アンコールはこのあとで

「これ、おまえの?」
 すっと目の前に差し出された音楽の教科書。意味が分からなくて、え? と聞き返した。おれの目の前に立っている男はにこりともせずに、不愛想なままもう一度「これ、おまえのか」と同じことを繰り返した。
 月曜日、放課後。これからバイトに行って、終わったら塾に行くところ。
 『あらいぶ』が、おれの前に仁王立ちしている。
 おれは靴を履き替える途中で、中途半端に片足だけ外履き、もう片方は上履きを履いている間抜けな格好だ。
 一緒に帰ろうと声をかけた堺はおれが『あらいぶ』に絡まれるなりそそくさと一人で帰ってしまった。あいつは目立つやつとはあまり関わらないから当然なのだが。ちょっとは気にしてくれてもよくない?
「……えーっ、と……?」
 『あらいぶ』はおれに教科書を差し出したまま微動だにしない。ううん、おれはおれの教科書を持っているわけだし、それは今ロッカーにあるし、そんなわけはないんだけど。
 きれいな顔に載った涼やかな目がおれを見つめる。
 記憶が蘇るのは、最後にこいつと会ったとき……。
 あ、と声を出した。最後に音楽の教科書を使ったとき、つまり、委員会のときにこいつも教科書を持っていた。取り違えたのかもしれない。
「もしかして、それ、おれの?」
 『あらいぶ』は小さく頷いた。
「だからそう言ってる」
「んー、言ってはねえな」
 差し出された教科書を受け取ってひっくり返した。たしかに『小野蓮』の文字。はじめからそう言えばいいのに、と思いつつ、口には出さないでおいた。真顔で視線を落としている。
 見るからにコミュニケーションに問題があるタイプだ。
 解散の時間が昼休みの終了ギリギリで、音楽室に向かわなければいけないからと、慌ただしく荷物を絡めて出ていった。最後の方は音楽選択の人たちみんなでおれや『あらいぶ』の教科書を開いて、あれがいいんじゃない、これもいいんじゃない、この曲が好きで、と話して盛り上がっていたから、取り違えてしまったのだろう。「悪い、ありがとな」と言えば「別に」とぶっきらぼうに返される。
 ――扱いづれぇ……。
 ク、と片頬が勝手に苦笑いをつくるので、手でぎゅっと押さえた。あらいぶが首を傾げる。なんでもないと取り繕って、にこりと笑った。
「あー、ってことは、おれが今そっちの持ってるってことか」
 あらいぶは、そうだ、と柔らかいテノールで頷いた。おれはそっか、と相槌を打った。
 扱いずらいし、不愛想だし、自分他人に興味ありませんよってことを前面に押し出したような性格と態度。なれ合うつもりもないのだろう。さっさと用事を済ませよう。もう片方の足を外履きに履き替えて、とん、と爪先を床にたたきつける。
「次に音楽あるのいつ? 今必要?」
 あらいぶは、いや、と首を振って、おれが外に出るのを察知したみたいで、道を塞いでいた身体を横に寄せる。
「明日の三・四限にあるから、それまでに」
「分かった。じゃあ明日の朝、届けに行く。わざわざごめんね」
「うん。大丈夫」
 まろいテノールが、少し安堵を滲ませる。分かりやすい奴。イケメンってどんな表情してもかっこいいままなんだな、と思いつつ、もう時間がヤバいから足早に。じゃ、と手を上げて、歩き出した。
 まあ返ってくることはないだろうと期待もせずに横を通り過ぎたが、後ろから小さく、あのまろいテノールで「バイバイ」と聞こえてきた。
 どくん。心臓が鳴る。
 ――え?
 足を止めて振り向く。あらいぶはすでにおれに背を向けている。隣には、友人だろうか、同じくらいの背丈の男子生徒が「用事終わったー?」と肩を組んで、一緒にドアの向こうへと歩いていくのが見えた。
 ……なに?
