アンコールはこのあとで

「二名様ですか」と店員さんに聞かれて頷くと、窓際のファミリー席に案内された。「お、やったー」と言いつつバッグを奥に置いた。隅ってなんかテンション上がる。絶妙な時間帯なのがよかったらしい。
 一颯は無言でおれと同じように荷物を下ろした。
 早速メニューを開いて、ちょっと他のにしようかな、と思いつつ、やっぱりいつも通りピザとドリンクバーを頼むことに決める。向かいに座った一颯も同じようにメニューを見ているけれど。なんか表情おかしくないか。
 ねえ、と手をひらひらさせたら、真顔がこっちを見る。
「決まった?」
「……何を選べばいいんだ……?」
「……いや……好きなのを、選べよ……」
 絶望的な表情をしている一颯がクソ面白くてずっと笑ってたらさすがに怒られた。だからイケメン怖いって。
 お兄ちゃんが選んであげるよ、って、男子高校生なら絶対に好きだろうハンバーグを飛ばしてドリアを頼んだ。ドリンクバーもセットで。ドリンクバーも使ったことがないという一颯に使い方を教えながら二人分のジュースを席に持っていく。
「……てことで、これから勉強教えてください。ピアノは弾くんで」
 一颯は、ジンジャエールを飲む姿勢のまま、視線だけをおれに寄越した。なにかを言いたそうに口をもぞもぞさせて、やっぱりやめて、ううん、と呻る。なに、と聞いたら、コップを置いて指を組んだ。
 バスにまで届きそうな低い声で、
「……いいのか?」
 やっぱり不安だと声が低くなるらしい。
「おれがピアノ弾けば教えてくれるんでしょ?」
「……まあ、そうだけど……」
 また微妙な顔をしている一颯の膝を蹴る。「うお!」って聞いたことのない声が出てきてびっくりした。コイツもこういう反応すんだ。ちょっとおもしろいかも。堪えきれずに笑った。一颯は一気にへそを曲げて、「急にやめろよ」ってちょっと怒ってる。さらにゲラゲラ笑った。
 料理を待つ間に、ちょっと話そうよ、って肩をすくめてみせる。――ずっと聞きたかったことがあった。

「なんでおれなの」

 蘭一颯の演奏を聞いた。ちょうど去年のショパン国際ピアノコンクールだった。一次予選の映像。たぶん最年少レベルでの出場だと思う。不思議なことに、あれほどピアノに必死だったころの悔しさも優越感も、なんにも感じなかった。
 感じたのは、全身の血が湧きたつような興奮と、歓喜。
 耳から伝わる音の一つ一つに脳みそが酔った。美しさに負けない、その旋律に載せられて浮かんでくる情景の、壮大さと、雄弁さ。この音楽を、彼が紡ぐ旋律をこの耳で聴けることへの果てしない幸福。
 ――すごいピアニストがいるのだと思った。
 それが、紛れもなく、おれの目の前に座っている男だ。どれだけ音楽を愛し、音楽を人生の軸に据えているのか分かる。そうじゃなければあんな音は出せない。真摯にピアノに向き合ってきたものだけが許された音楽の境地。
 だから、なおさら。
 ……なんでおれ?
 たしかに、おれはこの男に一度勝った。けれども、今は見る影もない。ピアノなんてしばらく弾いていない。ひどい音だと思う。ろくに戦えるようになれるとは思わないし、負け戦に挑むほどおれもバカじゃない。
 それは、コイツも、知っているはずだ。
 一颯はすっとした真顔だ。表情は変わらず、ふっと、首を傾げる。
「おまえだから?」
 おいおい。
「ほんとに話通じないな。そこを説明しろって言ってんの!」
「必要か?」
「……ッうん!!」
 やけくそで叫んだ。
 何が何だか、まったくピンときていないらしい一颯がぼんやりとしながら視線を虚空に投げた。考えているときの顔だ。
 ピンときてないのはこっちだわばーか。
 一颯はうすいジンジャーエールを二口飲んで、とん、とん、と右手でなにかの音階を叩いた。
「もう一度、聴きたいのかもしれない」
 それは、おれの演奏を、という意味だろう。まあ、それはそうだろうな、と頷いて、マイペースにジンジャーエールを飲んでいる一颯をじっと見る。
 え?
