カチンコ


 宴会部屋。

 柳澤も杉山も畳にゴロリと寝そべり、互いに何も話さない、重く静かな時間が続く。
 
 スマホの時刻は、深夜四時を過ぎたところだった。
 
「……やっと四時か。カチンコ、最初に鳴ったの何時だっけ」

 柳澤はぼーっと薄暗い天井を見ながら言う。
 
「……多分、河野くんが鳴らしたのは、二十三時前くらいだったかなと」

 杉山が、気だるげな声で返事をする。
 
(河野め。あいつが変なカチンコなんて鳴らすから)

 柳澤は内心で舌打ちすると、「あれ?」と声が出た。ガバッと身を起こす。
 
「そういえば……あのカチンコ、どこいった……?」

 部屋を見渡す。夕食や飲み物の食器類は端っこに寄せられているが、肝心のカチンコはどこにも見当たらない。杉山が寝そべったまま、怪訝そうに眉を顰める。
 
「スレート情報……なんて書いてあったかな」

 柳澤が頭を捻る。
 
「シーンは『F』だった気がするが……」

 シーンやテイクの数が分かれば、あと何回カチンコが鳴るかのヒントになるかもしれないのに。
 
「河野が鳴らした分を除くとして、ゴースト監督が打ったカチンコの数は……今、何回だ?」

 柳澤は腕を組んで考える。
 
「……河野くん、清水さん、久保と小宮山さん、偽田山さん、神坂さん、栗田、元山さん。……七回っすね」

 杉山が重い事実を数え上げる。柳澤は深く天を仰いだ。
 
「じゃあ次は、テイク8か……。撮り直し過ぎだろ……。いつ終わるんだ……」

 疲労混じりの声で、弱々しく言う。
 杉山が肘をついて上体を起こし、柳澤を静かに見つめる。
 
「……ケイさん」
 
「庇うとか、絶対にやめろよ」

 柳澤は上を向いたまま、その言葉を鋭く遮った。
 そして、杉山をきつく睨みつける。
 
「絶対やめろよ。……二人で残るんだ」

 杉山は眉を顰め目線を落とし、黙り込んだ。

 ――カァァァンッ!!!

 今日一番の、耳をつんざくような巨大なカチンコの音が、すぐ目の前で鳴り響いた。
 
「っ!」

 杉山が弾かれたように立ち上がる。
 柳澤は表情を引き締め、ゆっくりと部屋の隅のプロジェクターの前へ歩いた。

 バツッ、ブゥン……カタ、カタ、カタカタカタ……。

 古い機械音と共に、白くちらつく四角い光が襖に投射される。少しピントのボケた四角。映像には、フィルム特有の粒子のざらつきと、小さな雨降りのような傷がついている。
 
「今度は映写機……みてぇだな」

 柳澤が目を細める。
 ボケたピントが合い始めると、不気味な映像がはっきりと映し出された。

 まずは、あのカチンコが映る。
 
『シーンF テイク1』
 二階の洋室。
 柳澤と杉山が、寝転がりながら二人でひとつのタブレットを見ている。
 
「え……これ、俺たち?」

 プロジェクターを見ながら、柳澤が眉を顰める。

 パッ、と洋室の電気が消え、画面の中の柳澤が不安げな顔で飛び起きる。暗闇で手が彷徨い、杉山の裾をきつく掴む。
 杉山がその手を、自分の大きな手で優しく包み込んだ。
 ホッとした自分の顔。そして、自分を愛おしそうに見つめる杉山の真剣な顔。
 
「……っ」

 杉山はプロジェクターから、思わず視線を外した。

 パッ、と画面が飛ぶ。
 
『シーンF テイク2』
 長い廊下。
 走って部屋に飛び込もうとする柳澤を、杉山が後ろから引っ張って強く抱き止める。
 柳澤の激しく揺れる瞳。杉山の必死な顔。
 
「お、おい……な、なんなんだよ、これ……」

 柳澤は掠れた声で言いながらも、画面から目が離せなかった。無自覚だった自分の表情を見せつけられ、顔がじわじわと熱くなっていく。

 また画面が飛ぶ。
 
『シーンF テイク3』
 宿の外。
 泣きそうな顔で周りを見て立ち止まる柳澤。横からその手を強く掴む杉山。心底安心したような柳澤の顔。そして、少しの苛立ちと、困ったような杉山の顔。
 
