一年生の演奏も終盤になってくると、二年生の発表が早い順に練習室に通される。
おれたち二年三組は二番手だ。ジャッジが厳しくなりがちな初手に配置されたから不利ではあったけれど、仕方がない。練習のときと変わらず、「さあ、実力で全員黙らせてやろうぜ!」と活発に笑う戸佐を見て相変わらずだなあとか思った。一年生の最後のクラスの演奏が終わり、プログラムの案内が流れる。ピアノを弾き、弾き、指揮者と合わせ、アカペラを聞き。
いよいよ、おれたちの番となった。
胸の鼓動がすごい。
心臓がぶっ壊れてしまったみたいに、ずっと早鐘を打っていて、めまいがした。
「オノレン」
堺にぎゅっと肩を揉まれた。なにすんだ、と思っていたら、後ろから「大丈夫。大丈夫。オノレンは天才だから大丈夫ヨ」と抑揚の少ない声が続いた。レのシャープ。
堺も堺なりにおれのことを心配してくれていたのだ。
「ん。オッケー、おれ天才ね。小野蓮は天才」
「そうそう、俺たちおまえの演奏に何度も力貰って来た。つかうますぎ」
「ピアノがまったく弾けない戸佐くんもこう言っております、オノレン」
「おらおら、純粋にありがとうって言えよー?」
「まだ何も言ってないだろ……」
上から照りつける照明の、じわじわと焦がすみたいな熱さだけが鮮明だった。
おれはこの温度を知っていて、だから、ああ、そうか、帰ってきたのだと思った。ふとしたときにそういう感傷がやってくる。ステージの真ん中でつやつやと光っているグランドピアノも、こういうしっかりしたところで弾くのはいつぶりだろう。家に残されていたアップライトをしばらく弾いていたから、さっき練習で弾いた時にストレッチが足りなくて打点の力が足りなくて、ちょっと怖かった。
「ん。大丈夫。ありがとう二人とも」
「おうよ」
「がんばろ」
「うん!」
三人でハイタッチをしあって、指揮者の指示に従って入場準備の隊形に並んだ。
「次は、二年三組さんによる演奏です」
アナウンスのあとに、指揮者に続いてステージに入っていく。楽譜を開いてセットして、浅くチェアに腰かけた。まだ時間はある。まっすぐ前を向いて目をつぶる。深呼吸をふたつ。
……よし、行ける。
おれの準備を待っていた指揮者に目配せした。雰囲気から所作まで全体がやわらかいクラスメイトが、にっこりと微笑む。それを合図にして、アカペラのはじめとなるピッチを出した。
静寂に満ちたステージ上で指揮者が指揮を始めると、おれの左側からぶわりと面となってアカペラの和音が満ちていく。
中学も中学でなかなかレベルの高い演奏だと思っていたけれど、高校ともなると音の質が違うな。
穏やかでなめらかな音の強弱と抑揚。歌いながらも、祈るようなはかなさを持ちあわせる音階。全身がぶわりと熱くなって、ああ、――やっぱり、おれって。
音楽が好きだ。
「……っ」
右手をそっと鍵盤に添え、てらてら光るそこをぐっと押し込む。会場を満たす声の余韻を切り裂くような、あるいは、積もったまっさらな雪の上に新たに足跡を付けるみたいな、コードの連打だ。高い和音。細かく、けれども粒立ちのくっきりしたアルペジオのように。
生命が鼓動するときの、あの力強さまで感じるこまやかな音の揺れうごきを意識しながら、抑揚をつけて、ゆっくりと音をpに。pまでいかない、mpとの間を。長らくピアノからはなれていたはずの心が戻ってくる。目の前にある白黒の鍵盤が自分の一部であるかのように感じて。
ソプラノの透き通った高音が、すっきりと通った芯をはらんで、とおくまで突き抜けるように響く。支える男声の重厚なハミング。腹の底から震えるような、音の圧と感動。
声が重なる。うつくしく、哀しみと切なさに満ちた、そのハーモニーの合間を縫うように。
左手がつりそうになって、はは、と声に出さずに笑った。
悔しい。悔しい。おれの本気はこんなものじゃなかった。地に響くような低音の鍵盤を押し込む。指の腹が底に当たって、骨にびりりときた。
もっと、もっと、もっと自由に!
羽ばたこうとする産毛の鳥が彷彿と浮かんでくる。地を蹴って、もっと空高く。
必死だった。不格好なリズムと旋律になっていてもおかしくなかった。でも最高に楽しくて、脳内で広がる理想の通りに弾きたくて、もっと広く音楽を解釈したくて全身が湧きたっていた。
手首がしなり、指一本一本がおれの思考からかんぜんに独立した生き物のように鍵盤をたたく。目の前がはっきりしている。胸を叩く鼓動の強さと同じくらい、スタッカートの衝撃がピアノのハンマーを通じて弦を激しく震わせる。音が鳴る。楽譜をめくる手の動きすらもどかしい。めくって。クラスメイトたちの声に背中を押されるように、腕に力が入ったままだ。
涙が出るほどの没入感。
ああ、悔しい。もっともっと、うまくできるはずなのに。
必死で鍵盤にかじりつく。耳から入ってくる音の情報のすべてが心地よくて、数瞬、目を閉じて酔い痴れた。指揮者の打点を追う。リズムキープさえおぼつかないくらい熱中していた。早まるし、やりたいことに指が追いついてこない。指の腹が汗でじっとりと湿って、気を抜けば滑ってミスタッチしてしまいそうになるくらい、ピアノを始めたときのようにへったくそな演奏だった。
そうだけれど、それでも。
――最高だ!
