肩がふれないように並んで歩く。無言で歩くうちに、駅前にきていた。
今更一颯になにを言えばいいのか分からなくて、いつもどうやって普通に話していたのかも忘れてしまった。軽くパニックだった。
――ってか、大体、おれも一颯のこと恋愛的に好きだったんじゃん……。
恋心は自分で気付いたときが一番気恥ずかしくてどうにかなりそうになるけれど、おれの場合、告られてから自分も好きだって気付くとかクズの思考すぎる。それより、こんなに一緒にいて気付かなかったって、鈍感にも程があるし、死ぬほど恥ずかしい。
どうしようと頭を回していたら、人気のない広場にストリートピアノが置かれているのを見て一颯が「お」と反応した。
「なあ、蓮」
「……なに」
「あれ、弾かないか」
おれは、きらきらしている一颯の顔を見て、はあ、と妥協のため息を吐いた。
「ああいうのって結構調律狂ってんだよ……」
「オレこういうの初めてかもしれない」
「お高いピアノばっかり弾いてそうだもんな」
「事実だから何とも言えねえな」
うざあ、と笑い飛ばして、ピアノの鍵盤に指を滑らせる。ウォーミングアップ程度に弾ける曲、とソルフェジエットを軽く弾いてみる。ぽろろ。ぽろろ、ぽろろ。滑らかに指を運んで、何度かオクターブを往復した。使われることの多い和音のキーは少し狂っていたけれど、この程度なら問題ないだろう。
大丈夫そう、と言おうとして――後ろからきゅっと抱きしめられて喉が締まった。
心臓が、おかしい。
バクバク高鳴って、耳の奥がぼおんと熱くなった。じわりとてのひらから汗が滲む。
――やばい、めっちゃドキドキしてる!
「なに、してんの……」
なんとかひねり出した声がめちゃくちゃ緊張していて、笑ってしまいたかったけれどできなかった。一颯の顔が近い。一度意識するだけでこんなになってしまうらしい。恋愛って怖い!
つか、抱きしめられてんのエグイ!!
「音楽してるおまえのこと見たら、こう、ぐわああって、好きだー! って思っちまって……」
「感情の起伏すごいねおまえ」
「抑えきれなかった……」
「犬かよ」
「犬じゃねえ」
「知ってるわ」
一颯はそこでちょっと黙って、ぎゅううって腕の力を強くして。
「オレだってこんなの普通じゃないって思ってるけど……」
はあ、と憂い気に睫毛を伏せてため息を吐く一颯に、やっぱり、おまえはなんにも分かってないなあって笑った。
「それが普通だよ」
『これが?』とでも言いたげな顔できょとんとおれを見つめる一颯の手を引き寄せて、おれの胸に当てる。
その心臓が信じられないスピードで波打っているのを感じた彼が、え、と小さく声をこぼして、みるみるうちに赤くなっていった。
「おれもヤバいもん」
「蓮……」
「あー、その甘いテノールやめて、結構ときめくから」
「えっえっ」
処理落ちして、ぼうっとおれの顔を見つめている一颯に、気恥ずかしくなって頬を掴んで押しのけた。「なんでだ」とまるっきり非難の声が聞こえてくるが、おれは悪くない。惜しみなくその御尊顔近付けてくんじゃねえ。
「ねえ、おれのこと待てる?」
おれはぽろろ、とまたソルフェジエットのはじめを弾いた。冷たい風が吹いてきて、きゅっと目を細める。一颯が前髪を風にゆらしながら首を傾げた。
「待てる?」
「おまえがおれのことが好きだし、おれもおまえが好きだけど、まだ返事できない」
「ああ、そうだな。待つぞオレは」
「言ったね?」
一颯がきゅっと眉間にしわを寄せるが、おれはにっこり笑った。これはおれなりのけじめだ。
「次、おれがおまえに勝ったら、返事する」
だから待ってろ、って言ってやった。おれだって不甲斐なく負けたまんまでおまえに捕まるのは気に入らないから。
一颯は、きょとんとしていたけれど、理解が追いつくと途端にムッとして真面目な顔になった。
「負けたくはねえし、負けねえ」
「どうだか。おれの本気知らないでしょ」
