閉店後、制服の隣で。

最近、やたらとうるさい。
いや前からうるさかったはずなんだけど、いつにも増して声が耳に響く。
「玲央ー!ねえ今日さ、ちょっといい!?」
「待って待って、私が先に話あるんだけど!」
廊下の向こうから飛んでくる声は相変わらず軽くて、明るくて、遠慮がない。
わざわざ見に行かなくても分かる。その中心にいるのは、どうせいつもの奴だ。
「……また始まったな」
ぼそっと呟いた声に、横からすぐ返事がくる。
「ほんとそれな。毎日よく飽きねーよな、あの人だかり」
隣で壁にもたれながら、だるそうに笑うのは隣のクラスの種崎。今日は友達との予定がないそうで、こうやってお昼ご飯を一緒に食べている。
種崎とは気を使わなくていい距離っていうか、無理に会話を続けなくても成立する感じが楽で。
ほんとに種崎には感謝しかない。こんな俺に構ってくれてさ。
「お前さ」
種崎が、わざとらしく顎で人混みの方を示す。
「絶対ああいうの無理なタイプだろ」
「無理っていうか」
少しだけ視線を向ける。人の輪の中心。当たり前みたいに笑ってる、一ノ瀬。
「……ああいうのに、興味持つ理由がわかんないだけ」
誰にでも同じ笑顔をして、距離感も近くて、名前呼んだり。見てるだけで分かる。慣れてるやつの動きだ。
「はい出たー、冷めてる発言」
種崎が笑いながら、俺の肩を叩く。
い、痛い……。あはは。
「でもさ、それ言うわりには……最近、見てるよな」
「見てない」
即答する。
でも、その返しが早すぎたのか、種崎はにやっと笑った。
ときどきこいつは少し勘があたりすぎて怖い時がある。
「いや、今普通に見てたって。てかさ、前より目で追ってる回数増えてんの、自覚ない?」
種崎はにやにやしながら俺に迫ってくる。
何かこの人の心を動かしてしまったみたいだ……。こうなった種崎は止められない。お終いだ。
目で追ってるって……あんなやつにそんなことするわけやいだろ。
「ない」
「いやあるって」
「ないって言ってんだろ」
少し強めに言うと、種崎は肩をすくめる。
いやでも、一ノ瀬がこっちに来ないか見てた気はする。だって、あいつが来たら厄介なことに巻き込まれないことはない。
「はいはい。でもさーこの前、普通に話してなかった?」
種崎の言葉に、一瞬言葉に詰まる。
……全然わかってなさそうだけど。
「……バイト同じなだけだよ」
できるだけ淡々と返す。それ以上でも、それ以下でもない。
事実だし。俺と一ノ瀬じゃ住んでる世界が違う。
「ふーん、バイトだけね」
種崎はつまらなそうに唇を尖らせる。
何がお気に召さなかったのかよくわからない。
もしかして、俺と一ノ瀬が変な関係性を持ってるとか予想してたのか? さすがに無理があるだろ。
首を振りながら種崎に言葉を投げ込む。
「それ以外ないけど」
「いやでもさそれだけにしては、あいつの距離近くね?」
「近くない」
種崎が少しだけ身を乗り出して、俺の耳に小声って言う。
……陽キャはみんな距離感バグってるんだぞ。
「いや、近いって。あいつ、自分から来てたじゃん」
「あ、あれはだって……」
あれは……ただ、たまたま。そう思いたいのに、頭の中に浮かぶのは、あのときの顔。
学校で見せる“王子様の笑顔”じゃない、少しだけ気の抜けた表情。
……なんであれを思い出すんだよ。というかずっと黙っているってことは肯定してるみたいじゃねぇか。
やばいやばい。誤解が生まれたらたまったもんじゃない!
「気のせいだよ」
短く切るけど、種崎は引かない。
俺は人だかりの中にいる一ノ瀬に目を向けながらもう一度「気のせい」と呟いた。
でも、それでも種崎は引かないらしく、まだ責めてくる。
「でもさ、普通に考えてさお前嫌ならもっと避けてるだろ」
「……避けてるけど」
「全然避けれてないじゃん」
避けても避けても、気づいたらあいつが目の前にいるんだよ。どうしろって言うんだ。
あぁ、ムカつく! あの顔!!