おれが今、生きていられる理由を見つけたみたいに、心ははっきりと澄み渡っていた。自分のために弾くピアノではなく、みんなのために、おれができる全力ですべてを捧げていられる。誰かにとって、おれの音が支えになる。
ああ、そうだったな。
おれがピアノにしがみついた理由もそうだった。
この音があれば生きていられる。いつでも、どこでだって、息ができる。
出来心で、観衆をちらりと見てみた。ぼんやりとステージを見つめる観衆のなかに一人、ぽっかりと開いた二年四組の座席のすぐそばに、おれのとなりの席に、一颯が座っていた。
その人影が、ふるふると首を振って、腕で顔を覆うから。
……は、なに、おまえ。
「――泣いてんの?」
おれの声もぶるぶる震えていて、もう半笑いで、楽しくなって、全身を歓喜に震わせながら指を動かした。血が熱い。興奮が止まらない。身体じゅうをぐるぐる回る血液でさえ、もう、おれを祝福するものとしか思えないくらい。
複雑に絡み合う十六分音符。最後の音まで、確実に、追い切って。
重なり合ったハーモニーがどこまでもどこまでも伸びきっていく。指揮者の合図で、ぴたっととまった音の残響だけが包み込むように響いている。
呆然としたまま立ち上がり、指揮者とともにお辞儀をする。割れんばかりの拍手が聞こえて、ふっと、意識が戻ってくる。かんぜんに意識がもうろうとしていた。危なかった。
顔を上げたそこに見える、一颯が涙を流しながらおれを見ていた。
おれはぐっと喉を鳴らして、ああ、そうか、やっぱりおれはピアノが好きだなあと思って、ちょっと泣きそうになった。それはおれの演奏を聞いてぼろぼろ泣いて、麗奈ちゃんに背中を叩かれて心配されていて、たぶん、クラスメイトにこの調子で演奏ができるのかと不安がられているはずの、ちょっとどころじゃなくダサい一颯のせいにちがいなかった。
おれたち二年三組は二番手だ。ジャッジが厳しくなりがちな初手に配置されたから不利ではあったけれど、仕方がない。練習のときと変わらず、「さあ、実力で全員黙らせてやろうぜ!」と活発に笑う戸佐を見て相変わらずだなあとか思った。一年生の最後のクラスの演奏が終わり、プログラムの案内が流れる。ピアノを弾き、弾き、指揮者と合わせ、アカペラを聞き。
いよいよ、おれたちの番となった。
胸の鼓動がすごい。
心臓がぶっ壊れてしまったみたいに、ずっと早鐘を打っていて、めまいがした。
「オノレン」
堺にぎゅっと肩を揉まれた。なにすんだ、と思っていたら、後ろから「大丈夫。大丈夫。オノレンは天才だから大丈夫ヨ」と抑揚の少ない声が続いた。レのシャープ。
堺も堺なりにおれのことを心配してくれていたのだ。
「ん。オッケー、おれ天才ね。小野蓮は天才」
「そうそう、俺たちおまえの演奏に何度も力貰って来た。つかうますぎ」
「ピアノがまったく弾けない戸佐くんもこう言っております、オノレン」
「おらおら、純粋にありがとうって言えよー?」
「まだ何も言ってないだろ……」
上から照りつける照明の、じわじわと焦がすみたいな熱さだけが鮮明だった。
おれはこの温度を知っていて、だから、ああ、そうか、帰ってきたのだと思った。ふとしたときにそういう感傷がやってくる。ステージの真ん中でつやつやと光っているグランドピアノも、こういうしっかりしたところで弾くのはいつぶりだろう。家に残されていたアップライトをしばらく弾いていたから、さっき練習で弾いた時にストレッチが足りなくて打点の力が足りなくて、ちょっと怖かった。
「ん。大丈夫。ありがとう二人とも」
「おうよ」
「がんばろ」
「うん!」
三人でハイタッチをしあって、指揮者の指示に従って入場準備の隊形に並んだ。
「次は、二年三組さんによる演奏です」
アナウンスのあとに、指揮者に続いてステージに入っていく。楽譜を開いてセットして、浅くチェアに腰かけた。まだ時間はある。まっすぐ前を向いて目をつぶる。深呼吸をふたつ。
……よし、行ける。
おれの準備を待っていた指揮者に目配せした。雰囲気から所作まで全体がやわらかいクラスメイトが、にっこりと微笑む。それを合図にして、アカペラのはじめとなるピッチを出した。
静寂に満ちたステージ上で指揮者が指揮を始めると、おれの左側からぶわりと面となってアカペラの和音が満ちていく。
中学も中学でなかなかレベルの高い演奏だと思っていたけれど、高校ともなると音の質が違うな。
