閉店後、制服の隣で。

朝、目が覚めた瞬間。
「……最悪」
ぼそっと呟いて、枕に顔を埋めた。
昨日のこと、思い出してしまったからだ。
だって、制服を取り違えたんだぞ? よりにもよって、あいつ。……一ノ瀬玲央と。
なんでだよほんと……。俺って運悪いよなぁほんと。
昔はドジなせいもあったけど、何も無いところで転んでしまったり、傘がない日に限って豪雨になったり、自販機でお金を入れても出てこなかったり。もう散々だ。
「はぁ……」
人に興味なんてないはずなのに、頭から離れないのが一番めんどくさい。
ゆっくり起き上がって、ぼーっとしたまま支度をする。
制服に袖を通そうとして、ふと止まった。
違う、違う。これは俺のじゃない。俺の制服はまだ更衣室の中なんだった。
小さく息を吐いて、ハンガーに掛けられているもう一着の制服を取った。
危ない危ない。また人のを着るところだった。せっかく洗ったのに台無しになってしまう。
制服が二着あってよかった……。
一ノ瀬の返さないと。約束したし。あいつ、ああいうとこちゃんと覚えてそうだし。
……めんどくさ。正直、関わりたくない。一ノ瀬みたいなキラキラなタイプ、一番苦手だ。いつも周りに人がいて、中心にいて。
……別世界の人間。でも……。
「……約束、破るのもな」
小さく呟いて、鞄を閉じる。約束は約束だ。それくらいは守れる。
さっさと返して去ってしまおう。
これでもう終わりだから。最初から無関係の人だし。

学校に着いてすぐ、俺は体育館へ向かった。
朝の更衣室はまだ静かで、人も少ない。ロッカーを開け、辺りを見渡す。
「……あった……!」
そこにあったのは、見慣れた自分の制服。
無事にあってほっとする。当たり前なのに、なんか安心した。
ほんとに自分のか少し不安になって、今着ているのを脱ぎ、見つかった制服を一度着た。
また他のやつのだったら最悪だ……。
でも、サイズも、着心地も、全部しっくりくる。
きっと俺のだ。いや絶対。
昨日の、やっぱ全然違ったな。一瞬、思い出す。
少し大きかった袖。あと、あの匂い。柔軟剤っぽい、落ち着く匂い。
「……いや、どうでもいい」
首を振って、その記憶を追い出す。ほんとにどうでもいいことだ。
そう思って、更衣室を出た。
とは言ったものの、問題はここからだ。
あいつ、どこにいんだよ……。校舎を歩きながら、さりげなく周りを見る。
一ノ瀬玲央。探そうと思わなくても、勝手に目に入る存在のはずなのに。いざ探すと、見つからない。
……いや。いた。すぐにわかった。
廊下の先の人だかりの中心で笑っている。
今日もあいつは囲まれていて、昨日のバイトでは想像もつかないくらい、王子様の笑顔を浮かべていた。
距離が近い。陽キャはみなバグっているのだろうか。
女子も男子も関係なく、普通に話してる。
……ああ。やっぱ、そういうやつ。
納得する。あれが“学校一の王子様”。
……でも無理だわ。関わるの、やっぱ無理。あの中に入るとか、絶対無理。空気も世界も、何もかもが違う。
まぁバイトで渡せばいいだろ。あいつも、もう一着の制服着てるし、今日は困らないだろうから。
どうせ今日もシフト被るし、そのとき返せばいいか。
わざわざここで渡す必要ない。そう思って、くるっと背を向け、歩きだそうとした瞬間。
「おい」
「っ……!」
背後から声が、今一番聞きたくのない声がして、心臓が跳ねた。
「どこ行く気だよ」
ゆっくり振り返って、わかっていたはずなのに、顔を恐る恐るあげるのと同時に顔が青ざめ始める。
「……なんで」
なんで。なんでここにいる。さっきまであっちにいたじゃん。
こいつ瞬間移動もできるのか?
「見つけた」
軽く言って、こっちを見る。
見つけたって……。こっちのセリフなんですけど。何その、すんなりした顔。
やっぱムカつく。その顔は、さっきまで見てた“王子様の笑顔”。
周りの視線が、一気にこっちに集まる。
「え、誰?」
「一ノ瀬が話しかけてる」
「やば」
……最悪。ざわざわする空気がめちゃくちゃ居心地悪い。
「……これ」
すぐに鞄から制服を取り出して、押し付けるみたいに渡す。
「昨日のです。洗ってあります」
それだけ言ってそれ以上話す気はない。
流れるように、俺はその場から離れようとした。
「それで終わり?」
「……は?」
思わず顔上げてみれば、一ノ瀬はちょっとだけ眉寄せていた。
「渡して、はい終わり?」
いやそりゃそうでしょ。
何その、期待に満ちた顔は。みんな俺たちのこと見てるのに。
「終わりでいいですけど」
「つまんな」
「は?」
意味がわかんない。こっちは終わらせたいんだけど。もう一生関わりたくもなんてないんだけど。
「約束守ったんですから、もういいじゃないですか」
「敬語やめろって」
はぁ? こいつ、ほんとに何がしたいのかさっぱりわからない。
「無理です」
「なんで」
「なんでもです」
距離詰められるの嫌だから。関わりたくなんてないに決まってるじゃん。
それ以上でもそれ以下でもない。一ノ瀬はちょっとだけ黙って、じっとこっちを見る。観察するみたいに。
なんなんだよ……。居心地悪いな。
でも、なんだか目が逸らせない。
「昨日さ落ち着く匂いって言ってたよな」
「……忘れてください」
「無理」
即答された。しかも少し楽しそう。
こいつ……。無神経な。
「からかってるんですか」
「別に」
「してますよね」
「してない」
平然と返してくる。腹立つ……。
嬉しそうな顔しやがって。
「……もういいです。さよなら」
背を向け、今度こそ離れる。
一歩を踏み出して教室に戻ろうとした。
「待てって」
まぁそうだろうね。
予想通り腕を掴まれてしまった。
俺といると汚れることも知らずにこの人は何をしてるんだ。
「離してください」
何がしたいんだよ。もうやめてくれ。関わらないでくれ。
俺は平和にこの学校生活を終わらせたいんだ。
ずっと平凡でいい。平穏がいい。
「なんでそんな逃げんの」
「……普通ですよ」
「普通じゃない」
「どこがですか」
「全部」
一ノ瀬は、堪えきれなかったと言うように笑った。
でも、その笑い方がさっきと少し変わっていて目を見開かずにいられない。
……は? さっきまでの“作った笑顔”じゃない。もっと、自然なやつ。力抜けてる感じ。
「お前、ほんと変わってる」
……いや、どう考えたって一ノ瀬の方が変わってるでしょ。
一ノ瀬は俺の髪を優しく片手で撫でた。
いつまでここにいるのか。いつまでこのままなのか。
「そっちの方こそ」
「俺?」
「はい」
彼は驚いて、撫でていた手を止めた。そして、俺を少し見つめたあとふわりと笑う。
違和感しかない。さっきまでのと違いすぎる。
……不思議な人だなぁとしみじみ思いながら首を傾げた。
「一ノ瀬くーん!」
遠くから甲高い声がして、すぐに女の子のだとわかる。
目の前の彼は振り向いた後にぱっと表情が変わる。
さっきの空気が全部消えて、その子の方へと歩こうとする彼。
やっぱりこの人は人気者だ。いつも人に囲まれているし、笑顔を絶やさない。それに、欠点がないほど完璧で。
俺とはこんなにも正反対なのにこうやって絡んでくるのはどうしてだろうか。
もう関わりませんようにと願っていたのだが……。
「じゃ、あとで」
「え……」
いつもの笑顔を浮かべ、軽く手振って、人の輪に戻ってく。完璧な王子様に元通り。
あとで……って。
「また会うのかよ……」
あの人はほんとに底が知れない……。
まだ出逢ったばかりだけど、この人といるとなぜか違和感を感じた。何かを隠しているような、無理をしているような。
まぁ、興味無いし。俺が知ってはいけないことだろうし。
きっともうこんなふうに話せることはないだろう。