「むしろ、あいつ来るの待ってる側に見えるけど」
「……は?」
イライラしていた感情は種崎に言われた言葉によって、さーっと引いていって驚きを隠せぬまま顔を上げる。
「そんなわけないだろ」
「いや、なんかそんな感じする」
種崎の勘はいつも鋭いが、こればかりは絶対に違う。
俺が一ノ瀬なんかを待ってるって、そんなわけ……。
「図星か〜」
「ち、ちげぇし!」
完全に否定しきれない自分がいるのが、余計にイラつく。
それに、少しだけ当たってしまっているのかと思っている自分がいて。
……いやいやいや待ってるわけないだろ。ただ、来るから対応してるだけだ。永遠と自分に言い聞かせていると、後ろからでかい影が見えた。
「なーに話してんの」
「っ……」
すぐ後ろから低い声が落ちてきて、一瞬で背中が強張る。
振り向かなくても分かる。この声、この距離感。
「……別に」
振り向きながら、できるだけいつも通りに返す。
一ノ瀬のやつっ……! 俺、やっぱり呪い祓ってもらわないと。なんでこいつの話すると絶対やってくるんだよ。
さっきまで人に囲まれてたはずのやつが、何事もなかったみたいな顔で立ってるし。
一ノ瀬は「ふーん」と少しだけ口角を上げて、俺の隣に座る。
き、気まづい……。種崎にはさっき仲良くない、なんてほざいてたくせに秒で答え合わせだし。
いや別に仲良いとかじゃないけど、横でニコニコしながら俺を見てきてそう。怖い。
「なんで来んの」
思ったままを口に出す。本当ならこのまま帰ってほしいのだが、なぜか少しだけここにいて欲しいという思いがあった。
あとで絶対バイトで会えるのに。
「来ちゃだめ?」
「だめじゃないけど」
「じゃあいいじゃん」
いつものように軽い返しをしてくるのに、今日はいつにも増して表情が不機嫌だ。笑顔に怒りが滲んでいる。
……ほんと、意味わかんねえ。
「種崎だっけ」
一ノ瀬が俺の隣を見て、声をかけた。
まるで決闘でも始まるのか? というくらい一ノ瀬は機嫌が悪い。なぜかはまじで知らないけど。
「あ、うん。そうだよ」
種崎は普通に答えてるけど、声がほんの少しだけ上がってる。
まあそりゃそうか。相手はあの一ノ瀬玲央だ。話しかけられるのも、同じクラスになっても一回あるかないかだろう。
「凪沙と仲いいの?」
種崎はさっき俺に質問したことと同じようなことを一ノ瀬に聞く。
「まあ、最近は一緒にいること多いかもね」
「そっか」
短い返事なのに、なんか視線が外れない。その空気が、少しだけ重くなる。
少し沈黙が流れて俺はずっと目を泳がせていた。
……なんだよ、この感じ。さっきまで普通に話してたのに。妙に、落ち着かない。
「……じゃ、俺行くわ」
「あ、うん」
種崎が空気読んで、教室を出た。
いや何も空気読んでないだろ。俺が一ノ瀬を嫌いなこと知ってるくせに……!
種崎あとで覚えてろよまじで。
「今日バイト一緒に行く?」
「……は?」
一ノ瀬が当たり前みたいに俺を見て言い、思わず間抜けな声が出る。
彼は相変わらず仏頂面で、機嫌を取り戻していない。
俺は急に二人きりになって、機嫌を悪くしているんだけど。
「バイトでしょ。どうせ行くんじゃん」
「……なんで知ってんの」
理由は怖いからずっと聞きたくなかったけど、意を決して聞いてみる。
想像しただけで寒気がする。
「この前、スマホ見てたときシフトの画面ちらっと見えた」
「見てんじゃねえよ」
「目に入っただけ」
やっぱりろくなことじゃない……。しかも、さらっとすごいこと言われるし。
一ノ瀬の思考回路も何がしたいのかも、一ノ瀬のことも何も知らないのに、少しだけこの時間が居心地いいと思ってしまうのは、バイトのとき一緒にいるとやりやすいと思うのと同じなのか?