『シーンF テイク4』
 薄暗い廊下。
 杉山の胸に、コトンと額を当てる柳澤。杉山の顔が、耐えきれないように切なげに歪む。ギュッと柳澤を一瞬だけ抱きしめ、すぐに離れる。その後の、柳澤の落ち着かない視線と、真っ赤に染まった耳。
 
「あ……」

 柳澤はプロジェクターの画面を見ながら、たまらず口を押さえてその場に座り込んだ。
 横では、杉山も深く額を押さえながら、画面を絶望的な顔で見ていた。
 
『シーンF テイク5』
 宴会部屋。
 柳澤の肩に、杉山が額を預ける。柳澤がその背を優しく撫でる。甘やかしたような、少し嬉しそうな柳澤の顔。それとは正反対に、苦しげに眉根を寄せ、奥歯を噛み締めるように固く目を瞑っている杉山の顔。
 
『シーンF テイク6』
 宿の外。
 神坂が消え、呆然とする柳澤。必死に手を伸ばす杉山。体勢が入れ替わり、杉山に縋るように手を伸ばす柳澤。その、必死な顔。杉山は安堵したように表情が和らぐ。
 
『シーンF テイク7』
 宴会部屋。
 部屋の隅で、重なるように密着する二人。柳澤の腰に深く手を回す杉山。真っ赤になり、目が潤む柳澤と、困ったような、それでいてどこか甘い杉山の顔。
 
『シーンF テイク8』
 宴会部屋。
 幻覚のプロジェクターを見つめる柳澤。目を逸らす杉山。
 杉山が歩き出す柳澤を、背後から必死に羽交い締めにして止める。手を画面に伸ばしながら暴れる柳澤。
 杉山の口元が、大写しになる。
 
『俺はここにいる』

 そして。
 
『シーンF テイク9』
 真っ白な画面。

 カタカタカタカタ……と、古い映写機の回る音だけが、静かな部屋に鳴り続けている。

 画面は白のまま、何も映らない。
 

 *

 
 杉山は真っ白な画面を見ながら、深すぎるため息を吐いた。
 
(……ダメだ。見られた。全部、撮られてた)

 周りのスタッフたちには、とうに隠せていなかったのはわかっている。
 だが、この人の前でだけは、ずっと「完璧に気の合う、仲の良い後輩」を演じきってきたはずだったのに。

 でも、この映像で。
 ケイさんはついに、自分に向けられている俺の『好意』に気づいてしまっただろう。

 気持ち悪いと、拒絶されるだろうか。
 これから先、カメラマンとして、相棒として、あの人の一番そばにいさせてくれるかどうかもわからない。
 
(……そばにいられないくらいなら)

 いっそ、消えたい。
 俺も、みんなと同じように消してほしい。
 
 杉山はギリッと歯を食いしばり、深い絶望の中で俯いた。

 
 *

 
 柳澤は両手で顔を覆いながら、指の隙間から眩しい白い画面を凝視していた。
 
 まだ、顔が異常に熱い。
 
(なんてものを、見せてくれるんだ……)

 自分がアオイに対してこんな顔をしているなんて、微塵も思わなかった。そして、アオイの表情の本当の意味も。
 
 画面越しだとこんなにはっきりと『答え』がわかるのは、自分の職業病なのか。
 
 こんな顔、ロマンス映画で俺が役者に求める顔そのものじゃないか。

 もう、言い逃れはできない。
 こんな決定的なものを、見せられてしまったら。

 テイク1から8。ホラー映画には不要なカットの寄せ集め。そこに映っていたのは、恐怖とは別の感情を剥き出しにした瞬間だった。

 『わざと怖くしてね、演技を引き出すんだよ』

(ゴースト監督が本当に撮りたかったのは、ホラー映画じゃなかったってことか)
 