穏やかでなめらかな音の強弱と抑揚。歌いながらも、祈るようなはかなさを持ちあわせる音階。全身がぶわりと熱くなって、ああ、――やっぱり、おれって。
音楽が好きだ。
「……っ」
右手をそっと鍵盤に添え、てらてら光るそこをぐっと押し込む。会場を満たす声の余韻を切り裂くような、あるいは、積もったまっさらな雪の上に新たに足跡を付けるみたいな、コードの連打だ。高い和音。細かく、けれども粒立ちのくっきりしたアルペジオのように。
生命が鼓動するときの、あの力強さまで感じるこまやかな音の揺れうごきを意識しながら、抑揚をつけて、ゆっくりと音をpに。pまでいかない、mpとの間を。長らくピアノからはなれていたはずの心が戻ってくる。目の前にある白黒の鍵盤が自分の一部であるかのように感じて。
ソプラノの透き通った高音が、すっきりと通った芯をはらんで、とおくまで突き抜けるように響く。支える男声の重厚なハミング。腹の底から震えるような、音の圧と感動。
声が重なる。うつくしく、哀しみと切なさに満ちた、そのハーモニーの合間を縫うように。
左手がつりそうになって、はは、と声に出さずに笑った。
悔しい。悔しい。おれの本気はこんなものじゃなかった。地に響くような低音の鍵盤を押し込む。指の腹が底に当たって、骨にびりりときた。
もっと、もっと、もっと自由に!
羽ばたこうとする産毛の鳥が彷彿と浮かんでくる。地を蹴って、もっと空高く。
必死だった。不格好なリズムと旋律になっていてもおかしくなかった。でも最高に楽しくて、脳内で広がる理想の通りに弾きたくて、もっと広く音楽を解釈したくて全身が湧きたっていた。
手首がしなり、指一本一本がおれの思考からかんぜんに独立した生き物のように鍵盤をたたく。目の前がはっきりしている。胸を叩く鼓動の強さと同じくらい、スタッカートの衝撃がピアノのハンマーを通じて弦を激しく震わせる。音が鳴る。楽譜をめくる手の動きすらもどかしい。めくって。クラスメイトたちの声に背中を押されるように、腕に力が入ったままだ。
涙が出るほどの没入感。
ああ、悔しい。もっともっと、うまくできるはずなのに。
必死で鍵盤にかじりつく。耳から入ってくる音の情報のすべてが心地よくて、数瞬、目を閉じて酔い痴れた。指揮者の打点を追う。リズムキープさえおぼつかないくらい熱中していた。早まるし、やりたいことに指が追いついてこない。指の腹が汗でじっとりと湿って、気を抜けば滑ってミスタッチしてしまいそうになるくらい、ピアノを始めたときのようにへったくそな演奏だった。
そうだけれど、それでも。
――最高だ!
おれが今、生きていられる理由を見つけたみたいに、心ははっきりと澄み渡っていた。自分のために弾くピアノではなく、みんなのために、おれができる全力ですべてを捧げていられる。誰かにとって、おれの音が支えになる。
ああ、そうだったな。
おれがピアノにしがみついた理由もそうだった。
この音があれば生きていられる。いつでも、どこでだって、息ができる。
出来心で、観衆をちらりと見てみた。ぼんやりとステージを見つめる観衆のなかに一人、ぽっかりと開いた二年四組の座席のすぐそばに、おれのとなりの席に、一颯が座っていた。
その人影が、ふるふると首を振って、腕で顔を覆うから。
……は、なに、おまえ。
「――泣いてんの?」
おれの声もぶるぶる震えていて、もう半笑いで、楽しくなって、全身を歓喜に震わせながら指を動かした。血が熱い。興奮が止まらない。身体じゅうをぐるぐる回る血液でさえ、もう、おれを祝福するものとしか思えないくらい。
複雑に絡み合う十六分音符。最後の音まで、確実に、追い切って。
重なり合ったハーモニーがどこまでもどこまでも伸びきっていく。指揮者の合図で、ぴたっととまった音の残響だけが包み込むように響いている。
呆然としたまま立ち上がり、指揮者とともにお辞儀をする。割れんばかりの拍手が聞こえて、ふっと、意識が戻ってくる。かんぜんに意識がもうろうとしていた。危なかった。
顔を上げたそこに見える、一颯が涙を流しながらおれを見ていた。
おれはぐっと喉を鳴らして、ああ、そうか、やっぱりおれはピアノが好きだなあと思って、ちょっと泣きそうになった。それはおれの演奏を聞いてぼろぼろ泣いて、麗奈ちゃんに背中を叩かれて心配されていて、たぶん、クラスメイトにこの調子で演奏ができるのかと不安がられているはずの、ちょっとどころじゃなくダサい一颯のせいにちがいなかった。

