閉店後、制服の隣で。

……やらかした。
朝、教室のドアの前で立ち止まったまま、俺はしばらく動けなかった。
窓の外は、薄く色を失った冬の空だった。
放課後に近づくほど、淡いオレンジがゆっくりと夜に溶けていく。ぼんやりとそれを眺めながら、俺は頬杖をつく。
あの日から、ずっとだ。
「大嫌いだ」なんて言った、自分の声。あのときの一ノ瀬の顔。全部、頭から離れない。
好きだって、もうわかってる。認めてる。認めてるからこそ、最悪だった。
……なんであんなこと言ったんだよと視線を下げて、失望する。
どうせ、また同じになると思ったからだ。最初だけ優しくて、途中から面倒くさくなって、最後は“いらない”って切り捨てられる。
あのときみたいに。
教室のざわめきの中で、ひときわ目立つ笑い声が耳に入った。
あの夜、自分の口から出た言葉が、何度も何度も頭の中で繰り返される。
本当は、全然そんなこと思ってないくせに。どしようもないくらい、好きなのに。
「……はぁ……」
小さく息を吐いて、ゆっくり廊下の方を眺める。
何もかもいつも通りなのに、ひとつだけ、違う。
……一ノ瀬が、こっちを見ない。
あんなに視線寄越してきてたくせに。あんなに、意味わかんないくらい構ってきたくせに。
今日は、目すら合わなくて、胸が嫌な感じで締まる。
……これでいいはずだろ。 避けて、距離取って、終わりにするって決めたのは自分だ。
でも、席についても、落ち着かない。
視線は無意識にあいつを探して、でも見つけた瞬間、今度は自分が逸らす。
……見てほしいくせに。ほんと、俺ってめんどくさい。
なんでだよ。あのときは、見られるのが怖くて仕方なかったのに。
今は、見られない方が怖いってなんだよ。
「おい」 
後ろから軽く蹴られて、振り返る。
「いてっ……なに」 
「死んでんのかって顔してる。昨日なんかあった?」
種崎が、心配そうな目で俺を見つめていた。
何かあったって、言えるわけがねぇ。
種崎だけには、余計な心配かけたくなかったから、そっぽを向いて誤魔化す。
「……別に」
「またそれ」
呆れたようにため息をつかれて、また問い詰められる。
「俺さ、お前が誰かのこと避けてんのも、逆に気にしてんのも、全部わかってるけど、今回のはなんか違うだろ」
図星すぎて、何も言えない。
しばらく黙ってから、ぽつりと零れる。
「……俺、最低なこと言った」
それだけで十分だったらしく、種崎は少しだけ目を細めた。
「あー、やらかした感じか」
「うるせぇ」
「で、相手は?」
答えなくても、わかってるくせに。
「……一ノ瀬」
小さく言うと、種崎は苦笑した。
「だろうな……謝れよ」
簡単に言うな、と思うけれど、実際そうなんだよな。
「無理……嫌われてるかもしんねぇし」
その瞬間、種崎が一瞬だけ間を置いた。
「……は? いや、なんでそうなる」
「だって……。ああいうやつってさ、誰にでも優しくて、でも一回でも突き放されたらもう終わりだろ。俺みたいなのに、わざわざ戻ってくる理由もねぇし」
過去が、頭をよぎる。
——“いらないなら、もういいよ”
——“めんどくさい”
あの時の顔。あの時の声。
「また同じになるくらいなら……逃げた方がマシ」
小さく吐き出すと、種崎はしばらく黙って、それからぼそっと言った。
「お前さ、めちゃくちゃビビってんな」
「……は?」
「好きなくせに」
その言葉に、俺は何も言い返せなかった。
 
放課後、結局、その日一日、一ノ瀬とは一度もちゃんと目が合わなかった。
それだけで、こんなに苦しいとか。
「……終わってんな、俺」
バイトに向かう途中、空を見上げる。
冬の空は高くて、青が冷たい。夜になれば、きっと星がよく見えるだろう。
……そんなこと、どうでもいいのに。
バイト中。
「いらっしゃいませー」
集中できない。
一ノ瀬がいる。視界に入るだけで、心臓がうるさい。
なのに、あいつはこっちを見ない。
ひとりで何考えてんだ、と思って自分に失望した。
「ねぇ、お兄さんさ。今って終わり?」
カウンター越しに、知らない客が声をかけてきた。
距離が近くて妙に馴れ馴れしい。
「……いや、まだですけど」
「じゃあさ、終わったらちょっと付き合ってよ」
え……。
そのおじさんは、何か下心のありそうな目で俺を見ていた。
こういうのはさっと終わらせるのが一番だ。
今日は他のお客さんも多いし、先輩たちに心配をかけたくないので、ひとりでなんとかしなくては。
「え、嫌ですけど」
俺がそう言うと、おじさんはむっとした顔になって、俺の腕を掴んできた。
汗が滲んでいて気持ち悪い。
「えぇ、少しくらいいいじゃん」
「ちょっと、やめてください……!」
俺の声が震える。
