「よっしゃ!ほぼ貸切や!」
「『ほぼ』だからねぇ?まさかと思うけど、浴槽で泳がないでよぉ?」
「身体を洗ってから入れよ」
「分かっとるわ!」
湯口からお湯が注がれる音が、室内に反響して大きく聞こえる。
広い風呂場だけど、カゲヤンの言う通り他の客はほぼいない。
俺たちはガラ空きの洗い場で、それぞれ腰を下ろした。
「千冬、俺先に体洗ってるから、あとでシャンプー頼むわ」
「はい。隣にいますから、いつでも呼んでください」
「ありがとな」
ここの洗い場は両隣にパーテーションが付いていて、隣の人のシャワーがかからないように工夫されている。
だから隣の席の千冬も、シャワー前に座ってしまえば、その姿はパーテーションですっぽり隠れてしまう。
「ふぅ…。やるかぁ」
トイレの個室に入った時みてぇな、ちょっとした脱力感。
短めのため息をついてから、左手でボディソープのポンプを押した。
片手しかつかえねぇから、液体をそのまま胸や腹、足に広げていくけど……、めっちゃやりづれぇ。
しかもいつも俺が使ってる安いボディソープとは違うのか、なんだか濃厚でやたらぬるぬるする。
つーか全ッ然泡立たねぇし。
「伊織先輩、大丈夫ですか?」
「おー…。もう少し待ってくんね?」
「大丈夫ですよ。僕も先に自分のこと済ませちゃいますね」
パーテーション越しに会話しながら、左手は悪戦苦闘を続ける。
自分でやるとは言ったものの、やっぱ背中は届かねぇし、本当に微塵も泡立たねぇ。なんだこのボディソープ?
「終わりました。…伊織先輩?」
「なぁ千冬、このボディソープ、すげぇ使い辛くねぇ?」
「……」
返事のない千冬を振り返ると、千冬は眉をぴくりと上げて俺の手元を覗き込んだ。
濡れたピンクの髪が顔の横に近付き、いつもと違うシャンプーの匂いが香った。
「先輩、それコンディショナーです」
「え!?」
「ぷっ、ふふ、ははは!」
「うわっマジかよ、あはは!」
千冬が俺の反応を見て子供みたいに楽しそうに笑う。俺も自分のアホな間違いに思わず笑った。
コンディショナーじゃ、泡立たねぇわけだよな。
「一度流しましょう。シャワー貸してください、僕が流します」
「さんきゅ」
二人でひとしきり笑うと、千冬が自分の椅子を俺の後ろに持ってきて腰掛ける。
ぬるついた手でシャワーを渡し、蛇口を捻った。
「うわ、変な感じ。お湯が弾かれてるみてぇ」
「コンディショナーですからね。ふふ」
「おい、もう笑うの禁止だからな」
「えぇ?こんなに可愛いのにですか?」
「可愛いって何だよ、面白ぇの間違いだろ」
千冬にツッコミを入れながら今度こそ間違えずにボディソープのポンプを押した。
千冬もシャワーを戻すと、ボディソープを手に取る。
「……えっと、…手伝います、ね」
「悪ぃな、助かる」
結局体まで洗わせることになってしまった。
ヘラリと笑いながら首だけ振り返ると、濡れた千冬と目が合った。
口元は緩く微笑んでいるけど、なんだか顔が強張ってるような気がする。
シャワーだけでのぼせたのか、頬はほんのり赤い。
千冬の手が肩に触れたのを感じて、俺も前に向き直る。
正面に設置された鏡越しに、俯いたピンクの髪の頭が動くのが見えた。
「ありがとな、千冬」
「…いいえ、」
「俺さ、お前にすげぇ助けられてるなって思うんだよな」
「そんなことないですよ」
「そうか?今日の怪我だって、千冬が色々世話してくれてんじゃねぇか」
「伊織先輩のお世話ならいくらでも、喜んで引き受けます。僕がやりたいです」
身体を洗いながら鏡をチラリと見ると、鏡越しに千冬と目が合う。優しく細められた目に、俺も頬を緩めて千冬を見た。
ほんと、千冬って優しいよな…。
「あのさ、…千冬」
「はい?」
俺はちょっと照れながら、鏡の千冬に向かって呼びかける。
今日は朝から千冬に世話になりっぱなしだ。
転びそうな時も支えてくれたし、怪我した時もすぐに助けてくれたし、今だってこんなアホみたいな間違いを一緒に笑って、身体を洗うのを手伝ってくれてる。
…ちゃんと、
千冬に、お礼、言っとかねぇとな…。
「あの…さ、俺、…千冬と、付き合えて…、千冬が、俺の彼氏で、嬉しい」
「っ、」
直接目を見て伝えたくて、肩越しに千冬を振り返る。
千冬の顔は、思ったよりすぐ近くにあった。
少し首を伸ばせば、キスできそうなほど近い距離。
水分をふくみ重くなったピンクの髪の間から、栗色の瞳が俺を見下ろしている。
二重の薄い瞼は少し下がり、甘い瞳は溶けてしまいそうなほどの熱を帯びていた。
俺はなんだか顔が赤くなるのを感じて、それを隠そうと顎を引く。
「千冬といると楽しいし、その…すげぇ、幸せ。だから、ありがとな?…俺を、恋人にしてくれて…」
顔が勝手にへにゃりと笑ってしまう。
恥ずかしいけど、幸せ。
千冬がいてくれて、嬉しい。
照れ隠しにえへへと笑うと、不意に、肩に置かれた千冬の手が俺の体を引く。
千冬の顔が更に近づく。
唇が触れる、スレスレの位置。
キス………、される……かな…
体が自然とキスを受け入れようとして、瞼がとろんと落ち、唇が緩く開いた。
千冬の、キス……。
「〜〜っ…、はぁっ…!」
「…千冬?」
予想に反して、唇にあの蕩けるような感触はなかった。
代わりに千冬は赤い顔で苦しげに眉を寄せ、たっぷり数秒間、俺を見つめてから顔を逸らす。
崩れるように俯くと、自分の腕に額を乗せて何か呟いた。
「なんで今、そんなかわいいこと……」
「千冬、大丈夫か?」
少し息が荒いみてぇ。
体調悪ぃのか?