「いや、一人で行くよ」
距離を取ろうとして、お弁当箱をしまって次の授業の準備をする。
「いいじゃん。一緒で」
間を詰められて、行動が止まる。自然に、逃げ道塞がれる感じ。
「別にお前と行く理由ないし」
「俺はあるけど」
……ほんと、適当だな。
理由になってないし、説明する気もない感じが余計に腹立つ。
「何その理由」
「言ってもわかんねーと思う」
「は?」
ムカつく言い方。
でも、それ以上聞く気にもならなくて、結局そのまま黙る。
沈黙が落ちて、手を無意識にいじってしまう。隣にいるのに、距離が近いのに、妙に言葉が出ない。
……なんなんだよ、こいつ。
授業が始まるギリギリまで、結局そのままだった。

放課後になっても、さっきの空気が頭から離れなかった。
教室に残るざわつきの中で、鞄に教科書を詰めながらも、意識はまったく別のところに引っ張られている。
たった数分しか話していないはずなのに、その時間だけが妙に濃くて、他の記憶を押しのけるみたいに残っているのが、正直気持ち悪かった。
……たかがバイト同じなだけだろ。
それ以上の意味なんてない。そう言い聞かせているのに、さっきの一ノ瀬の表情とか、距離の詰め方とか、そういう細かいところばっかり思い出してしまう自分がいて、余計にイラつく。
鞄のチャックを閉める音が、やけに大きく響いた。
「なあ」
不意に声をかけられて顔を上げると、クラスメイトがこちらを見ていた。特別仲がいいわけでもない、名前も曖昧なやつ。でも、今この瞬間だけはやけに距離が近く感じる。
「一ノ瀬と話してたよな」
「……まあ」
短く返すと、それだけで十分だったらしく、相手は少しだけ興味を強めた顔になる。その変化がわかるくらいには、周りの空気に意識が向いてしまっている自分がいる。
「知り合いなの?」
「バイト一緒なだけ」
できるだけ温度を乗せないように返す。余計な意味を持たせないように、あえて素っ気なく。
それでも目の前の奴は気になるらしく、質問責めをしてきた。
「それだけ、にしてはさ」
その一言で、空気が少しだけ変わる。
言葉にされなくてもわかる。ただのバイト仲間って言葉で片付けるには、さっきの距離は近すぎた、っていう含み。
……うるせえな。
そう思うのに、完全には否定しきれないのが、また厄介で。
結局、それ以上会話を広げる気にもなれなくて、適当に話を切り上げて教室を出た。
廊下に出た瞬間、さっきまでのざわつきとは違うざわめきが耳に入る。
女子たちの小さな声。笑い声。視線。その中に、ほんの少しだけ混ざる言葉。
──「さっき玲央くんと話してたよね」
――「え、あの子誰?」
――「知り合いなのかな」
聞こえてないふりをしながら、足だけを前に進める。
居心地悪い……。
別に悪いことしてるわけじゃないのに、勝手に見られて、勝手に判断されるこの感じ。昔から嫌いだ。
関わらなければ済む話なのに、勝手に巻き込まれていく。
その原因が、あいつだってわかってるから余計にタチが悪い。
バイト先に着いた頃には、少しだけ気持ちは落ち着いていた。
制服に着替えて、いつも通りの場所に立つ。見慣れた店内、聞き慣れた音、決まった動き。ここにいれば、余計なことを考えずに済む。
……はずだった。
「お、今日も一緒だな」
背後から軽い声がかかって、振り向かなくてもわかる。
後ろには一ノ瀬がいる。
「……どうも」
短く返すだけにする。
距離を取るつもりだった。さっきのこともあるし、これ以上変に目立つのも面倒だし。
でも、気づけば作業の配置が隣になっている。
別に指示されたわけでもないのに、自然とそうなってるのが一番意味わからない。勝手にのこのこと付いてくるのだ。ひっつき虫みたいに。
視線だけ横に向けると、彼は何事もない顔で仕事をしている。学校で見せる“王子様の顔”でもなく、かといって完全に無表情でもない、どこか気の抜けた、でも他人を寄せつけすぎないような微妙な表情。
その中途半端さが、逆に目につく。ほんと、わかんねえやつ。
「それ、持とうか?」
「……別にいい」
手が伸びてくる前に断る。
必要以上に関わらないように、意識して線を引こうとしてるんだけど、前に見た笑顔が忘れられなくて。……は? 何を考えてるんだ?
