カチンコ


 廊下を奥まで走り切ると、壁に向かって佇む、杉山の大きな背中が目の前に現れた。
 
「アオイ……」

 震えた声で呼ぶ。反応はない。
 その肩を掴む。生きている人間とは思えないほど、驚くほど冷たかった。
 
「おいっ!」

 壁から引き剥がすように、力まかせにこっちを向かせる。
杉山は真っ黒な瞳で、焦点の合わないまま虚空を見つめていた。
 
「アオイ?」

 顔を覗き込んでも、視線が合わない。
 
「おい、しっかりしろ!!」

 バチィッ! と、両手で冷たい頬を強く挟み込み、無理やり自分の方を向かせる。
 その虚空と視線がぶつかった瞬間――ぱち、と、杉山の目に光が戻った。数回瞬きをして視線を彷徨わせると、その焦点が、やっと目の前の柳澤を捉えた。
 僅かに目が見開かれる。
 
「え……ケイ、さん? ……俺……」

 戸惑いで杉山の目が泳ぐ。
 年相応の少し無防備なその表情を見て、柳澤は「はぁぁ……」と、崩れ落ちそうなほどの安堵の息を漏らした。
 挟んでいた手を離し、そのままボスッ、と杉山の胸に額を押し付ける。
 
「お前……マジでふざけんなよ……」

 生きている。消えなかった。その事実だけで、立っているのがやっとだった。
 
「……すんません、なんか、急に意識が飛んで……」

 杉山が困惑したように頭をかくと、プツン、と乾いた音を立てて、床に転がっていたタブレットから青い光が漏れた。
 
「終わりましたね」
 
「……うん」

 カメラが切れたのは分かったが、柳澤はまだ動けなかった。額からじんわりと伝わってくる杉山の確かな体温にひどく安心する。
 ふと、背中に大きな手が回り、ぎゅっと、力強く抱きすくめられた。

