あの日から、好きを自覚してから、前よりも一ノ瀬を避けに避けまくった。
もう関わらないし、何を思われてもいい……と思う。寂しいとか、もっとそばに居たいとか、そんな感情は捨てて、俺は離れることを恐れなかった。
……ほんとのところはそう思い込まないと、離れる理由が崩れてしまいそうだったから。
朝、廊下ですれ違うとき。昼休み、ざわつく教室の中でふと視線を感じたとき。バイトのシフトが被ったとき。
その全部で、俺は無意識に一ノ瀬を探してしまっている。そして、見つけた瞬間、逸らす。
見つけたくて、見たくなくて。そんな矛盾した行動を繰り返している自分に、内心で小さく舌打ちをした。
探してしまう時点で、もう答えなんてとっくに出てる。
「あーあ……」
窓の外は、少しだけ曇っていた。冬が始まることを教えてくれているかのように、窓の隙間から吹く風は冷たくて、開けた窓から入り込む空気が、教室の空気をわずかに揺らしている。
机に肘をつきながら、ぼんやりと外を眺めた。
……落ち着かない。理由はわかっているけど、知らないふりをした。
「湊、消しゴム貸して」
不意に声をかけられて、視線を戻す。
「ああ……はい」
隣の席の男子に、何気なく差し出す。
こいつと話すようになったのは、ここ最近だ。特別なきっかけがあったわけじゃない。気づけば、隣に座っていて、気づけば会話が増えていた。
種崎とはまた違った優しさがある。
こいつは、クラスでも目立つタイプではなくて、かといって俺ほど暗いやつじゃない。深く関わらなくても済むやつだ。
ただ、こうやって他愛もない世間話をして終わるような相手。こういうのが、なんだか俺には合ってるらしい。
「サンキュ。……今日の英語さ、絶対当てられるやつだろ」
「知らねぇ」
「いや絶対だって。昨日寝てたじゃん」
「見てたのかよ」
「そりゃ隣だし」
軽く笑い合って。……楽だ。
気を遣わなくて、変に踏み込んでこない。それでいて、完全に距離があるわけでもない。普通の距離。
それがこんなに心地いいなんて、前は思わなかった。
こういうので、いい。そう思う。思うはずなのに。
……なのに、どこか物足りないと思ってしまう自分が、どうしようもなく嫌だった。
ふと、背中に視線を感じて、反射的に顔を上げる。
教室から少し離れた場所で、女子に囲まれながら笑っている一ノ瀬がいた。
その視線がほんの一瞬だけこっちに向いた気がするけど、多分、いや絶対気のせいだ。
いつの間にか、まるで最初から見ていなかったみたいに、その視線は途絶えていた。
……なんだよ、それ。胸の奥がじわっと痛む。
距離を取ったのは、俺だ。関わるなって線を引いたのも、俺だ。
でも……なんで、そんな顔をされるとこんなに、こんなに苦しいんだよ。
一ノ瀬の顔は、怒っているようでも呆れたような表情でもなくて、どこか冷たく張り詰めた、氷を纏った視線だった。
その顔に俺の心はまた締め付けられる。
あんな顔、俺に向けられる筋合いなんてもうないにもかかわらず。
昼休み。弁当を持って、教室の隅の席に座る。
さっきの男子が隣に来て、自然な流れで一緒に食べ始めた。
「今日さ、帰り暇?」
「……別に。バイトがあるだけ」
「じゃあちょっと寄り道しね? コンビニ。新作のアイス出てるらしい」
「それだけかよ」
くだらない会話なのに、どこか安心する。
無理して笑う必要もないし、変に期待されることもない。
……こういう距離でいい。そう思いながら、箸を動かす。
顔を上げると、再び視線を感じた。
……まただ。一ノ瀬がこっちを見ていた。
でも、笑ってなんていなかった。別に表情がないわけじゃないけれど、何も見せないように押し殺している、そんな顔。