一颯が奇妙な、わけがわかっているのかわかっていないのか、とぼけた顔をする。「中学二年のときは本気を出したおまえに負けたんだが?」とでも言いたげな顔だ。
おれは結構このクソ真面目なヤツがするおとぼけ顔が好きだ。大笑いしながらその眉間によったシワを親指で伸ばして「首洗って待っとけよ」と宣戦布告をしてやった。
ぼんやりとしていたが、なんとなく状況が読み込めたらしい一颯が凛々しい眼で見つめ返してくる。
「負けねえからな」
「おまえ、おれと付き合う気あんの?」
「……え?」
「おれが勝ってからじゃないと付き合わないよ」
「……え?」
「え、処理落ち?」
がっつり動かなくなって焦ったが、おれの言葉の意味にようやく合点がいったらしい一颯は、ぱちん、と瞬き次の瞬間にはうううう、と唸って、ぐああああと叫びながら頭を抱えた。奇行が過ぎて面白い。
ぜんぜん話聞いてないじゃんおまえ。
「おまえ、それは話がちげえだろ……!」
「あっはは」
「何笑ってんだ」
一颯がださくてかわいい。めちゃくちゃ必死になっていて、愛おしいなぁ、と思って、また口から愉快そうな笑いがもれた。笑いが止まらない。
ゲラゲラ腹を抱えて笑っていたら、髪の毛をくしゃくしゃにかき回した一颯が、ぼそりと言った。
「負けたくねえけど、負けねえと、おまえと付き合えねえのか……」
それが、あんまりにも、寂しそうな声だったから。
イラッとして、まろいつるつるした白い額に、ばちん! デコピンしてやった。「いってぇ!」と大きい声で叫ぶ。コイツ、マジで、本当に。どこまでも舐めてるよなおれのこと!
「なんでおまえが勝つ前提なんだよ! 絶対勝つからな、お・れ・が!」
「オレも、負けねえから」
「それしか言わねえじゃんおまえ、ちげえBOTか」
「ちげえ」
ああ? と凄みながら顔を寄せる。ムッとした顔でおれを睨み返してくる。
おまえには絶対に勝つからな、とお互いに睨み合って、ふっと、気が緩んで、なにやってるんだよと言いながら声を上げて笑った。
「じゃあ、はじめにショパンからだな」
と、すっとぼけの顔で言う一颯の頭をスコーン! と叩く。
「いて、何すんだ」
「喧嘩売ってんのか? おまえには負けねえよ」
「あのときは、だろ」
「うっぜー」
これからも、お互いに、「オレは負けないぞ」「おれだって負けないから」って言いながら、いつかは絶対についてしまう勝負を繰り返していく気がしていた。
いつか本当に、完膚なきまでにおまえに勝つまで、やめてやれないからな。覚悟しろよ。――そんな思いをこめて、一颯の膝のうえに行儀悪く割り込んで、足は任せた! と言って、鍵盤に指を添え、あの曲を弾き始めた。拍を取った瞬間を見逃さずに、完璧にペダルのタイミングを合わせてくるところが、なんというか。憎いが、コイツは紛れもなく実力のある天才なのだ。
幻想即興曲。左手のリズムと右手の交差するリズムがよどみなく流れていく。細やかな指運びが必要とされるのが、これが難曲と言われるうちの一つの所以だ。ミスタッチ一つや二つでもう旋律が台無し。ぼこぼこと不格好なリズムになってしまう。
夜の湖をさざなみたてるような、あるいは白みはじめた空の上をぬるく撫でる風のような、あの言いようのない恍惚とした旋律こそがあのショパンの名曲たるものなのだから。
「なあ、これ弾きづれぇ」
「うるさい」
「難題すぎるだろ」
苦笑してはいるが、なんだかんだいって、簡単そうに連弾をして応戦してくるあたりがアララキイブキクオリティだ。どんなに無理難題を言っても絶対にどうにかして突破してくる。
中盤に落ち着くと、すりりと一颯の頬が肩に乗っかった。肩置きにするな、と肩をわざと上げ下げしてみても、顎をがこんがこん言わせながら離れない。赤ちゃんかよ。
「なあこれ審査員とか必要なんじゃないか」
長い睫毛に包まれた黒目がおれを横目にちらりと見る。
一拍置いて、ぐっと鍵盤を押し込む。とおん、とまあるい音が鳴った。
