最近、わかりやすいくらいに避けている自覚がある。
廊下で見かけても目を逸らすし、話しかけられても必要最低限で切り上げる。バイトでも、なるべく距離を取るようにしている。
放課後の教室の空気は、少しだけ冷えていた。
教室の窓から差し込む光は柔らかくなっていて、机の上に長い影を落としている。
帰り支度をしている生徒たちの声が遠くに聞こえる中、俺は一人、ゆっくりと鞄を持ち上げた。
……今日は、会わずに済むだろうか。そんなことを考えている時点で、もうだめだと自分でもわかっているのに。
教室を出て、廊下を歩く。人の流れに紛れるように、なるべく目立たないように。
そうして階段を降りた、そのときだった。
「湊」
聞き慣れた声が、背後から落ちてくる。
びくっと肩が揺れた。振り返らなくてもわかる。
わかってしまうからこそ、余計に厄介だった。
「……何」
なるべく平坦な声で返す。
振り向いた先にいたのは、やっぱり一ノ瀬だった。
いつも通りの顔で、少しだけ目を細めて、まっすぐこっちを見る視線。
「今から帰り?」
「見りゃわかるだろ」
そっけなく返すと、一ノ瀬は小さく笑った。
「じゃあ、一緒に行こ」
当然みたいに隣に並ばれる。
断る隙なんて、最初から与えられていない。
「……別に、いいけど」
本当はよくない。よくないのに、拒否する理由が見つからない。
いや、違う。言えないだけだ。ちゃんとした理由が。
並んで歩き出すと、距離がやけに近く感じる。触れているわけでもないのに、意識が全部そこに持っていかれる。
「今日さ、昼いなかったよな」
「……いたけど」
「嘘。探したけど見つかんなかった」
さらっと言われて、言葉に詰まる。
……探した? なんで。だってみんなといる方がずっと……そう聞き返したくなるのを、ぐっと飲み込んだ。
「偶然だろ」
「ふーん。そっか」
その声にはどこか含みがあったけど、無視して視線を合わせないようにした。
しばらく沈黙が続いたのに、やっぱり最初の頃より居心地いいというか。
かといって、いつもなら、こういうときは一ノ瀬の方から何かしら話してくる。だけど、今日はそれがなかった。
その代わりに、視線だけがずっとこっちにある気がする。
落ち着かなくて、逃げるみたいに少しだけ歩く速度を上げる。
「湊……避けてる?」
「は?」
追いつかれて、その一言で心臓が強く跳ねて、とぼける声がわずかに硬くなる。
「最近さ、露骨に距離取るよな」
彼の目は全然笑っていなくて、逃げ場がなくなる。
まだこの気持ちに気づきたくない。認めたくない。気づく前に忘れるんだ。
忘れるために、俺は一ノ瀬を避けていた。
「……気のせいだろ」
「気のせいじゃない」
それなのに……。なんで、こんなふうに付きまとってくるのか。大体みんなは離れていくだろ。
図星だったからそれ以上言葉が出なかった、なんて認められるわけがないけど、否定しきることもできない。
「俺さ、お前がそういう顔する理由、なんとなくわかるけど」
急に、なぜそんなことを言い出すのか正直何もわからなかった。
ただ一つわかったのは、彼の瞳と表情は真っ直ぐで嘘がなかったってことだけだが、今の流れ的に意味不明だ。
「でも、それでも離れるつもりないから」
一瞬、意味が理解できなかった。
でも……一ノ瀬にそんな顔をさせていいのは、絶対俺じゃない。一ノ瀬の隣に、俺がいていい資格なんてないのに。なぜこいつは俺を遠ざけようとしないのか。疑問しか浮かばなかった。
「……なんでだよ」
思わずそう返していて、一瀬は少しだけ目を細める。
「なんでって。……好きだからに決まってるだろ」
あまりにも当たり前みたいに言われて、言葉が、止まった。
——好き。その一言が、頭の中で何度も反響する。
否定しなきゃいけないのに。距離を取らなきゃいけないのに。足が動かなくて、一ノ瀬の顔が、近い。
その視線がまっすぐすぎて、逃げられない。
「お前、ほんとわかりやすいよな」
「……うるせぇ」
ようやく絞り出した声は、驚くくらい弱かった。
一ノ瀬はそんな俺を見て、少しだけ嬉しそうに笑う。
その顔を見た瞬間、あ、だめだと、胸の奥がじわっと熱くなる。
今までずっと「別世界の人」だと思っていたやつが、こんなふうに、すぐ隣にいて。こんなふうに、自分だけを見て笑っている。
それが、どうしようもなく現実として突きつけられる。
視線を逸らけど、逸らしたところで意味なんてない。
胸がドキドキしていることを隠したくて、落ち着かせるように制服のネクタイをきゅっと握る。
俺のその動作を悟ったかのように、彼はまた甘い声で俺の名前を呼ぶ。
「なぁ、湊」
「……な、に」
内心は落ち着いてなんかいなくて、思わずぶっきらぼうに返してしまった。
さっきからずっと、隣にいるこいつの気配に神経が引っ張られている。
「ちょっとこっち来い」
「は? なん、で──っうわ!?」
言い終わる前に、腕を引かれた。
「っ、おい……!」
そのまま連れて行かれたのは、人通りの少ない校舎裏。
さっきまでの帰り道のざわめきが、嘘みたいに遠くなる。
