カチンコ


「カット!」

 オレンジに焼け焦げた空に、声が響く。
 
 見上げれば、鷹か鳶か。黒く大きなシルエットが悠然と旋回していた。
 視界を三百六十度ぐるりと見渡しても、あるのは山と林だけ。見事なまでのド田舎。

 舗装された一本道の真ん中で、二人の美女がカメラの方を振り返る。
 
「あい、オッケー。おつかれさん」

 手元のモニターから顔を上げ、ディレクターの柳澤がモデル達に軽く手を振った。
 その横で、ふう、と深く息を吐く音。カメラマンの杉山が、重いステディカムのハーネスをゆっくりと外す。
 
「お疲れ様でした」
 
「みなさーん、今日のロケはこれで終了です! お疲れ様でした!」

 ADのキコがよく通る声を張り上げた。
 
「制作チームとモデルさんは、撤収次第、バスで民宿に移動しまーす!」

 九州の山間で行われている、田舎の観光誘致用の一泊二日の小規模ロケ。普段はドラマや映画を撮る若手監督の柳澤に「ぜひ」と声がかかり、今に至る。
 予算の都合上、クルーは最小限だ。照明と音響は現地のコーディネーターに任せ、撮影班は柳澤と杉山、カメアシの久保、そしてADが二人だけ。被写体は新米女優とベテランモデルが一人ずつ。衣装とメイクも1人ずつ。
 
「お前も接待にくればいいのに。めっちゃ良いホテルだぞ」

 プロデューサーの田山が、ニヤニヤと笑いながら柳澤の背後に歩み寄ってきた。
 
「やだよ。今の時期は虫もあんまし出ねぇし、民宿でのんびりやるわ」
 
「杉山と映画ばっか見てないで、ちゃんとモデルちゃんたちと飲み会しろよ」

 気のない返事をする柳澤の背中を、田山がバンバンと叩く。
 
「酒嫌いなんだ、俺は」

 柳澤は鬱陶しそうに手を払うと、機材の撤収作業に戻った。そのすぐ横では、杉山と久保が手際よくケーブルを巻き取っている。
 
「久保、明日ドローン使うから充電しとけよ」
 
「了解です」

 顔を上げ、杉山が柳澤を見た。
 
「ケイさん、明日ドローン朝イチですか」
 
「そー、朝日撮りに行かねぇと」
 
「晴れますかね」
 
「大丈夫じゃね?」

 柳澤は空を見上げた。
 山は、太陽が沈むのが早い。ほんの数分の間に、足元からじわじわと薄闇が這い上がってきていた。
 
「地方ロケだと太陽沈んだら終われるし、楽だねぇ」

 濃くなっていく影を眺めながら、柳澤がニヤリと笑う。
 
「あ、言ってた『ストレンジャー・シングス』のラストシーズン、DLしてきましたよ」

 アタッシュケースに機材を収めながら、杉山がぽつりと言った。
 
「ナイス! 後で見ようぜ。アオイの部屋な」
 
「また俺の部屋ですか」

 杉山は呆れたように鼻を鳴らす。だが、その口元は微かに緩んでいた。

 一通りの撤収が終わる。
 
「じゃー、明日朝五時、現地集合で」

 柳澤が田山にひらひらと手を振った。

 撮影班とモデル班は、民宿へ向かう薄暗いマイクロバスに乗り込んだ。
 田山とアシスタントプロデューサーの大嶋は、クライアントと共に市内の快適なホテルへと向かっていく。

 二台の車が反対方向へ走り出し、見えなくなると、山道には再び深い静寂が落ちた。

 バスのテールランプだけが、曲がりくねった山道を赤く照らしながら遠ざかっていく。その赤が、山の闇に吸い込まれるようにして、消えた。


 *
 

 街灯のない山道。マイクロバスの頼りないヘッドライトだけが、アスファルトを舐めるように進んでいく。
 窓の外は完全な闇だ。針葉樹の黒いシルエットが、まるで巨大な針山のように連なっている。

