人には、絶対に触れられたくない『不可侵領域』なるものがある、と思う。
たとえば、おれと七こも年が離れた姉さんは学年でも一、二を争うくらい美人で、告白された回数は両手両足でも数えきれず、中学高校と大層もてはやされたらしい。
『きれいだ』とか『かわいい』と言われ続け、美しさを重視しすぎたせいで、今姉さんは仕事で給料が入るたびに整形を繰り返すようになった。指摘されたくはないらしいのでおれは絶対に言わないが、父さんがデリカシーなく「顔変わった?」と尋ねて毎度ヒスられてキレられている。
二つ下の弟にとっての『不可侵領域』は机の下に隠した歴代の彼女からのプレゼントたちだし、父さんのは給料日に母さんに内緒で訪れるパチンコ屋。母さんは誰にも内緒でコミケに同人誌を出品していること。内容がうら若い男と男の恋愛ものだったときは、おれはそうっとその原稿をもとの場所に戻しておいた。小学校六年生の健全な男児が見てはいけないものを見た。
かく言うおれも、そういう部分はもちろんある。
――音楽だ。特に言えば、『ピアノ』。
おれは、多分、世界に存在するもののなかでもっともピアノを嫌っている。
昼休みにいつものメンツでご飯を食べようと机を寄せ合っていたら、ピンポンパンポンと校内放送を示す軽妙な音楽が鳴った。顔を上げる。
ド・ミ・ソ・オクターブ上ド。
「合唱コンクール委員の人は、12時30分に合同講義室に集まってください」との連絡が入る。
おれの席から一列挟んだ壁には委員一覧の紙が貼ってある。「誰だったっけ」と一人でつぶやいて、もし忘れやすいやつなら連絡を入れておこうと思い、壁に寄って合唱コンクール委員の欄を探した。
そういえば、おれってなんだっけ。なんかに入ってた気はするんだけど……。
思い出せないまま合唱コンクール委員の文字を指さして、そっと横にスライド。
そこには『小野蓮』の文字。
「え、おれじゃん」
おれが呟いた言葉に、隣の席に座っていた戸佐が興味のなさそうな声で「いってらっしゃい」と大げさに手を振る。
「ええ、……せめておれの顔を見ろよ」
「お疲れ様ー」
「おい」
おれの前の席で戸佐と駄弁っていた堺も顔を上げてぱちりぱちりと瞬いた。すぐにくるりと振り返り、教室の前方に掲げられた時計を見て「うわー」といつでも明るい声で落胆を示す。
時計はすでに12時20分を示している。
ただいま、おれはみんなと同じように机の上に母さん特製の超絶にうまいお弁当を広げている。栄養バランスが整った少し味が濃い、男子高校生が大好きな昼飯。今日もこれの感動をでかくするためだけに、早弁をせずに、お腹をぐうぐう鳴らしながら午前の授業を耐え忍んでいたというのに。
おれは打ちひしがれて、いそいそとお弁当をしまって机にうなだれた。
「ツイてないねぇ」
堺がいつでも据わったまあるい黒目をおれに向けて言った。下アングルから見るとすごく怖い。「真顔怖ぇよオマエ……」とつい本音が漏れた。
「オノレン、ひどーい」
「うちの子になんてこと言うんですか!」
「悪ノリをするな戸佐」
「いてっ」
調子に乗る戸佐の頭をすこーん、と叩いて、また机にうなだれた。
げっそりしながら、バッグに入っていた角がもろもろと欠けた間食用のカロリーメイトをなるべくゆっくりとぼりぼり齧った。が、時間の流れは等しい。駄々をこねていても行かなきゃならんものは行かなきゃならん。
腕時計を見る。12時23分。
粘ってもあと五分。
腹をくくって、カロリーメイトの外箱をゴミ箱に捨てる。そのまま廊下に出てロッカーから一応次の授業に使う音楽の教科書を取り出した。遅れたらしょうがないもんな。
「じゃあ、そろそろ行くわ」と中にいる二人に声をかけるが、顔もあげないまま手を振られた。マジであとで覚えてろよお前ら。
おれがため息をついて、合同講義室ってどこだっけ、二階だっけ、と脳内で地図を開きかけたとき、「ア! おい、レンコン野郎!」と戸佐に呼ばれた。
「誰がレンコン野郎だ」
「なあ、『あらいぶ』も合唱コンクール委員だってよ」
フル無視すんなよ!
