宴会部屋は、ひんやりとした静寂に包まれていた。
柳澤はそっと立ち上がり、少し開いた襖の隙間から奥の部屋を覗き込んだ。栗田の近くに寄り添うようにして、キコも体育座りのまま眠りに落ちているようだった。
手前の部屋では、杉山が相変わらず壁に背を預け、ぼーっと考え事をするように薄暗い天井を見つめている。柳澤はそんな杉山を一瞥すると、またそのすぐ真横にドカッと腰を下ろした。スマホを取り出す。
「もうすぐ三時か……」
声を落として言うと、ふぁ、と欠伸が出た。
杉山がチラリと柳澤を見る。
「……ケイさんも寝てて良いっすよ。俺、見とくんで」
「お前も疲れてるだろ」
柳澤が眉を下げると、杉山は強がるように肩をすくめた。
「若いんで」
「二個しか変わんねぇだろ」
柳澤はふっ、と鼻を鳴らす。
そして、そのまま壁に後頭部を預け、ズルズルと重力に任せて杉山の広い肩へと頭を預け、目を瞑った。
ピクッと、杉山の身体が一瞬石のように強張ったのに気づき、柳澤は目を瞑ったまま、内心で首を傾げる。
(なんだよ。こんな体勢、別に珍しくねぇだろ)
杉山の骨太で広い肩は、昔からなぜかひどく安心感がある。撮影帰りの揺れるロケバスの中で、これまで散々肩を借りて爆睡してきたはずなのに。
柳澤が薄目を開け、様子を伺おうと下から見上げた、その時。
――カァァンッ!!
あの甲高いカチンコの音が、静まり返った宴会部屋に唐突に響き渡った。
「っ!」
柳澤は弾かれたように立ち上がり、部屋の隅にあるプロジェクターに目を向ける。杉山も即座に立ち上がると、奥の部屋の襖を少しだけ開けた。
「……大丈夫か?」
杉山が声をかけると、「は、はい!」と、飛び起きたキコの緊張した声が返ってくる。
パッ、とプロジェクターが青白い光を放ち、映像が投射された。部屋の天井の隅から、部屋全体を端から端まで見下ろすような、魚眼レンズに近い不気味な広角映像だ。
「監視カメラっぽい画角だな……」
柳澤が呟きながら、プロジェクターの光を見つめる。画面の中には、部屋の中央の『襖』を境にして、奥の部屋にいるキコと栗田、手前側にいる柳澤と、中央付近にいる杉山の姿が、まるで実験動物のように映し出されていた。
突如、画面の中で、ちょうど襖の仕切りがある部屋の中央あたりから、シューッという音を立てて白い霧が立ち込め始めた。それと同時に、現実の部屋の温度が、冷蔵庫の中に入れられたかのように急激に下がり始める。
「……なんだ!?」
柳澤が実際の襖の方へ視線を向けるが、そこには白い煙など一切ない。
だが『画面の中』では、その不気味な霧が、部屋の中央から左右の壁際に向かって、じわじわと広がっていく。
猛烈な嫌な予感が背筋を駆け抜けた。
あの霧に触れたら、確実にヤバい。皆のように消える。直感的にそう理解した。
「アオイ、下がれっ!」
画面の中央に近かった杉山が、プロジェクターの映像を睨みながら、ジリジリと後退してくる。
「キコ、栗田! 絶対に画面の中で煙に触れるなよ!! 下がれ!」
柳澤が声を張り上げて叫ぶ。
「は、はい!! 部屋の隅に寄ります!」
奥の部屋から、二人の悲鳴混じりの戸惑った声が聞こえた。画面内の霧は、毒ガスのようにどんどん体積を増していく。
杉山が、後退しながら柳澤のすぐ目の前まで迫る。画面の中の霧はすでに壁の近くまで到達し、残された安全地帯は、柳澤の背後にある『部屋の四隅のコーナー』のギリギリのスペースだけになっていた。
柳澤は、コーナーの壁に背中をめり込ませるようにして立つ。そのすぐ目の前に、杉山の大きな背中が迫る。
「このままじゃ、まずい……逃げ場がなくなるぞ」
柳澤が焦燥に駆られた声を出した時、画面の中の霧は、壁際まで半径一メートルほどの隙間を残して、広がる速度をグッと落とした。
「……安置は、ここだけかよ」
柳澤が苦々しく言うと、杉山が厳しい顔で眉を顰めた。
「霧、止まってないです。……少しずつ、まだ範囲が狭まってます」
そう言いながら、杉山の背中がさらに後退してくる。
ジリ、ジリ、と、逃げ場のないコーナーで、やがて柳澤の胸に、杉山の背中がピタリと触れた。
「まじかよ……っ」
柳澤はコーナーの角へ身を捩り入れて、少しでもスペースを確保しようと足を踏み出す。
その瞬間、杉山の長い足と柳澤の足が深く絡まるようにぶつかり、柳澤の身体がバランスを崩して大きくのけぞりそうになる。
「……っ!」
倒れかけた柳澤を庇うように、杉山が咄嗟に反転した。
バンッ!!
