合唱コンクール二週間前。追試までは一週間となった日。
おれは一颯と、例にもれずファミレスに来ていた。ちなみに、前の店は前回同級生と会ってめちゃくちゃに気まずい思いをしたので、ちょっと遠出をした。一颯はなんにも気にしてなかったけど。なんかちがうのよね。
ファミレスに行こうと言うと、「おまえ集中できんのか?」とナチュラルに煽ってきた一颯に、まあ、まんまと煽られて、来店してから一時間と十五分、おれは無言で解いていた問題集をぱたりと閉めた。
「うーん……!」
首と腕を伸ばす。うーわ、すっごい疲労感。
目だけをこっちに向けて、一颯が「終わったか?」とまろいテノールで言った。うん、と頷くと、一颯もそこで教科書を閉じてしまった。
「え、いいの」
「軽い復習だから大丈夫だ。で、今回はどこがだめそうだった?」
「マジで助かる。階差なんだけど……」
指南をチラ見してもできなさそうな問題だけ聞くと、なるほど、と一度だけ頷いて、すぐにシャーペンを持った。
これはなんでこう変形した、と聞かれて、一応自分の考えを話すと、「そのやり方は間違いじゃないんだが、途中式がめちゃくちゃ複雑になるし、たぶんオレでも正確には答え出せない」と言われた。
「なるほど」
「今までやったやり方を組み合わせればいい。オレだったら、こっちの展開にしちゃう。楽だから。けど、たぶん定義通りに解きたいなら、はじめに……」
どうしてそこにそれを置くのか、なんでそう展開できるのかが分からなくてイチイチ考えてしまって進まないおれみたいな人間にはめちゃくちゃありがたい解説付きだ。
びっくりするくらいすっきり解法が入ってきて、そうか! と手を叩いた。
「で、これを文字でおいて展開して、代入ね?」
「そうだ。いけたな」
「いける、これはいける!」
意気揚々とルーズリーフに解法を書きつけていく。向かいに座った一颯はおれの手元をじっと見ている。ちょっとつまずくと、こっち、と低い声で間違いを指摘してくれた。なんとか自力で正答までたどり着いて、「いけた!」と手を叩くと、合わせて一颯も小さく拍手した。
「ヤマは張ったし、これで合格点はとれると思うよ」
「うわーん、ありがとう、マジでありがとうな」
一颯は、きれいに整ったアーモンド形の目をきゅっと細めて笑った。ゆるく首を振る。なにがちがうんだろう?
「こちらこそだよ。めちゃくちゃ楽しみにしてるから、ピアノ」
「……うーわー、ノンデリだよなほんと……」
「えっ」
ずっと表情が変わらない真顔のくせに、カッと目が開くから笑ってしまう。めちゃくちゃショック受けてるじゃん。
ケラケラ笑いながら腹を抱えていると、やっぱりなにがノンデリだったのか分からなかったらしい、一颯がとぼけた顔で「でも、楽しみなのは本当だからな……」とまるっきり困惑した声で小さく呟いた。クソ、おもしれえなコイツ。
今から二週間前、おれは伴奏者選考を突破して、無事に三組の発表で伴奏者としてピアノを弾くことになった。音楽選択で、クラスの大半がピアノを弾けるなかで、授業のときだってずっと「おれは弾かないよ?」とピアノを避けてきたおれが突破したものだからびくりされたのは言うまでもない。
ピアノが弾けない数少ない仲間だった戸佐には「弾けるなら言えよ!?」と半ギレで詰められたし、堺には抑揚のない声で「オメデトウ」と言われた。
「それ本当に喜んでる?」
「タイへんめでタイ」ぱちぱち、と拍手。
「うっっっざ」
堺だって高校一年部門県予選一位突破の実力者のくせに、と睨んでみたが真顔で凄まれた。キマってんの目が。
一颯にいたっては、選考もせずに満場一致で伴奏者が決まったらしい。たしかにおれでも全国トップレベルのピアニストと伴奏選考をする勇気はない。
――それと、勝負しろって言われてんだからな、おれは……。
誰か事情を知っている人がいたら可哀想だなと思うだろう。おれのことを。三年前の勝負のリベンジしてえとか言われてんだからな。まあもう別にいいけど。
