「好きってさ、なんだと思う?」
ホームルームの時間。隣の席のやつが、ふいにそんなことを言った。
俺に言っているのかもわからないが、大抵ろくなことじゃない。
窓の外を見ていた視線を、少しだけ動かす。
「……は?」
「いや、なんとなく。てかさ、聞いてよ」
こいつは、勝手に話し出すタイプだ。答えなんて求めてない。
自分から聞いたくせに意味不明だ。
はぁ、やだやだ。
「一ノ瀬玲央、まじでやばくない?」
あーまただ。
別にその名前を聞いても、特に何も思わない。
教室のあちこちからも、似たような声が聞こえてくる。
「王子様すぎる」
「普通に彼氏にしたい」
「今日もかっこよかったよね」
へえ、と思う。でもそれだけだ。興味はない。
人に対して、何か特別な感情を持ったことがない。誰がどうとか、正直どうでもいい。
それよりも、空の方がいい。今日みたいに、雲がゆっくり流れている日とか。夜になれば星も見えるだろうし、そっちの方がよっぽど落ち着く。そう思って、またふわふわと優雅に流れている雲に目を移す。
「でさ、好きってさ……」
「知らない」
話を遮るように言うと、少しだけ驚いた顔をされた。
……自分で聞いたくせになんなのだ。
「興味ないから」
それが本音だった。好きとか、嫌いとか。そういうの、よくわからない。ただ、平穏でいられればそれでいい。
興味のない話に欠伸をしていると、チャイムが鳴って目線をを変えた。
「はい、次体育なー」
一気に教室がざわついて、みんなが立ち上がる。その流れに押されるように、俺も立ち上がった。
……このときは、まだ知らなかった。このあと、その“どうでもいいはずの誰か”に、自分の平穏をめちゃくちゃにされるなんて。
体育が終わると、男子更衣室は一気に騒がしくなる。
ドアを開けた瞬間、むわっとした空気と、汗と制汗剤の混ざった匂いが広がった。
……最悪だ。この男子特有の気持ち悪い空気。これを感じただけで、まだ夏なんだなと思ってしまう。
「まじで疲れたんだけど」
「お前最後サボってただろ」
あちこちで声が飛び交っている。
もちろんこの俺、湊凪沙に友達はぜろだ。長所と短所がはっきりしている、平凡の中のど平凡高二生。
「次なんだっけ?」
「古文じゃね? オレあの先生嫌いなんだよなぁ」
「わかる〜」
よくないとわかっているけれど、ずっと一人なので他人の会話が聞こえてしまうのだ。
それでも、ひとつの会話に一回は聞こえてくる単語。
「てかさ、一ノ瀬やばくね?」
ロッカーの前はほとんど埋まっていて、ぶつかりそうになりながらみんな急いで着替えている。
あーあ、やっぱり。まただよ。今日で何回目?
一ノ瀬玲央。この学校一の有名人で誰に対しても笑顔を向ける、成績優秀、運動神経抜群のなんでもできて、女子にとってはまるで王子様のような存在だ。
最近は、女子だけでなく、男子にもモテまくりだ。……知らないけど。
「……はぁ」
それにしても、こういうのが一番苦手だ。人との距離が近い空間。無駄に会話が多い空気。
できるだけ視線を下げて、空いているロッカーに滑り込む。
「今日の一ノ瀬、シュート決めたときやばかったわ」
「わかる、普通にかっけえ」
またその名前。
聞こえてくるけど、顔は上げない。どうせ関わることなんてない。
俺とあの人なんて、ほぼ影と光なんだから。一ノ瀬が王子なら俺はその国の国民Aという目立たない存在。
急いでシャツを掴んで、腕を通す。そのとき、少しだけ違和感があった。
袖が、長い。指先がいつもより隠れて、布が余る。
「……?」
一瞬だけ手元を見るが、それ以上は考えない。
ズボンも、ほんの少しだけ大きい気がする。それに、柔軟剤の匂い。
普段の自分のものより、少し甘くて、知らない匂い。
……だけど。
「……別にいいか」
制服なんて、誰のでも同じだろ。こんなことで立ち止まる方が面倒くさい。多分俺の勘違いだろうし。
そのままボタンを留めて、更衣室を出た。
背後ではまだ笑い声が続いている。興味はない。
午後の授業中も、特に何もなかった。
黒板の文字を適当に写しながら、ぼんやりと時間が過ぎていく。
ただ、少しだけ。袖が長いのが気になった。
手を動かすたびに、布が触れる。でも、それだけだ。深く考えるほどのことじゃない。
放課後になって、教室を出て、廊下を歩く。そのとき、前から人の流れがざわついた。
「一ノ瀬じゃん」
「ほんとだ、やば」
視線を上げなくてもわかる。
さっきから名前ばかり聞いている、その本人だろう。なんとなく、人を避けるように端に寄る。
すれ違う一瞬。ふと、視線を感じた気がした。けど、見ない。関係ない。
自意識過剰すぎだろ、と思いながらも興味のないふり……いやふりじゃないけど、歩いて人の波から抜け出す。
そのまま何事もなかったように通り過ぎた。
バイト先のファミレスに着く頃には、空は少しだけ色を変えていた。
制服のまま更衣室に入って、鍵をかける。
静かだ。学校とは違って、人の気配が少ないこの空間は落ち着く。
俺はこの空間が好きだ。違う学校に言ってしまった、大好きな幼なじみがここを紹介してくれたんだ。
……また、会いたいな。っていけない、いけない。集中しろ俺!