「なんだよ、こんなとこ連れ出して」
少しだけ苛立ちを混ぜて言うと、一ノ瀬は答えない。
ただ、じっとこっちを見ていた。
なんだかいつもと違う。余裕がなくて、どこか必死で。いつでも誰でも平等に、あの無理をしているような笑顔を振りまいているけど、今日は、というかさっきから様子が変だ。
焦っているように、余裕を無くしているように見える。……それでも、目だけは逸らさなくて。
「お前さ。ほんと、なんでそんな逃げんの」
「逃げてねぇって言ってんだろ」
「嘘つけ」
嘘なんて……と言おうとしたけど、今までの行動を振り返る当たり、逃げるということに思い当たりがありすぎた。
一ノ瀬は壁にもたれて、片手で顔を抑えながら呆れたように言葉を零す。
「……俺のこと見ねぇじゃん」
「い、いや……今は……」
「話して、笑って、前までは普通に隣にいたのに。なんで今は、そんな距離取んの」
責めるような言い方じゃない。ただ本気でわからないって顔をしている。
……その顔が、やけに刺さった。
「別に。お前には関係ねぇよ」
「関係なくないだろ」
目を逸らして、また俺は逃げようとしていた。
俺はいつもそうだ。都合の悪いことからは逃げて、ろくに人の話は聞こうとしないし……今だって。真っ直ぐに一ノ瀬は「好き」って、勇気を出して伝えてくれたはずなのに。俺はまた、また、彼の想いは違うから、とか釣り合わないとかそんなことばっかり考えて。必死に言い訳を探して逃れようとして。
バカだな……俺。こんなに真正面から頑張ってくれてるのに、俺は未だにこの気持ちがわからない。遠ざけようと、離れようとしてる。
やっぱり、一ノ瀬が好きになって良い人はこんな俺みたいななんでも逃げる人なんかじゃない。どう見たって、一ノ瀬から同じものを返せない。期待に答えられないんだ……。
一歩距離が詰まって、反射的に下がろうとした足が止まる。
「なぁ、ちゃんと見ろよ。俺のこと見ろよ。振り向けよ」
顎に指がかかって、顔を上げさせられる。
その表情はすごく寂しそうで、声色はすごく苦しそうで、その綴られた言葉は、まるで俺に好きになってほしいって言ってるみたいだった。
「……っ」
無理やり目が合い、逃げられない。
「俺、お前のこと……」
一瞬、言葉が途切れる。
その間すら、やけに長く感じた。時計の秒針が動く音が、すごく近づいているみたいに大きく聞こえた。
「ちゃんと好きだって言ってんの」
彼の瞳に、嘘なんて何も無くて。疑っていた俺が阿呆みたいで。
逃げ場なんて最初からないみたいに、真っ直ぐに届けられた。
なぜか、心臓が大きく跳ねる。
「なんでそんな顔すんの」
「……どんな顔だよ」
「困ってる顔だよ」
「そんなの、困るに決まってんだろ」
少しだけ声が震えて、俺でも何を言っているか、考えているのか全然わからなくて。
一ノ瀬はそれを見逃さなかった。
「なんで?」
言えない。この気持ちの正体に気づき始めているから、なんて。
彼は、捨てられた犬みたいに寂しそうな瞳をうるうると輝かせて言った。
「もしかして、俺のこと嫌い?」
わざとらしく少しだけ意地悪な言い方だったけど、その目は本気だった。
否定しようとしたけど、なぜか言葉に詰まった。
いつもなら、興味ないとかで済ませてしまうはずだ。それでも、もう彼から言い逃れは出来ないと思って、顔を俯きがちに喉に詰まっていた言葉を発した。
「……嫌いじゃ、ない」
小さく絞り出したけど、言った瞬間後悔した。
この答えが、一ノ瀬を勘違いさせてしまうという申し訳なさで頭がいっぱいだった。
まだ、ちゃんと決まっていない。この感情も、一ノ瀬に対する想いも。
「じゃあ好きじゃん」
「そんなわけ……」
考える前に、一ノ瀬は俺が思っていたことをそのまま口に出した。
「嫌いじゃないってことは、そういうことだろ」
楽しそうに笑うくせに、距離は一切離さない。
また無理して取り繕って。本当は無理してるくせに。俺の前だったら素でいられるって言ったのは誰だよ……。
無理に笑わなくてもいいって言っただろ。
「……わかんねぇよ」
本音がぽろりと漏れて、目の前の彼は大きく目を見開いた。
まるで、何かを期待しているかのように。
俺は苦しい胸を抑えるように震える声で、手を一ノ瀬に胸に叩いた。
「わかんねぇけど……っ」
声も、距離も、全部。もう……なんか、わからねぇよ。俺、何がしたいんだろ。
一ノ瀬と出会ったばかりの頃、俺が一ノ瀬に言った言葉を自分に返す。
そして、過去の自分に言ってあげたい。……一ノ瀬と関わると、やっかいな気持ちに惑わされる、と。
「……っ、やめろって」
「やめねぇよ。……お前がちゃんと向き合うまで」
その言葉で、完全に逃げ道が塞がれた。
ああ、だめだ。この距離で、この目で、こんなふうに言われたら。完全に気づいてしまう。一ノ瀬と同じ気持ちになんか、なりたくなかった。
だって。一ノ瀬もきっと、あのときと同じ。あのころと同じ。俺を捨てるんだ……。
そんなことわかってるから、関わらないようにしてたはずだ。だからこんなに避けて、一ノ瀬を傷つけようとも考えたのに、なんで一ノ瀬は俺から離れないんだよ、信じてくるんだよ……。