でも、一ノ瀬からの絡みは終わらなかった。
休み時間に、窓際でぼーっとしてたら。
「なあ」
「……」
聞き覚えある声がしたけど無視した。
相手が俺じゃないと思ってたけど、それは言い訳で。
「無視すんなって」
「……なんでここに来るんですか」
他クラスのくせにわざわざなん用だよ。
嫌味でも言いに来たのか? やっぱりあの制服もう一回洗ってとか? どっちにしろ聞くわけない。
とっくに快晴になった空を見上げながらため息をつく。
「暇だから」
「帰ってください」
「ひど」
普通に会話してる自分に、少しだけ驚く。関わりたくなかったはずなのに。
いや、これは会話してるとは言えない。うん。
「制服返しただけで終わり?」
「終わりです」
「冷った。まだ夏なのに」
「うるさいですよ」
うるさい。本当にうるさい。
俺に友達がいないから気遣ってくれたのか……? いやこいつはそんな優しいことはしないと思う。偏見だけど。
だって、この人俺に対してだけなんか意地悪とかすぐするし。態度なんか違うし。……まぁ、ほんのわずかしか話していないから知らないけど。
もう一度心の中でため息をつきながら「用がないなら帰ってください」と言ったけれど、「別にいいじゃん」と、顔は見えていないのに彼は笑っているように言った。
しばらく沈黙が続いて、じっと見られているような視線を感じる。
「……なんですか」
「いや、やっぱ面白いなって思って」
は?
俺は今の会話の流れ的に彼の言っている意味がわからなくて空から視線を外す。
「……意味がわからないです」
「だろうな」
またふっと笑って、彼は俺の前髪を優しく撫でた。
そういえば、昨日のバイト帰りにもこんなことされたっけ。
……モテメンって、どうしてこんなに距離近いんだろ。バグりすぎじゃないか。
「一ノ瀬ー!」
廊下の方から大きな声が聞こえて、一ノ瀬は「じゃあまたね。」と言って去っていった。
彼はまた“王子様”に戻り、俺との会話なんてなかったことになる。
……ほんとなんなんだよ。