ネクタイを外して、シャツのボタンに手をかけた……のだが。
「……ん?」
違和感がある。改めて見ると、やっぱりおかしい。
あ、あれ。サイズが、明らかに違う。待って待って、そんなはずは……!
ポケットに手を入れる。指先に触れたのは、見覚えのないものだった。
鍵、ペン。それと……。
「……は?」
思考が止まる。これ、自分のじゃない。
そう思って絶望していたとき、今一番聞きたくのない声が聞こえた気がした……いや、しているの方が正しい。
「それ、俺のじゃね?」
背後から声が落ちてきた。びくっと肩が跳ねて、後ろを振り向くと、そこにいたのは……。
さっき廊下ですれ違った、あの人だった。
一ノ瀬玲央。
近くで見ると、思っていたより背が高い。目が合って、頭が一瞬で真っ白になる。
「……え」
何も言えなくて、心臓がうるさい。
顔が、一気に青くなるのがわかった。え嘘。そんな……俺、この人と関わる人何人に土下座したらいいんだ……。
こいつはなぜか今年からシフトがよく被って、特に会話や一緒になることは全然ないけれど、少しだけ怖い。
俺がそう思っているとも知らずに一ノ瀬は、そんなこっちを見て、少しだけ笑っていた。
怒って、ない……? むしろ、余裕があるみたいに。
「湊凪沙だよな?」
名前を呼ばれて、さらに固まる。
タイミングが悪く、お店の更衣室には今ふたりだけで。この時間帯だと誰も来ない。
「……なんで知ってるんですか」
思わず出た声は、情けないくらい小さかった。
同級生なのに敬語を使う理由は察してほしい。
「同じ学校だし。よくシフト被るし」
軽く言われる。それが当たり前みたいに。
なんだよ。同じ学校だしって。そっぽ向きやがって。ムカつく。
少しだけ怯えてしまって、思わず一歩下がる。
「気づかなくて、その……洗って返します」
とにかくこの場から離れたくて、慌てて言葉を走らせる。
関わりたくない。距離を取りたい。
「別にいいよ」
いつもみんなに見せるような? 笑顔を浮かべてあっさりと返ってくる。その声音が、思っていたよりずっと軽くて、余計に戸惑う。
「ごめんなさい」
俺が間違えなければこんなことにはならなかったのに……。他の人にバレたらどう説明すればいいんだ。
そもそも相手が相手だよ……! なんでよりによって一ノ瀬とか言うやつなんだ。
「……てか、俺の匂いってわかりやすいって言われるのに間違えるのすごいね」
「えあ、すみません。落ち着く匂いだったもので……」
またもや爽やか笑みをして、俺をからかう一ノ瀬。
……ムカつく。でも落ち着く匂いっていうのは本当だ。違和感がなかったってことは、俺の制服かなって思っただけで。
今思えば、とても恥ずかしいことをしてしまったと気づき、顔が一気熱くなる。
「……落ち着く、か……」
一ノ瀬は、なぜかその言葉を小さく繰り返した。ほんの少しだけ目を細めて、考えるみたいに。
……しまった。今の、絶対変だった。
「あ、あの。本当にすみませんでした」
慌てて頭を下げる。
早く終わらせたい。この空気から逃げたい。
「別に怒ってないって」
くすっと笑われて、空いた口が塞がらない。
「てか、そんな謝られるほどのことでもなくない?」
「いや、でも……制服ですよ?」
「うん、俺のだね」
さらっと言われて、言葉に詰まる。
なんなんだこの人。怒らないどころか、ちょっと楽しんでるみたいに見える。
「……あの、ほんとに洗って返します」
「いや、そのままでいいよ」
「え?」
「今日着て帰れば?」
意味がわからなくて、思わず顔を上げる。
目の前には、まだ爽やかに笑っている人間がいるだけだった。
「いや、それは無理です」
「なんで」
「いや、なんでって……」
なんでって言われても困る。むしろ、なんでそんな普通に言えるんだ。
人の服を着て帰るって、どういうことかこの人はわかっていないのか?