目が合った瞬間、心臓が強く跳ねた。そのまま、逸らせばいいはずの視線がなぜか逸らせなかった。
一ノ瀬は、何事もなかったみたいにまた周りに笑顔を向ける。
やっぱり、あいつはそういうやつだ。誰にでも同じ顔をして、誰にでも優しくて。
俺だけが特別だなんて、思う方が間違ってる。
最初から、期待なんてしなければよかったな……と今更ながらに思ってしまった。
弁当を食べ終えて箸を置き、隣のやつは「購買行ってくる」と軽く手を振って席を立った。
その背中をぼんやり見送ってから、ふっと息を吐いて、机に腕を置きその上に頭を乗せる。
首を動かして窓を見上げながら、静かだな、と思った。
さっきまでのくだらない会話が嘘みたいに、急に現実に引き戻される。
それでも、胸の奥が妙にざわついて落ち着かない。
「なんだよ。ため息なんかついて」
後ろから声が落ちてきて、びくっと肩が揺れた。
振り返ると、そこにいたのは種崎だった。
「……別に」
そっけなく返すけど、種崎は気にした様子もなく、俺の机の上に軽く腰を乗せた。
「別にで済む顔してねぇけど」
じっと見られて、誤魔化すように視線を逸らす。
「なんもねぇって」
「へぇ。……じゃあさ」
種崎は少しだけ首を傾けて、わざとらしく軽い調子で続けた。
「一ノ瀬となんかあった?」
「……は?」
心臓が、どくん、と強く鳴る。
図星すぎて……いやいやいや図星じゃねぇし!
俺が一方的に避けてるだけで、喧嘩とかそういうのじゃない。
「最近、あからさまじゃん。避け方」
何も言い返せなくて、言葉に詰まる。
俺は俯きがちに、言葉を紡いだ。
「いや、別に……あいつが勝手にしてくるだけで、俺は別に……」
「ふーん」
種崎はあっさりと引き下がるけど、その目は全然納得していなかった。
「じゃあさ……お前はどうしたいわけ」
その一言で、呼吸が詰まる。
考えたくない問いだったからだ。離れるって決めたはずで、関わらない方がいいって、わかってるはずで。
「……どうしたいって。わかんねぇよ」
自分でも驚くくらい、素直な声が零れる。
「なんか……近づきたくねぇのに、気づいたら探してるし。見たくねぇのに、見つけたら……目、逸らして。意味わかんねぇだろ」
自嘲気味に言うと種崎は少しだけ目を細めて、苦笑が漏れる。
こんなこと話しても何もならないってことは自分でもわかっている。
「……近づいたら終わる気がするんだよ。今みたいに、ぐちゃぐちゃになるってわかってるから」
恋心が消えるまでの辛抱だとか言ってるけど、消したくないという邪魔な気持ちが交差して。
本当に俺って何がしたいんだろ……。
「いや、わかるけど」
自分で自分に落胆していると、あっさり返されて思わず顔を上げる。
「は?」
「それ、普通に恋してるじゃん」
一瞬、時間が止まった気がした。
「……はぁ? 何言ってんだよ」
低い声が出て、否定しようとするけどうまく言葉が出てこない。
……恋。その単語が頭の中でいやにくっきり浮かぶ。 「……違うし」
ようやく絞り出した言葉は、驚くほど弱くて。種崎はそれを見て、小さく笑った。
「まぁ、否定するよな。……でもさ、逃げてばっかだと、後でめんどくさくなるぞ」
その言葉に、胸が少しだけ痛んだ。
「……別に」
「別にじゃねぇって。ちゃんと向き合うのか、ちゃんと離れるのか、どっちかにしとけ」
その一言が、やけに重く響いた。
……向き合うか、離れるか。そのどっちも、怖い。
種崎はそれだけ言って、机から降りる。
「ま、お前が決めることだけど」
軽く手を振って、そのまま教室を出ていく。
残された静けさの中で、俺は動けなかった。種崎にさっき言われたことが頭から離れなくて。
