「なあ、一颯、おれたちって友だちだよな」
次の合唱コンクール委員会の打ち合わせが終わった瞬間。隣の男の手を掴んでそう問いかけたら、とぼけたような、なんにも考えていなさそうな真顔で首を傾げた。
「たぶん?」
耳ざわりのいい丸いテノールが、バスの音域に届きそうなくらい深い音になっている。
不安だとこうなるのか? と思いつつ、「たぶんってなんだよ」と肩を揺らした。案外がっしりとしていてびっくりした。たしかに誰かが、彼は運動部だと言っていたような気がする。
「……オレはそう思ってたけど、そっちがそうとは限らないなって思ってたんだ」
「え、なんでおれに委ねられてるの。友だちだと思ってたけど」
「……うん」
普通のことを言っただけなのに、一颯が明らかに嬉しそうに顔をほころばせるからなにも言えなくなった。美男子の笑顔は心臓に悪いというけれど本当なのかもしれない。
なんだその顔。クソ。
スクールバッグのなかから、散々だった数学の答案用紙を引っ張り出す。ざわめいていた人々はすでに去って、おれは人目を気にすることなく、ん、と押し付けた。一颯はそれを受け取って、首を傾げ、ぼんやりと中を見て、ぎょっと目を開いた。四コマ漫画が作れそうだ。
一颯は答案をじっと見てから、ゆっくりとおれにまなざしを向けた。
冷やかさまで感じるような真剣な目。おれもすっと背筋が伸びる。
「助けてください」
一颯はぱたんと答案を閉じる。そしてすぐにおれの手に返された。しわが寄った眉間を、曲げた人差し指と中指の関節でぐりぐり押している。
すごくすごく申し訳ない気持ちになって、あの、ムリそうならいいんだけど……と言ったら、ムリではねぇんだ、と強い口調で否定される。
一颯が目を開いて、その美しい黒目がおれのことをまっすぐに貫いた。
「……どこが、とかじゃなくて、ぜんぶ、分からないんだよな」
「ウッ」
無自覚で発せられるナイフはなかなかすごい威力。
「どうした」
「ごめん……なんか、精神的なダメージがすごいきた今」
「今更か? 点数見たときが一番だろ」
「ウッ……」
胸を押さえて二歩後ずさるおれに、一颯がぼんやりと首を捻った。
「おっしゃる通りですけど、友だちには優しくして! もうちょっとオブラート!」
「お、ビブラート?」
「ちがう!」
勢いよくツッコんでから、友だちにビブラートってどういう意味だよ、と思ったら、相手も同じことを思ったらしく、もう一度真顔で「友だちだからビブラートってなんだ?」と聞かれた。だからちげえよ。話を聞け。
一颯は、うーん、と顎に手を当ててなにかを思案してから、おれのほうを見た。心なしかあの、目がきらきらしているような……?
「じゃあ、一発で追試合格させてやるから、代わりに」
――ピアノ、ひいてくれ。
言葉を失うおれを前に、一颯は嬉々として続けた。
「オレはあのとき、本当に負けたと思ったんだ。お前の演奏はすごかった。負けて仕方ねえって思った。おれはあれ以上に自由で高貴な演奏を知らない。一番だった。ほんとうに、最高だった」
あのとき、というのが、中学一年のコンクールを指しているのだろう。だから、と言葉を区切って、一颯はまっすぐにおれを見た。
おれは、この、畏れをしらない無垢な目が、ちょっと怖い。
名だたる音楽家からひどくののしられたおれの演奏を、『最高だった』と言ってしまえるところも。じわり、と目頭が熱くなる。ちょっと泣きそうだ。
「だから、リベンジマッチ、してえ」
彼の言葉が信じられなくて、恐る恐る、尋ねる。
「本気か?」
「うん」
まっすぐに見つめ返された。
――マジかよ……。
おまえはおれを認めてくれるのか、と嬉しくなる半面、性格の悪い自分が顔を出す。
おれが音楽を諦めるきっかけになったとき、コイツは二位で、銀賞で、金賞をとったおれがどの学校からも推薦をもらえないなかで、コイツはそれでも母親のコネでまだ音楽を続けていられる。
……いや、だめだ、この思考。
彼の実力は確かだから、未だに音楽を続けて賞をもらっているんだろう。コネとか派閥とかはその一因に過ぎない。おれが恨むところじゃない。
おれが音楽をやめたのに、コイツはまったく、関係ない。……はずなのに、なのに、どうして。
――どうして、おれはこんなに傷ついているのだろう?
