放課後になっても、さっきの空気が頭から離れなかった。
教室に残るざわつきの中で、鞄に教科書を詰めながらも、意識はまったく別のところに引っ張られている。
たった数分しか話していないはずなのに、その時間だけが妙に濃くて、他の記憶を押しのけるみたいに残っているのが、正直気持ち悪かった。
……たかがバイト同じなだけだろ。
それ以上の意味なんてない。そう言い聞かせているのに、さっきの一ノ瀬の表情とか、距離の詰め方とか、そういう細かいところばっかり思い出してしまう自分がいて、余計にイラつく。
鞄のチャックを閉める音が、やけに大きく響いた。
「なぁ」
不意に声をかけられて顔を上げると、クラスメイトがこちらを見ていた。特別仲がいいわけでもない、名前も曖昧なやつ。でも、今この瞬間だけはやけに距離が近く感じる。
「一ノ瀬と話してたよな」
「……まぁ」
短く返すと、それだけで十分だったらしく、相手は少しだけ興味を強めた顔になる。その変化がわかるくらいには、周りの空気に意識が向いてしまっている自分がいる。
「知り合いなの?」
「たまたまだよ」
できるだけ温度を乗せないように返す。余計な意味を持たせないように、あえて素っ気なく。
それでも目の前の奴は気になるらしく、質問責めをしてきた。
「それだけ、にしてはさ」
その一言で、空気が少しだけ変わる。
言葉にされなくてもわかる。たまたまって言葉で片付けるには、さっきの距離は近すぎた、っていう含み。
……うるせえな。
そう思うのに、完全には否定しきれないのがまた厄介で。
結局、それ以上会話を広げる気にもなれなくて、適当に話を切り上げて教室を出た。
廊下に出た瞬間、さっきまでのざわつきとは違うざわめきが耳に入る。
女子たちの小さな声。笑い声。視線。その中に、ほんの少しだけ混ざる言葉。
「さっき玲央くんと話してたよね」
「え、あの子誰?」
「知り合いなのかな」
聞こえてないふりをしながら、足だけを前に進める。
居心地悪い……。
別に悪いことをしているわけじゃないのに、勝手に見られて、勝手に判断されるこの感じ。昔から嫌いだ。
関わらなければ済む話なのに、勝手に巻き込まれていく。
その原因があいつだってわかってるから、余計にタチが悪い。
バイト先に着いた頃には、少しだけ気持ちは落ち着いていた。
制服に着替えて、いつも通りの場所に立つ。見慣れた店内、聞き慣れた音、決まった動き。ここにいれば、余計なことを考えずに済む。
……はずだった。
「お、今日も一緒だな」
背後から軽い声がかかって、振り向かなくてもわかる。
後ろには一ノ瀬がいる。
「……どうも」
短く返すだけにする。
距離を取るつもりだった。さっきのこともあるし、これ以上変に目立つのも面倒だし。
でも、気づけば作業の配置が隣になっている。
別に指示されたわけでもないのに、自然とそうなってるのが一番意味わからない。勝手にのこのこと付いてくるのだ。ひっつき虫みたいに。
視線だけ横に向けると、彼は何事もない顔で仕事をしている。学校で見せる王子様の顔でもなく、かといって完全に無表情でもない、どこか気の抜けた、でも他人を寄せつけすぎないような微妙な表情。
その中途半端さが、逆に目につく。ほんと、わかんねえやつ。
「それ、持とうか?」
「……別にいい」
手が伸びてくる前に断る。
必要以上に関わらないように、意識して線を引こうとしてるんだけど、前に見た笑顔が忘れられなくて。……は? 何を考えてるんだ?