「だってそれ、もう半日着てたんだろ?」
「……」
「今さらじゃん」
確かにそうなんだけど。そうなんじゃないんだよ。
そういう問題じゃない。
ていうか、この距離感なんなんだ。思ってたより全然、王子様っぽくない。もっとこう、キラキラしてる感じの人かと思ってたのに。
近くにいると、なんか……普通だ。いや、普通っていうか。ちょっと、変。陽キャって怖い。
「……明日持ってきます」
話を終わらせるように、更衣室から出ながら言う。
すると、一ノ瀬は少しだけ間を置いてから、
「うん」
と、頷いた。
は……?
「絶対忘れんなよ」
低めの声で言われる。さっきより少しだけ近い距離。
びっくりして、思わず目を向けると、なぜか、少し嬉しそうに笑っていた。
……え、いやなんで。
「……忘れません」
立ち止まって振り返ってみても、また一ノ瀬は満足そうに小さく笑っていた。
意味がわからない。この人、本当にあの学校の「王子様」なのか?学校で聞く話と、なんか違う。
更衣室の静けさの中で、ほんの少しだけ空気が揺れる。俺は早くここを出たくて仕方ないのに。
なのに、一ノ瀬は全然急いでいない。
むしろ、俺のことを、じっと見ている。 意味不明しかない、俺の頭の中は。
「……何ですか」
「いや」
一ノ瀬は少しだけ首を傾げて、考える素振りを見せる。
「思ってたより普通だなって」
「は?」
「もっと、近寄んなオーラ出てるやつかと思ってた」
「出してますけど」
「うん、出てる」
即答された。ムカつく。
「じゃあ近寄らないでください」
「それは無理」
なんでだよ。本当に意味がわからない。
しかもこの人、全然悪びれてない。というか、なんかちょっと楽しそうだ。なんなんだ。本当に。
不思議で頭を埋めながらバックヤードへと歩いた。
……あ、もちろん制服は着て帰らず洗って返すことにした。もともと一ノ瀬だということに気づいたときから、一生着ないと心に誓った。
というのも、なんだか一ノ瀬に今後も遊ばれる予感に胸が騒いでいるのだけれども。
バイト中、とにかく、距離を取った。
目を合わせない。必要以上に話さない。接客に集中する。それなのに、妙に視線を感じる。
気のせいかと思って顔を上げると、一ノ瀬がこっちを見ている。
と思っても、すぐに逸らされてしまう。
「……なんなんだよ」
小さく呟いて、お客さんを見渡す。本当に意味がわからない。
閉店まで、あと三十分。この気まづさから耐えたい。
閉店後に着替え終わって、更衣室を出ようとしたとき。
「明日、持ってきて」
背後からわかりやすい声が響く。
振り向くと一ノ瀬が壁にもたれていた。
ムカつくけど、こんなとこまで絵になるよな……。
「……はい」
短く返す。それで終わりのはずだった。
洗って返して、謝ったらもう終わりだ。影と光の関係になるだけ。バイトのシフトが少し被るだけになる。
それなのに……。
「絶対忘れんなよ」
少し間を置いて、そう言われる。
なぜか、どこか楽しそうだった。
まるで、わざと約束を作ってるみたいに。また会いたいみたいに。……なんて、妄想のしすぎか。
「忘れません」
意味がわからない。
俺はまだ頭の中がはてなだらけなのに、風のように帰って行った一ノ瀬は学校で見た姿とは、少し違う。
誰にでも優しい王子様。そう聞いていたのと何かが違った。
バイトだから? 俺が制服を間違えたからおかしいやつだと思われた?
