「鳴った……!」
キコが悲鳴のように短く叫ぶと、全員が弾かれたように、襖に投影されたプロジェクターの画面を見つめた。
真っ青だった画面に、突如として鮮やかな宴会部屋の景色がパッと映し出される。
久保を除く全員が、画面の右端にギュッと凝縮して固まっているような構図。二間続きの広い和室の半分が、端から端まで若干の歪みを伴って映り込んでいる。
杉山が、目を細めてプロジェクターの光の先を睨んだ。
「……歪みもあるし、深度が深い。広角ですね」
「だな……18ミリあたりだとしたら、カメラの位置はちょうどこの宴会部屋のど真ん中あたりか?」
柳澤が、冷や汗を流しながら首を傾ける。襖に映るプロジェクターの映像が、斜めに傾いていたのだ。
久保が、その『水平のズレ』を真剣な顔で調整し始めた――その時。
ヴィィィ……。
画面の中の「見えないカメラ」が、ゆっくりと動き出した。一定の速度で部屋を見渡す、時計回りのパンニング。
「おい、久保!水平なんていいから早くこっちに戻れ!」
嫌な予感に駆られた杉山が声を荒らげる。
だが、久保は焦りつつも「あともう少し……」と調整の手を止めない。
パンニングは止まることなく、部屋をぐるりと舐めるように動いていく。柳澤たちを通り過ぎ、開かれた襖を通過し、プロジェクターをいじっている久保がいる奥の暗い空間を映し出した。
カメラの画角が、久保を捉え、通過しようとした瞬間。久保とプロジェクターの真横に、現実には『いるはずのないシルエット』がはっきりと映り込んだ。
画面の中。
古いモノクロ映画のように一切の彩度を失った男が、だらりと腕を下げて佇み、久保の横顔を無表情で見下ろしている。
「え……河野!?」
柳澤が画面を見て息を呑み、即座に現実の久保の方を振り返った。久保の隣には、誰もいない。ただの暗い空間があるだけだ。
久保がプロジェクターの画面の中の『自分と河野』を見て、青ざめた顔で杉山の方を振り向く。
「杉山さん、水平――」
「久保ッ!!」
杉山が立ち上がって絶叫したのと、久保の姿がパッと消え失せたのは、全くの同時だった。
バツッ、とフィルムをハサミで切り取ったように、残像すらも残さず、一フレームで「カット」された。
「……俺が……さっき余計なこと言ったからだ……」
杉山は、床にへたり込むように膝をつくと、自分の前髪を両手で乱暴に掴んだ。その姿に、柳澤は力無く視線を足元に落とす。
「久保くんが消えた!? 嘘っ……」
小宮山や栗田が、両手で口を押さえながら震える。全員が消えた久保のいた場所を、唖然としながら見つめてた。
だが、カメラのパンニングは止まらない。無慈悲にぐるりと部屋を一周し、再び柳澤たちが固まっている方角へと向かってきて、やっとその動きを止めた。
「久保さん……!」
キコが顔をくしゃくしゃにして泣きそうな声を上げる。
柳澤も、震える手を口元に当てた。フレームごと切り取られるような絶対的な消失。さっき見た河野も同じだった。やはり、消されたのだ、と確信を持つ。
河野も清水も久保も、この狂った映画から「退場」させられた。
部屋全体に絶望の沈黙に落ちる中。
「……まだ、終わってない」
杉山が立ち上がり、氷のように静かな声を落とす。
プロジェクターには、恐怖に顔を歪ませる自分たちの姿がまだ鮮明に映っていた。
ス、と再び、カメラが時計回りに動き出した。二周目の360度のパンニング。全員が一斉に飛び上がるように立ち上がり、ジリジリと動く画面から後ずさる。
「これ……俺たちがフレームの外に逃げたらどうなるんだ……?」
柳澤が呻くように呟いたが、杉山が鋭く首を振った。
「試すにはリスキーすぎる」
「しかし、あんなもん画面で確認しても、現実には見えねぇんだから避けようがねぇぞ!?」
言っている間にも、カメラの死神のような視線はぐるりと部屋の奥を舐め、こちら側の空間へとジリジリと戻ってくる。
まだ、異常なシルエットは映っていない。
全員が肺が破けそうなほど息を詰め、襖の画面を凝視する。