杉山の大きな左手が、柳澤の顔のすぐ横の壁を激しく叩き、ギリギリで二人の体重を支える。
逃げ場のないコーナーの角。壁と杉山の間に挟まれた柳澤が、その数センチの空間越しにその顔を見上げた。
杉山が、少し苦しそうに顔を歪ませながら見下ろしてくる。そのまましばらく呆然と見つめ合っていると、杉山が気まずげに視線を逸らした。
「……ケイさん、俺、後ろ見えないんすけど。どうなってます?」
至近距離で落とされる低い声に、柳澤はハッとして、杉山の体の横からプロジェクターの画面を覗き込んだ。
霧は、ほとんどその進行を止めているように見える。
画面の奥では、反対側の部屋でキコ達が壁に向かって八の字になるように肩を組み、必死に身を寄せ合っているのが見えた。女の小さな体だからこそ、なんとか収まっている体勢だ。
それに比べて、こちらは平均身長を超える成人男性二人。杉山の足元には、あと半歩下がれば触れそうなほど、霧が肉薄していた。
「アオイ、もっと寄れるか? お前の足元、すぐ後ろに霧が来てる」
柳澤の切羽詰まった声に、杉山は小さく舌打ちをし、左腕を少し曲げながらグッと一歩、前へと踏み出した。
柳澤は、冷たい壁と杉山の身体に完全に押しつぶされるような体勢になる。
「……っ」
互いの胸板がぴったりと密着し、どちらのものとも言えない心臓の音が、ドッドッ、と早鐘を打って重なり合う。
柳澤は、杉山の首筋の横から必死に画面を見る。
霧は、二人の足元のスペースを完全に潰すように少しだけ広がり、ピタリと、完全に止まった。
「霧は、多分止まった……。でも、カメラが止まらない」
これ以上、何も起きない。
ただ、プロジェクターの低い駆動音だけが、静まり返った宴会部屋に唸り続けている。
画面の中では、定点カメラが微動だにせず、部屋の隅に追い詰められた自分たちをじっと映し続けていた。
狭くて、異常に息苦しい。柳澤は大きく息を吸って、「はぁっ」と熱い息を吐き出す。
「……キコと栗田は大丈夫なのか……? お前がデカすぎて、よく見えねぇ」
そのままボソリと呟くと、ピクリ、と杉山の身体が跳ねた。
「……ちょっと、黙っててください……」
切迫したような、ひどく掠れた声が柳澤の耳元に直接落ちる。なんだよ、と柳澤は目線を画面から杉山へと移す。
杉山は大きく顔を背けているため、その表情は読めない。
だが、目の前にある首筋と耳の裏が、異常なほど真っ赤に染まっている。
(――え?)
柳澤の動きが、完全にフリーズした。
(なんで、こんなに真っ赤になってんだ、こいつ)
つられて、柳澤の顔まで一気に赤くなってくる。
冷蔵庫のように冷え切った部屋で、顔だけがおかしいほど熱い。密着する杉山の身体はすでに全身が熱く、その境目から熱がじわじわと自分の皮膚の奥へ染み込んでくるようだった。
その熱を誤魔化すように、チラ、と画面を見る。
まだカメラは回っている。長い。今までの怪異は、条件を満たせばあっという間に終わったのに。今回は定点カメラの異常な長回しだ。とっととタイムリマップでもして終わらせたい。
杉山が少し身を捩り、壁についた左手をつき直す。柳澤も、無理にねじ込んだ背中が痛み出していた。少し下がってしまった腰を持ち上げたいが、動けば杉山を霧の方へ押し出してしまいそうで、身動き一つ取れない。
「……っ、くそ、長ぇな」
踏ん張る太ももが限界を迎え、ブルブルと震えて腰が落ちそうになる。
ふと、杉山が、右手を柳澤の腰と壁の間に滑り込ませ、グッと力強く持ち上げるようにして、その身体を抱え込んだ。
「お、おい、アオイ」
「……黙ってろって」
苛立ったような、それでいてひどく甘い声。
視線をやると、壁についた杉山の左手が微かに震えていた。
さっきとは違う。腕全体が細かく痙攣し、関節が白くなるほど強く拳を握り込んでいる。柳澤の身体を支える右腕も、限界を堪えるように硬く強張っていた。
なんで。
俺のために、そこまでするんだ、こいつ。
『――それでも。あんたが生きてないと、意味がない』
さっきの杉山の悲痛な言葉が、脳裏を掠める。
この言葉の意味は? 相棒として?