少しだけ遅れて、自分の中に違和感が残る。
意味がわからない。
別に、一人でできることだし、助けられる理由もない。
なのに一瞬だけ楽になる感じがしたのが、無性に気に食わない。
「ねぇねぇ凪沙くーん」
「え? あ、はい」
休憩の時間に、先輩が嬉しそうな顔をして俺に話しかけてきた。
不意に名前を呼ばれて、思考がぶつ切りにされる。
振り向くと、休憩スペースの方から先輩が手を振っていた。
「あ、はい」
呼ばれるままにそっちへ向かうと、先輩はやけに楽しそうな顔をしていて、その時点でなんとなく嫌な予感がした。こういう顔のとき、大体ろくな話じゃない。
「ちょっといい?」
「いいですけど」
断る理由もなくて、とりあえず頷く。
椅子に座るように促されて、そのまま向かいに座ると、先輩は身を乗り出すみたいにして距離を詰めてきた。
近い近い近い。
「凪沙くんさ」
「はい」
「一ノ瀬くんと仲いいの?」
「……は?」
あまりにも直球すぎて、反応が一瞬遅れる。
「いや、ほら。今日もずっと隣じゃん。ていうか最近ずっとそうじゃない?」
先輩はくすっと笑いながら、さっきまでの店内の方に視線を向ける。
「たまたまだと思いますけど」
できるだけ即答する。
間を空けたら、余計に変な方向に取られそうだったから。
でも、なんか今日やけにたまたまって言ってる気がして、変に思われてないかと不安になった。
俺がこの言葉をずっと言い聞かせてるだけで。本当かどうかも怪しい。
「たまたま、ねぇ」
でも先輩は納得した様子もなく、むしろ面白がるように目を細めた。
「でもさ、一ノ瀬くんってああいうタイプだったっけ?」
「……どういう?」
「誰かにあんなくっつく感じ」
その言い方に、少しだけ引っかかる。
くっつくってなんだ……? いや確かにあいつはいつもひっつき虫みたいにくっついてくるけど、バイトのときはそんなことないはず。
「別にくっついてはないと思いますけど」
「えー、くっついてるよ?」
あっさり否定される。しかも悪気なく、当然みたいに。
自覚はなかった。いや、正確には、考えないようにしてただけかもしれない。
距離が近いのも、隣にいることが多いのも、全部たまたまってことで片付けてた。
でも、それが他人から見たらそうじゃないって言われると、急に逃げ場がなくなる。
だって、あいつの思考はきっと死んでもわからない。
「俺は別にそんなことは……」
言いかけて、少しだけ言葉が詰まる。別にの先が、うまく出てこない。関係ない、って言い切ればいいのに。
それなのに、なぜか言葉が引っかかる。
絶対怪しまれる……!
「へー? なにその間」
先輩がにやにやしながら覗き込んでくる。
「……なんでもないです」
視線を逸らす。
このまま続けたら、絶対ろくなことにならない。
もうすぐ休憩時間が終わると思って、話を終わらせようとした。
「何してたんですか?」
低い声がすぐ横から落ちてくる。びっくりするくらい近い距離で。
振り向くと、そこにいたのは一ノ瀬。さっきまで店内にいたはずなのに、いつの間にか休憩スペースまで来てる。
「一ノ瀬くん〜ちょうどいいとこに来たじゃん」
先輩は待ってましたと言わんばかりに笑う。
「何がですか」
「凪沙くんと仲いいのかなーって話してたの」
「……え、あ、は?」
一ノ瀬の眉が、ほんの少しだけ動く。
その変化を見た瞬間、あ、これ面倒なやつだ、って直感的に思う。
何かが彼にお気に召さなかったらしい。
「いや、別に。普通に仲良いですけど」
……は? 仲良い? ふざけるなよ。と怒鳴りそうになったけど、その言い方がいつもより少しだけ低くてはっきりしてて。さっきまでのどうでもよさそうなトーンと違っていて、俺は何も言えなかった。
「えー、でもさ」
先輩は全然引かない。むしろ楽しんでる。
この人、俺が入ったときからやっかいなんだよな……。底知れないというか。
「ずっと一緒にいるじゃん?」
「「そんなわけないですよ」」
俺と一ノ瀬の言葉が被って、一瞬だけ空気が止まる。
……は?
