生贄花嫁はアヤカシ狐からの溺愛を受け入れられない

「この扉をくぐれば、人間の世界に行けるのよね」
「そうだよ。アヤカシの世界と人間の世界では空間の歪みがあるから、紬がこっちに来たお堂と比べても、かなり遠く離れた場所に通じているはずだよ」

 その辺りの理屈はまるでわからないが、こうして別の世界に来ているのだ。今さら不思議なことがひとつくらい増えても何も思わない。

 それよりも、どうして詩がわざわざこんなところに連れてきたのかの方が、ずっと気になる。

 詩が扉に手をかけ、呪文のようなものを唱えると、辺りの空気が少し変わったような気がした。

「さあ、これで人間の世界と繋がった」

 そう言って、ゆっくりと扉を開く。
 この先にあるのは、人間の世界。詩の元に嫁入りして以来、初めて戻ることになる。

 いったいどんな場所に通じているのか。
 緊張しながら扉を通り外に出るが、次の瞬間、僅かに拍子抜けする。

「ここが、人間の世界?」

 扉の先にはただの荒れた山道が広がっていて、人間の世界に戻ってきたという実感は、特にはわかなかった。

(まあ、嫁入りした時に使ったお堂も、こんな山の中だったか。そもそも二つの世界を繋ぐなんて場所が街中にあっても大変よね)

 詩が連れていきたい場所というのは、この更に先にあるのだろうか。
 そう思ったが、そこで詩がこんなことを聞いてくる。

「ねえ、紬。この場所を見て、何か思うことってない?」
「えっ?」

 そんなことを言われても、周りにはお堂以外には何も無い。
 思うことなんて、あるわけがない。
 そのはずだった。

(…………あれ?)

 何の変哲もない、ただの山道。なのに、なぜか頭の中に引っ掛かりを感じる。
 不思議に思い、少しだけ山道を進む。

(この道、もう少し先に行ったら、二つに分かれてる)

 なぜかそう思って、実際に行ってみたら、本当に道が二つに分かれていた。

「どういうこと?」

 わけがわからず、後ろからついてきていた詩を見る。
 しかし彼は、それに答えず、もう少し先に進んでいく。

 すると間もなくして、少し開けた場所に出る。周りの木々が刈り取られていて、端の方によると、近くの町を見下ろすことができた。

 それを見た時、抱いていた違和感の答えが、ようやくわかった。

(私、あの町を知ってる。というかあれって、私が昔住んでた町じゃない!)

 それは、月城の家に引き取られる前。まだ、母親と一緒に暮らしていた時の話だ。
 一度離れて以来戻ることはなかったが、遠くに見える建物のいくつかには、覚えがあった。

「ねえ。いったい、どういうことなのよ!」

 さっきとほとんど同じ質問を、もう一度ぶつける。

 偶然こんな所に来るなど有り得ない。
 なぜ詩は、自分をここに連れてきたのか。なぜ、この町を知っているのか。

 すると詩は、少し前まで見せていた笑顔を消し、真剣な表情で紬を見る。

「うん、全部話す。と言うより、思い出させる」
「どういうこと……?」

 何を言っているかわからず、困惑する紬。そんな彼女に向かって、詩は手を伸ばす。一度頬に触れ、それから、指先を額へと移動させる。

 その途端、頭の中で声が響いた。

『紬……紬……』

 幼い男の子の声。だが、それが誰のものなのかはわからない。全く聞いたことのない声。最初は、そう思っていた。
 だが……

『紬……紬……』

 また、頭の中で声が響く。同時に、遠い昔の記憶が蘇えってくる。
 まだ幼かった頃の、かつてこの町に住んでいた頃の記憶だ。
 なぜ急にこんなことが起きるのか。
 混乱する紬を見ながら、詩は静かに言う。

「ごめんね。本当は、もっと早くこうするべきだったかもしれない。けど、あの時俺が何をしたのか、紬に知られるのが怖かった」

 そこまで言ったところで、紬の中にある記憶の扉が、一気に開かれた。