「え、それだけ?」
「それ以外に理由あんのか」
「なんでおれがおかしいみたいになってんだよその顔やめろ」
 素っ頓狂にとぼける一颯。クソ、顔がいいな。
「言いたくないけどさあ、おれはもうしばらくピアノとか弾いてないし、お世辞でもきみに聴かせられるようなものじゃないわけよ」
「……負けんのが怖いのか?」
「息をするように煽るのやめようね?」
 はああ、と大きなため息をついたところで、2人分の料理が運ばれてきた。うまそうなドリアとピザだ。
 ありがとーございまーす、とお礼を言って、カトラリーを一颯に渡す。不思議そうに料理を見ている一颯を横目に、ピザをロールカッターで六等分にした。
 おまえはおれの演奏か聞きたいのね。それに特に理由はないのね、分かったよ。
 大した理由ももらえないまま負け戦に挑むことになってしまった。
 まあそれも一興か、と思ってもちもちしたピザを一切れ口に運んだ。生地が絶妙だ。トッピングのマヨコーンも最高。空腹でどうにかなりそうだったお腹が満たされていく。何も言わないまま二切れ目を飲み込み、三切れ目を引き寄せた。さすがに早すぎるかな。粉っぽさにまみれた指先をおしぼりで拭く。
 一颯は熱そうなドリアをゆっくり息で冷ましながら、ちらりとおれを見た。ばっちり目が合う。どきりとした。
「……ど、美味しい?」
「まだ食べてない」
「今の時間何してたんだよ」
「冷ましてた」
「もういけるだろ」
「まだ」
 極端な猫舌だな。
 穏やかな顔で首を振った一颯は、最後にふうふうしてから、湯気もないドリアを一口運んだ。ぱちり、と大きな目が瞬き。
「お、美味しい」
「美味しい? いけてる?」
「こういうのもいいな。サフランライスじゃなくてもうまい」
「なんて??」
 サフランライスについて説明してくれようとしたが、いかんせんおれと彼とじゃ持っている知識の量も語彙も違い過ぎてまったくピンとこなかった。サフランっていう植物のなにかとブイヨンとで米を炊いた黄色いやつらしい。
 なんとなく、中学の時に給食で出てきた黄色い米を思い出す。あれってサフランじゃねぇよな……。
「負けたのがはじめてだったんだ」
 一颯はぱくりとドリアをもう一口食べた。「んえ?」と相槌ともつかない疑問符を返す。急に話が飛んだな。あわてて脈絡を巻き戻しながら、彼が話しているところまで戻る、よりも先に続きが話されていく。
「悔しいと思ったのもはじめてだった。負けた、勝てないって思った。おまえだけだ」
「今何の話してる?」
 おれがタンマ、と両手でTの字をつくると、一颯はきょとんと惚けた。
「ピアノの話だろ?」
「あ、そこの話ねぇ!?」
 ギャンッと吠える。一颯の形のいい眉がゆっくり、きゅっと寄った。なに当たり前のことを、みたいな顔やめてください。意外と分かりやすいんだからなお前。
 胸を左手でおさえて、うう、と唸りつつピザを口に入れた。チーズが冷えてかたまっている。勿体ないことしたな。
 一颯はマイペースにドリアを食べながら、ぽつぽつと口を開いた。
「色々と言われてたみたいだけど、おまえが、解釈を広げた自由な演奏をしたから、オレも倣って解釈を色々と変えることができた。おまえと一緒で、もちろん、酷評されることもあったけど、長く続けていればそれが『アララキイブキ』の味だと受け入れられるようになってきた」
 まろいテノールが歌うように紡ぐ言葉は、なんだか現実味がない。おれは視線を下げて一颯の手がドリアをきれいに切り崩していくのを見つめていた。顔があげられない。
 だって、おれは、もう逃げた側だから。
 目の前に座る男は、たぶん、今アジアでもっとも期待されている若いピアニストだ。天才と言われた男。親の七光りだなんて声を一蹴し、実力で世界と戦う音楽家。
 ――こんな奴と戦えだって?