「……変なやつ」
帰り道でぽつりと呟く。胸の奥に、ほんの少しだけ引っかかるものを残したまま。
なぜか今日の出来事だけで凪いでいたはずの風が、少しだけ靡いた気がした。
ホームルームの時間。隣の席のやつが、ふいにそんなことを言った。
俺に言っているのかもわからないが、大抵ろくなことじゃない。
窓の外を見ていた視線を、少しだけ動かす。
「……は?」
「いや、なんとなく。てかさ、聞いてよ」
こいつは、勝手に話し出すタイプだ。答えなんて求めてない。
自分から聞いたくせに意味不明だ。
はぁ、やだやだ。
「一ノ瀬玲央、まじでやばくない?」
あーまただ。
別にその名前を聞いても、特に何も思わない。
教室のあちこちからも、似たような声が聞こえてくる。
「王子様すぎる」
「普通に彼氏にしたい」
「今日もかっこよかったよね」
へえ、と思う。でもそれだけだ。興味はない。
人に対して、何か特別な感情を持ったことがない。誰がどうとか、正直どうでもいい。
それよりも、空の方がいい。今日みたいに、雲がゆっくり流れている日とか。夜になれば星も見えるだろうし、そっちの方がよっぽど落ち着く。そう思って、またふわふわと優雅に流れている雲に目を移す。
「でさ、好きってさ……」
「知らない」
話を遮るように言うと、少しだけ驚いた顔をされた。
……自分で聞いたくせになんなのだ。
「興味ないから」
それが本音だった。好きとか、嫌いとか。そういうの、よくわからない。ただ、平穏でいられればそれでいい。
興味のない話に欠伸をしていると、チャイムが鳴って目線をを変えた。
「はい、次体育なー」
一気に教室がざわついて、みんなが立ち上がる。その流れに押されるように、俺も立ち上がった。
……このときは、まだ知らなかった。このあと、その“どうでもいいはずの誰か”に、自分の平穏をめちゃくちゃにされるなんて。
体育が終わると、男子更衣室は一気に騒がしくなる。
ドアを開けた瞬間、むわっとした空気と、汗と制汗剤の混ざった匂いが広がった。
……最悪だ。この男子特有の気持ち悪い空気。これを感じただけで、まだ夏なんだなと思ってしまう。
「まじで疲れたんだけど」
「お前最後サボってただろ」
あちこちで声が飛び交っている。
もちろんこの俺、湊凪沙に友達はぜろだ。長所と短所がはっきりしている、平凡の中のど平凡高二生。
「次なんだっけ?」
「古文じゃね? オレあの先生嫌いなんだよなぁ」
「わかる〜」
よくないとわかっているけれど、ずっと一人なので他人の会話が聞こえてしまうのだ。
それでも、ひとつの会話に一回は聞こえてくる単語。
「てかさ、一ノ瀬やばくね?」
ロッカーの前はほとんど埋まっていて、ぶつかりそうになりながらみんな急いで着替えている。
あーあ、やっぱり。まただよ。今日で何回目?