横を見ると、バチッと目が合った。その目が、ほんの少しだけ細くなった気がする。
「……なんだよ」
思わず聞けど、すぐに目を逸らされて。
「別に。意味はないから」
さっきと同じ返し。
でも、「その別に」には、さっきより少しだけ柔らかくて、どこか納得しているみたいな響きが混ざっていた。
「こら君たち、お客さん待ってるわよ! 行きなさい!」
「「「はーい」」」
俺の頭の中はいつも通りハテナマークなまま、店長に三人で叱られホールへ戻った。
閉店に近づくにつれて、店内は少しずつ静かになっていく。
作業も単調になって、考える余裕ができてしまう時間帯。
だからこそ、余計なことばかり浮かんでくる。
隣にいる気配、一定のリズムで動く音。
言葉はほとんど交わしてないのに、なぜかそこにいることだけははっきりわかる距離。
……これ、たまたまか? 今日だけじゃない。最近ずっとこうだ。
シフトが被るのも、配置が近いのも、気づけば隣にいるのも。全部たまたまで片付けるには、少し回数が多すぎる。
でも、わざとにしては理由がわからない。
……なんで俺なんだよ。答えなんて出るわけもなくて、ただ考えるだけ無駄なのに、それでも思考が止まらない。
グラスを拭く手が、少しだけ遅れる。
「それ、貸して」
「え? 何してんの……」
気づけば、すぐ横から手が伸びてきていた。
「水滴残ってる」
「別にいいだろ、それくらい」
「客に出すやつなんだけど」
「そんなことわかってるし」
軽く言い返すけど、結局そのままグラスは取られる。
一ノ瀬の指が、自分の手にほんの少し触れた。一瞬だけ。それだけなのに、やけに意識が引っかかる。
すぐに手を離したはずだったけど、そこだけ感覚が残っている気がして、無意識に指先をこすった。
「雑すぎだって」
「うるさい。お前は丁寧すぎんだよ」
短いやり取りだけで終わるのが、いつもの俺たちの会話。
どうせ内容もほぼ入ってないけど。
一ノ瀬は、いつもならもう少し何か言ってくるくせに今日はそれ以上何も言わない。
……なんだよ。逆に気になる。
沈黙がさっきより少しだけ重くなって。でも不思議と最初の頃より気まずいと思うことはなくなった。これも慣れというやつなのか?
ちらっと横を見ると、ちょうど同じタイミングで、彼もこちらを見ていて、視線がぶつかった。
逸らせばいいのに、なぜか一瞬遅れる。ほんの一瞬のはずが、長く感じる。
人と目をこんなに合わせるのは一度も人生でなくて、恥ずかしくて、目を泳がさざるにえなかった。
「……ど、どうした?」
先に口を開いたのは俺だった。
耐えきれなかった、みたいな言い方になってしまって少しだけ後悔する。
「いや……見てただけ」
「見てた、?」
思わず眉を寄せる。
いや、なんで見てたのかを聞いてるんだけど。何考えてんのこいつ。
「何を? 俺の顔になんか付いてた……?」
「さぁ、なんだろね。そのうちわかるんじゃね」
曖昧な返事に、少しイラッとくる。
はぐらかしてるのはわかるのに、それ以上聞く気になれない。
……意味わかんねぇ。でも、その見てたって言葉だけが、妙に残る。
仕事中で隣で同じことをしていただけで、わざわざ見る理由なんてないはずなのに。
ちょっと、胸がドキッとした。……いや、冗談かもしれない。
「手、止まってる」
「……あ?」
気づけば、自分の方が止まっていた。
一ノ瀬に指摘されるのはちょっとやっぱり腹が立つので、声をかけられないように丁寧に拭いた。
「考え事?」
「してねぇよ」
反射的に否定する。
認めたくないけど、すぐに視線を逸らしたのは自分の方だった。
……考え事してねぇわけないだろ。
さっきからずっとこいつのことばっか考えてるくせに。それを自覚した瞬間、余計に腹が立つ。
なんで、こんなことで。なんで、こいつで。理由もわからないまま、感情だけが引っかかる。
横にいる気配が、さっきより少しだけ近くて。
ちらっと横を見ると、またしても視線がぶつかった。
逸らせばいいのになぜだか今日の一ノ瀬の表情は、いつもよりいつもより静かで、何を考えているのか分からないのに、目を逸らすのが惜しいと思ってしまった。