腕を掴まれて、引き寄せられかけたその瞬間、ガタン、と椅子が大きな音を立てた。
「触らないでもらっていいですか」
低くて、怒っているような声が耳元に落ちた。
次の瞬間、俺の腕は強く引かれて、後ろに庇われる。
「……一ノ瀬」
一ノ瀬の背中。いつもよりずっと近くて、やけに大きく見える。
「お客様、そういうの困ります」
店の先輩もすぐに入って、空気が一気に変わった。
軽く謝ってその客は去っていったけど、残った空気はまだ張り詰めたままだった。
「……大丈夫?」
先輩が心配そうに覗き込む。
「あ、はい……ありがとうございます」
声がうまく出ない。
心配かけたくないって思ったそばから助けてもらっちゃって、俺情けないな……。
一ノ瀬は何も言わないまま、少しだけ肩越しに振り返った。
その目が、明らかに怒っている。
「無理しないでね」
先輩が軽く肩を叩いて離れていく。ペコッとお辞儀をして、仕事に戻ろうとした瞬間、ぐっと腕を掴まれた。
「来い」
「わ……!?」
低い声で言われて、そのままバックヤードに引っ張られる。
扉が閉まる音がやけに大きく響いた。
一ノ瀬がご機嫌斜めな様子で舌打ちをする。
助けてくれてありがとって言うべき状況なはずなのに、やっぱり、昨日のこと怒ってんのかな、と思って、何を話したらいいかわからなくて黙り込む。
「……なんで黙ってんの」
一ノ瀬は俺がもたれかかっている壁に手をついて、覆い被さるように上から見つめてきた。
壁ドン……何回目だろ。一ノ瀬から視線を避けて、顔を右に動かす。
「別に……。大丈夫って言ってんじゃん」
関わらないって決めたし。
一ノ瀬のこの行動で、謝る気持ちとかお礼の気持ちは飛んで行ってしまって、ただただ時間が過ぎるのを待っていた。
「お前、さっき震えてただろ」
被せるように言われて、言葉が詰まる。
見られてたのも、助けられたのも、全部悔しくて、悔しくて、やっぱり謝る気力にはならなかった。
自分でも最低だとは思っているけれど、俺が昨日あんなこと言ったのに、どうして助けようとするのか。
別に助けてもらわなくたってよかった。借りを作りたくなんてなかった。
「余計なことすんなよ」
気づいたら、口から出ていて、空気が止まり、一ノ瀬の眉が寄る。
「助けてもらわなくてよかったし。俺、別に平気だったのに」
「……は?」
嘘だって、自分が一番わかってる。でも、認めたら終わる気がした。
こんなこと言って、嫌われちゃうな、とも思うけれど、その方が俺にとって都合が良かった。
このままもう関わらずに終わりたかった。
拳を握っていると、頭上から「はぁ……」という大きなため息が聞こえて、一ノ瀬が壁から手を下ろした。
「なんでそんなこと言うの。助けたらダメなわけ?」
「だ、だって……」
その一言が刺さってしまって、ぐっと唇を噛む。
違う。そうじゃない。俺が勝手に……。
けれど、口は言うことを聞いてなんてくれなかった。
「……優しくすんなよ」
ぽろっと零れて、一ノ瀬の目が揺れる。
「何言ってんの」
「誰にでもそうやってんだろ」
言ってから、止まらなくなる。
最低だってわかってる。助けてもらっておいて何様なんだってわかってる。
でも、期待したくなかった。自分だけじゃない優しさに、また縋りたくなかった。
一ノ瀬は悲しそうな顔で俺から離れていく。
「じゃあ俺がやんなきゃよかった?」
「そういう意味じゃ……」
そういう意味じゃないって言おうとしたけど、何が違うのか、どうしてほしいのか何もわからなかった。
「だったらどういう意味」
わからない。わからねぇよ、そんなこと。
またそうやって一ノ瀬が期待させるようなことするからだろ……。
ほら、俺はまだ一ノ瀬と話せて嬉しいとか、ドキドキする、とか変なこと考えてんだぞ。自分から言っておいて最悪だろ。
こんなんになるなら、恋なんて知らないままでよかった。
「……もういい。放っておいて」
何も言えなくなって、耐えきれなくなって、投げやりになってしまった。
そう言うしかなくて、俺はその場を離れた。
背中に、何も言葉は飛んでこなかった。それが逆に、すごく苦しかった。

閉店後、店内はやけに静かだった。
さっきのことが頭から離れなくて。
言いすぎたってわかってる。こうでもしないと、一ノ瀬は俺から離れてくれねぇから。
ロッカーの前で、手が止まる。
「まだ帰んねーの」
後ろから声がして、心臓が跳ねる。
「帰る」
振り向かないまま答えるけど、足が動かない。
俺はまた話すことを拒否してる。こいつと話すことなんてもうないけれど、ちゃんと話して、ちゃんと離れた方がいいって、その方が一ノ瀬も納得するってわかってる。
……でもまた、捨てられたら? 俺が学校一の王子様に汚らわしいことを言ったってことが広まったら?