なんで、なんで。
「なんで俺なんだ……」
ぽつりと弱々しい声が零れると同時に、一ノ瀬は少しだけ目を細めた。
「お前だからだよ。他じゃだめんだ」
その一言で、胸の奥が強く揺れた。
息が詰まって、呼吸が苦しい。
「俺だからって……そんなの、理由になってねぇじゃんか」
消えそうで、か細い声を必死に喉から出す。
今まで別世界だと思ってたやつが、こんな顔で、こんな距離で、こんな言葉を、自分に向けてくる。
時計を見ると、下校時刻はとっくに過ぎていて、これは部活中の人と同じ時間に帰るだろうな、と別の意味で落胆するけど、そんな俺の心の中を見たかのように、一ノ瀬は俺を抱き寄せて耳元で言った。
「お前が可愛いから」
「……は? かわいくなんか……」
「全部……ほんと、放っとけないんだよ」
彼は俺の頭を撫でながら「好き」と呟く。
俺はもう胸の鼓動を隠しきれなくて、顔が熱くなるのが誤魔化なくて。
俺の中で、何かが完全に崩れおちた気がした。
目を逸らすけど、もう意味なんてない。
……俺、こいつのこと──そこまで考えて、はっきりと形になった。
「……はぁ。最悪」
小さく息を吐いて、一ノ瀬から離れる。
もう、誤魔化せない。
認めたくなかった。気づきたくなかった。俺、完全に落ちてる。
その場の壁にもたれかかってするするとしゃがむ。手で顔を隠しながら、これまでのことを振り返った。
もうずっと前から、一ノ瀬に惚れてたんだということを。
「何が?」
「なんでもねぇよ」
顔を背ける。これ以上見たら、終わると思ったからだ。
いや、もう終わってる。そう思った瞬間、胸の奥がじわりと痛んだ。
さっきまであんなに近くにいた熱が、ゆっくりと冷めていくみたいに、現実が押し寄せてくる。
奥歯を噛み締めて、ぐるぐると思考を巡らせた。
違う。終わったんじゃない。……終わらせなきゃいけない。
「俺じゃねぇだろ」
自分でも驚くくらい弱い声がポロッと漏れてしまった。
一ノ瀬は、何も言わない。ただ、すぐ近くにいる気配だけが、やけに濃くて。それが余計に苦しい。
「お前さ。ああいうこと、誰にでも言ってんの」
言葉を選ぶ余裕なんてなかった。
出てくるのは、全部ぐちゃぐちゃのままの本音。
一瞬だけ空気が張り詰めて、校舎裏に低い声が響く。
「……は?」
一ノ瀬の、今まで聞いたことのないような怖い声が耳の奥で共鳴して、身体がびくっと震えがあるが、もう止められなかった。
「好きだとかさ、そういうの。どうせ……ノリだろ」
言いながら、自分でわかってた。
それが一番卑怯な言い方で、一ノ瀬がそういうやつじゃないこと。
わかってる、わかってる。一ノ瀬はちゃんと勇気を出して、俺が傷つかないように告白してくれたことも。辛いのを耐えながら、俺のことを真っ直ぐに好きになってくれたことも。
それでも。どうせ……みんな離れてく。人間は最後まで愛してはくれない。信じてくれない。だったら、最初から関わらない方がマシだ。
そんな考え方の俺を変わらせてくれて、関わってくれて、人に興味を持たせてくれて。俺に、愛を教えてくれたのが一ノ瀬だった。……はずだった。
でも結局こうだ。俺と彼とは住む世界が違う。一ノ瀬は必死に関わってくれてるけど、現実は甘くなんてない。
お願いだからもう期待させないでくれ……。信用しようとさせないでくれ……。
こんな自分勝手な理由で、一ノ瀬に嫌われようとして、思ってもないことを吐き捨てた。
「俺、そういうの無理だから」
逃げるための言葉を、無理やり並べる。
「勘違いするし」
その一言で、喉が詰まりそうになる。
「……したくねぇし」
小さく付け足した声は、ほとんど聞こえないくらいだった。
少しの沈黙のあと、予想通り彼は俺なんかの言葉で折れてはくれなかった。
震える低い声で、彼は俺の肩を掴む。
「俺が、誰にでも言うと思ってんの?」
「知らねぇよ」
知りたくないから。
一ノ瀬の奥を知ることが、怖いから。
またそうやって逃げて言い訳を探しているけれど、離れるのも、一緒にいるのも怖くて。
だったらどっちかを選んで、どっちかの道で逃げない方法を考えるんだ。
誰にでも同じ顔してるなんて、昨日聞いたばかりのことが頭をよぎる。
俺は一ノ瀬の手を下ろして、距離を取り、笑顔で言った。
「でもお前は……そういうやつだろ」
結局吐き捨てるみたいに放った。一ノ瀬の過去を、勝手に理由にして。
……最低。こんなことあんな顔で言って、自分が一番辛いくせに。
空気がさっきよりも重くなる。でも、引き返せない。
「だからこれ以上、関わるのやめる」
ゆっくりと立ち上がる。足が少し震えてるのを無理やり抑えながらはっきりと言い切った。
胸がぎゅっと痛むのを誤魔化しながら。
「お前にとっても、その方がいいだろ」
視線は、最後まで合わせなかった。
その一言は完全に自分に向けたもので。その言葉には、何も返ってこなかった。その沈黙が、怖くて。
「……じゃあな」
短く言って、背を向ける。
追いかけてほしい、なんて微塵も思ってない。これが俺が出した答えだから。