心配になった俺は身体ごと千冬に向き直ろうと、椅子の端に手をついて身体を動かそうとする。
しかし、
───ずるっ
「わっ!」
「っ!?、」
自分の手がコンディショナーとボディソープで最上級にぬるぬるになっていたことをすっかり忘れていた。
椅子についた左手は思い切り座面から落ち、バランスを崩した俺は千冬の身体に受け止められた。
あ、あぶねぇ〜…。
「悪ぃ千冬、滑ったわ!」
「……」
後ろから抱き止めるように俺の上半身を支える千冬は、石のように固まっていた。
俺を支える腕は、少しだけ肘に隙間を取り、俺の体の前面に触れないようにしている。
コンディショナーまみれの身体に触れないように咄嗟に判断したってことか?
すげぇ。
「思い切りぶつかったけど、痛くなかったか?」
「……」
……千冬、本当に石になったのかもしれねぇ。返事がねぇ。てか、呼吸も聞こえねぇ。
大丈夫か?
俺の背中は千冬の胸板にぴったりとくっつき、俺の二の腕の柔らかいところは、千冬の腕の筋肉の触感が分かるほどぴたりと密着している。
そして俺の耳の真横には、千冬の唇。
ボディソープの匂い、交わる体温。
微かに震えた熱い吐息が、俺の耳を掠め身体がゾクリとした。
「ぁ…っ」
「……っ、」
少しでも身じろぐと、俺と千冬の肌の間にあるボディソープが、二人の間の摩擦を奪い素肌同士がぬるりと擦れ合う。
てか、千冬の身体、すげぇ熱ぃな。
いつも抱きしめられた時に、俺より体温高ぇなって思ってたけど、素肌はこんなに熱ぃんだ…。
自分の心臓が、静かに鼓動を速めた。
「……ちふゆ、なんか…あちぃ…?」
妙な気恥ずかしさに頬に熱が集まり、ちょっと笑いながら千冬を見上げた。
真っ赤な顔の千冬は、必死に目を閉じて眉間に皺を寄せていた。
長いまつ毛が、繊細に震えている。
「……大丈夫か?」
「………」
千冬は顔を逸らすと、喉をごくんと鳴らしてから、ゆっくり頷いた。
……やっぱ、のぼせた…?
千冬の妙な反応は心配だけど、痛がってるわけじゃないみてぇだ。
もう一度椅子の座面に手をつき、今度はゆっくり体重を移動させ、なんとか体を戻す。
「早速、また助けられたな?へへっ」
鏡に映る千冬にへらりと笑いかけてみるけど、千冬は黙ったまま真っ直ぐに正面を見つめている。
…無表情で。
え、怖。
怒ってんのか?
心の中でもう一度謝りながら若干縮こまって椅子に座り直す。
これ以上、変なドジで千冬に呆れられる前にやること終わらせてしまおう。
追加のボディソープを手に取って、適当に塗り広げる。
背後の千冬はようやく硬直タイムが終わったのか、恐る恐るといった手つきで俺の背中に触れた。
手伝ってはくれるのか。
やっぱ優しいな。
「千冬、夕飯、楽しみだな?すきやき」
「…………はい」
「去年もすげぇ美味かったんだよ」
「………はい」
はい、しか言わねぇ。
本当に怒ってんのか?