右から、ゆっくりと視界が戻ってくる。怯える栗田、神坂が映り、キコが順にフレームインしてくる。
次は小宮山、というタイミングだった。
キコと小宮山の間に、彩度が異常に落ちた女のシルエットが立っていた。
清水だ。
焦点の合わない白黒の瞳が、隣で震えるキコを、真横からじっと見つめている。
「キコッ!!」
画面を見た小宮山が、躊躇うことなく身を投げ出し、キコの身体を思い切り突き飛ばした。
「きゃあっ!」
キコが畳の上にどしゃっ、と無様に崩れ落ちる。画面内の清水の首が、ギッ、と不自然な動きで小宮山の方を見た。
「みんな……にげ――」
パッ。
小宮山の最後の言葉は、空中で鋭利に切断された。キコを庇ったその姿勢のまま、小宮山の姿が空間から完全に削り取られる。
「純くん!!」
隣にいた栗田が、何もない畳にすがりついて泣き崩れる。
「小宮山……さん……」
突き飛ばされたキコは、畳にへたり込んだまま掠れた声で呟いた。小宮山に強く押し出された自分の肩を震える手でギュッと押さえ、彼が消え去った虚空を見つめて茫然としている。
杉山が、忌々しそうに画面を確認した。プロジェクターの映像は、無機質なブルースクリーンに戻っていた。
「……終わった……」
杉山が重く呟く。柳澤は、糸が切れたように膝から畳へ崩れ落ちた。
「純まで……」
あの、いつでも明るかった純が。
ドン、ドン、と、鼓動が身体の内側を叩きつける。過呼吸のように息が浅くなり、視界の端が明滅する。
不意に、横にしゃがみ込んだ杉山の、大きくて熱い手が、震える肩をそっと包み込んだ。柳澤が杉山を振り返る。
杉山は何も言わない。
柳澤は、震える息を長く吐き出すと、肩に置かれた杉山のその大きな手に、自分から無意識に手を重ね、ギュッと強く握りしめた。
*
宴会部屋は、耳鳴りがするほど痛い静寂に包まれていた。
奥の部屋に置かれた古いプロジェクターの、ブゥゥンという低い駆動音だけが唸っている。
キコはスマホを握りしめたまま机に突っ伏し、栗田は襖に投影された青い光を呆然と見つめている。神坂も、机に肘をついて疲れたように目を伏せていた。
柳澤と杉山も、言葉少なに青い襖を眺めている。
「……今、何時だ」
独り言のように呟いた柳澤の声に反応し、杉山がポケットからスマホを取り出す。
「一時ちょい前ですね」
「……まだ一時か」
「これって……」
突っ伏していたキコが、ゆっくりと顔を上げた。泣いた跡で、目元が真っ赤に腫れている。
「一回のカチンコで、絶対に誰か消えてるじゃないですか。……私たち全員が消されるまで、終わらないんですかね」
震える声が、冷え切った部屋に響く。柳澤は、苦々しい顔で小さく首を振った。
「……わからん」
キコは深いため息をつき、再び絶望したように机に突っ伏した。
杉山が、音もなく立ち上がる。
「便所行ってきます」
「おい、危なくないか?」
柳澤がすかさず見上げ、眉を顰める。
「まだカチンコ鳴ってないんで。行くなら今のうちかなと」
杉山はケロリと言い捨て、颯爽と部屋を出て行った。その背中を見て、キコもゆるゆると立ち上がる。
「私も行きたい……栗田さぁん……」
「いいよ、一緒に行こう。神坂さんは?」
「私は大丈夫」
神坂が静かに首を振ると、栗田とキコは互いの腕をしっかりと組み合いながら、足早に暗い廊下へと出て行った。
襖が閉まり、部屋に柳澤と神坂だけが残された。誰もいなくなった空間の静寂が、あまりにも重く、冷たい。
神坂は自分の両腕を抱きしめるようにして震えていたが、やがて柳澤の隣に寄ってきた。
「……あの、柳澤さん」
「あ、はい……」
「……何か、関係ない話、してもいいですか。……黙ってたら、さっきの光景思い出しちゃって……」
涙声で懇願する彼女に、柳澤は弱々しく頷いた。
神坂はひきつった唇で無理やり笑顔を作る。
「明日のロケ……これだと難しいですね」
神坂が、ぎこちない笑みを作る。