勝つ気はしてないけど、負けるつもりもないから。
教科書やらをバッグにすべてしまって、すっかり冷めたハンバーグプレートを引き寄せて「これ旨そうだな」と感心している一颯を見ていたら、なんとなく。
「おまえ絶対末っ子だろ」
一颯は、きょとん、として、目玉焼きが乗ったハンバーグを口に運んだ。
「なんで分かったんだ?」
「分かるだろ。だって、わがままだし」
「……おまえには言われたくない」
苦々しく言われて、反論しようと「はあ!?」って声を出したところで。まあ、たしかに。それもそうかと笑った。
「そっちはどうなんだ?」一颯が首を傾げる。「家族の話したことないよな、オレたち」
「確かにそーね。おれは、真ん中っ子よ。三個下に弟がいて、七個上に姉」
「すげえ離れてんな。喧嘩とかしないの?」
「喧嘩? ……いや、しないかなあ。相手が悪いからね」
姉があれだから、いや、うーん、弟もあれだけど。両親が子育てよりも個人の人生を楽しむタイプだったし、小さいころから自由に育てられたせいで、家族だんらん仲良しみたいなイメージはない。なんなら親戚のほうが仲良しかもしれない。喧嘩するくらいなら口利かない方が楽だしな。
一颯に「ここはやっとけ」と言われた教科書のページをメモして、今日の勉強は終わり。ハンバーグを食べ終わった一颯は難しそうな日本史の資料集を楽しそうに読んでいた。何してんだろー、とぼうっと見ていたら視線に気がついた一颯に「これがオレの好きな歌を詠んだ人なんだけど、古今和歌集も選出されてて、それもまた……」とか言われて、生きてる世界が違うなあと思った。
「おれ日本史ぜんぜんわかんないよ」
「選択何にしたんだ?」
「地理」
「マジか」
そういえば一颯は四組だから文系だったらしい。おれは理系だ。数学赤点なのに理系とか笑えないけど。
会計をして、店を出る。自転車を引きながら並んで歩いた。
ここの店は一颯の家のほうが近いので、二人で家の近くまでは行って、そこからおれはひとりで爆走して帰宅するのがいつものパターンだ。
「一颯は、あれだよね。お兄さんがいるんよね。二人?」
「そうだな」
長兄はイスタンブールでバイオリンの演奏家をしていて、次兄はトランペットでウィーンだかどこかの大学に通っているらしいと。スマホで調べれば出てくるんだから、ウィキペディアって便利だ。それよりかウィキペディアに兄の名前が普通に乗っているという大前提がすごいんだけど。当の本人も着々とウィキさんのページの長さを増やしているみたいだし。
ていうかそもそも母親がピアニストで、二人の兄がどっちもピアニストにはなってない時点ですごい才能だよな。
「どっちも結婚の話が出てる」
「え、早くない?」
「音楽家は基本的に頭がおかしくて人と一緒に生きていける人種じゃないから、機会が巡ってきたときにこれ幸い、身を固めないと天涯孤独も良くある」
「急にすごい辛辣じゃん」
「……そうか?」
すごいブーメランになりそうだよ、と思ったけれどおれは賢いので言わなかった。たしかに一颯も頭がおかしいから。あとおれへのブーメランにもなる。
一颯は、ぼうっと前を見つめている。家族のことに思いを馳せているのかな、と思った。
彼の長兄、次兄はどちらも父親が違う。アララキマユミが大学生のときに産んだのが長兄で、一度目の結婚のときの子が次兄、それで最後に国内の指揮者と結婚したときの子が一颯だ。たしか、その人とももう離婚はしているはず。それだから一颯もこっちに移り住んできたのだろう。
おれの家庭は一般家庭で、まあ内情は趣味に没頭する両親を筆頭にまとまりも愛情もあんまりない、友だちの集まりみたいな家族だけど、それでもふつうの家だ。
居心地が悪くて、なにを話せばいいのか、話さないほうがいいのか分からなくて押し黙った。
「しゃべってて面白くない、音楽ばっかりでつまんない、言ってること意味わかんない」
――は……?