わざわざ席から立ちあがって教室の入り口までやってきた戸佐が、ほれ、とスマホの画面を向けてくる。アライブってなんだ。英単語か。絶対ちがうけど。
一人で自分につっこみつつ画面をのぞき込むと、他クラスの名簿のような写真。なんでこんなものを、とじろりと戸佐をねめつけると、わざとらしく目を逸らされた。ナンパしたい女の子から委員会を辿るんじゃねえよ。魂胆見え透いてるぞ。
「つかアライブって誰? 外人?」
おれが尋ねると、戸佐が目をまんまるにして驚いている。すごい顔するな。
「おまえ『あらいぶ』知らねえの? この学年の王子サマじゃん」
黙って一人でいればイケメンで良い男、と女子たちに言われている戸佐でも、三本指だ。学年の三本指。それが一本指?
「……お前の敵じゃん」
「うわうわ悪口。別に張り合おうとは思ってないからいいもん!」
もんってなんだよ。
「うえ」
「おい酷いだろ!」
文化祭で漫才をやってくれと言われるだけあるな、と我ながら感心した。腹から湧き上がってくる笑いの合間に、戸佐に説明を求める。
「蘭一颯だよ。父親がどっかのデカい会社の社長で、母親が名の知れたピアニスト。本人も音楽の才に恵まれて未だに海外の音楽コンテストで賞取ってる、本来こんなところの公立高校にはいないはずの逸材。その上マジクソイケメンでクール系だから女子からの人気が絶えない奴。本当に全男子の敵だから、マジ滅びろクソ。アイツさえいなけりゃオレが一番だったかもしれないのに……!」
「後半の私怨ヤバいな、だだ漏れ」
うるせえ、と大声で笑う戸佐につられて笑っていると、ぐるりと首をひねって時計を見た堺が「時間ヤバいよー」とのほほんとした明るい口調で言う。やっば。
おまえのせいだろと戸佐の脛を蹴ってから、急いで廊下に出て合同講義室に向かった。
堺はいついかなるときもぜったいに声色が変わらない。レのシャープ。
そういえば、アララキイブキって、どっかで、聞いたことあるな。
おれがバタバタと駆けこんでいくのと時計の秒針が回って、12時30分を指すのはほぼ同時で、中から突き刺さる『ああようやっと来たの』みたいな、ちょっと冷たい視線に心臓がひゅっとする。すみませんすみませんと頭を何度か下げてから、「二年三組の子だよね? そこに座ってて」と示された席に腰を下ろした。おれが最後らしい。
一番廊下側の前から二番目。すでに隣の席には人が座っていた。
隣の、さらりとまろい頭に流れた黒髪から目を逸らして、あまり顔を合わせなくて済みますようにと思いながら音楽の教科書の巻末をぺらりとめくる。並ぶ楽譜記号と旋律に、ふ、と頬が和らいだ。左手でその口角をぐっともとに戻す。
ピアノも音楽も好きではないけれど、楽譜を見るとなんだか気分がよくなるのはもう本能だからしょうがない。
ざわざわと心地いいノイズのなか、教卓の前に立った三年生が腕時計を見て「では、これから第一回合唱コンクール委員会を始めます」と言った。
見る限り全学年は全クラス、九人が揃っているが一年生から点呼がされた。委員長に「二年三組さん」と呼ばれ、はい、と手を上げる。
ざわ、と空気が変わったのを感じた。
よく言えば歓喜、悪く言えば噂されているような、変な心地だ。
「……?」
なんだ、と思ってそろりと視線を横のほうに移した。二年だけではなく、一年、三年からも。
――視線が突き刺さる。
なんだ、と思ってなんでもないふりをしながら教室を見渡してみたが、違和感を覚える。そして、ふと、気付く。おれじゃない。