「必要ねーよ」
だっておまえのピアノはおれがよく分かってるし、おれのピアノはおまえがよく分かってるだろ。どっちが上か下かなんて決められない。言葉に出すのは無粋だ。
一颯は、じっと蜂蜜詰めにした瓶みたいに甘ったるく光る眼をおれに向けて、ゆったりと相好を崩した。
「これじゃあ、勝負つかねえな」
「ふん! あのね、おまえはねえ、一生おれに勝とうとすればいいの!」
「そうか」
そうだよ、と意気揚々と頷くと、一颯がなにかに気付いたように口を「お」の形にしておれの顔を覗き込んだ。
「もしかして、今、喧嘩売ったか?」
おれは、によによと笑って。
「ふふふ、絶賛発売中だよ」
「そうか、じゃあ、売られた喧嘩は買わねえとな」
「えっ……待って待って喧嘩売ったけどキャンセルとかできますか」
「クーリングオフはできません」
「ちょっと、神様仏様アララキ様ァー!!」
軽やかなタッチで連弾に合わせに行く。
音色の変化に気がついたらしい、左耳のすぐそばで、フフ、と上機嫌に一颯が笑った。笑うんじゃねえ、とつっこんだおれもまあ、たいがい甘ったるい声だったから、気恥ずかしさもあいまってなんだかめちゃくちゃに幸せな気分だった。ピアノがある。音楽を愛している。それから、場違いにもおれと張り合おうとする天才ピアニストだっている。
「あー、やべ、今めっちゃくちゃ楽しいぞ人生!」
一颯が耳元で、「それはよかったな」と、まろいテノールで、とろけるくらい優しい声で言う。
ひゅるひゅると秋風が吹いている。調律が少し狂ったピアノが幻想即興曲をよどみなく鳴らしている。細やかな指運びのせいで前腕がつりそうで、やっぱりおれはまだまだだなって思って、しあわせで涙が出そうだった。
終わることのないアンコールを、今、ここから始めよう。
おわり
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!読了のしるしに「いいね」や「ひとこと感想」をいただけますと何よりの励みになります。
あなたの心に、少しでも二人の青春が残れば幸いです!!
今更一颯になにを言えばいいのか分からなくて、いつもどうやって普通に話していたのかも忘れてしまった。軽くパニックだった。
――ってか、大体、おれも一颯のこと恋愛的に好きだったんじゃん……。
恋心は自分で気付いたときが一番気恥ずかしくてどうにかなりそうになるけれど、おれの場合、告られてから自分も好きだって気付くとかクズの思考すぎる。それより、こんなに一緒にいて気付かなかったって、鈍感にも程があるし、死ぬほど恥ずかしい。
どうしようと頭を回していたら、人気のない広場にストリートピアノが置かれているのを見て一颯が「お」と反応した。
「なあ、蓮」
「……なに」
「あれ、弾かないか」
おれは、きらきらしている一颯の顔を見て、はあ、と妥協のため息を吐いた。
「ああいうのって結構調律狂ってんだよ……」
「オレこういうの初めてかもしれない」
「お高いピアノばっかり弾いてそうだもんな」
「事実だから何とも言えねえな」
うざあ、と笑い飛ばして、ピアノの鍵盤に指を滑らせる。ウォーミングアップ程度に弾ける曲、とソルフェジエットを軽く弾いてみる。ぽろろ。ぽろろ、ぽろろ。滑らかに指を運んで、何度かオクターブを往復した。使われることの多い和音のキーは少し狂っていたけれど、この程度なら問題ないだろう。
大丈夫そう、と言おうとして――後ろからきゅっと抱きしめられて喉が締まった。
心臓が、おかしい。
バクバク高鳴って、耳の奥がぼおんと熱くなった。じわりとてのひらから汗が滲む。
――やばい、めっちゃドキドキしてる!
「なに、してんの……」
なんとかひねり出した声がめちゃくちゃ緊張していて、笑ってしまいたかったけれどできなかった。一颯の顔が近い。一度意識するだけでこんなになってしまうらしい。恋愛って怖い!
つか、抱きしめられてんのエグイ!!