「え、急に何?」
「今までフラれたときの理由トップスリー」
一颯がとぼけた表情(これももちろん真顔である)で言った。おれはぎゅっと目をつぶって、細くため息を吐いた。マジか、コイツ。感傷的な感じとかないのか、元カノのこと考えてたのか。そっか……。いっそもうどうでもよくなってしまって、当てつけのように「どんな子?」と尋ねた。
一颯はそこから少し黙って、口を開いたかと思えば「あんまり覚えてないな」と答えた。最低すぎる。
「可愛い系とか、きれい系とか」
「うーん……あんまり顔のイメージがないんだよな」
「ヤバ、おれもしかして知らない間にクソ野郎とつるんでたかもしれない」
「へえ。誰のことだ?」
「おまえのことだよ」
またカッ! と目を開くから、もうそろそろこのくだりやめたいなと思いつつツボに入ってしまって笑いが止まらなかった。
「なんか、違う情報ないの」
「うーん……シューベルトの楽興の時第3番、とか」
「また始まったな」
そう言われると、脳内でこんな感じだったな、という音が流れてくる。
この癖やめたいけど、どうしようもならないんだよなあ。
「……軽快で穏やかに見えるけど実は奥が深いみたいな?」
「すげえ。合ってる」
「おまえ本当に、しゃべってて面白くないし音楽ばっかりだし言ってる意味が分からないね……」
「フラれた理由そのままじゃねえか……」
駄弁りながら歩いていると、もうすぐ一颯の家だ。
時間が合うたびに音楽室やらファミレスやらで会って、ピアノの練習をしたり勉強をしたりしているが、家に行ったことはなかった。ふつうの友だちならもう遊びに行っていると思うくらい仲良しなのになあ、と思って、まだおれが一颯に興味がないのかなあと思った。そんなわけないのにな。本能かな。
アララキマユミと住んでいると言っていたから、鉢合わせするのが怖いってのが一因だけど、絶対。
「ピアノが弾ける子と付き合ったらうまくいきそうだよな」
一颯が首を傾げるので、ほら、さっきの、と言うと、ああ、と頷いた。
「そうだな。弾けるだけじゃなくて、音楽のことに詳しかったらいいのかもな」
「えー、ピアノの神童・蘭一颯レベルでしょ? そんな子いんの?」
「うーん……おまえとか?」
「おれを勘定に入れるな」
出会ったときからなかなかヤバイ奴だとは思ってたけど、冗談でもキツイわ。「おまえおかしいんじゃないの」って笑い飛ばそうとして一颯を見たら、案外真剣な顔をしていて、声が喉の奥に引っ込んでいった。
……えっと、本当にそういう感じ……?
こういうときってどうフォローすればいいんだろ、と大焦りしながら頭をフル回転させていたら、じっとおれを見ていた一颯がノーマル装備を外して微笑んだ。
「ふふ、冗談だ」
「……おっまえさあああ……!!」
それは、ほんとうに、心臓に悪いよ!
恨めし気に言うおれに、一颯はまったく悪びれずに笑った。
「うちの兄貴が、ドイツに国籍移して同性婚するって言ってたからな、ちょっとからかってみたくなって」
「おっ、まえさ! だからさあ! そういうのはこういう時にぽろっと言うんじゃないのよ!!」
「そうなのか?」
「そうなの!!」
憤るおれにまったく関心を持たない一颯はおれのほうを見もせずに、のほほん、と「紹介したい人いるって言われて行ったら、サングラスかけた屈強な男がいたからな、闇金に手ぇ出したのかと思った……」と言った。
え、なにそれなにそれめちゃくちゃ気になる話あるじゃん。
聞こうとしたけれど、もう家の目の前についてしまった。一颯が、ひらひら、と手を振る。
「じゃあ、また明日な。蓮」
「……ん……」おれはむっとして返事をした。
結構興味をそそられてしまったのが悔しい。明日か明後日か明々後日か、いつでもいいけど、その話絶対に聞いてやるんだ。
肩にかけていたバッグをかごに入れて、ペダルに座った。
「じゃね」
「ん、じゃあな」
バイバイ。と手を振って、自転車を漕ぎだした。