「……ほんと、悪趣味な演出しやがる……」

 悪態と共に舌打ちが溢れた。

 横で立ち尽くす杉山を見る。
 
 俯き、眉を寄せて目を瞑っている。
 今さっき画面で見た、杉山の必死な顔や苦しげな顔。
 
 全部、意味が繋がった。自分の鈍感さが、八年間、ずっとこいつを苦しめてた。

 そう思い至り、胸がぎゅっと、締め付けられるように痛む。

 (だからと言って、もう手放せるわけはない)

 ――終わったことにされるのは絶対嫌だ。
 
 さっきわからなかったこの感情の正体は、もう嫌というほど今のリールで思い知らされた。

 いつでも、当たり前のように近くにいた。
 今更離れるなんて、到底無理だ。
 
 リールの中でも、今、この状況でも。
 昔から。どんな絶望的な状況になっても、いつでもこいつが『隣にいる』。
 
「……あ……? 隣に、いる……?」

 思わず、呟く。
 拾い集めたフィルム缶の、掠れたタイトル。
 
(まさか。『となりにいるのは』……?)

 そして、テイク9の真っ白な画面が意味するもの。被写体を待っている、未完成のラストシーン。
 
「……アオイ」

 柳澤は静かに立ち上がる。杉山は俯いたまま、絶望に満ちた目線だけを柳澤に向けた。
 
「テイク9。……俺たちで、オッケーテイクを作ればいいんだ」
 
「……え?」

 杉山が眉を寄せ、柳澤の方へ顔を上げる。
 
「Fは、ファイナルのFだろ。……ラストシーンが、まだ未完成なんだよ」

 杉山は意味を測りかねて、迷子のように首を傾げる。その、まだ絶望に沈んだ苦しそうな顔を見て、柳澤の脳裏にキコの言葉が不意に浮かんだ。
 
『――もうサッパリと想いが消えちゃってたんでしょうね。遅すぎたんです』
 
(……いや。遅くないだろ)

 お前の、さっきの必死な『俺はここにいる』という叫びは、ちゃんと、俺に届いてる。

 柳澤は迷いを振り切るように、まっすぐにその瞳を見据えた。
 
「俺の『となりにいる』のは……昔も、これからもずっと、アオイなんだ。お前じゃなきゃ、ダメなんだ」

 言い終わるか終わらないかのうちに、柳澤は杉山の胸ぐらを強く掴み、強引に引き寄せて、唇を自分から深く重ねた。
 
「……っ!?」

 杉山が、信じられないものを見たように目を大きく見開く。

 カタカタと回っていた映写機の音がゆっくりと止まる。
 
 ジジッ……、とフィルムが熱で焼け焦げるような音を立てて、スクリーンから光が溢れ出した。

 ゆっくりと、唇を離す。

 柳澤は、まだ至近距離で目を丸くして硬直している杉山を見て、ニヤリと不敵に笑った。
 
「ラストシーンは、タイトル回収が定石だろ?」

 そう言って、杉山の背中に腕を回し、力強く抱きつく。プロジェクターからの光が、どんどんとフィルムを露光させるように、赤やオレンジ色の暖かな色を伴って強くなっていく。
 
 杉山は一瞬身体をこわばらせ、信じられない現実に少しだけ手を宙で彷徨わせた後――壊れ物に触れるように、柳澤の背中に震える腕を回した。
 そして、その体温が本物だと確かめるように、ギュッと、痛いほど力強く抱きしめ返す。柳澤は、その熱くて広い腕の中で、ふっ、と優しく微笑んだ。
 
「ここで、カットだ」

 柳澤がそう呟いた瞬間。

 二人の世界が、眩い真っ白な光に完全に塗りつぶされた。
 

 
 *

 
 