何もかも、あの頃と変わっちゃいねぇよ。また逃げて、都合の悪いことからは目を背けて。一ノ瀬をまた傷つけてる。
涙が出そうなほど考えて考えて、唇を噛む。
背中からの視線がとても痛くて、その場を離れようとしたけど、
「逃げんなよ」
その一言で、動きが止まった。
ゆっくり振り返ると、一ノ瀬は真っ直ぐこっちを見ていた。
逃げ場なんて、最初からなかった。
「……別に逃げてねぇし」
「嘘つけ。……なんで避けんの」
「それは……」
好きだから……なんて言えるわけない。
ゆっくり足音が近づいてきて、ぽつぽつと雨みたいに言葉が落とされる。
俺は、また一ノ瀬に背を向けて拳を握る。
「目も合わせねぇし、話も逸らすし、今日だってそう。……なんで?」
「……別に」
問いが重くて、耐えられない。
「別にじゃねぇって。ちゃんと話せよ」
その声が、真っ直ぐすぎて。
背中からの視線が逃がしてくれなくて、息が詰まる。
……無理だ。誤魔化せない。俺は半ばヤケクソになって、思い切って振り向いた。
どうせもう、こんなこと言ったら二度と顔を合わせらんねぇよ。だったら言うしか道はない。
「だってお前、みんなの王子様じゃん」
「……は? 何言って……」
「誰にでも優しくて、誰にでも笑って。俺もその中の一人なんだろ」
視界が滲んで一ノ瀬の顔がよく見えない。
俺、ちゃんと息できてるのかと心配になる。喉がつっかえて、胸が苦しくて、……怖かった。
一ノ瀬は、そんな俺を否定するように大きな声を出した。
「……違う」
「違わねぇよ!!」
思わず声が上がって、もう止まらない。
涙もぽたぽたと落ちてきて、立ってるのが辛いくらい心臓が痛かった。
ここに俺と一ノ瀬しかいなくてよかった。人にこんな風に声を荒らげたのも、反抗したのもこいつが初めてで。
「ちょっと優しくされたら、勘違いするだろ……! でもどうせ違うって思い知らされるし」
お前だけだよって言われて、信じて。
次の日には、もう違う誰かに同じこと言ってて。
あのときのあの感じ。胸が空っぽになる感じ。もう二度と味わいたくなかった。
一ノ瀬の目が揺れて、段々と近づいてくけど、怖くてまた一歩下がった。
逃げてるのは知ってる。あのときと何も変わらないのも知ってる。
でも……こいつを手放したくなかったんだ。初めてこんなに人に興味を持てた。知ろうと思った。あの頃の自分を変えてくれると思ってた。初めて、人を好きになった。
出会った頃は正直関わりたくなんてなかった。一ノ瀬と名前の付く関係にはなりたくなかった。
「最初から関わんない方がいいって思ったのに、お前が来るから!」
「湊……」
声が掠れて上手く出せない。
一ノ瀬が今どんな表情で、どんなことを考えているのか俺にはわからない。
どんどん彼が近づいてくるから、俺はつっかえつっかえで話してしまう。
苦しい。辛い。出会った頃はこんな感情があるなんて思わなかった。
初めは極力離れていたけど、ずっと引っ付いてくるから信じ込んで、期待してしまっていたんだ。そのせいで、こんなにこんなに、知らなくていいはずの感情を知ってしまった。
「優しくすんのも、助けんのも、全部中途半端なんだよ……!」
「……湊」
名前を呼ばれるだけで、もう無理だった。限界だった。
脚がもつれて、するすると力が抜けその場にかがみこむ。
顔が涙でぐちゃぐちゃで、手で顔を覆う。
もう我慢が効かず、大きな声で、壁を叩く。
「……っ、バカ……!!」
息が震えて、呼吸が上手くできない。
涙も止まらなくて、喉もよく通らなくて。
舌もよく回らず、今俺でさえ何を言っているかわからなかった。
バカ……って、ダサいにもほどがあるだろ。
投げやりのまま、床に足をついたまま、俺はぼろぼろになった声を発した。