おれにごく近い誰かを、みんなが、見ているのだ。
「二年四組さん」
委員長が無表情に四組の委員を呼ぶ。おれの隣に座った男が右手を上げた。
前を向くのにしたがって、俯いていた髪の毛から高い鼻がすっと見えた。鬱陶しそうに頭を振って前髪を払う。照明の直下にいるせいで目元に睫毛の影がのびる。
完璧なアーモンドの形をしたまぶたから、まんまるのビー玉みたいな黒目が見えた。委員長をまっすぐに貫くまなざし。でも同時に、すべての人を拒絶するみたいな。
――クッソ、イケメンだなコイツ。
王子サマなんて可愛げのあるものじゃない。
男子も女子もみんな等しくこの男をじっと見つめている。尊敬、畏怖、あるいは羨望で。
これは人を殺せると思います。
おれは一気に居心地が悪くなって、ぎゅっと目をつぶった。これじゃん絶対。絶対コイツじゃん戸佐が言ってた『あらいぶ』じゃん!
「ハイ」
心地のいい、丸みのあるテノール。今のはたぶんソ。音が微かに揺らいでいたからソとラの間のピッチに聞こえる。おれは人知れず、ほぅ、とため息を吐いた。いい声。音域、質感。
視線に感づかれたのか、ビー玉がこっちを見た。反射的に驚いて目を瞠る。『あらいぶ』がおれを認めて、ちょうど一秒、
「……なに」
テノールの声は一気に温度を下げた。とげとげしい物言いに心臓がひゅっとする。口元がひきつった。
――感じ悪っ。
おれは眉を寄せて、なるべく優しい声色に努めて「なんでもないです」と応えた。『あらいぶ』は、おれの顔を確かめるようにじっと見て、興味をなくした途端にふいっと視線を逸らす。おれはもう一度、今度は強くぎゅっと目をつぶった。
委員会は各学年の代表、学年の発表を統括するリーダーを選出しなければいけない、らしい。「じゃあ話し合って決めてください」と委員長が手を叩く。それを合図にそろりそろりと横を向くと、同じように気まずい顔をした二学年の生徒九人が顔を見合わせた。おれも困りきって、へへ、と口元だけで笑みを作る。
「誰かやりたい人いる?」
とりあえず、と明るい声でみんなの顔を見渡す。内気な女子たちは首を振り、どこかの運動部らしい焼けた肌の男子は「やりたいわけないっしょ」と笑う。
だよね、とおれも笑い返す。
どうすっかなこの空気。全員知らない人だし、トバしてふざけても女子は気まずいだけだろうし。
腹を括って、おれがやるか、と思った。そのとき、すっと目の前の男が手を上げた。さっきと同じ真っ黒なビー玉のような目を床に落としたまま、口を開く。
「じゃあ、オレやろうか」
――え。
いいの、アララキくんがいいなら、えお前いいやつやん、と口々に生徒が口にする。イケメンが立候補は勝てないって。おれは苦笑する。
こういうのは感謝に限る、と、さっきの不遜な態度は一度忘れて「ありがとね」と囁いた。『あらいぶ』はまた真っ黒な目でじろりとおれを見るだけで、頷きも微笑みもしなかった。こめかみが引き攣る。
おれなんかしましたか? と聞きたくなるのをぐっと押さえこんで、ぎゅうと目をつぶった。
もしかしたら、これがノーマル装備かもしれんし。気にしない気にしない。
「じゃあ、書類、とってくる」と言って立ち上がり教卓の方へ行ってしまう。
体だけが向かい合う形で四組の『あらいぶ』と対面すると、彼の、妙な、人を惹きつける性質がわかる気がする。顔がかっこいいのはそうだけど、媚びないところとか、変に魅力的に映るんだろうな。
まあ、学年の王子サマが見られてよかった。
態度は悪いし愛想も悪いけどな!
