生贄花嫁はアヤカシ狐からの溺愛を受け入れられない

 街の中へと走り出したものの、紬もこのまま簡単に逃げ切れるとは思っていない。

 御札による目くらましでアヤカシたちを怯ませはしたものの、きっとすぐに追いかけてくるだろう。

 しかもここは、初めて来たアヤカシの世界。ここの住人であるアヤカシたちから、いつまでも逃げ続けられるとは思えなかった。
 例え人間の世界に帰れたとしても、もう月城の家には戻れない。戻りたくもない。

 しかし紬は、それでも逃げ出した。
 逃げた先に幸せなどないと、わかっているのにだ。

 それから、どのくらい走り続けただろう。
 大きな通りからは外れ、細く寂れた道を通る際、近くを歩いていた誰かとぶつかった。

「うわっ!」

 相手の方が遥かに大柄だったため、紬だけが派手に弾き飛ばされ、地面に倒れる。
 痛みをこらえ、倒れたまま相手を見上げると、そこにいたのは、着物を着た熊だった。言うまでもなくアヤカシだ。

「てめえ、気をつけねえか!」

 どうやらこの熊、かなり気性が荒いようで、すぐに紬を怒鳴りつける。
 しかもその周りには、仲間と思われるアヤカシが何人もいて、彼らもまた面白そうに声をあげていた。

 ぶつかったのは紬の不注意とはいえ、まるで不良かチンピラのような反応だ。
 するとそのうち、連中の何人かが怪訝な顔をし始める。

「ん? こいつ、妙な匂いがするぞ。まさか、人間じゃないだろうな?」
「そんなわけないだろ。いや、だが見た目はまるっきり人間そのものだな。どうなってるんだ?」

 ここはアヤカシの世界。紬のような例外を除けば、人間など滅多にいないのだろう。
 いくつもの視線を浴び、しだいに、紬の体が震えてくる。

 こんな風にアヤカシからジロジロ見られることは、実は子供の頃にはよくあった。
 人間の世界にも僅かだがアヤカシはいて、そいつらにとって自分たちの姿が見える人間は、面白く思えたのだろう。
 紬がアヤカシが見えるとわかったとたん、怖がらせる者や、危害を加えようとする者もいた。
 そんな記憶が蘇ってくる中、紬は自分の手首に目を移す。
 そこには、真っ赤な組紐が巻かれていた。

 この組紐も、さっきの御札と同じように、月城家に伝わるアヤカシから身を守るための道具のひとつだ。

 目の前にいるアヤカシたちは、気づいていない。紬が、いかに大きな霊力を持っているかを。
 アヤカシにとって、霊力は極上の餌だ。もしも紬の霊力に気づいていたなら、この程度の騒ぎではすまないだろう。

 それをさせないのが、この組紐の力だ。 アヤカシは本能で霊力を感じ取るが、この組紐を巻けば、霊力を隠すことができる。
 霊力という餌で、アヤカシを刺激することがなくなるのだ。

 逆に言えば、この組紐がなくなれば、どうなるかわからない。
 紬の命は今、この組紐ひとつで守られていると言ってよかった。
 しかし────

(やっと、この時がきた)

 そう、心の中で呟く。
 それから、震える手で、そんな命綱ともいえる組紐を握る。

(怖くなんてない。ずっと、こうなる時を待ってたんだから)

 次の瞬間、紬は組紐の結び目を解いた。

「な、なんだ……」

 そのとたん、アヤカシたちの様子が変わる。
 最初は、何が起きたのかわからないといった感じで戸惑っていたが、すぐに目をギラギラと光らせはじめた。

「この人間、ずいぶんと美味そうだな」

 ひとりがそう言うと、他の奴らも大きく頷く。
 さらに別の奴が、紬の肩を乱暴に掴んだ。

「─────っ!」

 痛みで小さく声をあげるが、それだけでは終わらない。
 アヤカシたちは紬の四肢を掴むと、そのまま強引に地面に押し倒した。

 元々粗暴そうな奴らだったとはいえ、急にここまでするなど、どう見ても様子がおかしい。
 それも全ては、紬の霊力によるもの。極上の餌を前に、今やこのアヤカシたちは、完全に食欲に取り憑かれていた。

 きっと自分は、このまま食われるのだろう。
 そう確信する紬だが、そんなことは最初からわかっていた。わかっていて、わざわざ自分から組紐を外したのだ。

(いいわ。このまま、私を殺しなさい)

 結婚相手の元から逃げ出した後、名も無きアヤカシに食われ、果てる。
 それが、紬の考えていた計画だった。

 それこそが、月城家に対する復讐だった。