気持ちに気づいてしまった以上、向き合うか、離れるしか選択肢はない。
俺は、心の中で一ノ瀬と反対の方向に足を運んで背を向けた。
背中から視線を感じて、足が止まりそうになるけど後戻りなんてできない。
それでも、また声をかけてくるんじゃないかと思って、彼より先に口を開いた。
「……逃げてねぇからな。線を引いてるだけだ」
少しだけ間を置いて、続ける。
「これ以上近づいたら、……俺、多分、ちゃんといられなくなる」
自分でも何を言っているかわからないまま、それでも絞り出す。
「だから無理。……お前と、今までみたいにはいられない」
振り返らないまま、ぼそっと言った。一ノ瀬が何か言おうとしたけれど、聞かないまま正門を出る。
あれが自分なりの答えで。
——好きだからこそ、ここで終わらせる。そう思い込まないと、壊れそうだった。
足を止めたら終わると思った。
一度でも振り返ったら、全部なかったことになって、またあいつの隣に戻ってしまう。
それが、怖かった。
好きになったまま、一緒にいる勇気なんて、俺にはない。
だからこれは逃げじゃない。逃げじゃないって、何度も言い聞かせながら、ただ前だけを見て歩いた。
翌日。
学校に入った瞬間、ざわついた空気が広がっていた。
正直、昨日の今日で気まづいから、もう関わりたくないから、一ノ瀬とは目を合わせずに、声をかけられても赤の他人のふりをしようと思う。
昨日あんなこと言ったんだし、何もしてこないと願うけど。
廊下で一ノ瀬は、女子に囲まれて柔らかく笑っている。
「玲央くんさー……」
「うん、何?」
優しい声で、誰にでも向けるあの笑顔。
一気に、現実に引き戻されて、さっきまでの感情が嘘みたいに冷えていく。
あいつは、こういうやつだ。みんなの王子様で、誰にでも優しくて、誰にでも特別みたいな顔をして。
でも、もう関係ない。俺には関係ない。きっと、この恋心はいつか消える。関わらなければ、絶対一ノ瀬を好きになることなんてこの先ない。
……そう思おうとした、そのとき。
「ねぇあれ……玲央くん最近あの地味な子と一緒にいるよね」
「え、ああ……なんだっけ名前」
「湊くん、だっけ?」
近くの女子の声が耳に入り、くすっと笑う声が広がっていく。
「でもさ、あんな子に本気になるわけないじゃん」
「だよねー。ちょっと構ってるだけでしょ」
その言葉が、静かに胸に刺さった。
ほらな。やっぱり、そういうもんだ。期待した俺がバカだった。
振り返らずに、スタスタと歩いて教室に入る。振り返ったら、何かが壊れる気がして。
……そうだよな。それが普通だ。あいつは王子様で。俺はただのモブで。釣り合うわけがない。
さっきまで浮かびかけていた感情を、無理やり押し込めた。
好きになったら終わる。傷つくのは、どう考えても自分だ。
それに、あいつが近づいてきた理由だって、本当は面白そうだったから。たまたま目についたから。その程度かもしれない。
考えれば考えるほど、怖くなる。一ノ瀬に出会う前は、こんな感情は何もなかったはずだった。
人に興味を持たなくて、ただ空だけ見てれば十分だったのに。俺、どんだけあいつに溺れてんだろ……。
教室の窓から、少し曇った空を見上げるけど、ちょっと前みたいに落ち着きなんてしなかった。
それから俺は、意識的に一ノ瀬を避けるようになった。
廊下で見かけたら、反対側に逸れる。休み時間は人の少ない場所に移動する。バイトでも、なるべく距離を取る。
それでも、あいつは簡単に見つけてくる。
だけど、彼は全然話そうとしないし、無理に関わろうとしてこない。シフトも、あまり被らなくなった。
シフト表を見る度に、寂しい気持ちが俺の心を邪魔してくる。そりゃそうだ。人を好きになるってことはそういうことも我慢しなくちゃいけねぇ。この感情が消えるまでの辛抱だ。
それと……彼は最近よく、他の人に見せる笑顔を俺に見せるようになった。
素を出して、不機嫌そうな、仏頂面な表情じゃなくて。俺が嫌いな王子様の笑顔だった。
その笑顔を見せられる度に前よりもずっと苦しい。自分から避けて離れるようにしてんのに、俺って卑怯だよな……。
今日もバイトを一言も話さずに終える。
店から出た瞬間、誰かが俺に呟いた気がしたけど、気にしないように歩いた。
「俺、逃がすつもりないから」
まっすぐな声で、冗談じゃない本気のトーンが聞こえた。
やっぱり、一ノ瀬の声を聞く度に思ってしまう。……好き。
「……バカみたいだな」
誰に向けたのかもわからないまま、そう呟いた。
それでも、距離を取らなきゃいけない。
だけど、心のどこかで、逃げられないことを望んでいる自分がいた。
また話せるのか、とか。一緒にいられたらいい、とか。よく分からないことばかり考えてしまう。
俺はいつの間にか、こんなにも一ノ瀬のことが好きで、寂しい、なんて思って思ってしまっていたらしい。
その気持ちを抱えたまま、平気なふりをするしかない。
誰にも気づかれないように、何もなかったみたいに過ごしていく。
それが今の俺にできる、唯一の正解だった。