一ノ瀬玲央。この学校一の有名人で誰に対しても笑顔を向ける、成績優秀、運動神経抜群のなんでもできて、女子にとってはまるで王子様のような存在だ。
最近は、女子だけでなく、男子にもモテまくりだ。……知らないけど。
「……はぁ」
それにしても、こういうのが一番苦手だ。人との距離が近い空間。無駄に会話が多い空気。
できるだけ視線を下げて、空いているロッカーに滑り込む。
「今日の一ノ瀬、シュート決めたときやばかったわ」
「わかる、普通にかっけえ」
またその名前。
聞こえてくるけど、顔は上げない。どうせ関わることなんてない。
俺とあの人なんて、ほぼ影と光なんだから。一ノ瀬が王子なら俺はその国の国民Aという目立たない存在。
急いでシャツを掴んで、腕を通す。そのとき、少しだけ違和感があった。
袖が、長い。指先がいつもより隠れて、布が余る。
「……?」
一瞬だけ手元を見るが、それ以上は考えない。
ズボンも、ほんの少しだけ大きい気がする。それに、柔軟剤の匂い。
普段の自分のものより、少し甘くて、知らない匂い。
……だけど。
「……別にいいか」
制服なんて、誰のでも同じだろ。こんなことで立ち止まる方が面倒くさい。多分俺の勘違いだろうし。
そのままボタンを留めて、更衣室を出た。
背後ではまだ笑い声が続いている。興味はない。
午後の授業中も、特に何もなかった。
黒板の文字を適当に写しながら、ぼんやりと時間が過ぎていく。
ただ、少しだけ。袖が長いのが気になった。
手を動かすたびに、布が触れる。でも、それだけだ。深く考えるほどのことじゃない。
放課後になって、教室を出て、廊下を歩く。そのとき、前から人の流れがざわついた。
「一ノ瀬じゃん」
「ほんとだ、やば」
視線を上げなくてもわかる。
さっきから名前ばかり聞いている、その本人だろう。なんとなく、人を避けるように端に寄る。
すれ違う一瞬。ふと、視線を感じた気がした。けど、見ない。関係ない。
自意識過剰すぎだろ、と思いながらも興味のないふり……いやふりじゃないけど、歩いて人の波から抜け出す。
そのまま何事もなかったように通り過ぎた。
バイト先のファミレスに着く頃には、空は少しだけ色を変えていた。
制服のまま更衣室に入って、鍵をかける。
静かだ。学校とは違って、人の気配が少ないこの空間は落ち着く。
俺はこの空間が好きだ。違う学校に言ってしまった、大好きな幼なじみがここを紹介してくれたんだ。
……また、会いたいな。っていけない、いけない。集中しろ俺!
ネクタイを外して、シャツのボタンに手をかけた……のだが。
「……ん?」
違和感がある。改めて見ると、やっぱりおかしい。
あ、あれ。サイズが、明らかに違う。待って待って、そんなはずは……!
ポケットに手を入れる。指先に触れたのは、見覚えのないものだった。
鍵、ペン。それと……。
「……は?」
思考が止まる。これ、自分のじゃない。
そう思って絶望していたとき、今一番聞きたくのない声が聞こえた気がした……いや、しているの方が正しい。
「それ、俺のじゃね?」
背後から声が落ちてきた。びくっと肩が跳ねて、後ろを振り向くと、そこにいたのは……。
さっき廊下ですれ違った、あの人だった。
一ノ瀬玲央。
近くで見ると、思っていたより背が高い。目が合って、頭が一瞬で真っ白になる。
「……え」
何も言えなくて、心臓がうるさい。
顔が、一気に青くなるのがわかった。え嘘。そんな……俺、この人と関わる人何人に土下座したらいいんだ……。
こいつはなぜか今年からシフトがよく被って、特に会話や一緒になることは全然ないけれど、少しだけ怖い。
俺がそう思っているとも知らずに一ノ瀬は、そんなこっちを見て、少しだけ笑っていた。
怒って、ない……? むしろ、余裕があるみたいに。
「湊凪沙だよな?」
名前を呼ばれて、さらに固まる。
タイミングが悪く、お店の更衣室には今ふたりだけで。この時間帯だと誰も来ない。
「……なんで知ってるんですか」
思わず出た声は、情けないくらい小さかった。
同級生なのに敬語を使う理由は察してほしい。
「同じ学校だし。よくシフト被るし」
軽く言われる。それが当たり前みたいに。
なんだよ。同じ学校だしって。そっぽ向きやがって。ムカつく。
少しだけ怯えてしまって、思わず一歩下がる。
「気づかなくて、その……洗って返します」
とにかくこの場から離れたくて、慌てて言葉を走らせる。
関わりたくない。距離を取りたい。
「別にいいよ」
いつもみんなに見せるような? 笑顔を浮かべてあっさりと返ってくる。その声音が、思っていたよりずっと軽くて、余計に戸惑う。
「ごめんなさい」
俺が間違えなければこんなことにはならなかったのに……。他の人にバレたらどう説明すればいいんだ。
そもそも相手が相手だよ……! なんでよりによって一ノ瀬とか言うやつなんだ。
「……てか、俺の匂いってわかりやすいって言われるのに間違えるのすごいね」
「えあ、すみません。落ち着く匂いだったもので……」
またもや爽やか笑みをして、俺をからかう一ノ瀬。
……ムカつく。でも落ち着く匂いっていうのは本当だ。違和感がなかったってことは、俺の制服かなって思っただけで。
今思えば、とても恥ずかしいことをしてしまったと気づき、顔が一気熱くなる。
「……落ち着く、か……」
一ノ瀬は、なぜかその言葉を小さく繰り返した。ほんの少しだけ目を細めて、考えるみたいに。
……しまった。今の、絶対変だった。
「あ、あの。本当にすみませんでした」
慌てて頭を下げる。
早く終わらせたい。この空気から逃げたい。
「別に怒ってないって」
くすっと笑われて、空いた口が塞がらない。
「てか、そんな謝られるほどのことでもなくない?」
「いや、でも……制服ですよ?」
「うん、俺のだね」
さらっと言われて、言葉に詰まる。
なんなんだこの人。怒らないどころか、ちょっと楽しんでるみたいに見える。
「……あの、ほんとに洗って返します」
「いや、そのままでいいよ」
「え?」
「今日着て帰れば?」
意味がわからなくて、思わず顔を上げる。
目の前には、まだ爽やかに笑っている人間がいるだけだった。
「いや、それは無理です」
「なんで」
「いや、なんでって……」
なんでって言われても困る。むしろ、なんでそんな普通に言えるんだ。
人の服を着て帰るって、どういうことかこの人はわかっていないのか?