少しだけ遅れて、自分の中に違和感が残る。
意味がわからない。
別に、一人でできることだし、助けられる理由もない。
なのに一瞬だけ楽になる感じがしたのが、無性に気に食わない。
「ねぇねぇ凪沙くーん」
「え? あ、はい」
休憩の時間に先輩が何か嬉しそうに俺に話しかけてきた。
不意に名前を呼ばれて、思考がぶつ切りにされる。
振り向くと、休憩スペースの方から先輩が手を振っていた。
「あ、はい」
呼ばれるままにそっちへ向かうと、先輩はやけに楽しそうな顔をしていて、その時点でなんとなく嫌な予感がした。こういう顔のとき、大体ろくな話じゃない。
「ちょっといい?」
「……はい」
断る理由もなくて、とりあえず頷く。
椅子に座るように促されて、そのまま向かいに座ると、先輩は身を乗り出すみたいにして距離を詰めてきた。
近い近い近い。
「凪沙くんさ」
「はい」
「一ノ瀬くんと仲いいの?」
「……は?」
あまりにも直球すぎて、反応が一瞬遅れる。
「いや、ほら」
先輩はくすっと笑いながら、さっきまでの店内の方に視線を向ける。
「今日もずっと隣じゃん。ていうか最近ずっとそうじゃない?」
「……たまたまです」
できるだけ即答する。
間を空けたら、余計に変な方向に取られそうだったから。
「たまたま、ねぇ」
でも先輩は納得した様子もなく、むしろ面白がるように目を細めた。
「でもさ、一ノ瀬くんってああいうタイプだったっけ?」
「……どういう」
「誰かにあんなくっつく感じ」
その言い方に、少しだけ引っかかる。
くっつくってなんだ……? いや確かにあいつはいつもひっつき虫みたいにくっついてくるけど、バイトのときはそんなことないはず。
「別にくっついてはないと思いますけど」
「えー、くっついてるよ?」
あっさり否定される。しかも悪気なく、当然みたいに。
自覚はなかった。
いや、正確には、考えないようにしてただけかもしれない。
距離が近いのも、隣にいることが多いのも、全部たまたまってことで片付けてた。
でも、それが他人から見たらそうじゃないって言われると、急に逃げ場がなくなる。
だって、あいつの思考きっと死んでもわからない。
「俺は別に」
言いかけて、少しだけ言葉が詰まる。別にの先が、うまく出てこない。関係ない、って言い切ればいいのに。
それなのに、なぜか言葉が引っかかる。
怪しまれる……!
「へー?」
先輩がにやにやしながら覗き込んでくる。
「なにその間」
「……なんでもないです」
視線を逸らす。
このまま続けたら、絶対ろくなことにならない。
もうすぐ休憩時間が終わると思って、話を終わらせようとした。
「なに話してんの」
低い声がすぐ横から落ちてくる。びっくりするくらい近い距離で。
振り向くと、そこにいたのは一ノ瀬。さっきまで店内にいたはずなのに、いつの間にか休憩スペースまで来てる。
「一ノ瀬くん〜ちょうどいいとこに来たじゃん」
先輩は待ってましたと言わんばかりに笑う。
「何がですか」
「凪沙くんと仲いいのかなーって話してたの」
「……は?」
一ノ瀬の眉が、ほんの少しだけ動く。
その変化を見た瞬間、あ、これ面倒なやつだ、って直感的に思う。
何かが彼にお気に召さなかったらしい。
「別に」
短い否定だけど、その言い方がいつもより少しだけ低くてはっきりしてて。さっきまでのどうでもよさそうなトーンと違う。
「えー、でもさ」
先輩は全然引かない。むしろ楽しんでる。
この人入ったときからやっかいなんだよな……。底知れないというか。
「ずっと一緒にいるじゃん?」
「「たまたまですよ」」
俺と一ノ瀬の言葉が被って、一瞬だけ、空気が止まる。
……は?
横を見ると、バチッと目が合った。その目が、ほんの少しだけ細くなった気がした。
「……何」
思わず聞けど、すぐに目をそらされて。
「別に」
さっきと同じ返し。
でも、その別には、さっきより少しだけ柔らかくて、どこか納得してるみたいな響きが混ざっていた。
「こら君たち、お客さん待ってるわよ! 行きなさい!」
「「「はーい」」」
俺の頭の中はいつも通りハテナマークなまま、店長に三人で叱られホールへ戻った。

閉店に近づくにつれて、店内は少しずつ静かになっていく。
作業も単調になって、考える余裕ができてしまう時間帯。
だからこそ、余計なことばかり浮かんでくる。
隣にいる気配、一定のリズムで動く音。
言葉はほとんど交わしてないのに、なぜかそこにいることだけははっきりわかる距離。
……これ、たまたまか? 今日だけじゃない。最近ずっと、こうだ。
シフトが被るのも、配置が近いのも、気づけば隣にいるのも。全部たまたまで片付けるには、少し回数が多すぎる。
でも、わざとにしては理由がわからない。
……なんで俺なんだよ。答えなんて出るわけもなくて、ただ考えるだけ無駄なのに、それでも思考が止まらない。
グラスを拭く手が、少しだけ遅れる。
「それ、貸して」
「……え?」
気づけば、すぐ横から手が伸びてきていた。
「水滴残ってる」
「……別にいいだろ、それくらい」
「客に出すやつなんだけど」
「……わかってるし」
軽く言い返すけど、結局そのままグラスは取られる。
一ノ瀬の指が、自分の手にほんの少し触れた。
一瞬だけ。それだけなのに、妙に意識が引っかかる。
すぐに手を離したはずなのに、そこだけ感覚が残ってる気がして、無意識に指先をこすった。
「雑すぎだって」
「うるさい」
短いやり取り。
それだけで終わるはずなのに、なぜか続かない。
いつもならもう少し何か言ってくるくせに、今日はそれ以上何も言わない。
……なんだよ。逆に気になる。
沈黙がさっきより少しだけ重くなって。でも不思議と最初の頃より気まずいと思うことはなくなった。これも慣れというやつなのか?