 ドクンッ、と。柳澤の心臓が、恐怖とは違う理由で大きく鳴る。
 
「ご心配、おかけしました」

 耳元に落ちた低いつぶやきと共に、その拘束は一瞬で解かれ、生意気な年下はとっとと前を歩き出してしまう。

 うるさい心臓と、カッと熱くなる耳の裏に呆然としながら、柳澤はゆるゆると床のタブレットを拾い上げ、その広い背中を追った。

 
 *

 
 少し前。
 一階、宴会部屋。

 襖に投影されていた『杉山のPOV映像』。そこには、泣きそうな顔で杉山の頬を挟み込む柳澤のドアップと、そのままズルズルと杉山の胸に額を埋める姿が映し出されていた。

 次の瞬間。
 プツンッ。乾いた音と共に、襖の映像がパッと無機質なブルースクリーンに切り替わった。
 
「…………あ」

 栗田が、ふぅっと長く張り詰めていた息を吐き出す。
 
「終わった……?」

 キコが恐る恐る顔を上げ、青い光だけになった襖を見た。
 
「終わったみたいですね……偽田山さん以外は誰も消えずに」

 神坂が、心底ホッとしたように胸を撫で下ろす。
 
「よかったぁぁ……っ!! 今回は誰も消えなかったぁぁ!」

 キコが栗田に抱きつき、ポロポロと安堵の涙をこぼす。栗田も「よかった、本当によかった」とキコの背中を優しく撫でた。

 だが、数秒後。
 涙を拭ったキコが、ふとブルースクリーンを睨みつけ、バンッ! と机を強く叩いた。
 
「ていうか!!」
 
「えっ、な、なに?」

 ビクッとした栗田がキコを見る。
 
「なんであそこで切るのぉ!!」

 キコが、青い光を放つだけのプロジェクターに向かってギリィッと歯ぎしりをした。
 
「今、一番、良いところだったのにィィ!!」
 
「……キコちゃん、あなた本当にたくましいね」

 栗田が、涙目でズビズビと鼻をすりながら、クスリと笑った。
 神坂も、キコの剣幕に思わずふふっと吹き出す。
 
「でも……」

 神坂が、ふと困ったような顔をして二人の顔を見る。
 
「あのお二人って、本当に……あの、そういう関係なんですか?」

 少し気まずげに尋ねる神坂に、キコは「うっ」と声を詰まらせた。
 
「いや、リアルではないとは思います……。少なくとも、柳Dはそういう目で見てないんじゃないですかね」

 ガクリ、とオタクの肩を落とす。
 
「杉山さんは……?」

 神坂が小首を傾げる。
 
「杉くんは……まぁ、見たらわかる通り」

 栗田が、気まずそうにポリポリと頬を掻いた。
 
「大学一年の時から、ずっとだと思うよ」

 キコが、限界まで目を見開く。
 
「えっ、八年くらい経ちますよね!?」

 身を乗り出すキコに、栗田が視線を落として苦笑する。
 
「うん。……柳Dが昔、結婚した直後は、杉くん割と荒れちゃってさ」
 
「あ、あのテリジノが荒れていた、ですと……!?」
 
「大学三年以降かな。朝男の人と一緒に家から出てくるところも見たし、学部でお持ち帰りされたって自慢する女の子もちらほらいたりしたよ」

 栗田が、当時を思い出すように悲しげに眉を下げた。
 キコは、両手で顔を覆って天を仰いだ。
 
「テリジノ……切なすぎる……マジで報われてくれ……」

 ガラッ。
 不意に重い襖が開き、二人が戻ってきた。
 
「あ、おかえりなさい。ご無事でなによりです」

 神坂が、先ほどのガールズトークなど微塵も感じさせない、女優のような完璧な微笑みで迎える。
 
「お、おう……何もなかったわ」

 柳澤は、まだ耳の裏に残る熱を悟られないよう、不自然な愛想笑いで誤魔化しながら、そそくさと元の座布団に腰を下ろした。
 一方の杉山は、相変わらず柳澤から一番遠い、入り口の近くに腰を下ろす。
 栗田が、杉山の様子を見て怪訝に首を傾げた。
 
「あれ、杉くん、顔色すごく悪いけど大丈夫?」
 
「え、あぁ。……ちょっと、疲れたのかも」

 杉山は短くそう言うと、壁に深く寄りかかって目を瞑ってしまった。
 
「あの田山P……なんだったんだろう」

 キコが眉を顰める。
 
「杉山さん、向こうの画面で偽物に何か言われてましたけど、なんて言われたんですか?」

 キコの質問に、目を瞑っていた杉山の眉がピクリと動く。
 
「……いや、特に何も。『止めるか?』とは聞かれたけど」

 目を瞑ったまま、ケロリと言う。
 
「止める……? 何を?」

 柳澤が腕を組んで考え込む。
 
「この怪異を止める手段が、どこかにあるってことなのか……?」
 
「やっぱり、ゴースト監督の呪いなんですかね」

 キコがうーん、と唸り、ふと顔を上げた。
 
「さっきカチンコがあった廊下の隅に、他にも古い段ボールとか積んであったので、ちょっと漁って手がかりを探してみます!」

 そう言って、勢いよく立ち上がる。
 
「私も行くよ。じっとしてても怖いし」

 栗田も立ち上がる。
 
「じゃあ、私も手伝おうかな」

 神坂も、軽やかな動作でそれに続いた。
 
「お、おい、皆して……」

 柳澤がギョッとして女性陣を見る。怪異のルールが分からない以上、単独行動や分断は避けるべきだ。
 
「杉くん、調子悪そうなんで、柳Dはここでちゃんと看ておいてあげてくださいね」

 栗田がちら、と杉山を見ながら不安げな表情を浮かべた。
 キコが、柳澤が持って帰ってきた田山Pのタブレットをひょいと持ち上げる。
 
「偽田山は消えましたけど、まだモニター用のタブレットは二つあるので! これ持っていってきます!」

 ビシッと敬礼するキコ。
 柳澤は「はぁ」と深いため息を落とした。
 
「……廊下はすぐ目の前だから、まぁいいか。……カチンコが鳴ったら、何があってもすぐ部屋に戻れよ」
 
「はーい!」

 女性陣三人は親指を立てると、連れ立って薄暗い廊下へと出て行った。

 残されたのは、静まり返った宴会部屋と、壁に寄りかかって目を瞑る杉山、そして柳澤の二人だけになった。


 *
 

 キコたちは、薄暗い一階の廊下の端に積まれた段ボールのガムテープを、ベリベリと音を立てて剥がしていた。栗田がスマホを二個持ち、両手でライトを作って二人の手元を照らしている。
 