 車内の前列。小さな光の塊が、二人の顔を青白く照らしていた。
 
「今日の5シーン目、見せて」

 柳澤が、隣に座る杉山の手元を覗き込む。
 
「ああ、はい」

 杉山が手持ちのシネマカメラのモニターをぱかりと開き、慣れた手つきでボディを操作する。
 
「あー、やっぱりここ、引きで正解だったわ」
 
「いい感じに紅葉が入りましたね」
 
「お前、ステディ上手くなったな」
 
「体幹、鍛えてますから」

 小さな画面の光に額を寄せ合うようにして、二人は撮影素材の確認に没頭している。
 
「ねぇ、またイチャってる」

 後部座席から、ヘアメイクの小宮山が楽しげに二人を指差した。キコがニヤリと笑う。
 
「あれは序の口。まだまだですよ」
 
「有紗ちゃん、杉ちゃん狙いでしょ? 勝ち目ないから諦めなよ」

 小宮山がからかうように言うと、新米モデルの清水有紗がぷうっと頬を膨らませた。
 
「純くんだって、杉さん狙いじゃん」
 
「アタシはワンチャン狙いくらいでいいの。基本的にアタシは杉ちゃんのROM専」

 小宮山が不敵に鼻を鳴らす。
 
「しかし杉さん、カメラマンにしとくのマジで勿体無いよね。大学時代からモテてたの? 明里さん、二人と同じ大学でしょ?」

 清水が、衣装の栗田明里を見る。
 
「柳Dも杉くんもめっちゃモテてたよ。……二人とも、映画以外に興味なかったけどね。柳Dのとなりにいるのは、いつも杉くんだったから、キコちゃんみたいな子がキャーキャー騒いでたよ」

 キコが誇らしげに親指を立てる。
 
「私はカプ推しなんで!」

 清水が大きなため息を吐いた。
 
「私かわいいのに、杉さんめっちゃ塩対応なの、結構くるんですけど……」
 
「大丈夫です。杉山さん、柳D以外には誰にでも塩なんで」

 キコが笑って慰める。
 
「ほんと、杉くん、大学時代からああだよ。高身長で見た目肉食系なのに、中身が超絶草食でしょ。だからなんてあだ名だったと思う?」

 栗田が清水の顔を覗き込む。
 
「えー、わかんない。……キリンとか、ゾウとか?」
 
「テリジノ」

 栗田が笑うと、キコと小宮山もつられて笑い声を上げた。
 
「テリジノ?」

 清水だけが首を傾げる。
 
「あー、恐竜の?」

 静かに窓の外を見ていたベテランモデルの神坂が、ぽんと手を打った。
 
「肉食にしか見えないのに、実は草食のやつね」

 ふふ、と上品に微笑む。清水はがくりと肩を落とした。
 
「テリジノ……ティラノになれよ。もさっとした柳Dにしか興味ないとか無いわー」

 その言葉に、キコが思い切り首を振る。
 
「有紗さん、わかってない! 柳Dのポテンシャルやばいですよ! 今は髪の毛伸び散らかしてぼさっとしてるけど、キッチリしたら私は杉山さんより柳Dのがモテると思います!」

 身を乗り出して熱弁するADに、清水は「そうかなぁ? 柳D、見た目にやる気なさすぎて」と唇を尖らせた。
 
「柳D、バツイチだっけ?」

 小宮山が小声で栗田に聞く。栗田は神妙な顔で頷いた。
 
「大学時代の彼女と卒業と同時に結婚したけど、三年で別れてるよ。……別れた時に言われたセリフ、聞きたい?」

 小宮山が目を細める。
 
「どうせ、杉ちゃん関連でしょ」

 栗田は頷きながら吹き出した。
 
「『もうテリジノと結婚しろ』とだけ言われたらしいよ」

 後部座席が、どっと忍び笑いに包まれる。

 イヤホンをして爆睡しているADの河野は全く気づいていない。カメアシの久保は、苦笑しながらその賑やかな後方を見て、ふたたび前方に視線を戻した。

 杉山と柳澤は、背後の騒ぎなど一切聞こえていないかのように、ずっと今日の撮影について話し込んでいる。

 二人の間に張られた見えない結界を見つめ、久保は少しだけ寂しく思った。

 やがて、窓の外が完全な暗黒に沈んだ頃。
 バスのスピードがゆっくりと落ち、砂利を踏む音とともに駐車場へ止まった。

 山の中の民宿。

 三階建ての小さなその建物は、必要最低限の明かりだけを灯し、周囲の闇に沈み込むように薄暗く佇んでいた。
 

 *
 

「十九時から宴会部屋で食事が出ますので!」

 廊下に響いたキコの声を合図に、一行はそれぞれの部屋へと散った。割り当てられたのは、山間の古い民宿には不釣り合いな洋室だ。
 小さなテーブルと椅子。テレビにベッド。そして簡易的なシャワー室。まるで安いビジネスホテルの中身を無理やり詰め込んだような空間に、古びたレトロな花柄の壁紙だけが不気味に浮いている。
 