 早朝。
 時刻は、四時三十分。
 
 キコは杉山の部屋の前をウロウロと彷徨いていた。
 
「えぇ……杉山さん、まだ寝てる……? あと十五分で出ないと間に合わないよぉ」
 
「おはよー、キコ。なぁに、どうしたの?」

 ガチャ、と後ろのドアが開き、メイクの小宮山が荷物を持って自分の部屋から出てくる。
 
「おはようございます! いや、杉山さんがまだ寝てるっぽくて……」
 
「え、マジ? 柳Dは?」
 
「柳Dは3分で支度できるので、まだ声かけてませぇん。杉山さんが起きてこないのが異常事態すぎて……」

 指をこねくり回しながら、キコが困ったように眉を下げる。
 
「いいじゃん、入って起こしましょ」

 そう言って、小宮山はドアをバンバンッ、と遠慮なく叩いて、ドアノブに手をかけた。
 
「杉ちゃーん! まーだ寝てんのぉ?」

 ガチャ、とドアを開け、キコと共に薄暗い部屋の中へと足を踏み入れる。
 
「ヒェッ……!!」

 突然、キコの口から、カエルの潰れたような奇妙な悲鳴があがった。

 
 *

 
「ヒェッ……!!」

 すぐ横で聞こえた奇妙な声に、杉山と柳澤は同時に目を覚ました。

 さっきの、世界が白く塗りつぶされたあの時の体勢のまま。杉山の腕の中に、すっぽりと柳澤が収まり、ギュッと抱きしめ合った状態で、二人とも同じベッドの上で寝ていた。

 柳澤がゆっくりと目を開け、上を見上げる。
 杉山と至近距離でバチリと目が合い、その気まずさと生々しさに、二人は一瞬ピタリと固まった。
 
「あれ……? ここは……」

 ふと杉山の目が花柄の壁紙を捉え、そのまま視線が横に滑り――開いたドアの入り口で、石像のように固まっている小宮山とキコを捉えた。
 
「えっ!!」

 杉山が飛び起きる。
 
「えっ」

 柳澤も毛布を蹴飛ばして跳ね起き、後ろを振り返った。そして、無事な二人の姿に目を大きく見開く。
 
「純!! キコ……!!」

 柳澤は慌ててベッドから降り、二人に駆け寄る。
 
「はぁ……っ、生きてた、良かった……」

 安堵で足から力が抜け、膝に手をついて深く息を吐いた。
 しかし、キコと小宮山は完全に別の意味で呆然としている。
 
「え、何がですか……?」

 キコが引き攣った顔で首を傾げる。
 
「てか! やばっ! あと十分でバスに乗らないと、現地集合間に合いませんよ!!」

 焦ったようにスマホを取り出し、柳澤の顔を直視しないように画面に目を落とす。
 
「え」

 今度は、柳澤が固まった。
 
「朝イチのドローン飛ばすんですよね!? 外めっちゃ晴れてますから!」

 キコは真っ赤な顔で早口でそう言いつつ、小宮山の腕を掴んで引きずるように足早に立ち去っていく。
 
「……え、小宮山さん、見ました!?」
 
「見た。バッチリ見たわよ。あれは……完全にヤッたわね」
 
「ヒェー!! やばいやばいやばい!! 無理、てぇてぇ!!」

 廊下の奥から、二人でキャイキャイと興奮した声を上げながら遠ざかっていくのが聞こえた。

 柳澤は、ポカンとしたまま後ろを振り返った。呆然とベッドに腰掛けたままの杉山と、再び目が合う。
 
「え……?」
 
「……みんな、覚えてないんすかね」

 杉山は眉間に深い皺を寄せて唸りながら、サイドテーブルに置かれた自分のタブレットを操作した。

 パッ、と画面が明るくなり、昨日の夜に途中まで見ていたドラマの続きが、何事もなかったかのように流れ出す。
 
「全部、元に戻ってる……」
 
「えぇ……ちょっとまてよ……」

 柳澤が、心底ウンザリしたように天を仰いだ。
 
「あのさ……。ドローン……マジでやんのォ……?」

 絶望的な顔で呟いた柳澤を見て。

 杉山はふっ、と優しく笑うと、「準備しましょ、ケイさん」と、重い身体を起こして機材の荷物をまとめ始めた。
 