……多分、間違ってるけど。
廊下で見かけても目を逸らすし、話しかけられても必要最低限で切り上げる。バイトでも、なるべく距離を取るようにしている。
放課後の教室の空気は、少しだけ冷えていた。
教室の窓から差し込む光は柔らかくなっていて、机の上に長い影を落としている。
帰り支度をしている生徒たちの声が遠くに聞こえる中、俺は一人、ゆっくりと鞄を持ち上げた。
……今日は、会わずに済むだろうか。そんなことを考えている時点で、もうだめだと自分でもわかっているのに。
教室を出て、廊下を歩く。人の流れに紛れるように、なるべく目立たないように。
そうして階段を降りた、そのときだった。
「湊」
聞き慣れた声が、背後から落ちてくる。
びくっと肩が揺れた。振り返らなくてもわかる。
わかってしまうからこそ、余計に厄介だった。
「……何」
なるべく平坦な声で返す。
振り向いた先にいたのは、やっぱり一ノ瀬だった。
いつも通りの顔で、少しだけ目を細めて、まっすぐこっちを見る視線。
「今から帰り?」
「見りゃわかるだろ」
そっけなく返すと、一ノ瀬は小さく笑った。
「じゃあ、一緒に行こ」
当然みたいに隣に並ばれる。
断る隙なんて、最初から与えられていない。
「……別に、いいけど」
本当はよくない。よくないのに、拒否する理由が見つからない。
いや、違う。言えないだけだ。ちゃんとした理由が。
並んで歩き出すと、距離がやけに近く感じる。触れているわけでもないのに、意識が全部そこに持っていかれる。
「今日さ、昼いなかったよな」
「……いたけど」
「嘘。探したけど見つかんなかった」
さらっと言われて、言葉に詰まる。
……探した? なんで。だってみんなといる方がずっと……そう聞き返したくなるのを、ぐっと飲み込んだ。
「偶然だろ」
「ふーん。そっか」
その声にはどこか含みがあったけど、無視して視線を合わせないようにした。
しばらく沈黙が続いたのに、やっぱり最初の頃より居心地いいというか。
かといって、いつもなら、こういうときは一ノ瀬の方から何かしら話してくる。だけど、今日はそれがなかった。
その代わりに、視線だけがずっとこっちにある気がする。
落ち着かなくて、逃げるみたいに少しだけ歩く速度を上げる。
「湊……避けてる?」
「は?」
追いつかれて、その一言で心臓が強く跳ねて、とぼける声がわずかに硬くなる。
「最近さ、露骨に距離取るよな」
彼の目は全然笑っていなくて、逃げ場がなくなる。
まだこの気持ちに気づきたくない。認めたくない。気づく前に忘れるんだ。
忘れるために、俺は一ノ瀬を避けていた。
「……気のせいだろ」
「気のせいじゃない」
それなのに……。なんで、こんなふうに付きまとってくるのか。大体みんなは離れていくだろ。
図星だったからそれ以上言葉が出なかった、なんて認められるわけがないけど、否定しきることもできない。
「俺さ、お前がそういう顔する理由、なんとなくわかるけど」
急に、なぜそんなことを言い出すのか正直何もわからなかった。
ただ一つわかったのは、彼の瞳と表情は真っ直ぐで嘘がなかったってことだけだが、今の流れ的に意味不明だ。
「でも、それでも離れるつもりないから」
一瞬、意味が理解できなかった。
でも……一ノ瀬にそんな顔をさせていいのは、絶対俺じゃない。一ノ瀬の隣に、俺がいていい資格なんてないのに。なぜこいつは俺を遠ざけようとしないのか。疑問しか浮かばなかった。
「……なんでだよ」
思わずそう返していて、一瀬は少しだけ目を細める。
「なんでって。……好きだからに決まってるだろ」
あまりにも当たり前みたいに言われて、言葉が、止まった。
——好き。その一言が、頭の中で何度も反響する。
否定しなきゃいけないのに。距離を取らなきゃいけないのに。足が動かなくて、一ノ瀬の顔が、近い。
その視線がまっすぐすぎて、逃げられない。
「お前、ほんとわかりやすいよな」
「……うるせぇ」
ようやく絞り出した声は、驚くくらい弱かった。
一ノ瀬はそんな俺を見て、少しだけ嬉しそうに笑う。
その顔を見た瞬間、あ、だめだと、胸の奥がじわっと熱くなる。
今までずっと「別世界の人」だと思っていたやつが、こんなふうに、すぐ隣にいて。こんなふうに、自分だけを見て笑っている。
それが、どうしようもなく現実として突きつけられる。
視線を逸らけど、逸らしたところで意味なんてない。
胸がドキドキしていることを隠したくて、落ち着かせるように制服のネクタイをきゅっと握る。
俺のその動作を悟ったかのように、彼はまた甘い声で俺の名前を呼ぶ。
「なぁ、湊」
「……な、に」
内心は落ち着いてなんかいなくて、思わずぶっきらぼうに返してしまった。
さっきからずっと、隣にいるこいつの気配に神経が引っ張られている。
「ちょっとこっち来い」
「は? なん、で──っうわ!?」
言い終わる前に、腕を引かれた。
「っ、おい……!」
そのまま連れて行かれたのは、人通りの少ない校舎裏。
さっきまでの帰り道のざわめきが、嘘みたいに遠くなる。
「なんだよ、こんなとこ連れ出して」