 なんなんだ、あいつ。
 おれはため息をついた。あんなに関わりたくないと思っていたのに。うちの学年の王子サマ。ピアノが上手くて顔がよくて女子からもモテモテの、態度の悪いいけ好かない奴。
「あー、あいつがモテる理由分かっちゃったよ」
 おれは、ハハ、と苦笑して、その背中を見送った。ギャップ野郎め。

 翌日、おれは二年四組の扉を叩いた。中にいた女子生徒とばっちり目が合う。気まずい。あのぉ、と声をかけると、大きな目にじっと見つめられた。
 その目力に恐縮してしまう。やばい。なんか、うん。ごめんなさいね。
「あのー、『あらいぶ』っています?」
 恐る恐る声をかける。長い睫毛に囲まれた目が、ぱちり、と瞬いた。
「イブキくん?」
「ハイ」
「イブキくんに用があるの?」
「え、……はい」
「えウソほんと!?」
 それはどっちの反応だよ。
 え、なに、と顔を見つめ返していたら、後ろからぬっと近づいてきた手に肩を叩かれた。うお。びっくりした。振り向いたら、例のあらいぶが立っていた。ああよかった、と胸を撫でおろす。
 女子生徒は「えーきちゃった、残念」と言いつつへらへらと笑った。なんなんだ一体。
 あらいぶは、ぐっと眉を寄せて、両手でおれの肩を引き寄せる。よたよたともつれながらあらいぶに寄りかかった。少しだけ高い位置に肩がある。うわ、やだ、おれ身長負けてんの。
麗奈(れいな)さん、いい加減突っかかるのやめてくれるか」
「えー、いいじゃん、イブキくんのお友だち気になるもん!」
「……別にこいつは友だちじゃない」
 苦し紛れすぎる。し、仮にもこれから関わりがある人に向けてそれはどうなんだと思う。まあ、別にショックとかではない。おれもコイツとは仲良くできる気がしないので。
 真顔でそう返すあらいぶに、おれは苦々しく笑って、あはは、と取り繕うように腕のなかから抜け出す。戸佐といい、イケメンには面倒くさい女の子がつきものなのかよ。
 辟易しながら、手の中で丸く筒状にしていた教科書を開いて、両手で引き伸ばす。
 これを返しに来ただけなのに、目の前では美男美女が向き合って痴話げんかをしている。よそでやってくれ、とは、まあ思う。
「お友だちじゃないの!? ただでさえお友だち少ないのに!?」
「少なくない」
 ――絶対少ないだろ。
 言いかけて全力で喉の奥に押しとどめたおれを誰か褒めて欲しい。女の子も「えーっ、少ないじゃん。嘘つきよくないよ」と不遜に返している。
「別に嘘はついてない」
「えーっ、だってイブキくんのお友だちとか、いたらもっと噂になってるもん!」
「なんで俺の友だちが噂になるんだ?」
 なんなんだろ、神経が削られていく気がする。ここに長くいるのはよくない。早く帰ろう。うん。
 ううん、と低く呻るように咳ばらいをひとつ落とす。
 あらいぶがそれに気がついて、「あ、そうだな、教科書だよな」と言って両手を差し出した。
 ――両手……っ!
 まじで、こいつ、こういうところさ! ほんと!
 無駄に心臓がどくどくしている。少しまあるくカーブがかかってしまったのを隠し、反対側に反り返してから、渡す。
「……はい、どうぞ」
 断じて、育ちがよくてなにより、という意味ではない。ちょっとニュアンスが入ったかもしれないけど。
 あらいぶは、ぺらぺらと中身を見て、あ、と声を出した。
「そういえば、そうだ」
 び、とおれの胸のあたりを指さす。なにかついてるか、と思って両手でぺたぺた触ったがなにも異変はない。なんだ。どうした。困惑するおれをよそに、あらいぶは、じっと大きな黒目でおれのことを見る。
 じい、と顔が近づいてきて、無意識に後ずさった。
 なになに。マジで何。おれはお前と違って人気者なわけじゃないから、そういうの慣れてないんだって。そっちもそうかはしらないけどさ!
 真っ黒な据わった目で見つめられ、ぎっちり腕を掴まれる。痛い。
 最近の王子サマってみんなこういうオラオラ王様系なの? こわいよほんともう。廊下を突き破るような声量の堺の声が聞こえた。「バーナナー!!」じゃないんだよ、助けてくれなんなんだ。
 ジッと見つめてくるあらいぶのキレイなアーモンド形の目を、まっすぐに見つめ返した。こんなところでメンチ切られて怖じ気づくような男じゃないもん、おれは。
 ガンを飛ばすおれに構わず、こてん、と首を傾げたあらいぶが、一言。

「おまえ、中二の時、全日本学生音楽コンクール、出てなかったか」

「――え?」
 あらいぶが屈託のない目でおれを見て、そう言う。
 ぶわりと冷や汗が噴き出す。膝がわらった。
 期待してくれた先生にも、友だちにも、高校から出会ったやつらにも、誰にも言ってこなかった。この学校にいる人は誰もそれを知らないはずだ。
 なのに、――なんで、それを、おまえは知ってるんだ。
 言葉を失い、なにを返答すればいいのか分からず、まだ軋むくらいに腕を握りしめている男の手を振り払った。びりびりとしびれている。あらいぶが「あ、ごめん」と謝った。
 否定しないと。そんなこと知らない、って。