 *

 
 柳澤は着替えを済ませると、少ない荷物を持って玄関へと足を運ぶ。
 受付では、キコがすでに会計を済ませていた。
 
「ゆっくりできたかね」

 宿のお婆さんがキコにそう言って、優しく笑う。昨日の夜、暗闇で見た時とは随分と印象が変わって、人の良さそうな、穏やかな微笑みを浮かべていた。
 
「ご飯、美味しかったです! たくさん寝たはずなのに、なんか寝足りませんけど」

 キコは、へらっと無邪気に笑う。宿の老婆が、靴を履こうとした柳澤に目を向ける。ふと目が合い、柳澤は小さくお辞儀をした。すると、老婆がスッと柳澤の後ろの棚に目を向けた。
 柳澤も釣られて、後ろを振り向く。棚の上に、昨日消えていたはずの一枚の写真が置かれていた。
 古いフィルムカメラの前で、パイプ椅子に座って腕を組む男の写真。
 
「あれ……なんか、アオイに似てんな」

 斜め横を向いたアングルで少しわかりにくいが、骨格や、物憂げな雰囲気がどことなく杉山に似ていた。
 
 柳澤は写真に向かって、ふん、と小さく鼻を鳴らして不敵に微笑む。
 
「……撮りたかったもん、ちゃんと撮れたかよ」

 誰にともなくそう呟き、柳澤はそのまま宿を出て、冷たい朝の空気の中、バスに乗り込んだ。

 少し遅れて、杉山が大きな機材を持って乗ってくる。
 
「杉山さん、三分遅刻ですよ!」
「杉さん、珍しいじゃん」

 やんやと、後部座席からスタッフたちの文句が飛んでくる。杉山は「悪い悪い」と片手をあげて謝るように肩をすくめると、そのまま当然のように、前列の柳澤の隣に腰掛けた。
 
「それじゃあ、出発お願いしまーす!」

 キコの元気な声が、バスの中に響き渡る。
 
 まだ暗い道を、バスがゆっくりと発車する。あれほど宿を包み込んでいた霧は、もうどこにも見当たらない。
 
 どんどん遠ざかる古い宿を、柳澤は窓から静かに見つめた。

「……散々な夜でしたね」

 言いながら、杉山がチラリと後部座席を振り返る。
 
「でも、消えたみんな、無事でよかった」

 早朝にもかかわらず、後部座席はガヤガヤと元気に騒いでいる。キコが何やら興奮気味に、メイクの小宮山たちにヒソヒソ話をしていた。
 
「……また変な噂してますよ」

 杉山は苦笑いをして呟くと、柳澤の方を見た。
 柳澤も座席の隙間から後ろを盗み見て、気恥ずかしそうに目を細める。
 
「朝、あんなになってるところ見られたからな……。こっちは必死だったってのに、全部忘れてるんだもんな」

 柳澤は片眉を上げて、ポリポリと頬を掻いた。
 
「俺らだけ変な夢見た、とかなんですかねぇ」

 足元の機材が入ったスーツケースに肘をつき、杉山は肩をすくめる。
 
「どうなんだかなぁ〜。結局なんだったのか、わかんないままだな。……でも、昨日途中で脱いだ靴下は、朝やっぱり履いてなかった」

 柳澤はそう言って、意味深に口の端を上げ、杉山を見る。バチリと目が合い、二人でふと笑い合った。
 
「あと……昨日で散々、わかったこともあったよ」

 そう言うと、柳澤はシートの間に置かれていた杉山の大きな右手に、自分の左手をそっと重ねた。
 
 杉山は柳澤を見つめたまま、少し目を見開いた。重ねられた手を、下からすくい上げるように握り返す。
 そして、眉を下げ、ゆっくりと笑った。
 
「……八年かかるとか、鈍感すぎ」

 柳澤は「う……悪かったって」と小さく呻き、気恥ずかしさに視線を窓の外へ逸らす。
 
「もうちゃんと気づいたから。……諦めんなよ、俺を」

 小さく呟き、柳澤は杉山の指に、自分の指をゆっくりと絡める。

 杉山が、小さく息を呑むのが聞こえた。握り返してくる手が、少し強くなる。
 
「……隣にいますよ。これからも、ずっと」

 バスが山道を下っていく間、二人は誰にも見えない位置で、そのまま強く手を握り合っていた。