突き当りの角まできて、気まぐれで、振りかえったら、まだ外に一颯が立っていた。こっちを見ているらしい。最後に大きく手を振ったら、あっちも暗がりの中で見えるくらい手を振り返してくれた。
「えー、すごい、かわいいじゃん」
ぽろりと漏れた独り言に自分が一番びっくりして、口を覆う。
……まあ、たしかに、一颯って犬系だもんね……。
おれは一颯と、例にもれずファミレスに来ていた。ちなみに、前の店は前回同級生と会ってめちゃくちゃに気まずい思いをしたので、ちょっと遠出をした。一颯はなんにも気にしてなかったけど。なんかちがうのよね。
ファミレスに行こうと言うと、「おまえ集中できんのか?」とナチュラルに煽ってきた一颯に、まあ、まんまと煽られて、来店してから一時間と十五分、おれは無言で解いていた問題集をぱたりと閉めた。
「うーん……!」
首と腕を伸ばす。うーわ、すっごい疲労感。
目だけをこっちに向けて、一颯が「終わったか?」とまろいテノールで言った。うん、と頷くと、一颯もそこで教科書を閉じてしまった。
「え、いいの」
「軽い復習だから大丈夫だ。で、今回はどこがだめそうだった?」
「マジで助かる。階差なんだけど……」
指南をチラ見してもできなさそうな問題だけ聞くと、なるほど、と一度だけ頷いて、すぐにシャーペンを持った。
これはなんでこう変形した、と聞かれて、一応自分の考えを話すと、「そのやり方は間違いじゃないんだが、途中式がめちゃくちゃ複雑になるし、たぶんオレでも正確には答え出せない」と言われた。
「なるほど」
「今までやったやり方を組み合わせればいい。オレだったら、こっちの展開にしちゃう。楽だから。けど、たぶん定義通りに解きたいなら、はじめに……」
どうしてそこにそれを置くのか、なんでそう展開できるのかが分からなくてイチイチ考えてしまって進まないおれみたいな人間にはめちゃくちゃありがたい解説付きだ。
びっくりするくらいすっきり解法が入ってきて、そうか! と手を叩いた。
「で、これを文字でおいて展開して、代入ね?」
「そうだ。いけたな」
「いける、これはいける!」
意気揚々とルーズリーフに解法を書きつけていく。向かいに座った一颯はおれの手元をじっと見ている。ちょっとつまずくと、こっち、と低い声で間違いを指摘してくれた。なんとか自力で正答までたどり着いて、「いけた!」と手を叩くと、合わせて一颯も小さく拍手した。
「ヤマは張ったし、これで合格点はとれると思うよ」
「うわーん、ありがとう、マジでありがとうな」
一颯は、きれいに整ったアーモンド形の目をきゅっと細めて笑った。ゆるく首を振る。なにがちがうんだろう?
「こちらこそだよ。めちゃくちゃ楽しみにしてるから、ピアノ」
「……うーわー、ノンデリだよなほんと……」
「えっ」
ずっと表情が変わらない真顔のくせに、カッと目が開くから笑ってしまう。めちゃくちゃショック受けてるじゃん。
ケラケラ笑いながら腹を抱えていると、やっぱりなにがノンデリだったのか分からなかったらしい、一颯がとぼけた顔で「でも、楽しみなのは本当だからな……」とまるっきり困惑した声で小さく呟いた。クソ、おもしれえなコイツ。
今から二週間前、おれは伴奏者選考を突破して、無事に三組の発表で伴奏者としてピアノを弾くことになった。音楽選択で、クラスの大半がピアノを弾けるなかで、授業のときだってずっと「おれは弾かないよ?」とピアノを避けてきたおれが突破したものだからびくりされたのは言うまでもない。
ピアノが弾けない数少ない仲間だった戸佐には「弾けるなら言えよ!?」と半ギレで詰められたし、堺には抑揚のない声で「オメデトウ」と言われた。
「それ本当に喜んでる?」
「タイへんめでタイ」ぱちぱち、と拍手。
「うっっっざ」
堺だって高校一年部門県予選一位突破の実力者のくせに、と睨んでみたが真顔で凄まれた。キマってんの目が。
一颯にいたっては、選考もせずに満場一致で伴奏者が決まったらしい。たしかにおれでも全国トップレベルのピアニストと伴奏選考をする勇気はない。
――それと、勝負しろって言われてんだからな、おれは……。