「なあ」と声をかけられて振り返る。
頭を刈り上げた野球部の男子が座っていた。「どした?」と尋ねると「三組って音楽選択だろ。なんか楽器とか弾けんの」と目をキラキラさせている。
おれは、ううん、と唸った。弾けないわけじゃないけれど、好きではない。ピアノが特にそうだ。
真面目に取り合わないことに決めて、にっこりと笑う。
「リコーダーとカスタネットくらい」
「え俺と一緒じゃん」
わはは、と笑う。おれも笑う。
「でも、なんで? 音楽好きとか?」
「いや、単位取りやすいって聞いたから。そんだけだよ。大した理由じゃないんだ」
「へー、そうなんだ。あ、もしかしてそれ音楽の教科書? ちょい見せてよ」
ぱたぱたと忙しなく動く手におれの教科書を握らせてやる。これはどういう記号、と聞かれて、「カンタービレ。歌うように、って意味」と教えてやった。これは、これは、と聞かれて、順々に答えていく。
「音楽やってても相当ピアノやってないとここまですぐに答えられないよ」
と、みんなを巻き込んで盛り上がっていたら、同じ音楽選択の二組の女子生徒が余計なことを言った。おれは、ううん、と唸って「そんなことないよ」と愛想笑いをした。
おれは自由曲の候補とCDのセットをみんなに配る『あらいぶ』のすっきりした横顔と、繊細そうな指先を交互に眺めて、この男にはできるだけ関わりたくないなあと本能で察知して、そう思っていた。
だから、解散と同時に荷物をまとめて、さっさと音楽室に移動した。――のが、よくなかったのだ。
たとえば、おれと七こも年が離れた姉さんは学年でも一、二を争うくらい美人で、告白された回数は両手両足でも数えきれず、中学高校と大層もてはやされたらしい。
『きれいだ』とか『かわいい』と言われ続け、美しさを重視しすぎたせいで、今姉さんは仕事で給料が入るたびに整形を繰り返すようになった。指摘されたくはないらしいのでおれは絶対に言わないが、父さんがデリカシーなく「顔変わった?」と尋ねて毎度ヒスられてキレられている。
二つ下の弟にとっての『不可侵領域』は机の下に隠した歴代の彼女からのプレゼントたちだし、父さんのは給料日に母さんに内緒で訪れるパチンコ屋。母さんは誰にも内緒でコミケに同人誌を出品していること。内容がうら若い男と男の恋愛ものだったときは、おれはそうっとその原稿をもとの場所に戻しておいた。小学校六年生の健全な男児が見てはいけないものを見た。
かく言うおれも、そういう部分はもちろんある。
――音楽だ。特に言えば、『ピアノ』。
おれは、多分、世界に存在するもののなかでもっともピアノを嫌っている。
昼休みにいつものメンツでご飯を食べようと机を寄せ合っていたら、ピンポンパンポンと校内放送を示す軽妙な音楽が鳴った。顔を上げる。
ド・ミ・ソ・オクターブ上ド。
「合唱コンクール委員の人は、12時30分に合同講義室に集まってください」との連絡が入る。
おれの席から一列挟んだ壁には委員一覧の紙が貼ってある。「誰だったっけ」と一人でつぶやいて、もし忘れやすいやつなら連絡を入れておこうと思い、壁に寄って合唱コンクール委員の欄を探した。