「……えー、っと、それ、おれじゃ、ないと思う」
 しどろもどろになる。女の子が「え、ナニナニ修羅場?」と言っている。
 あらいぶは、今まで見たことがないくらいに奇妙な顔をした。「何言ってんだお前」と言われたような気がした。表情が雄弁なので分かりやすい。
 人には、『不可侵領域』というものがあると思う。他人には絶対に触れてほしくなくて、自分でも時々、その存在を忘れてしまいたくなるくらい憎んで、目を当てることすらしたくないもの。
 おれの場合は音楽だ。ピアノだ。なにより、そのきっかけになったのは、中学校二年のときに取った全日本学生音楽コンクールの全国金賞だった。
『泥沼金賞』
 ――長く続くコンクールでも名を残す、プロの音楽界を巻き込んで全国が二分した、悪夢みたいな賞レースの年だ。
 おれはそこで金賞を取った。有名な音楽家の息子を抑え込み、学者が賛否両論を繰り広げる中で、輝かしい金だ。だが、しだいに賛否は後者のほうが多くなっていき、しだいに銀賞の方が実にふさわしいといった声まで出てきた。一度授与した賞は取り消せない。トロフィーも賞状も受け取ったが、意味はなかった。
 おれが金賞を取ったあの年は、地獄のような評価になった。不作の年。コネ。実力の伴わないガキ。耳を塞いでも聞こえてきた、あの時の大人たちの声。
 音楽界にもコネや派閥があってね、とは、ピアノ教室をやめにいったときに先生が言ったことだ。
「おまえ、金賞じゃなかったか」
「いやだから、おれじゃないよ、それ多分。おれピアノ弾けないし」
 ピアノ弾けない、の部分で、あらいぶの眉がぴくりと動いた。また目が据わっている。本気か、と低い声で訊ねられた。
 うお。なんだその気迫。
 びっくりして喉が引き攣ったが、へらりと笑って肩を竦めた。
「本気も何も、マジで弾けないから。ちっちゃい頃にフルートやってたくらいだよおれ」
「弾けないなんてことねえだろ」
 ――いや、口悪っ。
 輩かよ、と口の中だけで吐き捨てて、じとりと目の前の男をねめつける。態度だけじゃなくて口まで悪いのか、おまえ、一体こいつのなにがいいんだ世の中の女の子たち。
 きょとん、とした顔で見つめ返された。全然悪意がない。
 マジで顔と声の調子がまったく一致しない、怖い。不思議生命体すぎる。
「なあ、本当に、あいつじゃねえのか?」
「違うって、なんでそんな必死なの」
「必死じゃねえ」
「必死だろ」
「そこはどうでもいい。本当に身に覚えがないんだな?」
「いや警察官か、ありませんよ」
 ううん、と眉を寄せたあらいぶは、おれを見て、おれの爪先を見て、すっと息を短く吸った。目が据わっている。キマってるな。
「アララキマユミ、女性ピアニストだ。心当たりは?」
「……いや、まあ、聞いたことは、ある……」
 と、そこまで言ったところで、なにかがおかしいと気付く。
 あらいぶ。アララキイブキ。
 なにか見逃していたものが蘇ってくるような気がして、いつの間にかまた掴まれていた腕を振り払った。アララキ。蘭一颯。ぱちん、と点と点が繋がる。あのとき銀賞を取ったのは。たしか。そうだ。
『今回の銀賞受賞者は、音楽家であり日本を代表するピアニストでありますアララキマユミさまの……』
 アララキマユミの、息子。
「……おまえ、もしかして」
 おれの声に応えて、あらいぶがじっとおれの目を見つめてくる。きれいな顔だな。クソ、ムカつく。
 だって。そうじゃんか。
 アララキイブキって。
 ――ひゅっと心臓が冷えた。
 ああ、そうなんだ、すごいね、と笑い飛ばしてしまえば良いのにできなくて、きれいな顔をじっと見つめ返す。
 血圧が上がって心臓がバクバクする。おれはもうピアノなんて弾いていない。音楽もやめた。だから、そんなこと、おまえにどうこう言われる筋合いなんてない。
 ――そもそも、おれは、あんな賞を取らなければ、今頃。
「もしかしておまえ、あのとき、銀賞だった……?」
 あらいぶは、神様が鋭利な切先で切ったようにすっきりと開いた目でおれを見て、急に泣きそうな顔になった。
「そうだ」
 頭がまっしろになる。
 あ、やばい。やらかした! クソ!
 今ので絶対におれが金賞のやつだって認めたことになった。なにしてんだ、おれ。ああもう馬鹿。内心自分を罵るが、言った言葉は取り消せない。
「……ええ……」
 嘘だろ。嘘であってくれ。
 ばしん、と右手を目元に叩きつけて立ち尽くした。ちゃんと痛い。いてえよ。クソ。
 止まっていたはずの時間が、また動き出す。
 メトロノームにのせられて、耳元で鮮やかにショパンの幻想即興曲が蘇る。そうだ、おれはあのとき確かにこれを弾いて、こいつに勝った。
 蘭一颯に。目の前で必死な顔をしておれを止めている王子サマに。
「……マジかよ……」
 あらいぶ、こと、一颯は、またぼんやりとしたまま、頭を抱えてうずくまるおれを見下ろして「あ、やっぱりおまえだったんだな」と容赦なくとどめを刺した。
 高校二年、秋。
 おれは、大好きな音楽をやめるきっかけになった張本人と再会した。