誰か事情を知っている人がいたら可哀想だなと思うだろう。おれのことを。三年前の勝負のリベンジしてえとか言われてんだからな。まあもう別にいいけど。
勝つ気はしてないけど、負けるつもりもないから。
教科書やらをバッグにすべてしまって、すっかり冷めたハンバーグプレートを引き寄せて「これ旨そうだな」と感心している一颯を見ていたら、なんとなく。
「おまえ絶対末っ子だろ」
一颯は、きょとん、として、目玉焼きが乗ったハンバーグを口に運んだ。
「なんで分かったんだ?」
「分かるだろ。だって、わがままだし」
「……おまえには言われたくない」
苦々しく言われて、反論しようと「はあ!?」って声を出したところで。まあ、たしかに。それもそうかと笑った。
「そっちはどうなんだ?」一颯が首を傾げる。「家族の話したことないよな、オレたち」
「確かにそーね。おれは、真ん中っ子よ。三個下に弟がいて、七個上に姉」
「すげえ離れてんな。喧嘩とかしないの?」
「喧嘩? ……いや、しないかなあ。相手が悪いからね」
姉があれだから、いや、うーん、弟もあれだけど。両親が子育てよりも個人の人生を楽しむタイプだったし、小さいころから自由に育てられたせいで、家族だんらん仲良しみたいなイメージはない。なんなら親戚のほうが仲良しかもしれない。喧嘩するくらいなら口利かない方が楽だしな。
一颯に「ここはやっとけ」と言われた教科書のページをメモして、今日の勉強は終わり。ハンバーグを食べ終わった一颯は難しそうな日本史の資料集を楽しそうに読んでいた。何してんだろー、とぼうっと見ていたら視線に気がついた一颯に「これがオレの好きな歌を詠んだ人なんだけど、古今和歌集も選出されてて、それもまた……」とか言われて、生きてる世界が違うなあと思った。
「おれ日本史ぜんぜんわかんないよ」
「選択何にしたんだ?」
「地理」
「マジか」
そういえば一颯は四組だから文系だったらしい。おれは理系だ。数学赤点なのに理系とか笑えないけど。
会計をして、店を出る。自転車を引きながら並んで歩いた。
ここの店は一颯の家のほうが近いので、二人で家の近くまでは行って、そこからおれはひとりで爆走して帰宅するのがいつものパターンだ。
「一颯は、あれだよね。お兄さんがいるんよね。二人?」
「そうだな」
長兄はイスタンブールでバイオリンの演奏家をしていて、次兄はトランペットでウィーンだかどこかの大学に通っているらしいと。スマホで調べれば出てくるんだから、ウィキペディアって便利だ。それよりかウィキペディアに兄の名前が普通に乗っているという大前提がすごいんだけど。当の本人も着々とウィキさんのページの長さを増やしているみたいだし。
ていうかそもそも母親がピアニストで、二人の兄がどっちもピアニストにはなってない時点ですごい才能だよな。
「どっちも結婚の話が出てる」
「え、早くない?」
「音楽家は基本的に頭がおかしくて人と一緒に生きていける人種じゃないから、機会が巡ってきたときにこれ幸い、身を固めないと天涯孤独も良くある」
「急にすごい辛辣じゃん」
「……そうか?」
すごいブーメランになりそうだよ、と思ったけれどおれは賢いので言わなかった。たしかに一颯も頭がおかしいから。あとおれへのブーメランにもなる。
一颯は、ぼうっと前を見つめている。家族のことに思いを馳せているのかな、と思った。
彼の長兄、次兄はどちらも父親が違う。アララキマユミが大学生のときに産んだのが長兄で、一度目の結婚のときの子が次兄、それで最後に国内の指揮者と結婚したときの子が一颯だ。たしか、その人とももう離婚はしているはず。それだから一颯もこっちに移り住んできたのだろう。
おれの家庭は一般家庭で、まあ内情は趣味に没頭する両親を筆頭にまとまりも愛情もあんまりない、友だちの集まりみたいな家族だけど、それでもふつうの家だ。
居心地が悪くて、なにを話せばいいのか、話さないほうがいいのか分からなくて押し黙った。
「しゃべってて面白くない、音楽ばっかりでつまんない、言ってること意味わかんない」
――は……?