「お前といると……落ち着くし、安心するし」
「え?」
「……っ、心臓うるせぇし、変なことばっか考えるし、一人でいる方が楽だったのに、お前のせいでそれもできなくなって……!」
ずっと何も言わずに立っていた一ノ瀬の方を見上げると、随分と驚いた顔をしていた。
涙のせいにして、ぎゅっと目を瞑る。
「……好きになるし」
……言った、言った。
「え、お前今好きって……」
「だから……っ!」
もうどうでもいい。隠すのも、逃げるのも。
全部無理だ。俺は一ノ瀬の言葉が聞きたくなくて、被せるように声を重ねた。
「ほんと、嫌いだ……!」
震える声で、必死に言葉を紡ぎながら必死に、苦しいのを耐える。
でもそれは、どう聞いても。……好きだった。
俺は気持ちだけ伝えられたらそれでよかった、という理由で、勢い任せに立ち上がって走り出し、店から出た。
鍵はあいつが持ってるから大丈夫なはずだ……。
息を切らしながら走り出す。涙を流しながら、これでよかった、と少し吹っ切れた気持ちになった。
「湊……!」
遠くから一ノ瀬の声が聞こえたけど、振り返らずにただがむしゃらに走った。
こんな夜に高校生が走っていたら補導されるな、と思うけれど、もう一ノ瀬の顔は思い出したく……。
「待って!!」
「え……」
息を切らした一ノ瀬が、俺を後ろから抱きしめて、俺は今何をされているのか一瞬理解ができなかった。
さっきまで流れていた涙は一気に止まって、胸がドクドクと鼓動を立てる。
一ノ瀬は何も言わず、ただぎゅっと腕を俺の肩に絡みつかれる。
さっきまでの怒りも、苛立ちも、全部溶けていくみたいに。
「あー……やっと、やっと捕まえた……もう絶対離さないからね、凪沙」
かすれるくらい小さな声で、耳元に落とされた。
でも、その言葉は、うるさい心臓の音にかき消されて、
俺には届かなかった。
一ノ瀬はただふっと笑って、また俺を強く抱きしめる。
苦しいけど、最後なのか、と思う自分がいてまた苦しくなった。
そんな中でも、一ノ瀬は俺に思ってもない言葉を言う。
「……お前、俺のこと大好きじゃん」
「あ、え、あ……その」
顔が一気に熱くなって、言葉が出ない。否定できない。
みるみるうちに顔が赤くなるのがわかるけど、もうこの時間は暗いので隠れていると思う。
顔が近くて、ドキドキは隠せないと思うが。そんなことを思っていたら、耳元で笑う声がして、くすぐったい。
「……否定しないんだ?」
意地悪く言われて、何も否定できなくて。
「うるさい」
俯くしかなかった。
一ノ瀬とはもう関わらないって、この気持ちは忘れるって決めたのに、また期待してしまう。
まだ一ノ瀬は俺のことが好きだったりするのか、とか。こんなことされておいて、勘違いだったりしたら本当に俺はもう立ち直れないけど。
その勘違いを無くすために、俺は一ノ瀬から離れたはずだったのに。また好きだって、思っちゃうじゃん。
……ほんと、バカ。
一ノ瀬は俺から身体を離して、俺たちは向かい合い、俺の肩を彼の両手が掴んだ。
街灯の灯りが彼を照らして、ようやく表情が見えてしまう。その顔は、どうにも幸せそうで。 ここが街の中だと言うことも忘れてしまう。
俺の顎に彼の手が触れて、顔が近づいてくる。
なんか、ふにっと柔らかいものが唇に触れたような、と思う暇もなくて。
「え……!? ちょ、あ、え? い、一ノ瀬……?」
「俺も好き」
「は、?」
その一言で、呼吸が止まる。
き、キスされた……? そ、それと、好きって? 情報量が多すぎて頭がパンクしそうだ。
というか、なんでキスした後に告白すんの? じゅ、順番が……。
「こんな顔見せんのも、こんな本音言えんのも、お前だけ」
一ノ瀬はまだ好きでいてくれたのに、あんなこと言って……俺、勘違いしてた。