向き合うか離れるのかを選ぶのは、最初からわかってる。わかってるのに、選べないからこんなことになってる。
小さく息を吐いて、額を押さえた。
結局、どっちを選んでも苦しいんだ。それならいっそ……。そう考えたところで、思考を止めた。
考えたくない。考えたら、全部崩れる。だから俺は、また目を逸らす。あいつからも、自分からも。また逃げてるって言われるかもしれないけど、それでいい。もう俺と一ノ瀬との関係は、終わったんだ。
放課後。オレンジ色の光が校舎の廊下を長く染めていた。
帰り支度を終えて、鞄を肩にかける。
隣の席の男子と軽く会話しながら、校門へ向かう。
他愛もない話で、笑いながら歩く。
やっぱりこういう空気の方が楽だな、と安心しているけれど、何かが足りない気がした。
元々壊れかけていた心に、またぽっかり穴が空いてしまったような感覚。
その穴が何で埋まるのかわかってるくせに、気付かないふりをして、それから目を背けた。
隣で永遠と喋っている彼に、テキトウに相槌をしながら、ぼーっと考えている途中で、また視線を感じた。
振り返れば、少し離れたところに一ノ瀬がいた。
完全に笑っていなくて、ただ静かにこっちを見ている。何も言わないくせに、視線だけが強いその眼差しに胸がざわつく。
……見るなよ。そう思っていても、目が離せない。結局、俺が先に逸らした。
何がしたいんだろ。……俺も、一ノ瀬も。これからどうなりたいんだろ。離れたいって思ってるのに全然忘れることができない。人と話している方が落ち着いたりするのかと思ったけれど、何も頭に入ってこなくて、結局一ノ瀬のことばかり考えてしまう俺は、重症なのだろうか。
こんな自分に絶望しながら、そのまま歩く速度を少しだけ上げる。
……また逃げるみたいに。
「どうした?」
「なんでもねぇよ。悪いな」
「そ……ならいいけどよ」
笑って誤魔化して、またこいつの話をテキトウに聞いて。
前と何も変わってねぇじゃんか……。
……逃げてるのは、どっちだよ。自分で自分に呟いた言葉は、風に溶けて消えた。
そのままバイト先まで送って行ってもらってしまって、家が近いからという理由だそうでそのまま店で別れた。
そのままいつもと何事もなく仕事をして、一ノ瀬とシフトは被ってしまったけど、他人のフリをして。
何も気にしていないように振舞って。時折舌打ちをして不機嫌顔をしている一ノ瀬を見かけたけど、気にせずに、心を落ち着かせるようにせっせと働いた。
あんな顔、俺の知らない一ノ瀬だった。いや、違う。きっと、あれが本当の表情なんだ……。
先輩や店長は心配してくれたけど、今日は神様が俺の願いを叶えてくれたかのように忙しかったので、それを理由にして笑って誤魔化した。
閉店後の店内は、夕方の賑やかさが嘘みたいに静かで、蛍光灯の白い光が、床を淡く照らしている。
レジ締めの音、椅子を引く小さな音だけが、ぽつぽつと響く。
掃除も片付けも何事もなく終わり、このまま何も起きないでくれと祈りながら更衣室に入ると、一ノ瀬がいた。
……神様は二度も願いを叶えてくれはしないらしい。
一瞬、足が止まって息が止まったけれど、何も言わずにロッカーを開けた。
制服を脱ぎながら、視線を合わせないようにする。
空気が重くて、何か声をかけようか迷う。
「……お疲れ」
俺が考える前に不意に隣から声をかけられた。
顔を上げると、一ノ瀬が笑っていた。
それも、あの王子様の笑顔で。誰にでも向ける、作られた笑顔が、俺にも向けられている。
その瞬間、胸の奥で、何かが切れた気がした。
「……なんで。なんでそんな顔すんだよ」」
気づいたら、勝手に口が動いていて、一ノ瀬が少しだけ目を見開く。