「音楽してるおまえのこと見たら、こう、ぐわああって、好きだー! って思っちまって……」
「感情の起伏すごいねおまえ」
「抑えきれなかった……」
「犬かよ」
「犬じゃねえ」
「知ってるわ」
一颯はそこでちょっと黙って、ぎゅううって腕の力を強くして。
「オレだってこんなの普通じゃないって思ってるけど……」
はあ、と憂い気に睫毛を伏せてため息を吐く一颯に、やっぱり、おまえはなんにも分かってないなあって笑った。
「それが普通だよ」
『これが?』とでも言いたげな顔できょとんとおれを見つめる一颯の手を引き寄せて、おれの胸に当てる。
その心臓が信じられないスピードで波打っているのを感じた彼が、え、と小さく声をこぼして、みるみるうちに赤くなっていった。
「おれもヤバいもん」
「蓮……」
「あー、その甘いテノールやめて、結構ときめくから」
「えっえっ」
処理落ちして、ぼうっとおれの顔を見つめている一颯に、気恥ずかしくなって頬を掴んで押しのけた。「なんでだ」とまるっきり非難の声が聞こえてくるが、おれは悪くない。惜しみなくその御尊顔近付けてくんじゃねえ。
「ねえ、おれのこと待てる?」
おれはぽろろ、とまたソルフェジエットのはじめを弾いた。冷たい風が吹いてきて、きゅっと目を細める。一颯が前髪を風にゆらしながら首を傾げた。
「待てる?」
「おまえがおれのことが好きだし、おれもおまえが好きだけど、まだ返事できない」
「ああ、そうだな。待つぞオレは」
「言ったね?」
一颯がきゅっと眉間にしわを寄せるが、おれはにっこり笑った。これはおれなりのけじめだ。
「次、おれがおまえに勝ったら、返事する」
だから待ってろ、って言ってやった。おれだって不甲斐なく負けたまんまでおまえに捕まるのは気に入らないから。
一颯は、きょとんとしていたけれど、理解が追いつくと途端にムッとして真面目な顔になった。
「負けたくはねえし、負けねえ」
「どうだか。おれの本気知らないでしょ」
一颯が奇妙な、わけがわかっているのかわかっていないのか、とぼけた顔をする。「中学二年のときは本気を出したおまえに負けたんだが?」とでも言いたげな顔だ。
おれは結構このクソ真面目なヤツがするおとぼけ顔が好きだ。大笑いしながらその眉間によったシワを親指で伸ばして「首洗って待っとけよ」と宣戦布告をしてやった。
ぼんやりとしていたが、なんとなく状況が読み込めたらしい一颯が凛々しい眼で見つめ返してくる。
「負けねえからな」
「おまえ、おれと付き合う気あんの?」
「……え?」
「おれが勝ってからじゃないと付き合わないよ」
「……え?」
「え、処理落ち?」
がっつり動かなくなって焦ったが、おれの言葉の意味にようやく合点がいったらしい一颯は、ぱちん、と瞬き次の瞬間にはうううう、と唸って、ぐああああと叫びながら頭を抱えた。奇行が過ぎて面白い。
ぜんぜん話聞いてないじゃんおまえ。
「おまえ、それは話がちげえだろ……!」
「あっはは」
「何笑ってんだ」
一颯がださくてかわいい。めちゃくちゃ必死になっていて、愛おしいなぁ、と思って、また口から愉快そうな笑いがもれた。笑いが止まらない。
ゲラゲラ腹を抱えて笑っていたら、髪の毛をくしゃくしゃにかき回した一颯が、ぼそりと言った。
「負けたくねえけど、負けねえと、おまえと付き合えねえのか……」
それが、あんまりにも、寂しそうな声だったから。
イラッとして、まろいつるつるした白い額に、ばちん! デコピンしてやった。「いってぇ!」と大きい声で叫ぶ。コイツ、マジで、本当に。どこまでも舐めてるよなおれのこと!