少しだけ苛立ちを混ぜて言うと、一ノ瀬は答えない。
ただ、じっとこっちを見ていた。
なんだかいつもと違う。余裕がなくて、どこか必死で。いつでも誰でも平等に、あの無理をしているような笑顔を振りまいているけど、今日は、というかさっきから様子が変だ。
焦っているように、余裕を無くしているように見える。……それでも、目だけは逸らさなくて。
「お前さ。ほんと、なんでそんな逃げんの」
「逃げてねぇって言ってんだろ」
「嘘つけ」
嘘なんて……と言おうとしたけど、今までの行動を振り返る当たり、逃げるということに思い当たりがありすぎた。
一ノ瀬は壁にもたれて、片手で顔を抑えながら呆れたように言葉を零す。
「……俺のこと見ねぇじゃん」
「い、いや……今は……」
「話して、笑って、前までは普通に隣にいたのに。なんで今は、そんな距離取んの」
責めるような言い方じゃない。ただ本気でわからないって顔をしている。
……その顔が、やけに刺さった。
「別に。お前には関係ねぇよ」
「関係なくないだろ」
目を逸らして、また俺は逃げようとしていた。
俺はいつもそうだ。都合の悪いことからは逃げて、ろくに人の話は聞こうとしないし……今だって。真っ直ぐに一ノ瀬は「好き」って、勇気を出して伝えてくれたはずなのに。俺はまた、また、彼の想いは違うから、とか釣り合わないとかそんなことばっかり考えて。必死に言い訳を探して逃れようとして。
バカだな……俺。こんなに真正面から頑張ってくれてるのに、俺は未だにこの気持ちがわからない。遠ざけようと、離れようとしてる。
やっぱり、一ノ瀬が好きになって良い人はこんな俺みたいななんでも逃げる人なんかじゃない。どう見たって、一ノ瀬から同じものを返せない。期待に答えられないんだ……。
一歩距離が詰まって、反射的に下がろうとした足が止まる。
「なぁ、ちゃんと見ろよ。俺のこと見ろよ。振り向けよ」
顎に指がかかって、顔を上げさせられる。
その表情はすごく寂しそうで、声色はすごく苦しそうで、その綴られた言葉は、まるで俺に好きになってほしいって言ってるみたいだった。
「……っ」
無理やり目が合い、逃げられない。
「俺、お前のこと……」
一瞬、言葉が途切れる。
その間すら、やけに長く感じた。時計の秒針が動く音が、すごく近づいているみたいに大きく聞こえた。
「ちゃんと好きだって言ってんの」
彼の瞳に、嘘なんて何も無くて。疑っていた俺が阿呆みたいで。
逃げ場なんて最初からないみたいに、真っ直ぐに届けられた。
なぜか、心臓が大きく跳ねる。
「なんでそんな顔すんの」
「……どんな顔だよ」
「困ってる顔だよ」
「そんなの、困るに決まってんだろ」
少しだけ声が震えて、俺でも何を言っているか、考えているのか全然わからなくて。
一ノ瀬はそれを見逃さなかった。
「なんで?」
言えない。この気持ちの正体に気づき始めているから、なんて。
彼は、捨てられた犬みたいに寂しそうな瞳をうるうると輝かせて言った。
「もしかして、俺のこと嫌い?」
わざとらしく少しだけ意地悪な言い方だったけど、その目は本気だった。
否定しようとしたけど、なぜか言葉に詰まった。
いつもなら、興味ないとかで済ませてしまうはずだ。それでも、もう彼から言い逃れは出来ないと思って、顔を俯きがちに喉に詰まっていた言葉を発した。
「……嫌いじゃ、ない」
小さく絞り出したけど、言った瞬間後悔した。
この答えが、一ノ瀬を勘違いさせてしまうという申し訳なさで頭がいっぱいだった。
まだ、ちゃんと決まっていない。この感情も、一ノ瀬に対する想いも。
「じゃあ好きじゃん」
「そんなわけ……」
考える前に、一ノ瀬は俺が思っていたことをそのまま口に出した。
「嫌いじゃないってことは、そういうことだろ」
楽しそうに笑うくせに、距離は一切離さない。
また無理して取り繕って。本当は無理してるくせに。俺の前だったら素でいられるって言ったのは誰だよ……。
無理に笑わなくてもいいって言っただろ。
「……わかんねぇよ」
本音がぽろりと漏れて、目の前の彼は大きく目を見開いた。
まるで、何かを期待しているかのように。
俺は苦しい胸を抑えるように震える声で、手を一ノ瀬に胸に叩いた。
「わかんねぇけど……っ」
声も、距離も、全部。もう……なんか、わからねぇよ。俺、何がしたいんだろ。
一ノ瀬と出会ったばかりの頃、俺が一ノ瀬に言った言葉を自分に返す。
そして、過去の自分に言ってあげたい。……一ノ瀬と関わると、やっかいな気持ちに惑わされる、と。
「……っ、やめろって」
「やめねぇよ。……お前がちゃんと向き合うまで」
その言葉で、完全に逃げ道が塞がれた。
ああ、だめだ。この距離で、この目で、こんなふうに言われたら。完全に気づいてしまう。一ノ瀬と同じ気持ちになんか、なりたくなかった。
だって。一ノ瀬もきっと、あのときと同じ。あのころと同じ。俺を捨てるんだ……。
そんなことわかってるから、関わらないようにしてたはずだ。だからこんなに避けて、一ノ瀬を傷つけようとも考えたのに、なんで一ノ瀬は俺から離れないんだよ、信じてくるんだよ……。