言ってしまった……と思って手で口を抑える。
「そんなって?」
「それだよ。……その、誰にでもするみたいな顔」
言葉が荒くなり、彼の表情がほんの少しだけ固まった。
「別に、いつも通りだけど」
いつも一ノ瀬の周りにいる女子たちの顔が浮かび上がってきて、そいつらと同じ扱いにされてる自分に苛立ちが上がってきた。
そしてついカットなってしまい、自分でも出したことのないくらい怒りの言葉を発してしまった。
「いつも通り? ……ふざけんなよ。……俺の前だけは、違うって思ってた」
一ノ瀬は何も言わずに、ただじっとこっちを見つめていた。
その沈黙が、余計に腹立たしくて。自分から逃げて、離れて、一ノ瀬に最悪なこと言ったばかりのくせして、俺は最悪最低で、こんな自分が嫌になる。
「前、言ったよな。俺の前なら、無理しなくていいって」
なんでだよ……! なんで俺から突き放そうとしたのに、また距離詰めようとしてんだよ。
諦めたはずだろ? 俺とこいつとじゃ何もかもが違うんだよ。
それに、どうせ捨てられる。そばにいたって人は必ず一生は一緒にいてくれないんだ。それを俺は知ってる。
喉が締まって、視界が滲む。自分でも、何に怒ってるのかわからない。
「俺の前だったら、本当の自分隠さずにいられるんじゃなかったのかよ……!」
ぽろりと、涙が落ちて、一ノ瀬の目が揺れる。
なんで黙ってるんだよ。否定しろよ。違うって言えよ。
でも、それでも何も言ってくれなかった。そのことが、余計に苦しくて。
あーあ……こんなこと言ったら、俺が一ノ瀬のこと好きってバレちまうじゃねぇか……。ううん。きっともうバレてんだ。
こんな自分勝手なこと吐き捨てて、また傷つけて。
それでも、何も言い返してこないあいつを見てると……もう、とっくに終わってたんじゃないかって思う。
俺が離れるなんて言ったあの日から、あいつの中で、俺はもうどうでもいい存在になってて。だから、あんな顔で笑って。だから、何も言わなくて。
……きっと。きっともう、俺のことなんか……どうでもいいんだ。
「……っ、もういい。お前なんか」
ぐしゃっと顔を歪める。
言いたくない、止めたい。それでも、口から出た。
これ以上一緒にいたら、話してたら、俺は……。
——好きだって、言ってしまいそうだったから。
「大嫌いだ」
俺はわざと一ノ瀬が離れるように、嫌われるように、思ってもないことを口にした。
一瞬、時間が止まったみたいに静かになる。そのまま、背を向けた。
ロッカーもちゃんと閉めないまま、更衣室を飛び出す。
ドアの向こうの空気が、やけに冷たく感じた。
……本当は、嫌いだなんてそんなこと思ってない。わかってる。
あのままあそこにいたら、全部壊れる気がしたんだ。
店の裏口を抜けて夜の空気に触れる。冷たい風が火照った頬を撫でた。
息が、うまくできない。胸の奥が、ぐちゃぐちゃで。何が正しいのか、もうわからない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
……あいつのことが、もうどうしようもなく好きなんだだ。
それだけは、どうしても消えてくれない。
だから、離れなきゃいけない。でも……足は、止まったまま動いてなんてくれなかった。
後ろを振り返りそうになるのを、必死に堪える。
振り返ったら、終わる。
追いかけてほしかった……なんて今更思ってないけど……俺がこんなこと思う立場じゃない、自業自得だってわかってるけど……あいつに、会いたいなんて思ってる。
「ほんと、バカだな」
小さく呟いた声は、夜に溶けて消えた。
揺れているのは、距離なんかじゃない。
きっと、俺の心の方だ。
近づけば壊れる。離れれば苦しい。そんな選択しか残っていないくらいには。