そのほんのわずかな間が、やけに長く感じる。
おかしい。こんなふうに、人の顔を見ていたいなんて思ったこと、今まで一度もなかった。今までは、誰が何をしてようがどうでもよくて。
クラスメイトの顔も名前も、必要最低限しか覚えていなくて。
話しかけられたら返すけど、それ以上踏み込むことも、踏み込まれることも、全部避けてきたはずなのに。
なのに、今は。目の前にいるこいつのことだけ、妙に気になる。
「……なんだよ」
思わず小さく呟く。自分に向けたはずの言葉が、
「何が?」
横から普通に返ってきて、一瞬息が詰まる。
「なんでもねぇよ」
誤魔化すみたいに目を逸らす。
でも、一度意識してしまったせいで、余計に気配が強くなった。すぐ隣にいる。同じ空気を吸ってる。同じリズムで動いてる。
ただそれだけのことが、やけに現実味を持って迫ってくる。
……なんでだよ。理由がわからない。わからないのに、無視できない。それが一番、厄介だった。
「お前さ……さっきから、変」
「は? んなことない」
反射的に顔を上げて、視線がまたぶつかる。
さっきと同じ距離。同じはずなのに、今度はほんの少しだけ、逃げるのが遅れた。
俺、どうしちゃったんだろ……。
「なんか、考えてんだろ」
「してねぇって」
「してる顔」
真剣な顔で言われて、言葉に詰まる。否定ができなくて、言い切れなくて。
図星を突かれてる感覚が、じわっと広がる。
「うるさい」
「否定しねーじゃん」
「うるさいって言ってんだろ」
少しだけ強く言うと、一ノ瀬は小さく笑った。
声もほとんど出てない、ただ少しだけ口元が緩むだけの、気の抜けた笑い方。
それを見た瞬間、また引っかかる。
さっきまでの分からないとは違う。それでもやっぱり理解できないのに、嫌じゃないと思ってしまった自分に、ほんの少しだけ戸惑う。
「……ほんと、意味わかんねぇ」
「それ、どっちに言ってんの」
「どっちだろうな」
無意識に返した言葉に、自分で少し驚く。
こんなふうに、誰かとどうでもいい会話を続けることも、
それを切らなくていいと思うことも、今までなかったから。
教室に残るざわつきの中で、鞄に教科書を詰めながらも、意識はまったく別のところに引っ張られている。
たった数分しか話していないはずなのに、その時間だけが妙に濃くて、他の記憶を押しのけるみたいに残っているのが、正直気持ち悪かった。
……たかがバイト同じなだけだろ。
それ以上の意味なんてない。そう言い聞かせているのに、さっきの一ノ瀬の表情とか、距離の詰め方とか、そういう細かいところばっかり思い出してしまう自分がいて、余計にイラつく。
鞄のチャックを閉める音が、やけに大きく響いた。
「なぁ」
不意に声をかけられて顔を上げると、クラスメイトがこちらを見ていた。特別仲がいいわけでもない、名前も曖昧なやつ。でも、今この瞬間だけはやけに距離が近く感じる。
「一ノ瀬と話してたよな」
「……まぁ」
短く返すと、それだけで十分だったらしく、相手は少しだけ興味を強めた顔になる。その変化がわかるくらいには、周りの空気に意識が向いてしまっている自分がいる。
「知り合いなの?」
「たまたまだよ」
できるだけ温度を乗せないように返す。余計な意味を持たせないように、あえて素っ気なく。
それでも目の前の奴は気になるらしく、質問責めをしてきた。
「それだけ、にしてはさ」
その一言で、空気が少しだけ変わる。
言葉にされなくてもわかる。たまたまって言葉で片付けるには、さっきの距離は近すぎた、っていう含み。
……うるせえな。
そう思うのに、完全には否定しきれないのがまた厄介で。
結局、それ以上会話を広げる気にもなれなくて、適当に話を切り上げて教室を出た。
廊下に出た瞬間、さっきまでのざわつきとは違うざわめきが耳に入る。
女子たちの小さな声。笑い声。視線。その中に、ほんの少しだけ混ざる言葉。
「さっき玲央くんと話してたよね」
「え、あの子誰?」
「知り合いなのかな」
聞こえてないふりをしながら、足だけを前に進める。
居心地悪い……。