そういえば、おれってなんだっけ。なんかに入ってた気はするんだけど……。
思い出せないまま合唱コンクール委員の文字を指さして、そっと横にスライド。
そこには『小野蓮』の文字。
「え、おれじゃん」
おれが呟いた言葉に、隣の席に座っていた戸佐が興味のなさそうな声で「いってらっしゃい」と大げさに手を振る。
「ええ、……せめておれの顔を見ろよ」
「お疲れ様ー」
「おい」
おれの前の席で戸佐と駄弁っていた堺も顔を上げてぱちりぱちりと瞬いた。すぐにくるりと振り返り、教室の前方に掲げられた時計を見て「うわー」といつでも明るい声で落胆を示す。
時計はすでに12時20分を示している。
ただいま、おれはみんなと同じように机の上に母さん特製の超絶にうまいお弁当を広げている。栄養バランスが整った少し味が濃い、男子高校生が大好きな昼飯。今日もこれの感動をでかくするためだけに、早弁をせずに、お腹をぐうぐう鳴らしながら午前の授業を耐え忍んでいたというのに。
おれは打ちひしがれて、いそいそとお弁当をしまって机にうなだれた。
「ツイてないねぇ」
堺がいつでも据わったまあるい黒目をおれに向けて言った。下アングルから見るとすごく怖い。「真顔怖ぇよオマエ……」とつい本音が漏れた。
「オノレン、ひどーい」
「うちの子になんてこと言うんですか!」
「悪ノリをするな戸佐」
「いてっ」
調子に乗る戸佐の頭をすこーん、と叩いて、また机にうなだれた。
げっそりしながら、バッグに入っていた角がもろもろと欠けた間食用のカロリーメイトをなるべくゆっくりとぼりぼり齧った。が、時間の流れは等しい。駄々をこねていても行かなきゃならんものは行かなきゃならん。
腕時計を見る。12時23分。
粘ってもあと五分。
腹をくくって、カロリーメイトの外箱をゴミ箱に捨てる。そのまま廊下に出てロッカーから一応次の授業に使う音楽の教科書を取り出した。遅れたらしょうがないもんな。
「じゃあ、そろそろ行くわ」と中にいる二人に声をかけるが、顔もあげないまま手を振られた。マジであとで覚えてろよお前ら。
おれがため息をついて、合同講義室ってどこだっけ、二階だっけ、と脳内で地図を開きかけたとき、「ア! おい、レンコン野郎!」と戸佐に呼ばれた。
「誰がレンコン野郎だ」
「なあ、『あらいぶ』も合唱コンクール委員だってよ」
フル無視すんなよ!
わざわざ席から立ちあがって教室の入り口までやってきた戸佐が、ほれ、とスマホの画面を向けてくる。アライブってなんだ。英単語か。絶対ちがうけど。
一人で自分につっこみつつ画面をのぞき込むと、他クラスの名簿のような写真。なんでこんなものを、とじろりと戸佐をねめつけると、わざとらしく目を逸らされた。ナンパしたい女の子から委員会を辿るんじゃねえよ。魂胆見え透いてるぞ。
「つかアライブって誰? 外人?」
おれが尋ねると、戸佐が目をまんまるにして驚いている。すごい顔するな。
「おまえ『あらいぶ』知らねえの? この学年の王子サマじゃん」
黙って一人でいればイケメンで良い男、と女子たちに言われている戸佐でも、三本指だ。学年の三本指。それが一本指?
