閉店後、制服の隣で。

放課後の空気は、昼間よりもずっとゆるやかで、少しだけ冷えていた。
校舎の窓から差し込む光も柔らかくなっていて、廊下には長く影が伸びている。
「あれ、凪沙もう帰るの? バイト?」
「あ、うん」
バイト先のファミレスに向かう途中、種崎が険しい表情をしながら声をかけてきた。
どうして険しい顔をしているのかは、触れてはいけない気がして黙っておいたけど。
「じゃあ途中まで一緒に帰らないか?」
「いいけど。他の友達はいいのかよ」
後ろを振り向けば、同じく嫌いな食べ物を見る目で見つめている種崎の友人たちが。
……え、俺何かしたっけ。
「うん。平気」
「……そ」
数分無言で帰路を歩いていると、いきなり種崎が立ち止まって口を開いた。
何かを億劫しているように見えたが、種崎がもじもじしているとなんか気持ち悪い。
「凪沙。最近一ノ瀬とはどうだ?」
「は、……?」
「バイト一緒なんだろ」
思ってもいなかったセリフに目を見開く。
種崎の口からそんなことが出てくるとは思わなくて、ぽかんとしてしまう。
「いやそうだけど……ってん!?」
俺って、種崎に一ノ瀬とバイト先一緒ってこと言ったことあったっけ……。
あいにくその種崎は、またもや言いにくそうな雰囲気をまとう。
「なんで知ってんの」
「いや……噂になってるよ?」
「え……」
う、噂……?
俺の聞き間違えか。うん。絶対そうだ。
「冗談はよせよ」と言って、乾いた笑みを浮かべる。
「いや、まじだから」
種崎の言葉が、やけに現実味を持って耳に残る。
「は……?」
「最近さ、お前と一ノ瀬よく一緒にいるって」
そんなつもり、全然なかった。むしろ避けてるのに。
なのに、そう見えてるってことが、妙に引っかかる。
多分、今日昼休み話しているとこも見られていたんだ。かすかに視線を感じたことを覚えているけど、噂が広まらないように否定する。
「……気のせいだろ」
「気のせいじゃないって。昼も話してるの見たし、バイトも一緒とか、そりゃ噂になるって」
軽く言われたその一言で、胸の奥がざわつく。
一ノ瀬との距離が、自分が思ってる以上に見られていて。
……仲がいいわけじゃないけど、バイト先が一緒なのも、よく話してることも事実だ。俺から絡んでいる訳じゃないし、勝手にあいつが……って言い訳にしかならねぇか。
「……別に、仲良いいわけじゃねぇよ」
少し強めに言ってしまう。言ったあとで、自分でも驚くくらい、即答だった。
種崎が一瞬だけ黙って目を見開く。俺が大きな声を出したのが珍しかったらしい。
「ふーん」
その返しは軽いのに、どこか探るような間があった。
その空気が、少しだけ居心地悪い。
「もういいだろ、その話」
「うん。悪い」
それ以上は踏み込んでこなかった。
俺にとって嫌な話だと察してくれたみたいで。
あそこまで強く言う必要なんてなかったな。あとから後悔するのが俺の悪い癖だ。
想像でしかないけど、種崎はきっと俺が一ノ瀬に絡まれていることを心配しているんだ。
こんな俺でも、こんなに優しくしてくれてるのに……。
ふうと息を吐いて、「俺も大きな声出してごめん」と謝る。
「まぁ、噂は噂でしかないからな。だけど一ノ瀬には気をつけろよ」
「う、うん……。さんきゅ」
そう言って気にしてない風に誤魔化すけれど、さっきの言葉が頭から離れない。
……噂になってる、よく一緒にいる。そんなはずはないと思ってる。絶対俺なんかより周りに囲まれている時間の方が多いはず。クラスだって違う上に、あいつは学校の王子様だぞ?