もう関わらないし、何を思われてもいい……と思う。寂しいとか、もっとそばに居たいとか、そんな感情は捨てて、俺は離れることを恐れなかった。
……ほんとのところはそう思い込まないと、離れる理由が崩れてしまいそうだったから。
朝、廊下ですれ違うとき。昼休み、ざわつく教室の中でふと視線を感じたとき。バイトのシフトが被ったとき。
その全部で、俺は無意識に一ノ瀬を探してしまっている。そして、見つけた瞬間、逸らす。
見つけたくて、見たくなくて。そんな矛盾した行動を繰り返している自分に、内心で小さく舌打ちをした。
探してしまう時点で、もう答えなんてとっくに出てる。
「あーあ……」
窓の外は、少しだけ曇っていた。冬が始まることを教えてくれているかのように、窓の隙間から吹く風は冷たくて、開けた窓から入り込む空気が、教室の空気をわずかに揺らしている。
机に肘をつきながら、ぼんやりと外を眺めた。
……落ち着かない。理由はわかっているけど、知らないふりをした。
「湊、消しゴム貸して」
不意に声をかけられて、視線を戻す。
「ああ……はい」
隣の席の男子に、何気なく差し出す。
こいつと話すようになったのは、ここ最近だ。特別なきっかけがあったわけじゃない。気づけば、隣に座っていて、気づけば会話が増えていた。
種崎とはまた違った優しさがある。
こいつは、クラスでも目立つタイプではなくて、かといって俺ほど暗いやつじゃない。深く関わらなくても済むやつだ。
ただ、こうやって他愛もない世間話をして終わるような相手。こういうのが、なんだか俺には合ってるらしい。
「サンキュ。……今日の英語さ、絶対当てられるやつだろ」
「知らねぇ」
「いや絶対だって。昨日寝てたじゃん」
「見てたのかよ」
「そりゃ隣だし」
軽く笑い合って。……楽だ。
気を遣わなくて、変に踏み込んでこない。それでいて、完全に距離があるわけでもない。普通の距離。
それがこんなに心地いいなんて、前は思わなかった。
こういうので、いい。そう思う。思うはずなのに。
……なのに、どこか物足りないと思ってしまう自分が、どうしようもなく嫌だった。
ふと、背中に視線を感じて、反射的に顔を上げる。
教室から少し離れた場所で、女子に囲まれながら笑っている一ノ瀬がいた。
その視線がほんの一瞬だけこっちに向いた気がするけど、多分、いや絶対気のせいだ。
いつの間にか、まるで最初から見ていなかったみたいに、その視線は途絶えていた。
……なんだよ、それ。胸の奥がじわっと痛む。
距離を取ったのは、俺だ。関わるなって線を引いたのも、俺だ。
でも……なんで、そんな顔をされるとこんなに、こんなに苦しいんだよ。
一ノ瀬の顔は、怒っているようでも呆れたような表情でもなくて、どこか冷たく張り詰めた、氷を纏った視線だった。
その顔に俺の心はまた締め付けられる。
あんな顔、俺に向けられる筋合いなんてもうないにもかかわらず。
昼休み。弁当を持って、教室の隅の席に座る。
さっきの男子が隣に来て、自然な流れで一緒に食べ始めた。
「今日さ、帰り暇?」
「……別に。バイトがあるだけ」
「じゃあちょっと寄り道しね? コンビニ。新作のアイス出てるらしい」
「それだけかよ」
くだらない会話なのに、どこか安心する。
無理して笑う必要もないし、変に期待されることもない。
……こういう距離でいい。そう思いながら、箸を動かす。
顔を上げると、再び視線を感じた。
……まただ。一ノ瀬がこっちを見ていた。
でも、笑ってなんていなかった。別に表情がないわけじゃないけれど、何も見せないように押し殺している、そんな顔。