そう疑問を持った途端。
今日一日で次々と言われた言葉たちが、濁流のように脳内でリフレインし始めた。
『柳Dが、杉さんのこと独占しすぎなんです』
『愛されてるよねー』
『柳Dが卒業していなくなってからも映画は撮ってましたけど、なんか、どっかつまんなそうでしたもん』
『仲良いし、一番近くにいるから、もしかしたらって期待しちゃうじゃないですか』
その言葉たちが、今夜の杉山の姿と重なっていく。
暗闇の中で自分の手を包み込んだ、掌の温度。
人形を蹴り飛ばした後に振り返った時の、あの瞳。
237に飛び込みそうになった自分を抱き止めた腕の力。
そして今、限界の身体で自分を支え続けている、この右手の意味は。
あ。
ストン、と。
すべてのピースが組み合わさり、一番奥の腑に落ちた。
――こいつ、俺のこと、好きなんだ。
腑に落ちた途端、カッ、と全身の血が沸騰したように熱くなる。
今まで無意識だった、自分の腰に回された杉山の大きな手と、ぴったりと密着する分厚い胸板の熱に、強烈に意識を持っていかれる。
(うわ、やばい……っ)
そわっ、と耐えきれずに柳澤が少し身を捩る。
すると、杉山が腰に回す手の力をグッと強め、「なんなんだよ」とでも言いたげに顔を向けてきた。
至近距離で、バチリと目が合う。
あまりの『近さ』と、柳澤の異常な顔の赤さに、杉山がハッと目を見開いた。
「……っ」
柳澤は思わず息を呑み、金縛りにあったように硬直する。
ほんの数秒。永遠にも思える沈黙の後。
杉山の視線が気まずげに彷徨い、ふいっ、と自制するように顔を背けられた。
その、拒絶にも似た横顔に、さっきの言葉が再び脳裏に蘇る。
『……なんとなく、気持ちの整理はついたんで』
すべてを諦めたような、あの横顔。
それを思い出した瞬間、柳澤の喉の奥がきゅっと、息苦しく締まった。急速に自分の顔から熱が引いていく。
気持ちの整理がついた。
それって。
――こいつはもう、諦めたのか。俺を。
*
一方、奥の部屋。
少し背の高いキコが、栗田の肩を抱き込むようにして壁に向かい、必死に身を寄せ合っていた。
手前の部屋の杉山と柳澤のように完全に密着ができず、どうしても二人分の足幅のスペースを取ってしまっているため、画面上では二人の踵のギリギリまで霧が迫っていた。
「わっ……」
極限の恐怖と、さっきまで横になっていた身体が限界を迎え、栗田の膝がカクンと折れそうになる。
「栗田さん!」
キコが抱え込む腕の力を強め、ズルリと落ちそうになるその身体を必死に支える。
「さ、さっきからごめんね、キコちゃん……っ」
栗田の膝が折れそうになったのは、もうこれで三度目だった。
「大丈夫ですから! 踏ん張って、絶対に生き残りましょう……!」
キコは壁に左肘と額を擦り付けるようにして言う。腕も、足も、身体中がガクガクと震えている。
体勢が、あまりにもきついのだ。本来、大人二人が入れるようなスペースではない。
まるで超過密な満員電車の中にいるのに、『周りの人に少しでも寄りかかったら即死するデスゲーム』をやらされているようだった。冷たい壁だけが、唯一自分を支えてくれる命綱だった。
だが、キコの左腕もすでに限界を見せ始めている。そして何より、栗田にはキコほどの体力がない。今夜立て続けに起こった怪異をなんとか乗り切ってきたその華奢な身体は、とっくに限界のメーターを振り切っていた。
「……キコちゃん。実はさ」
栗田が、小刻みに震えながら小さく呟いた。キコは壁に額を擦り付けたまま、目線だけでその顔を見る。
「私も、八年前から『カプ推し』だったの」