なんで、なんで。
「なんで俺なんだ……」
ぽつりと弱々しい声が零れると同時に、一ノ瀬は少しだけ目を細めた。
「お前だからだよ。他じゃだめんだ」
その一言で、胸の奥が強く揺れた。
息が詰まって、呼吸が苦しい。
「俺だからって……そんなの、理由になってねぇじゃんか」
消えそうで、か細い声を必死に喉から出す。
今まで別世界だと思ってたやつが、こんな顔で、こんな距離で、こんな言葉を、自分に向けてくる。
時計を見ると、下校時刻はとっくに過ぎていて、これは部活中の人と同じ時間に帰るだろうな、と別の意味で落胆するけど、そんな俺の心の中を見たかのように、一ノ瀬は俺を抱き寄せて耳元で言った。
「お前が可愛いから」
「……は? かわいくなんか……」
「全部……ほんと、放っとけないんだよ」
彼は俺の頭を撫でながら「好き」と呟く。
俺はもう胸の鼓動を隠しきれなくて、顔が熱くなるのが誤魔化なくて。
俺の中で、何かが完全に崩れおちた気がした。
目を逸らすけど、もう意味なんてない。
……俺、こいつのこと──そこまで考えて、はっきりと形になった。
「……はぁ。最悪」
小さく息を吐いて、一ノ瀬から離れる。
もう、誤魔化せない。
認めたくなかった。気づきたくなかった。俺、完全に落ちてる。
その場の壁にもたれかかってするするとしゃがむ。手で顔を隠しながら、これまでのことを振り返った。
もうずっと前から、一ノ瀬に惚れてたんだということを。
「何が?」
「なんでもねぇよ」
顔を背ける。これ以上見たら、終わると思ったからだ。
いや、もう終わってる。そう思った瞬間、胸の奥がじわりと痛んだ。
さっきまであんなに近くにいた熱が、ゆっくりと冷めていくみたいに、現実が押し寄せてくる。
奥歯を噛み締めて、ぐるぐると思考を巡らせた。
違う。終わったんじゃない。……終わらせなきゃいけない。
「俺じゃねぇだろ」
自分でも驚くくらい弱い声がポロッと漏れてしまった。
一ノ瀬は、何も言わない。ただ、すぐ近くにいる気配だけが、やけに濃くて。それが余計に苦しい。
「お前さ。ああいうこと、誰にでも言ってんの」
言葉を選ぶ余裕なんてなかった。
出てくるのは、全部ぐちゃぐちゃのままの本音。
一瞬だけ空気が張り詰めて、校舎裏に低い声が響く。
「……は?」
一ノ瀬の、今まで聞いたことのないような怖い声が耳の奥で共鳴して、身体がびくっと震えがあるが、もう止められなかった。
「好きだとかさ、そういうの。どうせ……ノリだろ」
言いながら、自分でわかってた。
それが一番卑怯な言い方で、一ノ瀬がそういうやつじゃないこと。
わかってる、わかってる。一ノ瀬はちゃんと勇気を出して、俺が傷つかないように告白してくれたことも。辛いのを耐えながら、俺のことを真っ直ぐに好きになってくれたことも。
それでも。どうせ……みんな離れてく。人間は最後まで愛してはくれない。信じてくれない。だったら、最初から関わらない方がマシだ。
そんな考え方の俺を変わらせてくれて、関わってくれて、人に興味を持たせてくれて。俺に、愛を教えてくれたのが一ノ瀬だった。……はずだった。
でも結局こうだ。俺と彼とは住む世界が違う。一ノ瀬は必死に関わってくれてるけど、現実は甘くなんてない。
お願いだからもう期待させないでくれ……。信用しようとさせないでくれ……。
こんな自分勝手な理由で、一ノ瀬に嫌われようとして、思ってもないことを吐き捨てた。
「俺、そういうの無理だから」
逃げるための言葉を、無理やり並べる。
「勘違いするし」
その一言で、喉が詰まりそうになる。
「……したくねぇし」
小さく付け足した声は、ほとんど聞こえないくらいだった。
少しの沈黙のあと、予想通り彼は俺なんかの言葉で折れてはくれなかった。
震える低い声で、彼は俺の肩を掴む。
「俺が、誰にでも言うと思ってんの?」
「知らねぇよ」
知りたくないから。
一ノ瀬の奥を知ることが、怖いから。
またそうやって逃げて言い訳を探しているけれど、離れるのも、一緒にいるのも怖くて。
だったらどっちかを選んで、どっちかの道で逃げない方法を考えるんだ。
誰にでも同じ顔してるなんて、昨日聞いたばかりのことが頭をよぎる。
俺は一ノ瀬の手を下ろして、距離を取り、笑顔で言った。
「でもお前は……そういうやつだろ」
結局吐き捨てるみたいに放った。一ノ瀬の過去を、勝手に理由にして。
……最低。こんなことあんな顔で言って、自分が一番辛いくせに。
空気がさっきよりも重くなる。でも、引き返せない。
「だからこれ以上、関わるのやめる」
ゆっくりと立ち上がる。足が少し震えてるのを無理やり抑えながらはっきりと言い切った。
胸がぎゅっと痛むのを誤魔化しながら。
「お前にとっても、その方がいいだろ」
視線は、最後まで合わせなかった。
その一言は完全に自分に向けたもので。その言葉には、何も返ってこなかった。その沈黙が、怖くて。
「……じゃあな」
短く言って、背を向ける。
追いかけてほしい、なんて微塵も思ってない。これが俺が出した答えだから。