 柳澤はテーブルに荷物を放り出すと、着替えとタオルを掴んで部屋を出た。廊下で、ADの河野、ヘアメイクの小宮山、カメアシの久保と鉢合わせる。
 
「あれ、柳Dも風呂っすか」

 河野が首を傾げる。
 
「お前たちも? なら一緒に行こうぜ」
 
「杉ちゃん来ないの?」

 小宮山が意味ありげに杉山の部屋のドアに目をやった。
 
「あいつ、大衆浴場嫌いだからな。水しか出なくても部屋風呂に入るタイプ」

「なーんだ、残念」

 小宮山は不満そうに口を尖らせた。

 
 *


 湯の音が、やけに高く反響する。
 
 洗い場で身体に湯をかけながら、河野がチラリと隣の小宮山を見た。
 
「てか、小宮山さんこっちなの、ちょっと緊張するんすけど」

 小宮山があからさまに嫌な顔をした。
 
「あんたみたいなのに興味ないから。ご心配は無用よ」
 
「そうだぞ河野。純のが立派なもん持ってる」

 柳澤がシャワーを浴びながら笑う。
 
「小宮山さんも背高いですよね。柳Dと同じくらいですか?身長」

 並ぶと一際小柄な久保が控えめに尋ねる。
 
「純のが少しデカいか?」
 
「一、二センチ高いかもって感じ? しかし、杉ちゃんがデカすぎなのよ。……裸、見たかったわぁ」
 
「お前それアオイに言うなよ。……ドン引きされるぞ」
 
「杉さん、酒もダメで温泉も嫌いって、業界の人なのにマジ変わってますよね」

 河野が頭からザバッと湯を被りながら言う。
 
「アオイ、変なところこだわり強いし、コミュ症だからなぁ。モテんのに勿体無いよなぁ」

 柳澤はケロリと言ってのけた。小宮山と久保は、思わず呆れたように視線を交わした。
 
「柳Dが、杉さんのこと独占しすぎなんです」

 少しだけ拗ねたような、久保のボヤキ。
 柳澤はガバリと水浸しの顔を上げた。
 
「えっ、俺のせい!?」
 
「まぁ、そうでしょうね」

 小宮山が湯気の中でボソリと呟く。柳澤は「んなわけ」と笑い飛ばしつつ、ざぶんと湯船に肩まで浸かる。

「……あるのか?」

 誰にともなく呟き、そのまま湯船に沈んだ。

 
 *
 

 一階、宴会部屋。
 襖を取り払って二つの和室を繋げたような、だだっ広い空間。真ん中には低い長テーブルが三つ並べられ、座布団が無造作に積まれている。
 宿の主人の姿はない。「お好きにどうぞ」とでも言うように、酒や料理だけが冷たい蛍光灯の下に並んでいた。