……いや。本当に、そうか? 廊下で声をかけられて。気づけば隣にいて。バイトでも、自然に隣に立ってて。
避けてるつもりなのに、完全に切れてない距離。
「……はぁ」
小さく息を吐いて、再び歩き出す。
これ、思ってるよりまずいんじゃないか。
ただ関わっているだけのはずなのに、周りからはもうそういう関係に見えてる。
気づかないうちに、巻き込まれていた。そんな感覚が、じわじわ広がる。
沈黙の中ふと、気がつけばバイト先のファミレスの看板が見えていた。
「じゃ、俺こっち」
「……ああ」
短く言って、足を止める。
種崎は少しだけ振り返って、何か言いたげにしたけど、結局何も言わずに手を上げて去っていった。
店のドアの前で少しだけ足が止まって、あいつの顔が浮かんでくる。
今日もいるのか、と。考えたくもないのに、脳裏に浮かんでしまう。
ドアを押すと、小さなベルの音が鳴った。
「お疲れ」
いつも通りの声が耳に響く。
聞き慣れているはずなのに、今日はやけに意識に引っかかる。
「……お疲れ」
短く返しながら、俺は視線を逸らした。顔を見たら、また何か言われる気がして。
更衣室で制服から仕事着に着替える。
シャツのボタンを留める手が、ほんの少しだけぎこちない。
なんでこんなに意識してんだよ。……昨日の言葉が、頭から離れない。
⎯⎯『好きだよ』
あんなふうに、あっさり。まるで当たり前みたいに。
思い出すたびに、胸の奥がざわつく。
「湊、今日ホールでいい?」
「……ああ、うん」
ドア越しに聞こえた声に、少しだけ間を空けて返す。
……普通にしろ。いつも通りだ。自分に言い聞かせるみたいに深く息を吐き、心を落ち着かせて、思い出さないように働いた。

店内は、夕方のピークに向けて少しずつ賑わい始めている。
グラスの触れ合う音や、厨房からの調理音が重なって、空気に厚みが出てくる。
俺は注文を取りながら、意識しないようにしていた。
「こっち、運ぶの手伝って」
「……わかった」
すぐ隣に、気配がある。視界の端に映る腕。すれ違うときに、ほんの少しだけ近づく距離。
それだけで、意識が持っていかれる。
視界に入れないようにしてるのに、気づけば探してる。
そんな自分に、軽く嫌気がさした。
今日の仕事の中で会話したのはそれだけ。その一言だけだった。
いつもならやっかまれるのに、今日はお客さんがたくさんきていて忙しく、俺にとって好都合だった。
仕事が終わって帰ろうと扉を開く。
「湊……!」
後ろから、追いかけるように一ノ瀬の声が聞こえた。
どうやら今日の掃除当番は終わったみたいだ。
振り返って、そそくさと店を出る。
「何?」
「一緒に帰ろ」
「はぁ」
一ノ瀬は当然のように俺の隣に肩を並べて歩いた。
もう今になっては、「なんでしれっと一緒に帰ろうとしてるわけ?」と言うのも疲れた、というか隣にいるのが慣れたというか。
俺はこの数ヶ月で一体何をしていたんだと自分に失望する。
一ノ瀬と制服を着間違えて、一ノ瀬に会って、告白されて……。
あぁ!! 考えただけで頭がおかしくなるったらありゃしない。
前までは絶対そんなことなんて思うはずはなくて、人にも自分にも全然興味がなかったのに。俺は、どんだけ一ノ瀬に犯されているのか。
「てかさ、湊……ずっと避けてるよね」
頭をぶんぶんと回していると、一ノ瀬が爆弾発言を投げてきた。
「……は?」
とぼけるように返すけど、声が少しだけ硬い。
「い、いや、別に」
なぜかこいつだけには隠したくて即答してしまう。
俺は思わず、足を止めそうになった。
「わかりやすいよ。目合わせないし、距離も取るし」
「そんなわけ……」
「そんなわけある」
淡々とした声だけど、その奥にあるものが少しだけ重い。
俺は何も言えなくなって、そのまま俯いた。
逃げるみたいに、視線を落とす。無言で歩いているはずなのに、表情を見てないくせに、彼の視線がずっとこっちに向いている気がして落ち着かない。
それに……俺のことが好きだからと言って、周りに人がいるときに、どうして俺だけそんなに不機嫌な顔をしてくるのかがわからない。
無言で歩いているはずなのに、表情を見てないくせに、彼の視線がずっとこっちに向いている気がして落ち着かない。
「……俺がなんであんな感じか、気になってるんでしょ」