目が合った瞬間、心臓が強く跳ねた。そのまま、逸らせばいいはずの視線がなぜか逸らせなかった。
一ノ瀬は、何事もなかったみたいにまた周りに笑顔を向ける。
やっぱり、あいつはそういうやつだ。誰にでも同じ顔をして、誰にでも優しくて。
俺だけが特別だなんて、思う方が間違ってる。
最初から、期待なんてしなければよかったな……と今更ながらに思ってしまった。
弁当を食べ終えて箸を置き、隣のやつは「購買行ってくる」と軽く手を振って席を立った。
その背中をぼんやり見送ってから、ふっと息を吐いて、机に腕を置きその上に頭を乗せる。
首を動かして窓を見上げながら、静かだな、と思った。
さっきまでのくだらない会話が嘘みたいに、急に現実に引き戻される。
それでも、胸の奥が妙にざわついて落ち着かない。
「なんだよ。ため息なんかついて」
後ろから声が落ちてきて、びくっと肩が揺れた。
振り返ると、そこにいたのは種崎だった。
「……別に」
そっけなく返すけど、種崎は気にした様子もなく、俺の机の上に軽く腰を乗せた。
「別にで済む顔してねぇけど」
じっと見られて、誤魔化すように視線を逸らす。
「なんもねぇって」
「へぇ。……じゃあさ」
種崎は少しだけ首を傾けて、わざとらしく軽い調子で続けた。
「一ノ瀬となんかあった?」
「……は?」
心臓が、どくん、と強く鳴る。
図星すぎて……いやいやいや図星じゃねぇし!
俺が一方的に避けてるだけで、喧嘩とかそういうのじゃない。
「最近、あからさまじゃん。避け方」
何も言い返せなくて、言葉に詰まる。
俺は俯きがちに、言葉を紡いだ。
「いや、別に……あいつが勝手にしてくるだけで、俺は別に……」
「ふーん」
種崎はあっさりと引き下がるけど、その目は全然納得していなかった。
「じゃあさ……お前はどうしたいわけ」
その一言で、呼吸が詰まる。
考えたくない問いだったからだ。離れるって決めたはずで、関わらない方がいいって、わかってるはずで。
「……どうしたいって。わかんねぇよ」
自分でも驚くくらい、素直な声が零れる。
「なんか……近づきたくねぇのに、気づいたら探してるし。見たくねぇのに、見つけたら……目、逸らして。意味わかんねぇだろ」
自嘲気味に言うと種崎は少しだけ目を細めて、苦笑が漏れる。
こんなこと話しても何もならないってことは自分でもわかっている。
「……近づいたら終わる気がするんだよ。今みたいに、ぐちゃぐちゃになるってわかってるから」
恋心が消えるまでの辛抱だとか言ってるけど、消したくないという邪魔な気持ちが交差して。
本当に俺って何がしたいんだろ……。
「いや、わかるけど」
自分で自分に落胆していると、あっさり返されて思わず顔を上げる。
「は?」
「それ、普通に恋してるじゃん」
一瞬、時間が止まった気がした。
「……はぁ? 何言ってんだよ」
低い声が出て、否定しようとするけどうまく言葉が出てこない。
……恋。その単語が頭の中でいやにくっきり浮かぶ。 「……違うし」
ようやく絞り出した言葉は、驚くほど弱くて。種崎はそれを見て、小さく笑った。
「まぁ、否定するよな。……でもさ、逃げてばっかだと、後でめんどくさくなるぞ」
その言葉に、胸が少しだけ痛んだ。
「……別に」
「別にじゃねぇって。ちゃんと向き合うのか、ちゃんと離れるのか、どっちかにしとけ」
その一言が、やけに重く響いた。
……向き合うか、離れるか。そのどっちも、怖い。
種崎はそれだけ言って、机から降りる。
「ま、お前が決めることだけど」
軽く手を振って、そのまま教室を出ていく。
残された静けさの中で、俺は動けなかった。種崎にさっき言われたことが頭から離れなくて。