「はは、ホントですね……。低予算にも関わらず、出演を快諾してもらったのに申し訳ないです」
柳澤は困ったように頭をガシガシと掻いた。
「しかし、田山さんたちから向こうの豪華なホテルの案内があったでしょうに、神坂さんたち、なんでまたこのボロい民宿に来たんです?」
思い出したように尋ねると、神坂はくすりと笑って柳澤の顔を覗き込んだ。
「有紗ちゃんが、杉山さんと一緒が良いって言うので」
「あ〜……はは……」
柳澤は天井を仰ぎ見て、乾いた笑いをこぼす。
「でも、私は柳澤さんの作品のファンなので。今回のオファー、本当に嬉しかったですよ」
「えっ、マジすか」
柳澤は身を乗り出した。神坂は穏やかな微笑みを浮かべている。
「若いのに、あれだけ良いドラマとか映画撮れるの、本当にすごいです」
「いやいや、神坂さんのが若いでしょ」
柳澤は照れたように視線を外し、頬を掻く。
「モデルで20代後半はもう……。有紗ちゃんたちみたいな若い子には勝てませんよ」
「女優に転向しないんですか? 神坂さん、演技全然いけてますよ」
パッ、と、神坂の顔が花が咲いたように明るくなった。
「え、本当ですか? 柳澤さんにそう言ってもらえるの、すごく嬉しいです」
「今度、俺のドラマとか映画で合う役があったら、絶対にオファー出しますよ」
「ふふっ、ぜひお願いしますね」
二人の間で、柔らかな笑い声が重なる。恐怖を忘れさせるような、穏やかな空気が流れた。
*
薄暗い廊下。
杉山は、宴会部屋の入り口の少し開いた襖の前で、ピタリと足を止めて動けなくなっていた。
襖の隙間から漏れる青白い光の中、二つのシルエットが親しげに寄り添っている。少し弾んだ柳澤の声が、廊下の暗闇にまで響いていた。
(……また、これだ)
杉山は、その光景から目を背けるように、何もない漆黒の廊下の奥を見つめ、長く、重い息を吐き出した。
――昔の記憶が蘇る。
大学に入学したての春。
次々と群がってくるサークル勧誘をのらりくらりと躱しながら、杉山は足早に家路に着こうとしていた。
だが、ふと足が止まったのは『映画研究サークル』の机の前。そこには、新歓などやる気がなさそうに肘をつき、退屈そうに空を眺めている当時三年生の柳澤がいた。
柳澤は、立ち止まった杉山の視線に気付き、顔を上げる。
『お? お前、……映画好きそうな顔してんなぁ』
ニッと、人懐っこく笑った。
それが、全ての始まりだった。
場面が飛ぶ。
サークルの飲み会に、杉山が遅れて顔を出した時のこと。
杉山の到着に、女子たちが色めき立つ。
そんな中。
『アオイ〜! やっと来たぁ』
ひどく酔っ払って、嬉しそうに奥の席から手を振る柳澤。
杉山の口元が自然と緩み、そちらへ一歩踏み出そうとした、その時だ。
『ちょっと圭介〜! 飲みが足りないわよぉ!』
当時の柳澤の彼女だった真琴が、柳澤の腕に絡みついた。
『だから真琴、俺あんま飲めねぇって』
口では文句を言いつつも、柳澤はその細い腕を振り解こうとはしなかった。「仕方ないな」という、甘やかしたような顔で酔っ払った彼女を見つめている。
ヒューヒュー、と周りのサークル仲間が囃し立てる。
杉山は、その光景から目を逸らすと、踏み出しかけた足をそっと引き戻し――そのまま、柳澤から一番遠い席に無言で座った。
また、場面が飛ぶ。
杉山が社会人二年目の頃。
当時は、大手制作会社のカメアシとして、安い給料で死ぬほどこき使われていた。重い機材を運ぶスタジオのバラシ作業中、ポケットのスマホが震える。
画面に光る『柳澤先輩』の文字。
『はい』
『お、アオイ? 久しぶり』
『……お久しぶりです』
『お前今、Tスタジオにいる?』
『え、はい』
『うしろ』
言われて、ハッと振り返る。
スタジオの入り口の光の中で、すでに新進気鋭のディレクターとして頭角を現し始めていた柳澤が、ニヤリと笑いながら手を振っていた。
杉山が駆け寄る。
『何してんすか』
『今度ここで撮影するから、打ち合わせに来ててさ。アオイっぽいデカいのがいるなぁって見てたら、やっぱりお前だった』