「……お前の敵じゃん」
「うわうわ悪口。別に張り合おうとは思ってないからいいもん!」
もんってなんだよ。
「うえ」
「おい酷いだろ!」
文化祭で漫才をやってくれと言われるだけあるな、と我ながら感心した。腹から湧き上がってくる笑いの合間に、戸佐に説明を求める。
「蘭一颯だよ。父親がどっかのデカい会社の社長で、母親が名の知れたピアニスト。本人も音楽の才に恵まれて未だに海外の音楽コンテストで賞取ってる、本来こんなところの公立高校にはいないはずの逸材。その上マジクソイケメンでクール系だから女子からの人気が絶えない奴。本当に全男子の敵だから、マジ滅びろクソ。アイツさえいなけりゃオレが一番だったかもしれないのに……!」
「後半の私怨ヤバいな、だだ漏れ」
うるせえ、と大声で笑う戸佐につられて笑っていると、ぐるりと首をひねって時計を見た堺が「時間ヤバいよー」とのほほんとした明るい口調で言う。やっば。
おまえのせいだろと戸佐の脛を蹴ってから、急いで廊下に出て合同講義室に向かった。
堺はいついかなるときもぜったいに声色が変わらない。レのシャープ。
そういえば、アララキイブキって、どっかで、聞いたことあるな。
おれがバタバタと駆けこんでいくのと時計の秒針が回って、12時30分を指すのはほぼ同時で、中から突き刺さる『ああようやっと来たの』みたいな、ちょっと冷たい視線に心臓がひゅっとする。すみませんすみませんと頭を何度か下げてから、「二年三組の子だよね? そこに座ってて」と示された席に腰を下ろした。おれが最後らしい。
一番廊下側の前から二番目。すでに隣の席には人が座っていた。
隣の、さらりとまろい頭に流れた黒髪から目を逸らして、あまり顔を合わせなくて済みますようにと思いながら音楽の教科書の巻末をぺらりとめくる。並ぶ楽譜記号と旋律に、ふ、と頬が和らいだ。左手でその口角をぐっともとに戻す。
ピアノも音楽も好きではないけれど、楽譜を見るとなんだか気分がよくなるのはもう本能だからしょうがない。
ざわざわと心地いいノイズのなか、教卓の前に立った三年生が腕時計を見て「では、これから第一回合唱コンクール委員会を始めます」と言った。
見る限り全学年は全クラス、九人が揃っているが一年生から点呼がされた。委員長に「二年三組さん」と呼ばれ、はい、と手を上げる。
ざわ、と空気が変わったのを感じた。
よく言えば歓喜、悪く言えば噂されているような、変な心地だ。
「……?」
なんだ、と思ってそろりと視線を横のほうに移した。二年だけではなく、一年、三年からも。
――視線が突き刺さる。
なんだ、と思ってなんでもないふりをしながら教室を見渡してみたが、違和感を覚える。そして、ふと、気付く。おれじゃない。
おれにごく近い誰かを、みんなが、見ているのだ。
「二年四組さん」
委員長が無表情に四組の委員を呼ぶ。おれの隣に座った男が右手を上げた。
前を向くのにしたがって、俯いていた髪の毛から高い鼻がすっと見えた。鬱陶しそうに頭を振って前髪を払う。照明の直下にいるせいで目元に睫毛の影がのびる。
完璧なアーモンドの形をしたまぶたから、まんまるのビー玉みたいな黒目が見えた。委員長をまっすぐに貫くまなざし。でも同時に、すべての人を拒絶するみたいな。
――クッソ、イケメンだなコイツ。
王子サマなんて可愛げのあるものじゃない。
男子も女子もみんな等しくこの男をじっと見つめている。尊敬、畏怖、あるいは羨望で。
これは人を殺せると思います。
おれは一気に居心地が悪くなって、ぎゅっと目をつぶった。これじゃん絶対。絶対コイツじゃん戸佐が言ってた『あらいぶ』じゃん!