「なんでおまえが勝つ前提なんだよ! 絶対勝つからな、お・れ・が!」
「オレも、負けねえから」
「それしか言わねえじゃんおまえ、ちげえBOTか」
「ちげえ」
ああ? と凄みながら顔を寄せる。ムッとした顔でおれを睨み返してくる。
おまえには絶対に勝つからな、とお互いに睨み合って、ふっと、気が緩んで、なにやってるんだよと言いながら声を上げて笑った。
「じゃあ、はじめにショパンからだな」
と、すっとぼけの顔で言う一颯の頭をスコーン! と叩く。
「いて、何すんだ」
「喧嘩売ってんのか? おまえには負けねえよ」
「あのときは、だろ」
「うっぜー」
これからも、お互いに、「オレは負けないぞ」「おれだって負けないから」って言いながら、いつかは絶対についてしまう勝負を繰り返していく気がしていた。
いつか本当に、完膚なきまでにおまえに勝つまで、やめてやれないからな。覚悟しろよ。――そんな思いをこめて、一颯の膝のうえに行儀悪く割り込んで、足は任せた! と言って、鍵盤に指を添え、あの曲を弾き始めた。拍を取った瞬間を見逃さずに、完璧にペダルのタイミングを合わせてくるところが、なんというか。憎いが、コイツは紛れもなく実力のある天才なのだ。
幻想即興曲。左手のリズムと右手の交差するリズムがよどみなく流れていく。細やかな指運びが必要とされるのが、これが難曲と言われるうちの一つの所以だ。ミスタッチ一つや二つでもう旋律が台無し。ぼこぼこと不格好なリズムになってしまう。
夜の湖をさざなみたてるような、あるいは白みはじめた空の上をぬるく撫でる風のような、あの言いようのない恍惚とした旋律こそがあのショパンの名曲たるものなのだから。
「なあ、これ弾きづれぇ」
「うるさい」
「難題すぎるだろ」
苦笑してはいるが、なんだかんだいって、簡単そうに連弾をして応戦してくるあたりがアララキイブキクオリティだ。どんなに無理難題を言っても絶対にどうにかして突破してくる。
中盤に落ち着くと、すりりと一颯の頬が肩に乗っかった。肩置きにするな、と肩をわざと上げ下げしてみても、顎をがこんがこん言わせながら離れない。赤ちゃんかよ。
「なあこれ審査員とか必要なんじゃないか」
長い睫毛に包まれた黒目がおれを横目にちらりと見る。
一拍置いて、ぐっと鍵盤を押し込む。とおん、とまあるい音が鳴った。
「必要ねーよ」
だっておまえのピアノはおれがよく分かってるし、おれのピアノはおまえがよく分かってるだろ。どっちが上か下かなんて決められない。言葉に出すのは無粋だ。
一颯は、じっと蜂蜜詰めにした瓶みたいに甘ったるく光る眼をおれに向けて、ゆったりと相好を崩した。
「これじゃあ、勝負つかねえな」
「ふん! あのね、おまえはねえ、一生おれに勝とうとすればいいの!」
「そうか」
そうだよ、と意気揚々と頷くと、一颯がなにかに気付いたように口を「お」の形にしておれの顔を覗き込んだ。
「もしかして、今、喧嘩売ったか?」
おれは、によによと笑って。
「ふふふ、絶賛発売中だよ」
「そうか、じゃあ、売られた喧嘩は買わねえとな」
「えっ……待って待って喧嘩売ったけどキャンセルとかできますか」
「クーリングオフはできません」
「ちょっと、神様仏様アララキ様ァー!!」
軽やかなタッチで連弾に合わせに行く。
音色の変化に気がついたらしい、左耳のすぐそばで、フフ、と上機嫌に一颯が笑った。笑うんじゃねえ、とつっこんだおれもまあ、たいがい甘ったるい声だったから、気恥ずかしさもあいまってなんだかめちゃくちゃに幸せな気分だった。ピアノがある。音楽を愛している。それから、場違いにもおれと張り合おうとする天才ピアニストだっている。
「あー、やべ、今めっちゃくちゃ楽しいぞ人生!」
一颯が耳元で、「それはよかったな」と、まろいテノールで、とろけるくらい優しい声で言う。
ひゅるひゅると秋風が吹いている。調律が少し狂ったピアノが幻想即興曲をよどみなく鳴らしている。細やかな指運びのせいで前腕がつりそうで、やっぱりおれはまだまだだなって思って、しあわせで涙が出そうだった。
終わることのないアンコールを、今、ここから始めよう。
おわり
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!読了のしるしに「いいね」や「ひとこと感想」をいただけますと何よりの励みになります。
あなたの心に、少しでも二人の青春が残れば幸いです!!