にこっ、と笑う。相変わらず、無自覚に人の心の柔らかいところに入り込んでくる笑顔だった。
『おい杉山! 早くケーブル撤収しろ!』
背後から、先輩カメラマンの怒鳴り声が響く。
『あ、すんません、戻んないと』
杉山が焦って背を向けた、その時。
『アオイ』
スタジオへ戻ろうとする杉山の背中に、柳澤の声が降ってきた。
『……お前、ここ辞めて俺んとこ来いよ。俺には、お前の画が必要なんだよ』
あの時。
あのたった一言が、杉山にかけられた最も強固な呪いであり、唯一の救いだった。
「――杉くん?」
はっ、と。
背後からかけられた栗田の不安そうな声で、杉山は我に返った。トイレから戻ってきた栗田とキコだ。
「どしたの? そんな暗いとこに佇んで」
「……いや、別に」
杉山は何事もなかったように冷たい仮面を被り直すと、襖を開けて部屋に入った。
そして、神坂と並んで座る柳澤の姿を一瞥する。
大学の飲み会のあの日のように――柳澤から一番遠い下座の席に、ドサリと重く腰を下ろした。
*
「このまま何事もなく、朝が来てくれたら良いんだけどなぁ」
会話をした事で少し落ち着きが戻ったのか、神坂が深いため息混じりにぽつりとこぼした。
「本当にです〜。もう、怖いし眠いし疲れたし、死にそう……」
キコが限界を訴えるように天を仰ぐ。
杉山は柳澤から一番遠い席に座ったまま、腕を組んで無言で虚空を見つめている。栗田はそんな杉山の異変を察知し、心配そうにチラチラと視線を送っていた。
柳澤も、急に距離を置かれた杉山の様子を見て怪訝に首を傾げる。
「おい、アオイ……」
気まずさを誤魔化しながら何か話しかけようと口を開いた、その時だ。
ゴンゴン……ゴンゴン……。
遠くの方から、ガラス戸を重く叩くような音が響いた。
「……い……おーい」
霧の向こうから、くぐもった男の声が聞こえてくる。
ゾク、と柳澤の背筋が寒くなる。部屋にいた全員が一瞬で凍りつき、息を呑んだ。
「な、なんか、聞こえましたよね……?」
神坂が怯えたように柳澤の腕をきつく掴む。
杉山が立ち上がる。
「玄関ですかね。見てきます」
そう言って、感情の抜け落ちた無表情のまま部屋から立ち去ろうとする。
「おい! アオイ!」
柳澤もすぐさま立ち上がった。プロジェクターから急いでケーブルを引き抜き、唯一の命綱であるタブレットを小脇に抱える。
「……全員で行こう。離れるのはマズイ」
柳澤の言葉に皆が青ざめた顔で頷き、身を寄せ合うように立ち上がった。
*
薄暗い廊下。
「アオイ!」
スタスタと先を行く杉山の広い肩を、柳澤が後ろから強く掴んで引き留めた。
「なんすか」
杉山が、ゆっくりと振り返る。
「一人じゃ危ないだろ」
柳澤が眉を顰めて杉山を見た。至近距離で、目が合う。その目は冷たく、底知れない暗い目をしていた。
「自分の身は守れるんで」
バシッ、と、柳澤の指が強い力で無情に振り解かれた。杉山はそのまま柳澤を一瞥することもなく、背中を向けてスタスタと歩き出してしまう。
振り払われた右手が、そして胸の奥が、ジンと痺れるように痛んだ。
「……なんだよ」
思わず苛立ちと寂しさの混じった舌打ちがこぼれる。
柳澤は戸惑いを飲み込み、他のスタッフたちと共に玄関の方へ向かった。
ゴンゴンッ……ゴンゴンッ。
土間に近づくにつれ、重いガラスを叩く音が明確に大きくなる。
玄関から覗く外の景色は、相変わらず一寸先も見えない白濁した濃霧に包まれていた。
「おーい」
ゴンゴンッ! と外から荒々しくガラス戸が叩かれ、古いサッシが小刻みに揺れる。上り框の上で、柳澤たちは得体の知れない恐怖に立ち尽くした。
だが、杉山は一切躊躇することなく土間に降り、すっとガラス戸に手を伸ばす。
「おい、開けんのかよ……!」
柳澤が焦って止める。
「カチンコ、鳴ってないんで」
杉山は淡々と言い放ち、ガラッ、と重い引き戸を勢いよく開け放った。
全員がごくりと喉を鳴らす。