「だから、そこに、オレと戦うなかに、おまえがいないのが悔しいんだ。オレにとって、おまえのピアノは未だになんつうか」
 一颯は言葉を切って、沈黙を埋めるようにドリアを大きく頬張った。
 おれの顔を見て、不器用にふるえる声で「一口食うか」と聞かれた。おれはゆっくり首を振る。半楕円に歯型がついた食べかけの三切れ目を持ちあげて、咀嚼した。
「……だから、もうピアノをやめたおれと勝負して勝ちたいって話なんだろ」
「そうだ」
「頭おかしいだろお前」
「ちげえ」
 いや、マジで、絶対にコイツが一番おかしいだろ。ちらりと顔を見る。真剣だ。からかいもためらいもない。
 ……本当に、おれのピアノが好きだったんだろうな。
 おれはもう絆されているのも分かっていて、はあ、と小さくため息をついて、いいよ、と答えた。雄弁な顔がぱあっと輝いた。――が、すぐに翳りを帯びた。テノールが音を深く落とし、バスにまで届きそうな、重厚な音になる。
「聞いておきたいことがあるんだ」
 一颯はスプーンを置いて、おれの顔をまっすぐに見た。その目を見返す。ぎゅっと強く目を瞑ってから、開いた。
「……オレのせいか」
 おれは、一颯の表情を見て、傷ついていないことを確認してから、うーん、と目を逸らした。
「どうだろうね、まあ別に、おまえのせいじゃないと思うよ」
 そうだ、と頷けば、たしかにこの男のせいでもあるのだろう。一因はあるのかもしれない。おれには才能がない、この世界に味方はいない、実力だけでは生きていけないと痛いくらいに分かってしまった。けれどもそれは、いずれ来る未来で必ず起こっていたことなんじゃないかなと思う。
 音楽は楽しかった。ピアノを弾くのも楽しかった。けど、そこまで。
 おれは音楽とともに生きていけるような人間の器じゃない。
 し、おれは一颯とは違って、音楽がなくたって生きていけると知ってしまった。
「……おれは、音楽が好きだけど、たぶん、音楽はおれのこと好きじゃない」
 女神様はおれには微笑まなかった。努力してもどこかで足を止めなくてはいけない時が来るのだと知っていたけど、好きだったからしがみついてしまった。
 で、女神様はおれを見捨てた。
 目の前に女神様のお気に入りみたいな、才能も実力も良い土台もあるピアニストがいたら、おれには無理だったんだって思うよ。そりゃ、当たり前じゃん。
 ――あんな演奏はさ、おれには……。
「才能がなかった。諦めた。音楽は好きだけど、傷口がぜんぜん癒えてくれないからもう一度傷付くのが怖くて、じゃあもうこっちから願い下げ、音楽なんて、ピアノなんて嫌いって思いたかった」
「……思いたかった?」
「思えなかった」
 みなまで言わせんな、と笑う。
「でもさ、おれ、音楽のことは好きでいたいわけ」
 一颯がちらりとおれを見る。
「おまえの演奏聞いて、うわすげえ、こんな風に弾けるようになりたかったなって思った。それってつまり、おれ、まだピアノのこと大好きじゃん」
 指先を一颯のほうに向けて、「もちろん、おまえのピアノもすげえ好き」と続ける。
「ピアノ弾いてなくても人生めっちゃ楽しいわけ。だからおれはそれで十分。でも、ピアノに夢中で、死ぬ気で練習してた時の自分認めてやりてえなって」
 言外にもうピアノを弾く気はないと言うと、一颯は分かりやすく落胆した。フォローには入らない。うっすらと笑って、ぬくもりだけ残したピザを指先でつまみ上げる。マヨコーンってやっぱり最高だな。
 あれからまあまあ時間も経った。音楽へのトラウマもだんだんと薄れてきて、ピアノを弾くのにたいした感動も気合も必要ではなくなった。たぶんこれを逃したら、おれは一生音楽をうっすらと嫌ったまま生きていくことになる。
 それが特段嫌だというわけじゃないけれど、二歳から十四歳までずっとピアノに向き合ってきた自分を認めて、その努力に報いてやるには、今なんだろうなと思った。
「音楽がなくても……そっか」
「あんまりピンときてなさそうだね」
「うん。ピアノより大切なものはあまり」
「化け物じゃん……」
「悪口か」
「褒めてるよ」
「……そっか」
 テノールはやわらかく微笑む。全然納得はしていないっぽいけど、理解はできたんだろう。おれは化け物じゃなかったけれど、おれたち二人、出会って、友だちになるくらいはできたんだからヨシとしよう。
 一颯は、スプーンを持って、くるりと回した。彼好みの温度になったらしいドリアを一口食べる。
「じゃあ、こーかんじょーけんだな」
「うん。そうだね」
 小指を差し出した。スプーンをもたない左手が伸びてきて、おれも代わりに左手を差し出す。
「じゃあ、ピアノ、弾いてくれ」
「ん。じゃあ、そっちはおれのこと数学の天才にしてよ」
「ハードル上がってねえか」
「ないない」
 指をじっと見つめられる。
 んー、なんだろ。すげえいやなこと考えられてる気がする。居心地が悪くなって、ぎゅ、と握ってはなした。途端にへちゃりと眉が下がって、その顔に、ブ! と吹き出した。
「どんな顔してんの!」
「……いや、この指で弾いてたのかって思うと、ちょっと、感動的で……」
「え、きっも」
 ようやく顔を上げた一颯は、ふふ、と笑った。