生贄花嫁はアヤカシ狐からの溺愛を受け入れられない

 彼の姿を見て、ブルリと体が震える。こんなおかしな事態の中、急に現れたのだ。警戒しない方がおかしい。
 じりじりと後ろに下がるが、古空はそんな紬を見ても、変わらず笑みを浮かべたままだ。

「道に迷ったのなら、部屋まで案内して差し上げようか?」
「い、いえ。大丈夫です」

 部屋に戻るまでの道などわからないが、これをただの善意と受け取っていいかわからない。
 向けられている笑顔も、どこか信用できない気がした。

 詩が中庭で戦っていた時、脇差を突きつけられたことを思い出す。
 結局それは幻術で見せた幻であり、脇差と思っていたのはただの木の枝だった。
 しかしだからといって、その時の恐怖が無くなるわけではない。

「そうだ、幻術!」

 この屋敷についてから、幻術によって様々な幻を見てきた。
 ついさっきまで聞こえていた、詩の声。あれも、幻術で作り出した幻と同じようなものではないのか。
 そして、そんな詩の声と入れ違いに現れたのは、この男だ。

「あ、あなたが、幻術を使って詩の声を聞かせていたの!?」

 大きく後ずさり、これまで以上に警戒を見せる。
 なのに古空は、少しも動じる様子はない。それどころか、怯える紬を眺めながら、どこか楽しそうな表情を浮かべていた。
 その態度こそが、答えと言えた。

「察しがいいね。もっとも、ただ声を聞かせただけじゃないけどね」
「どういうこと?」
「歌の声を聞かせたのは、君を部屋からここまでおびき寄せるため。詩のやつ、眠れないのか、ほんの少しだけ部屋を外していたから、その隙にね。だけど、いくら詩の声で君を呼んだとしても、状況はあまりにも不自然だ。普通はのこのこやってくるなんてことはしないだろう。だから、君の心を操ったんだ。詩の声に従い、彼の下に行きたくなる。そんな風にね」
「なっ!?」

 そんなことを言われても、とても実感がわかない。だがそれなら、今までしてきた不用心な行動にも、全て説明がつく。

「心を操るって、そんなの、簡単にできるものなの?」
「いいや。ここまで都合よく操るのは、並大抵の術者じゃ難しいだろうね。だから、事前に仕込みをしておいたんだ」

 古空が得意げに言った瞬間、紬の喉元が、薄っすらと光り出した。
 紬からはハッキリ見える位置ではないが、それでも、自分の体に異変が起きていることはわかる。

「な、なにこれ……」
「それが仕込みだよ。呪印って言ってね、それを刻むことで、離れたところからでも強力な幻術をかけられるようになるんだ」
「仕込みって、こんなのいつやったのよ!?」

 そこで、ハッとする。
 詩が戦っている最中、脇差を突きつけられた場所が、まさにここだ。

「あの時私を脅かしたのは、これが目的!?」
「その通り。ただ呪印を刻むだけじゃ詩に気づかれるだろうから、本当の目的に気づかれないよう、わざと騒ぎを起こしたんだ。それでもうまくいくかは賭けだったけど、運は僕に味方したみたいだ」

 詩ですら気づかなかったのだから、幻術のことなど何も知らない紬が気づけるはずもない。
 だが自分の体にそんなことをされ、何もかも古空の計画通りに事が進んでいたと思うと、悔しさが湧いてくる。

「私を誘い出して、何をする気なの?」

 誰にもバレないよう、コソコソやっていたのだ。
 どう考えても、嫌な予感しかしない。

「君の霊力をいただく。それ以外、何があるというんだ」

 それは、予想通りの答えであった。
 自分の霊力がアヤカシにとっていかに魅力的か、これまで散々聞かされてきたのだ。こんなことをしても、不思議はないのかもしれない。
 震えそうになるのを堪えて、古空を睨みつける。

「私は、次期当主である詩の花嫁なんでしょ。そんなことしていいの?」
「もちろん、ただではすまないだろうね。なんでもありの跡目争いとはいえ、御当主がわざわざ設けた試合の直後にこんなことをしたんだ。彼女の顔を潰せば、次期当主の座からは大きく遠のくことになるだろうね」
「だったら、どうして……」
「だからね。そうなる前に、僕は君を連れて逃げることにする。それからゆっくり霊力を吸い続け、詩も御当主も凌ぐ力を得た頃に、また戻ってくる。当主なるのは、それからでいい」
「なっ!?」

 想像していたよりも、さらに恐ろしい答えが返ってくる。紬や詩だけでなく、主である沙紀まで敵に回そうとしているのだ。
 もちろん、そんなものに利用されるなどごめんだ。

 クルリと背を向け、一目散に逃げようとする。
 しかし駆け出した廊下の先に、突如数体アヤカシが現れ行く手を塞いだ。

「なっ!?」

 小さく悲鳴をあげた瞬間、数体のアヤカシに手足を掴まれ、そのまま床に押さえつけられる。

「僕の考えに賛同する者も、それなりにいるんだ。逃げようと思っても無駄だよ」
「いやっ! 離して!」

 暴れるが、アヤカシたちの力は少しもゆるむことはない。
 そんな紬に向かって、古空はゆっくりと近づいてくる。

「怖がることはない。これは、君にとっても幸せなことだよ」
「えっ……?」

 いったい、何を言っているのか。
 このままさらわれ、霊力を搾取される。それのどこが幸せなのか、わけがわからない。

 古空は、そんな紬に向かって手を伸ばすと、首にある呪印に触れた。
 その途端、それまでは小さい模様にすぎなかった呪印が、形を変え一気に大きくなる。
 まるで生き物のようにウネウネと動き、全身に広がっていく。

「やっ! な、なに、これ……」

 古空が何をするつもりかはわからない。だが、自分の体に得体の知れない何かが起きているのだ。
 震え上がるには、それだけで十分だ。

「心配いらないよ。ただ、夢を見てもらうだけさ。決して覚めない、幸せな夢をね」

 それが、紬の覚えている最後の記憶だった。
 その直後、呪印が全身に広がり、彼女の意識は途切れた。
 全身の力が抜け崩れ落たところを、古空が受け止める。
 そして彼は、不敵に笑う。

「手に入れたよ、月城の花嫁。これで君は、僕の餌だ」

 冷たく言い放たれた言葉。
 しかしそれは、既に意識を失っていた紬には届かなかった。