 一番乗りで現れたキコが、手持ち無沙汰に各自の茶碗へご飯をよそっている。
 
「あれ、元山さんしか来てないの?」

 ラフなスウェット姿に着替えた杉山が、ふらりと入ってきた。
 
「あ、杉山さん。皆さんまだ来ませんねぇ」
 
「五分過ぎてるのにな」

 呆れたように周りを見回しながら、杉山は入り口に最も近い席に腰を下ろす。すぐに廊下からざわめきが近づき、風呂上がりの男四人がなだれ込んできた。
 
「女性陣がまだなのか」

 言いながら、柳澤は当然のように杉山の隣に座る。小宮山がさっとキコに視線を送った。目が合うと、キコは深く、力強く頷く。
 
 続いて、甲高い笑い声と共に、モデルの二人と衣装の栗田が入ってきた。
 
「あ、お待たせしちゃってすみません」

 神坂がふわりと眉を下げて謝る。ほとんどスッピンだが、その美しさは健在だった。
 
「皆さん揃いましたね! 何飲まれますか?」

 各々が適当な席につくと、キコと河野がグラスに酒を注いで回り、控えめな宴会が始まった。

 食卓には一人用の小さな鍋が並んでいる。横に置かれたチャッカマンで、各自が火をつけるスタイルだ。
 
「宿の人、本当に見かけませんね……」

 キコが困ったように笑った。酒の用意があるのはいいが、氷や追加の水がない。
 
「不気味よね」

 小宮山はじっとりとした目で部屋を見回した。
 
「出たりして」
 
「純くんやめてよー! 怖くて一人じゃ寝れなくなっちゃう!」

 清水が悲鳴を上げ、チラリと杉山に視線を投げた。
 
「杉さん、一緒に寝てくれますぅ?」
 
「いや、絶対無理ですね」

 秒速の、そして感情の一切こもらない拒絶。宴会部屋にドッと笑いが弾けた。

「じゃあ、杉さんってどんな人がタイプなんですか?」

 不貞腐れたように下唇を尖らせながら、清水が食い下がる。杉山は「さぁ」と、全く興味のなさそうな声で首を傾げた。
 
「有紗ちゃん、聞いても無駄だよ」

 衣装の栗田が眉を下げながら囁くと、清水はますます膨れっ面になる。
 矛先が、不意に横へスライドした。
 
「じゃあ、柳Dのタイプは?」
 
「え、俺に飛んでくんのこれ」

 小鉢のつまみを放り込んでいた柳澤が、ぎょっと顔を上げる。
 その場の全員の視線が、一斉に柳澤に集まった。隣に座る杉山も、箸を止めてじっと柳澤の横顔を見つめている。
 