「え、急に何?」
「今までフラれたときの理由トップスリー」
一颯がとぼけた表情(これももちろん真顔である)で言った。おれはぎゅっと目をつぶって、細くため息を吐いた。マジか、コイツ。感傷的な感じとかないのか、元カノのこと考えてたのか。そっか……。いっそもうどうでもよくなってしまって、当てつけのように「どんな子?」と尋ねた。
一颯はそこから少し黙って、口を開いたかと思えば「あんまり覚えてないな」と答えた。最低すぎる。
「可愛い系とか、きれい系とか」
「うーん……あんまり顔のイメージがないんだよな」
「ヤバ、おれもしかして知らない間にクソ野郎とつるんでたかもしれない」
「へえ。誰のことだ?」
「おまえのことだよ」
またカッ! と目を開くから、もうそろそろこのくだりやめたいなと思いつつツボに入ってしまって笑いが止まらなかった。
「なんか、違う情報ないの」
「うーん……シューベルトの楽興の時第3番、とか」
「また始まったな」
そう言われると、脳内でこんな感じだったな、という音が流れてくる。
この癖やめたいけど、どうしようもならないんだよなあ。
「……軽快で穏やかに見えるけど実は奥が深いみたいな?」
「すげえ。合ってる」
「おまえ本当に、しゃべってて面白くないし音楽ばっかりだし言ってる意味が分からないね……」
「フラれた理由そのままじゃねえか……」
駄弁りながら歩いていると、もうすぐ一颯の家だ。
時間が合うたびに音楽室やらファミレスやらで会って、ピアノの練習をしたり勉強をしたりしているが、家に行ったことはなかった。ふつうの友だちならもう遊びに行っていると思うくらい仲良しなのになあ、と思って、まだおれが一颯に興味がないのかなあと思った。そんなわけないのにな。本能かな。
アララキマユミと住んでいると言っていたから、鉢合わせするのが怖いってのが一因だけど、絶対。
「ピアノが弾ける子と付き合ったらうまくいきそうだよな」
一颯が首を傾げるので、ほら、さっきの、と言うと、ああ、と頷いた。
「そうだな。弾けるだけじゃなくて、音楽のことに詳しかったらいいのかもな」
「えー、ピアノの神童・蘭一颯レベルでしょ? そんな子いんの?」
「うーん……おまえとか?」
「おれを勘定に入れるな」
出会ったときからなかなかヤバイ奴だとは思ってたけど、冗談でもキツイわ。「おまえおかしいんじゃないの」って笑い飛ばそうとして一颯を見たら、案外真剣な顔をしていて、声が喉の奥に引っ込んでいった。
……えっと、本当にそういう感じ……?
こういうときってどうフォローすればいいんだろ、と大焦りしながら頭をフル回転させていたら、じっとおれを見ていた一颯がノーマル装備を外して微笑んだ。
「ふふ、冗談だ」
「……おっまえさあああ……!!」
それは、ほんとうに、心臓に悪いよ!
恨めし気に言うおれに、一颯はまったく悪びれずに笑った。
「うちの兄貴が、ドイツに国籍移して同性婚するって言ってたからな、ちょっとからかってみたくなって」
「おっ、まえさ! だからさあ! そういうのはこういう時にぽろっと言うんじゃないのよ!!」
「そうなのか?」
「そうなの!!」
憤るおれにまったく関心を持たない一颯はおれのほうを見もせずに、のほほん、と「紹介したい人いるって言われて行ったら、サングラスかけた屈強な男がいたからな、闇金に手ぇ出したのかと思った……」と言った。
え、なにそれなにそれめちゃくちゃ気になる話あるじゃん。
聞こうとしたけれど、もう家の目の前についてしまった。一颯が、ひらひら、と手を振る。
「じゃあ、また明日な。蓮」
「……ん……」おれはむっとして返事をした。
結構興味をそそられてしまったのが悔しい。明日か明後日か明々後日か、いつでもいいけど、その話絶対に聞いてやるんだ。
肩にかけていたバッグをかごに入れて、ペダルに座った。
「じゃね」
「ん、じゃあな」
バイバイ。と手を振って、自転車を漕ぎだした。
突き当りの角まできて、気まぐれで、振りかえったら、まだ外に一颯が立っていた。こっちを見ているらしい。最後に大きく手を振ったら、あっちも暗がりの中で見えるくらい手を振り返してくれた。
「えー、すごい、かわいいじゃん」
ぽろりと漏れた独り言に自分が一番びっくりして、口を覆う。
……まあ、たしかに、一颯って犬系だもんね……。