「ハイ」
心地のいい、丸みのあるテノール。今のはたぶんソ。音が微かに揺らいでいたからソとラの間のピッチに聞こえる。おれは人知れず、ほぅ、とため息を吐いた。いい声。音域、質感。
視線に感づかれたのか、ビー玉がこっちを見た。反射的に驚いて目を瞠る。『あらいぶ』がおれを認めて、ちょうど一秒、
「……なに」
テノールの声は一気に温度を下げた。とげとげしい物言いに心臓がひゅっとする。口元がひきつった。
――感じ悪っ。
おれは眉を寄せて、なるべく優しい声色に努めて「なんでもないです」と応えた。『あらいぶ』は、おれの顔を確かめるようにじっと見て、興味をなくした途端にふいっと視線を逸らす。おれはもう一度、今度は強くぎゅっと目をつぶった。
委員会は各学年の代表、学年の発表を統括するリーダーを選出しなければいけない、らしい。「じゃあ話し合って決めてください」と委員長が手を叩く。それを合図にそろりそろりと横を向くと、同じように気まずい顔をした二学年の生徒九人が顔を見合わせた。おれも困りきって、へへ、と口元だけで笑みを作る。
「誰かやりたい人いる?」
とりあえず、と明るい声でみんなの顔を見渡す。内気な女子たちは首を振り、どこかの運動部らしい焼けた肌の男子は「やりたいわけないっしょ」と笑う。
だよね、とおれも笑い返す。
どうすっかなこの空気。全員知らない人だし、トバしてふざけても女子は気まずいだけだろうし。
腹を括って、おれがやるか、と思った。そのとき、すっと目の前の男が手を上げた。さっきと同じ真っ黒なビー玉のような目を床に落としたまま、口を開く。
「じゃあ、オレやろうか」
――え。
いいの、アララキくんがいいなら、えお前いいやつやん、と口々に生徒が口にする。イケメンが立候補は勝てないって。おれは苦笑する。
こういうのは感謝に限る、と、さっきの不遜な態度は一度忘れて「ありがとね」と囁いた。『あらいぶ』はまた真っ黒な目でじろりとおれを見るだけで、頷きも微笑みもしなかった。こめかみが引き攣る。
おれなんかしましたか? と聞きたくなるのをぐっと押さえこんで、ぎゅうと目をつぶった。
もしかしたら、これがノーマル装備かもしれんし。気にしない気にしない。
「じゃあ、書類、とってくる」と言って立ち上がり教卓の方へ行ってしまう。
体だけが向かい合う形で四組の『あらいぶ』と対面すると、彼の、妙な、人を惹きつける性質がわかる気がする。顔がかっこいいのはそうだけど、媚びないところとか、変に魅力的に映るんだろうな。
まあ、学年の王子サマが見られてよかった。
態度は悪いし愛想も悪いけどな!
「なあ」と声をかけられて振り返る。
頭を刈り上げた野球部の男子が座っていた。「どした?」と尋ねると「三組って音楽選択だろ。なんか楽器とか弾けんの」と目をキラキラさせている。
おれは、ううん、と唸った。弾けないわけじゃないけれど、好きではない。ピアノが特にそうだ。
真面目に取り合わないことに決めて、にっこりと笑う。
「リコーダーとカスタネットくらい」
「え俺と一緒じゃん」
わはは、と笑う。おれも笑う。
「でも、なんで? 音楽好きとか?」
「いや、単位取りやすいって聞いたから。そんだけだよ。大した理由じゃないんだ」
「へー、そうなんだ。あ、もしかしてそれ音楽の教科書? ちょい見せてよ」
ぱたぱたと忙しなく動く手におれの教科書を握らせてやる。これはどういう記号、と聞かれて、「カンタービレ。歌うように、って意味」と教えてやった。これは、これは、と聞かれて、順々に答えていく。
「音楽やってても相当ピアノやってないとここまですぐに答えられないよ」
と、みんなを巻き込んで盛り上がっていたら、同じ音楽選択の二組の女子生徒が余計なことを言った。おれは、ううん、と唸って「そんなことないよ」と愛想笑いをした。
おれは自由曲の候補とCDのセットをみんなに配る『あらいぶ』のすっきりした横顔と、繊細そうな指先を交互に眺めて、この男にはできるだけ関わりたくないなあと本能で察知して、そう思っていた。
だから、解散と同時に荷物をまとめて、さっさと音楽室に移動した。――のが、よくなかったのだ。