 空気に埃が舞い、スマホの真っ白な光の筋に、無数の細かい粒子が不気味に浮かび上がった。何十年も閉ざされていたような、独特のカビ臭さが鼻をつく。
 
「これは……食器ですね」

 キコが段ボールを覗き込んで肩を落とすと、その中の一枚を引っ張り出した。丸い平皿。縁には、豪奢な花柄の模様が描かれている。
 
「このボロい民宿には絶対不釣り合いな、綺麗な洋風の食器ですね」

 キコは何の感慨もなく呟き、皿を戻す。
 
「よいしょっ」と重い段ボールを持ち上げ、別の場所へとどけた。
 その横では、神坂が大きめの段ボールに顔を突っ込むようにして漁っている。
 
「こっちは……古い燭台と、綺麗な布切れと……。あっ、一番下の方にトレーっぽいものもありますね」
 
「それもまた、随分と洋風なラインナップ……」

 栗田が、思わず怪訝な顔で眉を上げる。
 
「さっきカチンコが落ちてたのもこの辺だったんで、まとめて小道具が突っ込まれてるんですかね」

 キコが額の汗を拭いながら、まだ確認していない段ボールのテープをベリベリと剥がす。
 
「やっぱり、過去にここでロケしたってことだよね」

 栗田が呟き、慎重にライトを当て直した。
 
「あ、これ!」

 一番大きい段ボールの中から、神坂が声を上げる。ゴリゴリ、とダンボールの側面に引っかかりながらも、何かを引っ張り出した。
 銀色の、丸くて大きめの平たい缶。
 
「撮影用フィルムの缶!?」

 キコが飛びつく。缶の表面には、すっかり色褪せて掠れたラベルが貼ってあった。
 
「えっと……『ふりむかないで』ですって」
 
「わぁ、いかにもJホラーって感じのタイトル……」

 神坂が気味悪そうに身をすくめる。
 
「これ、封のテープが空いちゃってますね……。現像前のネガだとしたら、もう光が入ってダメになってるかも」

 キコが躊躇いがちに缶に手を当てる。
 
「チラ見だけ……」

 そっと、少しだけ缶の蓋をあけ、中を覗き込んだ。
 
「えっ!」

 キコがガバッと顔を上げ、限界まで目を見開きながら栗田と神坂を交互に見た。
 
「え、なに怖い。何があったの?」

 栗田が不安そうに眉を寄せる。キコが無言のまま、カパッ、と缶の蓋を全開にした。
 
「……わぁ」

 神坂の顔に、引き攣った笑みが浮かぶ。
 そこには、ハサミか何かでズタズタに引き裂かれた、真っ黒なフィルムの残骸が狂気的に詰め込まれていた。
 キコが一枚を手に取り、ライトの近くで観察する。
 
「何も見えない。やっぱりネガだ」
 
「撮ったものを、わざわざ現像前に引き裂いたってことですかね……。よっぽど気に食わなかったのかしら」

 神坂が痛ましそうに眉を下げ、再び大きい段ボールの底を漁る。
 
「あ、もう一個ありますよ」

 そう言うと、全く同じ大きさの缶をもう一つ取り出した。
栗田がスマホのライトでラベルを照らす。
 
「こっちのラベル……剥げちゃってて読めないですね」

 キコが目を細めて唸る。
 
「と……にい……は?」

 かろうじて残っている文字の破片を、適当に読み上げる。
 
「『トイレに行くには?』」

 栗田が真顔で呟くと、キコと神坂が思わずブッと吹き出した。
 
「どんな映画ですかそれ!!」

 キコが恐怖を忘れてツッコむ。
 
「でもこっちは、缶がすごく軽いんですよね」

 笑いながら神坂が言う。キコが慎重に蓋を少しだけ開け、「あ」と言いながら、そのままパカリと開け放った。
 
「なにこれ、短いフィルム?」

 栗田がライトで照らす。中には短く切られたフィルムが数枚。その上に、くしゃくしゃに丸められた古い紙の切れ端がコロンと入っていた。神坂はそれを手に取り、目を細める。
 
「コンテ……?」

 掠れた鉛筆の走り書き。そこに、ト書きのような文字が添えられている。
 
「『ここで光を柔らかめに』『被写体の距離感』……ここだけ読めますね」

 神坂は不思議そうに紙を見つめると、そっと元の位置に戻した。
 
「ふーむ……よくわかんないですけど。ここでホラー映画を撮ろうとして、監督が挫折して狂っちゃった地縛霊かも、ってことは何となく推測できましたね!」

 キコが名探偵のように腕を組んで頷く。
 栗田がライトを下ろし、自分の足元にあった一番小さな段ボールを何気なく開けた。
 
「――あれ、これ!」

 栗田が、焦ったような声を出し、段ボールの中身をライトで照らす。神坂とキコが慌てて駆け寄って、その中身を覗き込む。
 
「これって……!」

 
 *
 

 一方、宴会部屋。
 廊下からは、女子たちが物を探す音や声が聞こえて来ていた。柳澤は、廊下の方をチラリと見ると、壁にもたれかかり項垂れる杉山に目を移す。
 杉山の身体か小刻みに震えていた。
 