隣から落ちた声は、いつもより少し低かった。
夜の空気に溶けるみたいに、静かで。
肩がびくっと揺れて、一ノ瀬に顔を上げる。
否定しようとしたけど、言葉が出てこなかった。代わりに、沈黙が肯定みたいになってしまう。
彼はそれを見て、小さく息を吐いた。
「ちょっとだけ、聞けよ」
低い声でそう言われて、思わず顔を上げる。
「昔からさ」
ぽつりと落ちたその一言で、空気が変わった気がした。
聞いちゃいけない気もしたのに、目が逸らせない。
「なんでもない」
次の瞬間、あいつはそう言って、軽く笑った。
いつもの顔に戻っていた。
「ほら、帰るぞ」
それ以上は何も言わせないみたいに、先に歩き出す。
「あ、ちょっ……!」
さっきの声だけが、やけに耳に残ったまま。

部屋の天井をボーッと眺めながら、さっきあったことを思い出す。
あのあと一ノ瀬が何を言い出すのかと思うと、なぜか過去の話しをしてきた。
気にしてない、とか、無理に話さなくていい、とか声をかける余裕もなくて、ずっと彼の話を聞いていた。
彼の顔は、なぜか寂しそうに見えて。いつもなら絶対に断るのに、今は一ノ瀬の心を落ち着かせてあげたかった。
どこか遠くを見ているように、どこか諦めた顔で話してくれた。
一ノ瀬は昔から期待されるのが嫌だったこと。
⎯⎯『昔から、周りが勝手に理想押し付けてきて。良いやつでいろとか、優しくしろとか、完璧でいろとか』
どれだけ頑張っても、もっと上を目指さなければいけない、完璧な自分を求められている気がしたこと。
――『だったらもう、最初からそれっぽくやっとけばいいって思って』
誰にでも同じ顔して、同じ距離で接してれば、楽だということ。
彼は少なくとも、本気で期待されるよりはマシだと言っていた。
その言葉がやけに重く残り、胸の奥がざわつくのを感じた。
じゃあ俺に対してもそんなことをやっているのか、と聞いても「お前にやる意味はないから」と真顔で言われ、ちょっとバカにされた気がしてムカッとしたのに、胸の奥がドキドキと跳ねたのはどうしてだろうか。
そのドキドキを隠すように、俺は反射的に彼を期待させるような言葉を放ってしまった。
──『じゃ、じゃあ……俺の前では、素のお前でいろよ。無理して取り繕う必要ねぇだろ』
俺の前で、あの王子様みたいな笑顔をされるのがムカつくから。バカにされるのが嫌だから。自分を隠して無理をされるのが居心地悪いから。みたいな理由なだけだった。でも、その言葉が一ノ瀬の心をどんなに捉えたか俺には到底理解できない。
だけど、一つ心に残って疑問に思うことがあった。
俺だけ? 周りにもいるんじゃないのか? 俺以外にも一ノ瀬に期待しないやつなんて。
自分から素でいろよ、なんて言ったくせに生意気だな……。
俺は、距離がさっきよりも遠く感じた。あぁ、やっぱり全然別世界の人だなと思ってしまったからだ。
窓を開けて、夜空を見上げると、隙間から星がいくつか見えた。
……やっぱり、こっちの方が落ち着くな。
人じゃなくて、空を見ると、余計なこと考えなくて済む。
「……絶対違う」
無理だ。あの一ノ瀬の中で「特別」になれる人間がいるなら、きっと俺なんかじゃない。
だってそうじゃないか。彼は期待されるのが嫌で、俺はただ興味がなかっただけなのに、完璧を求めなかった……とか。
あいつは学校の王子様。俺みたいな平凡な人間が踏み入れてはいけない立場なんだよ。
俺はまたあいつとの世界の差を痛感して、あることを決めた。
……距離、置こう。あいつは、俺とは違う。
このまま関わってたら、多分、戻れなくなる。今のこの距離ですら、もう充分おかしいのに。
背負ってるものも、見てる景色も、全部。俺があいつの過去を一緒に背負える自信が無い。過去に対して、俺は釣り合っていない。
あいつの中での特別って、たぶんもっと重くて、もっと深い場所にある。そんなところに、自分が入れるわけがない。
「バカみたいだろ」
小さく呟いて窓を閉める。
前までは絶対に関係ないと思ってたいた。だけど今は、こんなにも振り回されている。
夜の空は何も変わらないのに、俺の中だけがぐちゃぐちゃに揺れていた。
せっかく興味を持てた人間なのに、相手が悪かったな。
内心では近づいたらダメだとわかっているけれど、また一ノ瀬の顔が頭に浮かび上がってくる。
……変だな、俺。