「千冬、もしかして怒って…ふ、っ!」
「………………」
千冬に尋ねようと口を開くと、千冬は触れるか触れないかくらいの微妙な力加減で俺の背中に触れた。くすぐったくて声が漏れる。
「ち、……」
「………」
くすぐったいからやめろ、と言おうとしたけど、手伝ってもらってるんだし、千冬はなんか変だし、少し考えて口を閉じた。
千冬の指先がゆるゆると皮膚をくすぐるから、身体はビクンと跳ねてしまうけど、それは反射だから、そのくらいは許してほしい。
「…………先輩」
「ん?」
ようやく口を開いた千冬は、静かな低い掠れ声で俺を呼んだ。
振り向こうとした瞬間、千冬の爪先が俺の背中をなぞった。
「ここ、…ほくろ……」
「ぅひゃぁっ!?」
背中の真ん中に近いところを、下から上へツゥ…なぞられ、身体がゾクゾクと震えた。
背後で千冬が短く息を吐くのが聞こえる。
熱っぽくて、少し震えた重そうな吐息。
「はぁ…、……も…、かわい…」
「は?ちょ、く、くすぐってぇ…ぁ、ふっ…」
すかさず抗議するも、次は千冬の指先が脇腹をそうっと撫で上げていく。
骨盤の出っ張ったところから、ゆっくりと、脇腹の柔らかい皮膚をなぞる。
「ち、ちふ、…っ」
肋骨の上の薄い皮膚を通り、胸の辺りに近付くと、俺の身体は前屈みにきゅっと縮こまった。
なんか、なんか…、ぞわぞわする…。
「…っ、先輩の腰、細い……」
「は、はぁ?へぁっ…」
今度は急な体型ディスかよ?
そんなガリガリヒョロヒョロなつもりはねぇけど…。
千冬の手が、俺の腰の緩やかな窪みにぴったりと添えられた。
ボディソープで摩擦が失われた皮膚は、自然と千冬の指先を滑らせる。
意図せず声が溢れる。
「ふ、ゅ…っ」
「はぁ……、伊織先輩。僕…、心臓が…壊れそうです…」
「へ………はっ!?」
突然の体調不良の訴えに、慌てて身体ごと千冬を振り返った。
「心臓!?大丈夫かよ!?風呂出るか?」
「……」
確かに千冬の身体は異常に熱ぃし、ガチでのぼせてんのかもしれねぇ。
焦る俺に、千冬は一瞬きょとんとした表情を浮かべるも、すぐに蕩けるような甘い笑顔を向けた。
「……ふふ、はい。伊織先輩と、二人きりになれるところに行きたい気分です」
「なら、早く出ねぇと」
「伊織先輩」
「わっ、ちょっ…!?」
千冬は俺の左手首を掴み、胸の真ん中に俺の手を誘導する。
左手が、千冬の胸に強く押しつけられた。
「……っ、」
重なる手。熱い肌。硬い胸板。
どくどくと忙しく鼓動する、千冬の心臓。
「……分かりますか?伊織先輩」
「な、何が…」
濡れて濃くなったピンクの髪の先から雫が落ちた。前髪の隙間から、こっくりした暗い栗色の瞳と目が合う。
つややかな頬とぷっくりした涙袋は、仄かに赤みを帯び、湿った肌は千冬の綺麗な肌を色っぽく艶めかせている。
なんだ?この、色気…。
「俺、すごくドキドキしてます」
「ぅ…っ、うん…、」
「伊織先輩の素肌に、触れてるからです」
千冬の力は思ったより強くて、胸に押し付けられている手は簡単には抜けない。
それどころか、千冬は俺の背中に反対の手を回し、さっきと同じ場所を優しく撫で上げる。
「ぁ…、ち、ふゆ…」
「こんな風に好きな人に触って、我慢する方が無理です」
「ちふゆ、待って…、」
「伊織先輩が欲しくてたまらないです。もっと触れたいし、…キス、したい…。……伊織先輩が、欲しいです…」
眉を下げ、困り顔で俺を見つめる。
甘い甘い栗色の瞳は少し潤み、怪しい光にゆらめく。
そんな顔されると、俺、…どう、したら……
千冬の懇願に頭の中がクラクラして、思考が鈍った、その時。
「は〜いストップ〜。それ以上はやめてね〜?いくら他のお客さんが見てなくても、営業妨害認定しちゃうよぉ?」
「マ、マロ!?いやっ、これは、別に何も…!」
「言い訳はよせ伊織。隣のブースで一部始終聞かされていた俺の身にもなれ」
マロの後ろからマンティスが顔を出す。
そんなマンティスをマロは呆れたような目で見る。
「マンティスも自分で言えばいいじゃん」
「無理だ。千冬氏に怒られたら立ち直れない」
「なんでよ?千冬っちはそんなことじゃ怒んないよ。……内心ブチ切れだろうけど」
「最後の呟きまで聞こえたぞ」
二人の介入でさっきまでのクラクラもドキドキも鎮まった俺は、千冬に照れ笑いする。
「手、流せよ。シャワー出すな」
「………はい」
千冬はマロに小さく謝罪すると、床に視線を落とした。
「………伊織先輩も、ごめんなさい」
「え?」
「……伊織先輩のペースでって、思ってたのに…、僕、困らせて…」
ちょっと唇を突き出し、不貞腐れてるように見える。
俺は千冬に気付かれないように小さく笑ってから、濡れたピンク髪をわしゃわしゃと撫で回した。
「別に困ってねぇよ。それより、シャンプーもお願いしてもいいか?」
「…はい」
「ありがとな、千冬。助かる」
ニコッと笑うと、千冬は一瞬俺を見て、また長いまつ毛を伏せる。
でも、綺麗な口元はふにゃっと緩まっている。
やっぱ子供みてぇ。
千冬のそういうとこ、かわいいよな。