気持ちに気づいてしまった以上、向き合うか、離れるしか選択肢はない。
俺は、心の中で一ノ瀬と反対の方向に足を運んで背を向けた。
背中から視線を感じて、足が止まりそうになるけど後戻りなんてできない。
それでも、また声をかけてくるんじゃないかと思って、彼より先に口を開いた。
「……逃げてねぇからな。線を引いてるだけだ」
少しだけ間を置いて、続ける。
「これ以上近づいたら、……俺、多分、ちゃんといられなくなる」
自分でも何を言っているかわからないまま、それでも絞り出す。
「だから無理。……お前と、今までみたいにはいられない」
振り返らないまま、ぼそっと言った。一ノ瀬が何か言おうとしたけれど、聞かないまま正門を出る。
あれが自分なりの答えで。
——好きだからこそ、ここで終わらせる。そう思い込まないと、壊れそうだった。
足を止めたら終わると思った。
一度でも振り返ったら、全部なかったことになって、またあいつの隣に戻ってしまう。
それが、怖かった。
好きになったまま、一緒にいる勇気なんて、俺にはない。
だからこれは逃げじゃない。逃げじゃないって、何度も言い聞かせながら、ただ前だけを見て歩いた。
翌日。
学校に入った瞬間、ざわついた空気が広がっていた。
正直、昨日の今日で気まづいから、もう関わりたくないから、一ノ瀬とは目を合わせずに、声をかけられても赤の他人のふりをしようと思う。
昨日あんなこと言ったんだし、何もしてこないと願うけど。
廊下で一ノ瀬は、女子に囲まれて柔らかく笑っている。
「玲央くんさー……」
「うん、何?」
優しい声で、誰にでも向けるあの笑顔。
一気に、現実に引き戻されて、さっきまでの感情が嘘みたいに冷えていく。
あいつは、こういうやつだ。みんなの王子様で、誰にでも優しくて、誰にでも特別みたいな顔をして。
でも、もう関係ない。俺には関係ない。きっと、この恋心はいつか消える。関わらなければ、絶対一ノ瀬を好きになることなんてこの先ない。
……そう思おうとした、そのとき。
「ねぇあれ……玲央くん最近あの地味な子と一緒にいるよね」
「え、ああ……なんだっけ名前」
「湊くん、だっけ?」
近くの女子の声が耳に入り、くすっと笑う声が広がっていく。
「でもさ、あんな子に本気になるわけないじゃん」
「だよねー。ちょっと構ってるだけでしょ」
その言葉が、静かに胸に刺さった。
ほらな。やっぱり、そういうもんだ。期待した俺がバカだった。
振り返らずに、スタスタと歩いて教室に入る。振り返ったら、何かが壊れる気がして。
……そうだよな。それが普通だ。あいつは王子様で。俺はただのモブで。釣り合うわけがない。
さっきまで浮かびかけていた感情を、無理やり押し込めた。
好きになったら終わる。傷つくのは、どう考えても自分だ。
それに、あいつが近づいてきた理由だって、本当は面白そうだったから。たまたま目についたから。その程度かもしれない。
考えれば考えるほど、怖くなる。一ノ瀬に出会う前は、こんな感情は何もなかったはずだった。
人に興味を持たなくて、ただ空だけ見てれば十分だったのに。俺、どんだけあいつに溺れてんだろ……。
教室の窓から、少し曇った空を見上げるけど、ちょっと前みたいに落ち着きなんてしなかった。
それから俺は、意識的に一ノ瀬を避けるようになった。
廊下で見かけたら、反対側に逸れる。休み時間は人の少ない場所に移動する。バイトでも、なるべく距離を取る。
それでも、あいつは簡単に見つけてくる。
だけど、彼は全然話そうとしないし、無理に関わろうとしてこない。シフトも、あまり被らなくなった。
シフト表を見る度に、寂しい気持ちが俺の心を邪魔してくる。そりゃそうだ。人を好きになるってことはそういうことも我慢しなくちゃいけねぇ。この感情が消えるまでの辛抱だ。
それと……彼は最近よく、他の人に見せる笑顔を俺に見せるようになった。
素を出して、不機嫌そうな、仏頂面な表情じゃなくて。俺が嫌いな王子様の笑顔だった。
その笑顔を見せられる度に前よりもずっと苦しい。自分から避けて離れるようにしてんのに、俺って卑怯だよな……。
今日もバイトを一言も話さずに終える。
店から出た瞬間、誰かが俺に呟いた気がしたけど、気にしないように歩いた。
「俺、逃がすつもりないから」
まっすぐな声で、冗談じゃない本気のトーンが聞こえた。
やっぱり、一ノ瀬の声を聞く度に思ってしまう。……好き。
「……バカみたいだな」
誰に向けたのかもわからないまま、そう呟いた。
それでも、距離を取らなきゃいけない。
だけど、心のどこかで、逃げられないことを望んでいる自分がいた。
また話せるのか、とか。一緒にいられたらいい、とか。よく分からないことばかり考えてしまう。
俺はいつの間にか、こんなにも一ノ瀬のことが好きで、寂しい、なんて思って思ってしまっていたらしい。
その気持ちを抱えたまま、平気なふりをするしかない。
誰にも気づかれないように、何もなかったみたいに過ごしていく。
それが今の俺にできる、唯一の正解だった。
……多分、間違ってるけど。