「アオイ、お前大丈夫かよ」

 柳澤は畳の上を膝で滑るように杉山の近くに這い寄ると、熱を測るようにおでこに手のひらを当てる。
 
「冷た!」

 氷のような冷たさに、思わず手を引っ込める。確かめるように首や手に触れるが、どこも冷え切っている。
 
「ふ、布団持ってくる」

 慌てて立ち上がろうとした柳澤の手を、引き止めるように杉山が掴む。
 
「危ないんで。大丈夫です」

 杉山は言いながら少し顔を上げ、柳澤を見据える。
 
「しかし……」

 柳澤はしぶしぶとまた座る。その手を温めるように両手で包み込み、ゴシゴシと摩った。杉山の手は機材ダコだらけでゴツゴツとした、自分より一回り大きい手だった。
 
 杉山は、そんな柳澤をじっと見つめる。
 
「……田山さんに呪われたのかも」

 そう自嘲気味に笑いながら呟くと、視線を落とした。
 
「あの偽田山に、本当はなに言われたんだよ」

 柳澤がまだ手を摩る。自分の手の暖かさが無くなってきて、両手で杉山の手を掴んだまま、はーっと温かい息を吹きかけた。
 
「……惨めって、言われました」

 杉山が顔を上げる。少し歪んだ笑顔。
 
「……惨め?」

 柳澤は摩る手を止めて、片眉だけをぐいと持ち上げた。杉山は深く頷くと、そのまま俯く。
 
「図星過ぎて、色々こたえたんですかね」

 そう言うと、正面に座る柳澤の肩に、重い額をコツンと押し付ける。
 柳澤の喉の奥がきゅっと詰まり、呼吸が一瞬止まった。だが、首筋に触れるその体温のあまりの冷たさに、腕が自然と伸びる。そのまま、背中を温めるようにゆっくりと摩った。
 
「お前が惨めなんて、ありえねぇだろ」

 背中を摩りながら呟く柳澤の言葉に、杉山は小さく鼻を鳴らした。

 ガラッ!! と勢いよく襖が開き、二人は反射的に体を離した。
 
「柳D、これ、見つけました!!」

 キコが写真を数枚掲げながら部屋に入ってくる。
 
「多分、ゴースト監督の撮影時の写真じゃないかと!」

 そう言って、興奮気味に写真を渡してくる。
 柳澤が受け取って写真を見ると、杉山も気怠げにゆるゆると覗き込んでくる。写真はそのほとんどが、スタッフが機材を運んでいる様子だった。
 ぺらぺら、とめくって、四枚目。三脚に乗ったフィルムカメラと、この宿の二階と思わしき廊下が無人で映っている。
 
「フィルムカメラですね」
 
「ふーん。この宿でも撮ってたのか」

 柳澤がそう言ってもう一枚めくる。民宿の前でのスタッフの集合写真だった。
 写真には十人を超えるスタッフが笑顔で映り込んでいる。だが、真ん中の監督と思わしき男だけが座り込み、不機嫌そうにそっぽを向いていた。
 