真っ白な霧のうねりの中から、人型のシルエットがヌルリと浮かんできた。そのシルエットは霧を突っ切り、乱暴に扉の中へと踏み込んでくる。
「お前達、居たか!!」
ホッとしたような、苛立ったような大きな声。入ってきたのは、プロデューサーの田山だった。
「田山さん!?」
キコと柳澤が素っ頓狂な声を上げる。
「田山P、なんで……」
栗田が呆然と呟いた。
田山は荒い息を吐きながらガラス戸を閉めると、神妙な面持ちで皆を見た。
「明日の事で連絡したのに、誰一人として電話が繋がんねぇから、心配で車で下から見にきたんだよ。そしたらこの異常な霧だろ? マジで焦ったぞ」
「……よく、この霧の中を辿り着けましたね」
杉山が、田山を値踏みするように目を細める。
「霧が出てるの、この宿の周りだけなんだよ。下は普通に晴れてたんだけどな」
田山がスーツの肩のホコリを払いながら、不思議そうに首を傾げた。
柳澤が弾かれたように顔を上げる。
「ってことは、この霧から出れれば、助かるんじゃねぇのか?」
キコがうんうんと激しく頷く。
「田山さんが外から来れたってことは、私たちも出れるってことですよね!?」
ガラリ。
再び、背後でガラス戸が開く音がして、全員が扉を見る。杉山が、一人で外へのドアを開け放っていた。
「……ちょっと見てきます」
そう言い残し、杉山の大きな背中が、音もなく濃霧の中へと消えていく。
ドッ、と、柳澤の心臓が嫌な警鐘を鳴らした。
「アオイ!?」
思わず、柳澤も上り框から土間へ飛び降り、靴も履かずに真っ白な霧の中へ駆け込んでいた。
「柳澤!」
「柳D!?」
背後から田山やスタッフたちの制止する叫び声が聞こえたが、振り返る余裕はなかった。
一歩、扉の外に出た途端、視界が完全に真っ白な壁に塞がれる。自分の足元すら見えない。上下左右の感覚が狂う、圧倒的な白の世界。
「アオイ!!」
柳澤は慎重に足を探りながら、杉山の姿を必死に探す。
何も見えない。数歩しか歩いていないはずなのに、振り返っても、宿のドアすら完全に消失していた。
「アオイ……ッ」
声が震える。圧倒的な孤独と空間の異常性に、足がすくんで完全に止まってしまった。
恐怖でまた過呼吸になりかけた、その時。
暗闇の中から伸びてきた熱い掌に、手首を強く掴まれた。
「……何してんすか」
真横から、深く静かな杉山の声が聞こえた。
「アオイ?」
はぁ、と、呆れたような、苛立ったようなため息が耳元に落ちる。
「いますよ」
その低く落ち着いた声の響きに、柳澤の口から「はぁっ……」と、全身の力が抜けるような安堵の息が漏れた。
あの停電の暗闇の時と全く同じだ。今さっき突き放されたはずなのに、結局こいつは、自分が一番怖い時に必ず手を引いてくれる。
杉山の強い力で、腕をグイッと引っ張られた。霧の中を、二人でゆっくりと足を進める。
「田山さん……こんな中、外から来れるわけがない」
杉山が独り言のように低く呟いた、次の瞬間。
乳白色だった視界が、ふっと反転するように急に『真っ黒』に塗り潰された。
「なんだ!?」
柳澤は慌てて周囲を見渡す。
すると、足の裏の感触が突然変わった。ついさっきまで外の砂利と石畳を踏んでいたはずが、硬く冷たい『木の板』の上を歩いている。
杉山に腕を取られたまま、ゆっくりと暗闇を数歩進むと。
「えっ!?」
不意に、田山の驚愕する声が「前方」から聞こえた。真っ黒だった視界が晴れる。
そこは、見覚えのある薄暗い空間――宿の奥へと続く、一階の廊下だった。
目の前には、玄関の土間。
上り框の上では、田山とスタッフ全員が、信じられないものを見るように凍りついてこちらを見つめている。
「二人とも……どうやって、そっちから来たの……?」
栗田が、目を極限まで見開いて震える声で尋ねてきた。
玄関のドアから外へ飛び出したはずの自分たちが、なぜか廊下の最深部から歩いて戻ってきた。
河野が消えた時と同じ、理不尽な空間のループ。
杉山と柳澤は、繋がれた手首を下ろすことも忘れ、ゆっくりと顔を見合わせた。