向き合うか離れるのかを選ぶのは、最初からわかってる。わかってるのに、選べないからこんなことになってる。
小さく息を吐いて、額を押さえた。
結局、どっちを選んでも苦しいんだ。それならいっそ……。そう考えたところで、思考を止めた。
考えたくない。考えたら、全部崩れる。だから俺は、また目を逸らす。あいつからも、自分からも。また逃げてるって言われるかもしれないけど、それでいい。もう俺と一ノ瀬との関係は、終わったんだ。
放課後。オレンジ色の光が校舎の廊下を長く染めていた。
帰り支度を終えて、鞄を肩にかける。
隣の席の男子と軽く会話しながら、校門へ向かう。
他愛もない話で、笑いながら歩く。
やっぱりこういう空気の方が楽だな、と安心しているけれど、何かが足りない気がした。
元々壊れかけていた心に、またぽっかり穴が空いてしまったような感覚。
その穴が何で埋まるのかわかってるくせに、気付かないふりをして、それから目を背けた。
隣で永遠と喋っている彼に、テキトウに相槌をしながら、ぼーっと考えている途中で、また視線を感じた。
振り返れば、少し離れたところに一ノ瀬がいた。
完全に笑っていなくて、ただ静かにこっちを見ている。何も言わないくせに、視線だけが強いその眼差しに胸がざわつく。
……見るなよ。そう思っていても、目が離せない。結局、俺が先に逸らした。
何がしたいんだろ。……俺も、一ノ瀬も。これからどうなりたいんだろ。離れたいって思ってるのに全然忘れることができない。人と話している方が落ち着いたりするのかと思ったけれど、何も頭に入ってこなくて、結局一ノ瀬のことばかり考えてしまう俺は、重症なのだろうか。
こんな自分に絶望しながら、そのまま歩く速度を少しだけ上げる。
……また逃げるみたいに。
「どうした?」
「なんでもねぇよ。悪いな」
「そ……ならいいけどよ」
笑って誤魔化して、またこいつの話をテキトウに聞いて。
前と何も変わってねぇじゃんか……。
……逃げてるのは、どっちだよ。自分で自分に呟いた言葉は、風に溶けて消えた。
そのままバイト先まで送って行ってもらってしまって、家が近いからという理由だそうでそのまま店で別れた。
そのままいつもと何事もなく仕事をして、一ノ瀬とシフトは被ってしまったけど、他人のフリをして。
何も気にしていないように振舞って。時折舌打ちをして不機嫌顔をしている一ノ瀬を見かけたけど、気にせずに、心を落ち着かせるようにせっせと働いた。
あんな顔、俺の知らない一ノ瀬だった。いや、違う。きっと、あれが本当の表情なんだ……。
先輩や店長は心配してくれたけど、今日は神様が俺の願いを叶えてくれたかのように忙しかったので、それを理由にして笑って誤魔化した。
閉店後の店内は、夕方の賑やかさが嘘みたいに静かで、蛍光灯の白い光が、床を淡く照らしている。
レジ締めの音、椅子を引く小さな音だけが、ぽつぽつと響く。
掃除も片付けも何事もなく終わり、このまま何も起きないでくれと祈りながら更衣室に入ると、一ノ瀬がいた。
……神様は二度も願いを叶えてくれはしないらしい。
一瞬、足が止まって息が止まったけれど、何も言わずにロッカーを開けた。
制服を脱ぎながら、視線を合わせないようにする。
空気が重くて、何か声をかけようか迷う。
「……お疲れ」
俺が考える前に不意に隣から声をかけられた。
顔を上げると、一ノ瀬が笑っていた。
それも、あの王子様の笑顔で。誰にでも向ける、作られた笑顔が、俺にも向けられている。
その瞬間、胸の奥で、何かが切れた気がした。
「……なんで。なんでそんな顔すんだよ」」
気づいたら、勝手に口が動いていて、一ノ瀬が少しだけ目を見開く。
言ってしまった……と思って手で口を抑える。
「そんなって?」
