いながら、左手を紙ナプキンに伸ばした。多分千冬の指先は俺の唾液が付いてしまっている。だから処理に困ってるんだろう。
悪いな、今拭いてやるからな。
「……口のナカ、…熱い……」
「んぅっ?」
「…っ……」
重なって取りにくい紙ナプキンと格闘してると、千冬が何か呟き、指が微かに動いた気がした。
反射で舌が動いてしまうと、千冬は目を細めて、眉を顰める。
気持ち悪いんだな、マジごめんって…。
やっと取れた紙ナプキンを口元に運ぶと、千冬は一瞬だけ躊躇ってから指を抜き取った。
俺からナプキンを受け取り、握り込むようにして静かに指に当てる。
「悪かったな、千冬」
「………僕こそ、すみません…」
「…? 何でお前が謝んだよ」
「はぁ〜。はいはい、ごちそうさんごちそうさん。ほな行くで?」
「千冬っち、…試練が続くねぇ…」
「千冬氏、頑張ってくれ。頼む」
マロとマンティスが哀れみの目で千冬を見ると、千冬は項垂れ、深々とため息をついた。
だから、ごめんって。



