生贄花嫁はアヤカシ狐からの溺愛を受け入れられない

 玉藻沙紀《たまもさき》。
 それが、玉藻家の現当主の名前だ。

 アヤカシの世界で代々続く名家の当主。
 紬はずっと、常貞のような中年の男か、もっと歳をとった老人を想像していたので、詩から女性だと聞いた時は驚いた。

 詩は、当主になるのに必要なのは力であり、男も女も関係ないと言っていた。
 つまり、ここに集まった何人ものアヤカシの中で、最も力を持つのが彼女だ。

「挨拶に来るのが遅れてしまい、申し訳ありません。月城家の娘、紬にございます」

 詩と共に沙紀の前に行き、膝をついて挨拶する。
 間近で見た沙紀はとても若々しく見えたが、外見の印象がそのまま実際の年齢に当てはまるかはわからない。

「よいよい。そんなことより、もっと顔をよく見せよ」
「は、はい」

 言われるがまま、顔を上げる紬。
 すると、ついさっきまでわずかに離れて座っていたはずの沙紀が、張り付くつらいの距離まで近づいていた。

「わっ!」

 思わず声をあげて後ずさるが、沙紀の手が伸び、紬の体を引き寄せる。抱きしめられるように、体がくっつく。
 ますます驚く紬を見て、沙紀はニヤリと笑った。

「なかなかの器量良しじゃな。それに、良い霊力の匂いがする。詩ではなく、私の嫁にした方がよかったかの?」
「えっ!?」

 一瞬、紬の頭に同性婚という言葉が浮かんだが、恐らく彼女が言っているのはそういうことではないのだろう。
 妻とは名ばかりの、霊力をいただくための生贄。そういう意味だ。
 沙紀の笑顔が、ご馳走を前にした獣のように見えた。

 ブルリと震えると、そんな彼女を諌めるように、詩が声をあげる。

「ご当主様。夫の目の前で妻に手を出そうとするのはおやめください」
「なんじゃ。妬いておるのか?」
「それはもう。ずっと待ち望んでいた愛しの妻ですから。ねえ、紬」

 詩が紬の霊力には興味はないというのは、彼女にも既に話してあるという。
 霊力を得るための餌ではなく、一人の女性として愛する。それを強調させるように、詩は紬の肩に手を置き、丁寧に抱き寄せた。

(ち、近い……)

 詩に抱きしめられるなど滅多にないことだ
 が、動揺するわけにはいかない。
 二人が本当の夫婦にはなっていないことは、沙紀には伝えてない。伝えても、きっと良いことにはならないだろう。
 なのでここでは、仲睦まじい夫婦を演じようと、事前に決めていた。

「……ありがとう、詩」

 恥じらいながらも、詩の手を取り、嬉しそうに笑うフリをする。
 しかし、心の中はとても笑ってなどいなかった。

(今の、おかしくなかった? 夫婦って、こういうので合ってる?)

 何しろ付け焼き刃の演技だ。
 変に思われなかっただろうかと沙紀の様子を伺うと、彼女はクククと笑っていた。

「霊力目当てではなく、妻として愛するか。そういえば、そんな戯言を言っておったの。すっかり忘れておったわ」
「何を言いますか。最初に月城家と盟約を交わした当時の当主は、花嫁を愛したそうですよ」
「我らが祖先とはいえ、酔狂なことよ。そういえば、お主の親もそうであったな」

 沙紀はそこまで話すと、一度言葉を切り、詩と紬を交互に見た。

(親ゆずりって、どういうこと?)

 沙紀の言った言葉の意味がわからず、詩を見る。しかし彼は何も言わず、質問しようにも、できるような雰囲気ではなかった。

 ただ、前に喜八が、詩の母親について何か言いかけていたのを思い出す。
 といっても、詳しいことは何も聞けずに終わってしまったのだが。

(お母さん……)

 心の中で呟くと、言いようのない苦しさが込み上げてくる。

 だがこれは、この場には全く関係ないこと。
 親という存在に、自分が勝手に反応しただけ。それよりも、目の前のことに集中しなくては。
 そう自分に言い聞かせ、続く沙紀の言葉に耳を傾ける。

「しかしのう、詩。お主がいくらその娘を愛そうと、月城の娘を嫁にできるのは、あくまで玉藻家の当主。今のお前は、その候補にすぎぬ。そして、お前に当主が務まるのか疑う者は、少なからずおる。この場にもな」

 その瞬間、広間をどよめきが包む。
 どうやら今の言葉は、この場にいる親戚たちにとっても予想外だったようだ。

「あの、ご当主様。恐れながら、そのような言葉は今この場では相応しくないのでは……」

 近くにいた一人がやんわりと口を挟むが、沙紀は少しも気にした様子はなく、心外だと言うように鼻を鳴らす。

「私はただ、一族のこれからを思っておるのじゃ。せっかくこうして集まり、しかも当主に捧げられる極上の品もあるのじゃ。誰が当主に相応しいか話す良い機会だと思わぬか?」

 そう言うと、口を挟んだ相手もそれ以上は何も言えなかったようだ。
 紬としては、自分を物同然に扱うような言い方は気に入らなかったが、ほとんどのアヤカシにとって人間がこんな扱というのは知っている。

 ぐっとこらえて詩を見ると、彼も顔をしかめていたが、すぐに笑みを浮かべた。

「何を今更。次の当主に最も相応しいのは俺でしょう。沙紀様も、それを認めたから紬を俺のところに住まわせたのではないですか。不満を持つ者がいるなら、ぜひ話を聞いてみたいものです」

 そうして部屋の中を見渡すが、誰もすぐには声をあげない。

 さすがに、面と向かって文句を言うことはしないのか。そう思った時だった。

「そういうことなら、言わせてもらおうか」

 それまで部屋の端にいた男が立ち上がり、挑むような目をして詩の前へとやってきた。