別に悪いことをしているわけじゃないのに、勝手に見られて、勝手に判断されるこの感じ。昔から嫌いだ。
関わらなければ済む話なのに、勝手に巻き込まれていく。
その原因があいつだってわかってるから、余計にタチが悪い。
バイト先に着いた頃には、少しだけ気持ちは落ち着いていた。
制服に着替えて、いつも通りの場所に立つ。見慣れた店内、聞き慣れた音、決まった動き。ここにいれば、余計なことを考えずに済む。
……はずだった。
「お、今日も一緒だな」
背後から軽い声がかかって、振り向かなくてもわかる。
後ろには一ノ瀬がいる。
「……どうも」
短く返すだけにする。
距離を取るつもりだった。さっきのこともあるし、これ以上変に目立つのも面倒だし。
でも、気づけば作業の配置が隣になっている。
別に指示されたわけでもないのに、自然とそうなってるのが一番意味わからない。勝手にのこのこと付いてくるのだ。ひっつき虫みたいに。
視線だけ横に向けると、彼は何事もない顔で仕事をしている。学校で見せる王子様の顔でもなく、かといって完全に無表情でもない、どこか気の抜けた、でも他人を寄せつけすぎないような微妙な表情。
その中途半端さが、逆に目につく。ほんと、わかんねえやつ。
「それ、持とうか?」
「……別にいい」
手が伸びてくる前に断る。
必要以上に関わらないように、意識して線を引こうとしてるんだけど、前に見た笑顔が忘れられなくて。……は? 何を考えてるんだ?
少しだけ遅れて、自分の中に違和感が残る。
意味がわからない。
別に、一人でできることだし、助けられる理由もない。
なのに一瞬だけ楽になる感じがしたのが、無性に気に食わない。
「ねぇねぇ凪沙くーん」
「え? あ、はい」
休憩の時間に、先輩が嬉しそうな顔をして俺に話しかけてきた。
不意に名前を呼ばれて、思考がぶつ切りにされる。
振り向くと、休憩スペースの方から先輩が手を振っていた。
「あ、はい」
呼ばれるままにそっちへ向かうと、先輩はやけに楽しそうな顔をしていて、その時点でなんとなく嫌な予感がした。こういう顔のとき、大体ろくな話じゃない。
「ちょっといい?」
「いいですけど」
断る理由もなくて、とりあえず頷く。
椅子に座るように促されて、そのまま向かいに座ると、先輩は身を乗り出すみたいにして距離を詰めてきた。
近い近い近い。
「凪沙くんさ」
「はい」
「一ノ瀬くんと仲いいの?」
「……は?」
あまりにも直球すぎて、反応が一瞬遅れる。
「いや、ほら。今日もずっと隣じゃん。ていうか最近ずっとそうじゃない?」
先輩はくすっと笑いながら、さっきまでの店内の方に視線を向ける。
「たまたまだと思いますけど」
できるだけ即答する。
間を空けたら、余計に変な方向に取られそうだったから。
でも、なんか今日やけにたまたまって言ってる気がして、変に思われてないかと不安になった。
俺がこの言葉をずっと言い聞かせてるだけで。本当かどうかも怪しい。
「たまたま、ねぇ」
でも先輩は納得した様子もなく、むしろ面白がるように目を細めた。
「でもさ、一ノ瀬くんってああいうタイプだったっけ?」
「……どういう?」
「誰かにあんなくっつく感じ」
その言い方に、少しだけ引っかかる。
くっつくってなんだ……? いや確かにあいつはいつもひっつき虫みたいにくっついてくるけど、バイトのときはそんなことないはず。
「別にくっついてはないと思いますけど」
「えー、くっついてるよ?」
あっさり否定される。しかも悪気なく、当然みたいに。
自覚はなかった。いや、正確には、考えないようにしてただけかもしれない。
距離が近いのも、隣にいることが多いのも、全部たまたまってことで片付けてた。
でも、それが他人から見たらそうじゃないって言われると、急に逃げ場がなくなる。
だって、あいつの思考はきっと死んでもわからない。
「俺は別にそんなことは……」
言いかけて、少しだけ言葉が詰まる。別にの先が、うまく出てこない。関係ない、って言い切ればいいのに。
それなのに、なぜか言葉が引っかかる。
絶対怪しまれる……!