「えー……」

 柳澤は困ったように頭を掻いた。
 
「あー、なんだろうな。一緒にいて楽な人とかかねぇ」

 柳澤はわざとらしくへらっと笑う。
 
「わぁー。当たり障りのない答えきた」

 小宮山が、つまらなそうに鼻で笑った。
 
「もうアラサーなんだから、遊んでばっかじゃダメよ」
 
「まだ二十八だよ! しかも遊んでねぇし!」

 柳澤が口をとがらせる。
 
「とにかく、俺は良いんだよ……。ほら、違う話題にしよ」

 そう言うと手元の烏龍茶を一気に飲み干した。
 
「……そういえば、玄関にあった写真、見ました?」

 久保がぽつりと切り出す。
 
「え、何があったの?」

 河野が食いつく。
 
「いや、なんか昔の写真っぽかったんですけど。撮影現場みたいな写真があったんですよ。男の人と、古いフィルムカメラとかが写ってて」
 
「マジか、気づかなかった」

 柳澤が興味深そうに腕を組む。
 
「昔、ここがロケで使われたとか?」

 キコが首を傾げると、柳澤が周りを見回す。
 
「この民宿が……? 言っちゃ悪いが、ちょっと画にならねぇよ」
 
「俺らみたいに、撮影チームとかが泊まっただけじゃないですかね」

 そう言いつつ、杉山はごく自然な動作で、隣の柳澤の鍋の蓋を取り上げた。
 
「ケイさん、これもう食えますよ」

 その淀みない所作を見て、神坂が目を瞬かせる。
 
「本当に、お二人仲良しですよね」
 
「そうっすか? んまぁ、仲は良いですけどね。大学の後輩だし」

 柳澤は鍋をつつきながら、呑気に首を傾げた。
 
「ほらほら〜、せっかくここ出そうなんだし、もっと怖い話しましょうよ〜」

 小宮山が、ふたたび渋い声で呟く。
 
「もー、まだ言ってる」
 
 栗田が顔をしかめた。
 
「出るとしたら何かしら。……この辺で命を落とした女優の怨霊とか……?」
 
「やめてー!」
「本当に怖くなるからー!」

 女子たちがギャーギャーと騒ぎ立てる。
 キコは苦笑しながら、ふと、視線を感じて入り口を振り返った。

 ――すん、と、そこだけ空気が抜け落ちたように、老婆が立っていた。

 瞬き一つせず、こちらを見つめている。
 
「わっ!!」

 びくりと肩が跳ね、キコの喉から叫びが漏れた。
 皆が一斉に視線を向ける。「キャッ!」と清水が短い悲鳴を上げた。足音は、全く聞こえなかった。
 
「あ……すみません……。宿の方ですか?」

 キコがおそるおそる声をかける。老婆は、ゆっくりと一度だけ頷いた。
 少しだけ、場に安堵の空気が戻る。
 
「ご飯、美味しくいただいてます」
 
「写真はね、映画監督だよ」

 唐突に、老婆のしゃがれた声が落ちた。
 
「昔、ここら辺で映画を撮ってたんだよ。怖いやつとか。まぁ、変な人だったよ」

 濁った眼球がぎょろりと動き、柳澤を真っ直ぐに射抜いた。
 
「あんた、気をつけなね」
 
「え」

 柳澤は弾かれたように顔を上げた。背筋に冷たいものが走る。
 
「……わざと怖くしてね、演技を引き出すんだよ」

 老婆は独り言のように呟くと、くるりと背を向け、暗い廊下の奥へと消えていった。

 宴会部屋が、しん、と静まり返る。鍋の噴きこぼれる音だけが、やけに大きく響いた。
 
「え〜!なに今のー! ちょー怖いんですけどー!」

 小宮山の引きつった笑い声を皮切りに、魔法が解けたように皆が一斉に苦笑いを作り始める。
 だが、柳澤だけは笑えなかった。眉をひそめ、老婆が消えた暗い虚空をじっと見つめている。
 
『あんた、気をつけなね』

 鼓膜にへばりついたその声が、どうしても拭い去れない。
 杉山が、チラリと柳澤の横顔を見た。
 
「ケイさん。食ったならそろそろ戻ります?」

 柳澤は「はっ」と我に帰り、杉山を見上げた。
 
「あ、あぁ。……あれ見るか」

 二人が立ち上がる。
 
「あれ、もう映画タイムですか?」

 キコがにこにこと顔をほころばせた。
 
「まぁ、今日はドラマだけどな。キコ、あと頼む」
 
「お任せください! お疲れ様でした!」

 二人が足早に宴会部屋を去っていく。それを見送りながら、清水が不満げに眉をひそめた。
 
「え、どこ行ったんです?」
 
「あの人たちお酒飲めないから、いつもロケの夜はどっちかの部屋で映画見てるんですよ。恒例行事」
 
「ひぇ〜、勝てねぇ〜」

 清水が大げさに天を仰ぐと、部屋にふたたび明るい笑い声が広がった。

 その後も話題は尽きず、酒のペースが上がり始めた頃。とうとうキコが、生ぬるくなった酒に耐えかねて立ち上がった。
 
「ちょっと、氷取ってきます」

 開け放たれた襖。

 光の溢れる宴会場から一歩足を踏み出すと、そこは、底の抜けたような暗い廊下だった。

 キコは一人、厨房へと向かって歩き出した。
 

 *
 

 厨房に人の気配はなかった。

 薄暗いシンクの中で、水道の蛇口からボト、ボト、と重い水滴が落ちる音だけが聞こえてくる。
 
「すみませぇ〜ん……勝手に氷貰いますぅ」

 キコが小声で言い訳のように呟く。
 業務用の巨大な冷凍庫の横に、アイスペールがいくつか重ねられていた。手を伸ばして一番上を取ろうとした瞬間、バランスが崩れる。
 
「わっ」

 ガラガラガシャァンッ!
 乾いた金属音が、人気のない厨房に高く響き渡った。
 
「はぁ。……なんか怖い」

 キコは震える手で、床に散らばったアイスペールを拾い集める。

 その時、足元にぬるりとした感触があった。

 見下ろすと、真っ赤な液体がタイルの溝を伝って流れてきている。
 
「ヒィッ!」

 思わずアイスペールを投げ出し、尻餅をついた。
 這いずるように後ずさり、液体が流れ出してくる厨房の隅へと視線をやる。
 
「うげ……うげうげぇ」

 そこには、乱暴に剥がれた獣の毛皮と、赤黒い肉片のついた巨大な骨が無造作に打ち捨てられていた。
 真っ黒な短毛。さっき、宴会部屋の鍋に入っていた肉の「元」だろうか。
 
「ええぇ……何かの動物……?マジでやだぁ……」

 キコは這々の体で立ち上がると、急いで氷をアイスペールに叩き込み、厨房を逃げ出した。

 薄暗い廊下を小走りで戻る。
 その途中、バコッ、と足先が固いものを蹴り飛ばした。廊下の端に積まれていた古い段ボール箱だ。ガラリ、と中から何かが散乱する。
 
「もぉ〜〜……」

 半泣きになりながら床にしゃがみ込み、散らばったガラクタを箱に戻していく。
 ふと、その中の一つにキコの目が止まった。
 
「あ、これ……」

 
 *

 
「氷、持ってきましたー」

 宴会部屋の襖を開け、キコが戻ってくる。
 
「なんかガランガラン、バカンバカン聞こえたけど、大丈夫だったの?」

 小宮山が呆れたようにキコを見た。
 
「あれ、キコ。それ」

 河野が、キコの持っているアイスペールではない方の手に気づいて指を差す。
 
「廊下に落ちてたの! カチンコ!」
 
「へー、なんか古いな。見せて!」

 河野が身を乗り出して手を伸ばす。キコは拾ってきたカチンコを手渡した。
 それは随分と古びており、あちこち傷だらけだった。黒板の端は欠け、拍子木の塗料も剥げ落ちている。
 