怒りと哀しみとでない交ぜになった心が悲鳴をあげている。
おれは、あの日、あの賞で、それはもう痛烈に批判された。
ショパンへのリスペクトを感じない、自己中心的な演奏、技術は成熟しているが解釈が成熟していない、だの。なにがなんでもおれをこき下ろしたかったのだろう。一度は光ある賞をもらったというのに、おれの手元に残ったのは、音楽とは、たしかに、誰かのためのものではなく、何のためでもないのだという無力感だった。
でも、冷静な自分が、言う。おれが音楽をやめたのは、おれが音楽を嫌いになったからでも、音楽の才能があったからでもない。ただ怖かった。
「……おれは」
自分の演奏が、取るに足らないちっぽけなものであると言われてしまうことが、怖かった。こうしておれのことを、おれの演奏を良かったと認めてくれるおまえみたいな人たちを裏切るようになったら。
耳元で鮮やかに幻想即興曲が蘇る。
「――おまえに、もう、勝ちたくない」
おれは、そのためのアンコールなら、いらない。
「だからごめんな、ムリかも」
へらりと笑ってみせた。明るく、心を悟られないようにしたはずだった。
一颯が目を瞠る。
タイミングがいいのか悪いのか、キーンコーンカーンコーン、とチャイムが鳴った。ド・ミ・ソ・オクターブ上ド。時計を見たら、ホームルームが開始される時間だ。委員会のあとだから遅刻を責められることはないが。
一颯は何も言わなかった。
だから、おれも、言いたいことは多くあったけれど、何も言えなかった。
二人そろって、無言で荷物を片付け、消灯する。
廊下を並んで歩き、おれが三組のドアに入るところで、ふと腕を引かれた。教室のなかにいた戸佐と目が合った。振り返ると、一颯がおれの目をじっと見て、そっと睫毛を伏せた。
「……ごめん」
丸いテノールがゆらいでいる。
その他の人間でも見たことがないくらい悲痛な顔をした一颯は、そうとだけ言うと、おれの言葉を待たずに、さっさと四組のほうに行ってしまった。
なんで、おまえが、そんな顔をするんだ。
「……おれの台詞だろーが、クソ」
独り言が廊下に響くことなく、消えていく。中から担任が近づいてきて、「どうした?」と聞かれたが、すんませんぼーっとしてました、と笑って、へらへらしながら教室に入った。
幻想即興曲が流れたまま止まらない。
気が抜けたおれの顔を見て「なんかすごく顔がヘン」と言い放った堺にツッコむ気も起きず、よろよろと意識がないまま家に帰ってベッドに潜り込んでから、ああ、悪いことをしたなあと思った。
まあ、軽く、罪悪感を煽らない程度に謝ろうとスマホを手に取ったところで、アイツの連絡先を知らない。メッセージなんて送れるわけないじゃんか。
ぐううと唸ってスマホをぶん投げた。四肢をベッドに投げ出して目を覆う。
「もっと、こう、良い言い方さあ、おれ!」
できたはずなのに。
もっとアイツを傷つけない方法で、いつもと同じように笑い飛ばすことだって。
――『最高だった』
「……いや……」
ぱたりと、動きが止まる。
おれの演奏にそう言い放った、アイツの、目がきらきらとして、丸いテノールが上擦って、つんとした刺々しい男があんな、子どもみたいな。
「……なんつー、かお、してんだってさぁ」
目を覆ったまま、はあああ、と大きくため息をついた。玄関の方からバタバタと弟が帰ってきた音が聞こえてくる。
どうしようかね。小野蓮さん。
考えあぐねていた、ふと、そのときに、戸佐がなんともなしに言った言葉が蘇った。
『お前あいつに興味ねえよな』
たしかに。おれはアイツの何も知らない。それにアイツもおれのことなんてろくに知らない。友だちのくせに? いや友だちではないけどさ!
「……んー、思い立ったが吉日だし」
放り投げたせいでどっかに行っていたスマホを机の下から見つけ出して、動画サイトで検索をかける。『蘭一颯』と。
アイツがおれの何も知らないなら、おれがアイツを知ることから始めれば良い。ぐるぐると回っていた画面は、見慣れた男がピアノを弾くサムネイルをいくつか表示した。
「お、やっぱあるんだ」
適当に一番上の動画をタップする。広告が流れている間にイヤホンを耳につけた。
「まあ、おれは良い感じのオトモダチを失いたくないだけ〜」
あ、友だちじゃない、と呟いて一人で笑う。広告をスキップして、拍手ののちに、画面の男がピアノを弾き始めた瞬間。
――全身が震え上がって、ああ、これは!
「一颯」
打ち合わせが終わり、おれのほうを一瞥もせずに帰ろうとする男の腕を掴む。
はじめの感じの悪さを思い出して、なんだよ、と言われるかと思ったが予想に反して一颯はかなしそうに眉を下げておれを見た。見たことのない表情に胸がぎゅっとなる。
唇を噛んで、意を決して「話がある」と言うと、一颯は表情を変えないまま小さく頷いた。おれはほっと安堵のため息をついて、彼の腕を離した。一颯が所在なさげにそこをさすっているのを見てちょっと申し訳なくなる。そこまで強く掴んでいなかったつもりなんだけど。
「放課後、いつあいてる?」
「……今日、かな。たまたま、レッスンがない」
レッスン、のところで言いづらそうに顔を歪める。そんなことしなくていいのに、と思いつつ、おれはあえて明るく笑った。
「すげえラッキー。おれも今日は部活休めるし行けるよ。じゃあ放課後、迎えに行くから」
一颯は、迷ったようにおれの顔を見て、黒目のふちがよく見える透けた目で「ん」と小さく頷いた。