「へー? なにその間」
先輩がにやにやしながら覗き込んでくる。
「……なんでもないです」
視線を逸らす。
このまま続けたら、絶対ろくなことにならない。
もうすぐ休憩時間が終わると思って、話を終わらせようとした。
「何してたんですか?」
低い声がすぐ横から落ちてくる。びっくりするくらい近い距離で。
振り向くと、そこにいたのは一ノ瀬。さっきまで店内にいたはずなのに、いつの間にか休憩スペースまで来てる。
「一ノ瀬くん〜ちょうどいいとこに来たじゃん」
先輩は待ってましたと言わんばかりに笑う。
「何がですか」
「凪沙くんと仲いいのかなーって話してたの」
「……え、あ、は?」
一ノ瀬の眉が、ほんの少しだけ動く。
その変化を見た瞬間、あ、これ面倒なやつだ、って直感的に思う。
何かが彼にお気に召さなかったらしい。
「いや、別に。普通に仲良いですけど」
……は? 仲良い? ふざけるなよ。と怒鳴りそうになったけど、その言い方がいつもより少しだけ低くてはっきりしてて。さっきまでのどうでもよさそうなトーンと違っていて、俺は何も言えなかった。
「えー、でもさ」
先輩は全然引かない。むしろ楽しんでる。
この人、俺が入ったときからやっかいなんだよな……。底知れないというか。
「ずっと一緒にいるじゃん?」
「「そんなわけないですよ」」
俺と一ノ瀬の言葉が被って、一瞬だけ空気が止まる。
……は?
横を見ると、バチッと目が合った。その目が、ほんの少しだけ細くなった気がする。
「……なんだよ」
思わず聞けど、すぐに目を逸らされて。
「別に。意味はないから」
さっきと同じ返し。
でも、「その別に」には、さっきより少しだけ柔らかくて、どこか納得しているみたいな響きが混ざっていた。
「こら君たち、お客さん待ってるわよ! 行きなさい!」
「「「はーい」」」
俺の頭の中はいつも通りハテナマークなまま、店長に三人で叱られホールへ戻った。
閉店に近づくにつれて、店内は少しずつ静かになっていく。
作業も単調になって、考える余裕ができてしまう時間帯。
だからこそ、余計なことばかり浮かんでくる。
隣にいる気配、一定のリズムで動く音。
言葉はほとんど交わしてないのに、なぜかそこにいることだけははっきりわかる距離。
……これ、たまたまか? 今日だけじゃない。最近ずっとこうだ。
シフトが被るのも、配置が近いのも、気づけば隣にいるのも。全部たまたまで片付けるには、少し回数が多すぎる。
でも、わざとにしては理由がわからない。
……なんで俺なんだよ。答えなんて出るわけもなくて、ただ考えるだけ無駄なのに、それでも思考が止まらない。
グラスを拭く手が、少しだけ遅れる。
「それ、貸して」
「え? 何してんの……」
気づけば、すぐ横から手が伸びてきていた。
「水滴残ってる」
「別にいいだろ、それくらい」
「客に出すやつなんだけど」
「そんなことわかってるし」
軽く言い返すけど、結局そのままグラスは取られる。
一ノ瀬の指が、自分の手にほんの少し触れた。一瞬だけ。それだけなのに、やけに意識が引っかかる。
すぐに手を離したはずだったけど、そこだけ感覚が残っている気がして、無意識に指先をこすった。
「雑すぎだって」
「うるさい。お前は丁寧すぎんだよ」
短いやり取りだけで終わるのが、いつもの俺たちの会話。
どうせ内容もほぼ入ってないけど。
一ノ瀬は、いつもならもう少し何か言ってくるくせに今日はそれ以上何も言わない。
……なんだよ。逆に気になる。
沈黙がさっきより少しだけ重くなって。でも不思議と最初の頃より気まずいと思うことはなくなった。これも慣れというやつなのか?