栗田が、限界の表情の中にニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべて言う。
キコは、限界まで目を丸くした。
「マジっすか……!! ナカーマじゃないですかぁ!」
思わず叫びそうになりながら、二人で「ふふっ」と息を吐くように笑い合う。
「バレるの嫌で、ずっと隠れて見てたけどね。……だから、キコちゃんが現場で堂々と二人を応援してるのを見て、いつも楽しかった」
そう言って、栗田はキコの背中に回した手を、ぐっ、と心強そうに強める。
「画面見えないけど。……多分、今すごい体勢なんじゃない? あっちの二人」
「そうなんですぅ! 見たくて仕方ないのに、こっち向いちゃったから全然見えなくて!」
えっへへ、と、キコの口から変な笑い声が漏れる。
栗田も、そのおかしな笑い声につられてヒィヒィと笑う。極度の恐怖と疲労で、完全に脳内物質がおかしくなっていた。
背後から迫る霧の恐怖を誤魔化すように、二人は壁に向かって肩を組みながら、ひっそりとした忍び笑いを繰り返した。
「……っ!」
再び、栗田の膝がカクン、と落ちる。
キコは咄嗟に栗田を支える腕に力を込めた。
「ごめん、ありが――」
顔を上げ、言いかけて、栗田の言葉が止まった。
間近で見るキコの腕や足は、すでにブルブルと小刻みに震え、今にも限界を迎えて崩れ落ちそうだった。
自分の体重を支えるせいで、キコの体力が削られている。
それでも、自分を抱え込むその腕だけは、決して離すまいと痛いほど力強かった。
「……もう、見れるからね」
突如、栗田が静かにそう呟いて、優しく微笑んだ。そして、自分を支えてくれているキコの腕を、そっと外す。
「え?」
キコが額を壁に擦り付けたまま、目だけで栗田を見る。
「杉くんと先輩を、よろしくね」
そう言い残し、栗田は微笑んだまま、自ら一歩、後ろへと下がった。
その瞬間。
ぱっ、と、栗田の身体が真っ白な霧の奥へと溶けて消えた。
「栗田さぁん!?」
キコが咄嗟に振り返り、伸ばした手が虚しく宙を掻く。
「栗田さん!!!」
悲痛な絶叫と共に、キコがその場に崩れ落ちた。栗田がいなくなった残酷な余白のおかげで、膝をついたキコの身体が霧に触れることは、もうない。
「なんでぇっ……!!」
ボトボトと、大粒の涙が冷たい畳を黒く湿らせていった。
*
「栗田さん!!!」
壁の向こうから聞こえたキコの悲痛な絶叫に、ハッとして柳澤は顔を上げる。
杉山の横からモニターを覗き込むと、奥の部屋の隅で、キコがたった一人で泣き崩れながら蹲っていた。
栗田の姿は、どこにもない。
「……栗田が……」
愕然と柳澤が呟く。
杉山が、壁についていた左手をギリッ、とキツく握りしめ、大きな身体を震わせた。ギシギシ、と爪が木の壁に食い込む音が、柳澤の右耳に痛いほど響く。
柳澤は思わず腕を伸ばし、その震える背中を、グッと力強く抱きしめた。
その瞬間、杉山の肩越しに、プロジェクターの映像がブルースクリーンへと変わった。同時に、部屋を満たしていた異常な冷気が嘘のように霧散していく。
「……カメラが、止まった」
柳澤は静かにそう言うと、杉山の広い背中に回していた自分の腕をゆっくりと解いた。
杉山は深い絶望に俯いたまま、フラフラと一歩下がり、どさっ、と糸が切れたように尻餅をついて座り込む。
柳澤も、ズルズルとコーナーの壁に背中を擦りつけながら座り込み、両手で深く頭を抱えこんだ。
冷気だけが去り、元の温度に戻った静かな宴会部屋に、キコの掠れた啜り泣く声だけが、いつまでも響き渡っていた。