ずっと俺のこと想っていてくれたのに、俺が一ノ瀬の話をちゃんと聞かなかったから……。
「だから信じろよ」
こんな俺って、俺なんかって思っちゃダメだ。俺のこと好きになってくれた人はちゃんといた。
俺、信じていいのか……? また離れていくんじゃないのか、? あの頃の後悔がまた思考を巡る。
また離れていくかもしれない。それでも、離れる前に自分から逃げる方がずっとダサい。
でも、ここまで俺に関わってくれて、俺が最低なことばっか言っても離れないでいてくれて。
もう一回、信じてみようか。好きになってみようか、と一ノ瀬の方を見て、ぐっと決意した。
一ノ瀬の瞳を見つめているうちに、また好きだなという感情が湧き出てきて、思い切って一ノ瀬に抱きつく。
「かわい……」
ぼそっと呟かれたその言葉は、俺の耳に強く響いて、秋風も忘れるくらい身体と顔が熱くなって行った。
俺は、その言葉で気づく。揺らされてたのは、ずっと前から、止まってたはずの心を、動かしてたのは。
ずっとずっと……一ノ瀬だった。
「で、答えは?」
肩で俺の頭を撫でながら、一ノ瀬は問いかけた。
まだ少し揺らぐけど、もうわかってる。
……俺にこんな感情を教えさせた責任をこいつには取ってもらわないといけない。
「……俺、お前のこと嫌いじゃない」
「それ告白?」
「うるさい!」
真っ赤な顔で言い返して、一ノ瀬が嬉しそうに笑う。
「じゃあ、付き合ってくれる?」
俺は一ノ瀬の顔を見つめて、小さく息を吐く。
付き合うって正直よくわからないけど、なんだか一ノ瀬とならやって行けそうな気がした。何もわからないし、曖昧だけど、好きって気持ちは確かだった。
俺はもう、逃げたりしない。
「……逃げても無駄なんだろ」
「うん」
即答。
「……じゃあ、いい」
その瞬間、一ノ瀬が本当に嬉しそうに笑った。
作った笑顔じゃない。俺だけに向けた顔。それを見て、俺は少しだけ困ったように笑った。
俺だけの特別だって思って、ちょっと幸せって思ったのは内緒だけど。
「……ほんと、バカ」
「知ってる」
俺がそう言うと、いつも一ノ瀬がふわりと笑ってくれるから、俺はこの表情が好きだ。
「帰ろっか」
「うん」
手を繋いで歩き出す……はずだった。
一ノ瀬の手が、当たり前みたいに俺の手を取る。その瞬間、びくっと肩が揺れた。
「ちょっ……」
思わず引きかけて、でも完全には離せなくて、指先だけが中途半端に絡まる。
こんなの、慣れてるわけないだろ。さっきまであんなことして、あんなこと言って、キスまでされて。
頭が追いついてないのに、さらにこれとか、反則だろ。
じわじわと手のひらが熱くなる。鼓動が、そのまま指先に伝わってる気がして、落ち着かない。
「何?」
隣で、一ノ瀬が少しだけ楽しそうに覗き込んでくる。
「……別に」
顔を逸らして、ぶっきらぼうに返す。でも、繋いだ手は、結局そのままで、少しだけ力がこもる。
逃げないように、っていうより……。離したくないって思ってる自分に、気づいてしまったから。
「顔、赤いけど」
「うるさい」
そう言うと、一ノ瀬が小さく笑った。
その笑い声に、さっきまでの不安が少しずつ溶けていく。
もう俺には、こいつが王子様になんて見えなかった。俺だけの特別の人。
夜のこの街は少し肌寒かったけど、一ノ瀬の体温があったかくて、ドキドキして。
今までずっと帰りに見ていた星空に、月に微笑んでから俺はまた歩き直った。
並んで歩く帰り道に、隣を見れば一ノ瀬がいて。制服の肩が、時々ぶつかる。
それだけで、胸の奥が少しだけくすぐったかった。この制服は、俺たちの出会いのきっかけにもなったから。
きっと、止まったままだった俺の凪は、一ノ瀬が動かしてくれそうな気がした。