ちらっと横を見ると、ちょうど同じタイミングで、彼もこちらを見ていて、視線がぶつかった。
逸らせばいいのに、なぜか一瞬遅れる。ほんの一瞬のはずが、長く感じる。
人と目をこんなに合わせるのは一度も人生でなくて、恥ずかしくて、目を泳がさざるにえなかった。
「……ど、どうした?」
先に口を開いたのは俺だった。
耐えきれなかった、みたいな言い方になってしまって少しだけ後悔する。
「いや……見てただけ」
「見てた、?」
思わず眉を寄せる。
いや、なんで見てたのかを聞いてるんだけど。何考えてんのこいつ。
「何を? 俺の顔になんか付いてた……?」
「さぁ、なんだろね。そのうちわかるんじゃね」
曖昧な返事に、少しイラッとくる。
はぐらかしてるのはわかるのに、それ以上聞く気になれない。
……意味わかんねぇ。でも、その見てたって言葉だけが、妙に残る。
仕事中で隣で同じことをしていただけで、わざわざ見る理由なんてないはずなのに。
ちょっと、胸がドキッとした。……いや、冗談かもしれない。
「手、止まってる」
「……あ?」
気づけば、自分の方が止まっていた。
一ノ瀬に指摘されるのはちょっとやっぱり腹が立つので、声をかけられないように丁寧に拭いた。
「考え事?」
「してねぇよ」
反射的に否定する。
認めたくないけど、すぐに視線を逸らしたのは自分の方だった。
……考え事してねぇわけないだろ。
さっきからずっとこいつのことばっか考えてるくせに。それを自覚した瞬間、余計に腹が立つ。
なんで、こんなことで。なんで、こいつで。理由もわからないまま、感情だけが引っかかる。
横にいる気配が、さっきより少しだけ近くて。
ちらっと横を見ると、またしても視線がぶつかった。
逸らせばいいのになぜだか今日の一ノ瀬の表情は、いつもよりいつもより静かで、何を考えているのか分からないのに、目を逸らすのが惜しいと思ってしまった。
そのほんのわずかな間が、やけに長く感じる。
おかしい。こんなふうに、人の顔を見ていたいなんて思ったこと、今まで一度もなかった。今までは、誰が何をしてようがどうでもよくて。
クラスメイトの顔も名前も、必要最低限しか覚えていなくて。
話しかけられたら返すけど、それ以上踏み込むことも、踏み込まれることも、全部避けてきたはずなのに。
なのに、今は。目の前にいるこいつのことだけ、妙に気になる。
「……なんだよ」
思わず小さく呟く。自分に向けたはずの言葉が、
「何が?」
横から普通に返ってきて、一瞬息が詰まる。
「なんでもねぇよ」
誤魔化すみたいに目を逸らす。
でも、一度意識してしまったせいで、余計に気配が強くなった。すぐ隣にいる。同じ空気を吸ってる。同じリズムで動いてる。
ただそれだけのことが、やけに現実味を持って迫ってくる。
……なんでだよ。理由がわからない。わからないのに、無視できない。それが一番、厄介だった。
「お前さ……さっきから、変」
「は? んなことない」
反射的に顔を上げて、視線がまたぶつかる。
さっきと同じ距離。同じはずなのに、今度はほんの少しだけ、逃げるのが遅れた。
俺、どうしちゃったんだろ……。
「なんか、考えてんだろ」
「してねぇって」
「してる顔」
真剣な顔で言われて、言葉に詰まる。否定ができなくて、言い切れなくて。
図星を突かれてる感覚が、じわっと広がる。
「うるさい」
「否定しねーじゃん」
「うるさいって言ってんだろ」
少しだけ強く言うと、一ノ瀬は小さく笑った。
声もほとんど出てない、ただ少しだけ口元が緩むだけの、気の抜けた笑い方。
それを見た瞬間、また引っかかる。
さっきまでの分からないとは違う。それでもやっぱり理解できないのに、嫌じゃないと思ってしまった自分に、ほんの少しだけ戸惑う。
「……ほんと、意味わかんねぇ」
「それ、どっちに言ってんの」
「どっちだろうな」
無意識に返した言葉に、自分で少し驚く。
こんなふうに、誰かとどうでもいい会話を続けることも、
それを切らなくていいと思うことも、今までなかったから。