「文字、掠れて読めないな」

 河野が目を細めた。
 
「シーンが『F』だから……ファイナルとか? ……テイク8だってよ」

 横から覗き込んだ久保が、顔をしかめる。
 
「8テイクかぁ。結構ですね」
 
「八回も同じことやらされたら、ちょっと嫌になるかも」

 神坂が優雅に苦笑した。
 河野が立ち上がり、カチンコを片手に口の端を吊り上げて笑う。
 
「俺、現場であんまりスレート持たせてもらえないんだよな」

 そう言って、いっちょ前にカチンコを鳴らすポーズを取った。

 
 *


 杉山の部屋。
 ベッドサイドにタブレットを置き、二人はベッドの上で海外ドラマの最終シーズンを流していた。
 
「みんな、大きくなっちゃってまぁ……」

 うつ伏せで肘をつきながら、柳澤が画面の子供たちを見て呟く。
 
「近所のおじさんみたいなこと言ってますよ」

 杉山はベッドの端に体育座りをしたまま、静かにツッコミを入れた。
 
「……てか、部屋寒くね?」

 柳澤がぶるりと身震いをする。
 杉山が、壁の古いエアコンを見上げた。
 
「暖房、なんか効かないんすよね。あ、布団入って良いですよ」

 杉山が掛布団をまくり上げる。柳澤は「悪い」と言いながら、迷いなくその中に転がり込んだ。
 
「お前、寒くないの?」

 杉山は一瞬だけチラリと柳澤を見下ろし、すぐにまた画面へと目を戻す。
 
「……寒くなったら入ります」

 「ふぅん」と生返事をして、柳澤もドラマの続きを追う。冷え切っていた身体が、布団の中でぬくぬくと温まり始め、だんだんと心地よい眠気が襲ってきた。
 
「やべぇ、寝るかも」
 
「マジすか。寝ないでください。これから良いところっぽいのに」
 
「俺が寝ても、先見るなよ」
 
「だったら寝ないでください」

 バサッ、と無情に布団が剥がされる。杉山は座ったまま、その布団を自分にぐるぐると巻きつけた。
 
「寒い!」

 柳澤が布団の端を引っ張り、子供のような取り合いになる。
 ケラケラと笑いながら、柳澤がふと手を止めた。
 
「……こんなことばっかやってるから、お前に彼女できないの、俺のせいだって言われるんだろうな」

 自嘲気味に苦笑する。杉山がピクリと眉を上げた。
 
「誰に言われたんすか」
 
「久保と純」
 
「へぇ」

 杉山は、大して興味もなさそうに肩をすくめた。
 
「まぁ、あながち間違いじゃないですね」

 そう言って、杉山はゆっくりと体勢を崩し、柳澤のいる布団の中へと潜り込んできた。
 狭いシングルベッドの上。ごく自然な動作で、杉山の大きな肩が、柳澤の肩に触れる。
 柳澤の心臓が、自分でも驚くほど大きく跳ねた。
 
(……??)

 心臓が跳ねたことに疑問を抱き、柳澤は微かに首を傾げる。男同士で、しかも長年の付き合いの杉山相手に、なぜ今さら。

 不意に、ドラマの中のBGMが途切れ、登場人物たちの会話が消えた。環境音だけが不気味に響く、ホラー特有の「溜め」の演出だ。
 
「わぁ……なんか来るぞ……絶対なんか来るぞ」

 柳澤は突然の妙な動悸を誤魔化すように、布団を頭まですっぽりと被った。
 
「ホラー苦手なんだよ」
 
「『ストレンジャー・シングス』はホラーじゃないです。SFです」

 杉山が、布団越しに呆れたように笑う。
 柳澤が、布団の隙間から恐る恐るタブレットの画面を覗き込んだ、その時。
 
――カァンッ。
 遠くの方で、鋭く、甲高い音が鳴り響いた。