ふと横を見ると、ちょうど同じタイミングで、彼もこちらを見ていて、視線がぶつかった。
逸らせばいいのに、なぜか一瞬遅れる。ほんの一瞬のはずなのに、やけに長く感じる。
人と目をこんなに合わせるのは一度も人生でなくて、恥ずかしくて、目を泳がさざるにえなかった。
「……何?」
先に口を開いたのは俺だった。
耐えきれなかった、みたいな言い方になってしまって少しだけ後悔する。
「別に……見てただけ」
「は?」
思わず眉を寄せる。
いや、なんで見てたのか聞いてるんだけど。
「何を? 俺の顔になんか付いてた?」
「……さあ、なんだろね。そのうちわかるんじゃね」
曖昧な返事に、少しイラッとくる。
はぐらかしてるのはわかるのに、それ以上聞く気になれない。
……意味わかんねえ。でも、その見てたって言葉だけが、妙に残る。
仕事中なのに。隣で同じことしてただけなのに。わざわざ、見る理由なんてないはずなのに。
「手、止まってる」
「……あ?」
気づけば、自分の方が止まっていた。
「考え事?」
「してねぇよ」
反射的に否定する。
認めたくないけど、すぐに視線を逸らしたのは自分の方だった。
……してねえわけないだろ。さっきからずっと、こいつのことばっか考えてるくせに。それを自覚した瞬間、余計に腹が立つ。
なんで、こんなことで。なんで、こいつで。理由もわからないまま、感情だけが引っかかる。
横にいる気配が、さっきより少しだけ近くて。
ちらっと横を見ると、またしても視線がぶつかった。
逸らせばいいのになぜだか今日の一ノ瀬の表情は、いつもよりいつもより静かで、何を考えているのか分からないのに、目を逸らすのが惜しいと思ってしまった。
そのほんのわずかな間が、やけに長く感じた。
おかしい。こんなふうに、人の顔を見ていたいなんて思ったこと、今まで一度もなかった。
今までは、誰が何をしてようがどうでもよくて。
クラスメイトの顔も名前も、必要最低限しか覚えてなくて。
話しかけられたら返すけど、それ以上踏み込むことも、踏み込まれることも、全部避けてきたはずなのに。
なのに、今は。目の前にいるこいつのことだけ、妙に気になる。
「……なんだよ」
思わず小さく呟く。自分に向けた言葉のはずなのに、
「何が?」
横から普通に返ってきて、一瞬息が詰まる。
「……別に」
誤魔化すみたいに目を逸らす。
でも、一度意識してしまったせいで、余計に気配が強くなった。すぐ隣にいる。同じ空気を吸ってる。同じリズムで動いてる。
ただそれだけのことが、やけに現実味を持って迫ってくる。
……なんでだよ。理由がわからない。わからないのに、無視できない。それが一番、厄介だった。
「お前さ……さっきから、変」
「は? んなことない」
反射的に顔を上げて、視線がまたぶつかる。
さっきと同じ距離。同じはずなのに、今度はほんの少しだけ、逃げるのが遅れた。
俺、どうしちゃったんだろ……。
「なんか、考えてんだろ」
「してねぇって」
「してる顔」
真剣な顔で言われて、言葉に詰まる。否定したいのに、言い切れない。
図星を突かれてる感覚が、じわっと広がる。
「……うるさい」
「否定しねーじゃん」
「……うるさいって言ってんだろ」
少しだけ強く言うと、一ノ瀬は小さく笑った。
声もほとんど出てない、ただ少しだけ口元が緩むだけの、気の抜けた笑い方。
それを見た瞬間、また引っかかる。なんだよそれ。
さっきまでの分からないとは違う。
それでもやっぱり理解できないのに、嫌じゃないと思ってしまった自分に、ほんの少しだけ戸惑う。
「……ほんと、意味わかんねぇ」
「それ、どっちに言ってんの」
「……どっちだろうな」
無意識に返した言葉に、自分で少し驚く。
こんなふうに、誰かとどうでもいい会話を続けることも、
それを切らなくていいと思うことも、今までなかったから。