「この監督、そっぽ向いてるけど絶対イケメンですよね」

 キコがホラーな状況に似合わない、頓珍漢な事を言う。柳澤は「はは」と力のない声を漏らすと、キコたちを見上げた。
 
「他に何かあったか?」
 
「ズタズタに切り裂かれたネガのフィルムがありました。なので、この一連の怪異はきっと、撮りたいものを撮れなかったゴースト監督の呪いですよ」

 キコが自信ありげにふんぞりかえる。
 
「ネガの段階で切り裂くって……よっぽどだよなぁ……。撮りたいものって何だったんだ?それが撮れたらこの変な状況は終わるのか……?」

 柳澤は腕を組んで考え込んだ。
 
「あ、そういえば、関係ないんですけど」

 栗田がぽん、と手を打つ。
 
「帰ってくる途中、廊下の小さな窓から空が見えたんです」

 皆が一斉に栗田を見る。
 
「霧がなくなったってことですか!?」

 神坂が栗田の袖を掴む。
 
「た、多分……見間違いじゃなければ」

 柳澤は杉山を見る。目が合った。
 
「出れるかもしれない」

 杉山が深く頷き、壁から背中を離して立ち上がる。
 
「あ、危ない」

 不意によろめいた杉山の身体を、神坂が咄嗟に両手で支えた。
 
「……あ、どうも」

 杉山の肩が強張る。すぐに身をよじって距離を取った。
 
「……大丈夫ですか? まだ少し顔色悪そうだから、ここで休んでたら?」

 神坂が心配そうに見上げる。

「ご心配なく」

 杉山の声はひどく平坦だった。
 
「……みんなで見に行きましょう」

 杉山はそれ以上神坂の方を一瞥もせず、襖の奥へタブレットを取りに向かった。
 
 残された神坂が、少し困惑したように眉を下げる。

 柳澤は神妙な顔をして、その一部始終を見つめる。一拍置いてから、のろのろと畳から立ち上がった。


 *
 

 一階のエントランス。
 
 玄関に辿り着いた瞬間、全員の動きがピタリと固まった。ガラス戸の向こう側が、分厚い白ではなく、本来の『暗闇の黒』を映し出していたのだ。
 杉山が土間に降り、重い引き戸をガラリと開け放つ。流れ込んでくるのは、芯から冷えるような夜の空気。薄暗い漆黒の闇だが、月と星の光と、宿から漏れる灯りが少しだけ周囲の輪郭を照らし出している。

 柳澤は、外に出てぐるっと周囲を見渡した。民宿のすぐ近くは確かに晴れている。だが、少し遠くの木立の向こうには、依然として壁のような濃い霧が立ち込めていた。
 三百六十度、隙間なく。まるで、自分たちを囲う『鳥籠』の範囲が、少しだけ森の方へ広がっただけのようだった。
 
「……あれ? バスがない」

 柳澤の背筋を、冷たいものが滑り落ちる。
 宿のすぐ横に停めてあったはずの、自分たちの乗ってきたマイクロバスが影も形もなく消えていた。
 
「えー……帰っちゃったのかなぁ……。運転手さん現地の人ですもんね……」

 栗田が身震いをして、自分の二の腕を摩る。

 突如、ガコンッ、と闇夜に不自然に大きな音が響き、柳澤の肩がビクッと跳ねた。
 
「っ!」

 驚いて振り向くと、玄関の脇にある薄汚れた自動販売機の前で、キコが屈みこんでいた。
 
「んだよ……ビビらせんな……」

 柳澤が息を吐き出すと、キコが振り返って悪びれもなく肩をすくめる。
 
「すみません……緊張したら、喉渇いちゃって……」

 言いながら、取り出した冷たい緑茶のペットボトルを額に当てる。
 
「俺も買おう」
「私も」

 杉山や栗田も小銭を取り出し、青白い光を放つ自販機で水を買う。柳澤は「やれやれ」と呆れたようにそれを見ていたが、ふと、少し離れた場所から同じように自販機を見つめている神坂と目が合った。
 
「神坂さんも買いますか?」

 柳澤が声をかけると、神坂が少し照れたようにはにかんだ。
 
「お財布、部屋に置いてきちゃって……」

 柳澤は「ははっ」と気さくに笑うと、「俺、出しますよ。どれが良いですか?」と、神坂の隣に並んで自販機を覗き込んだ。
 
「良いんですか? じゃあ、麦茶で」

 嬉しそうにボタンを押し、柳澤を見上げて微笑む神坂。その笑顔につられて、柳澤の頬も自然と緩んだ。

「はい、どうぞ」
 
「ありがとうございます、柳澤さん」

 自分の分の水も買い、ペットボトルの冷たさに少しだけ人心地ついて、柳澤は振り返った。
 
「さて、どうす――」

 言葉が止まる。そこにいるはずの、杉山の姿がどこにも見えなかった。
 
「……あれ? アオイは?」

 柳澤が周囲を見回すと、キコが無言で、自販機の光が届かない『森の方』を指差した。
 目を凝らすと、少し先の暗がり。
 立ち込める霧の壁に向かって、杉山の大きな背中が、ただ一人で霧に向かって歩き出しているところだった。
 
「……ったく。こんな時に一人で行くなよな。危ねぇだろ」

 柳澤は軽く舌打ちをすると、「皆で行こう」とアゴでしゃくり、杉山の背中を追って薄暗い森の中へ足を踏み入れた。