「それだよ。……その、誰にでもするみたいな顔」
言葉が荒くなり、彼の表情がほんの少しだけ固まった。
「別に、いつも通りだけど」
いつも一ノ瀬の周りにいる女子たちの顔が浮かび上がってきて、そいつらと同じ扱いにされてる自分に苛立ちが上がってきた。
そしてついカットなってしまい、自分でも出したことのないくらい怒りの言葉を発してしまった。
「いつも通り? ……ふざけんなよ。……俺の前だけは、違うって思ってた」
一ノ瀬は何も言わずに、ただじっとこっちを見つめていた。
その沈黙が、余計に腹立たしくて。自分から逃げて、離れて、一ノ瀬に最悪なこと言ったばかりのくせして、俺は最悪最低で、こんな自分が嫌になる。
「前、言ったよな。俺の前なら、無理しなくていいって」
なんでだよ……! なんで俺から突き放そうとしたのに、また距離詰めようとしてんだよ。
諦めたはずだろ? 俺とこいつとじゃ何もかもが違うんだよ。
それに、どうせ捨てられる。そばにいたって人は必ず一生は一緒にいてくれないんだ。それを俺は知ってる。
喉が締まって、視界が滲む。自分でも、何に怒ってるのかわからない。
「俺の前だったら、本当の自分隠さずにいられるんじゃなかったのかよ……!」
ぽろりと、涙が落ちて、一ノ瀬の目が揺れる。
なんで黙ってるんだよ。否定しろよ。違うって言えよ。
でも、それでも何も言ってくれなかった。そのことが、余計に苦しくて。
あーあ……こんなこと言ったら、俺が一ノ瀬のこと好きってバレちまうじゃねぇか……。ううん。きっともうバレてんだ。
こんな自分勝手なこと吐き捨てて、また傷つけて。
それでも、何も言い返してこないあいつを見てると……もう、とっくに終わってたんじゃないかって思う。
俺が離れるなんて言ったあの日から、あいつの中で、俺はもうどうでもいい存在になってて。だから、あんな顔で笑って。だから、何も言わなくて。
……きっと。きっともう、俺のことなんか……どうでもいいんだ。
「……っ、もういい。お前なんか」
ぐしゃっと顔を歪める。
言いたくない、止めたい。それでも、口から出た。
これ以上一緒にいたら、話してたら、俺は……。
——好きだって、言ってしまいそうだったから。
「大嫌いだ」
俺はわざと一ノ瀬が離れるように、嫌われるように、思ってもないことを口にした。
一瞬、時間が止まったみたいに静かになる。そのまま、背を向けた。
ロッカーもちゃんと閉めないまま、更衣室を飛び出す。
ドアの向こうの空気が、やけに冷たく感じた。
……本当は、嫌いだなんてそんなこと思ってない。わかってる。
あのままあそこにいたら、全部壊れる気がしたんだ。
店の裏口を抜けて夜の空気に触れる。冷たい風が火照った頬を撫でた。
息が、うまくできない。胸の奥が、ぐちゃぐちゃで。何が正しいのか、もうわからない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
……あいつのことが、もうどうしようもなく好きなんだだ。
それだけは、どうしても消えてくれない。
だから、離れなきゃいけない。でも……足は、止まったまま動いてなんてくれなかった。
後ろを振り返りそうになるのを、必死に堪える。
振り返ったら、終わる。
追いかけてほしかった……なんて今更思ってないけど……俺がこんなこと思う立場じゃない、自業自得だってわかってるけど……あいつに、会いたいなんて思ってる。
「ほんと、バカだな」
小さく呟いた声は、夜に溶けて消えた。
揺れているのは、距離なんかじゃない。
きっと、俺の心の方だ。
近づけば壊れる。離れれば苦しい。そんな選択しか残っていないくらいには。