「だってそれ、もう半日着てたんだろ?」
「……」
「今さらじゃん」
確かにそうなんだけど。そうなんじゃないんだよ。
そういう問題じゃない。
ていうか、この距離感なんなんだ。思ってたより全然、王子様っぽくない。もっとこう、キラキラしてる感じの人かと思ってたのに。
近くにいると、なんか……普通だ。いや、普通っていうか。ちょっと、変。陽キャって怖い。
「……明日持ってきます」
話を終わらせるように、更衣室から出ながら言う。
すると、一ノ瀬は少しだけ間を置いてから、
「うん」
と、頷いた。
は……?
「絶対忘れんなよ」
低めの声で言われる。さっきより少しだけ近い距離。
びっくりして、思わず目を向けると、なぜか、少し嬉しそうに笑っていた。
……え、いやなんで。
「……忘れません」
立ち止まって振り返ってみても、また一ノ瀬は満足そうに小さく笑っていた。
意味がわからない。この人、本当にあの学校の「王子様」なのか?学校で聞く話と、なんか違う。
更衣室の静けさの中で、ほんの少しだけ空気が揺れる。俺は早くここを出たくて仕方ないのに。
なのに、一ノ瀬は全然急いでいない。
むしろ、俺のことを、じっと見ている。 意味不明しかない、俺の頭の中は。
「……何ですか」
「いや」
一ノ瀬は少しだけ首を傾げて、考える素振りを見せる。
「思ってたより普通だなって」
「は?」
「もっと、近寄んなオーラ出てるやつかと思ってた」
「出してますけど」
「うん、出てる」
即答された。ムカつく。
「じゃあ近寄らないでください」
「それは無理」
なんでだよ。本当に意味がわからない。
しかもこの人、全然悪びれてない。というか、なんかちょっと楽しそうだ。なんなんだ。本当に。
不思議で頭を埋めながらバックヤードへと歩いた。
……あ、もちろん制服は着て帰らず洗って返すことにした。もともと一ノ瀬だということに気づいたときから、一生着ないと心に誓った。
というのも、なんだか一ノ瀬に今後も遊ばれる予感に胸が騒いでいるのだけれども。
バイト中、とにかく、距離を取った。
目を合わせない。必要以上に話さない。接客に集中する。それなのに、妙に視線を感じる。
気のせいかと思って顔を上げると、一ノ瀬がこっちを見ている。
と思っても、すぐに逸らされてしまう。
「……なんなんだよ」
小さく呟いて、お客さんを見渡す。本当に意味がわからない。
閉店まで、あと三十分。この気まづさから耐えたい。
閉店後に着替え終わって、更衣室を出ようとしたとき。
「明日、持ってきて」
背後からわかりやすい声が響く。
振り向くと一ノ瀬が壁にもたれていた。
ムカつくけど、こんなとこまで絵になるよな……。
「……はい」
短く返す。それで終わりのはずだった。
洗って返して、謝ったらもう終わりだ。影と光の関係になるだけ。バイトのシフトが少し被るだけになる。
それなのに……。
「絶対忘れんなよ」
少し間を置いて、そう言われる。
なぜか、どこか楽しそうだった。
まるで、わざと約束を作ってるみたいに。また会いたいみたいに。……なんて、妄想のしすぎか。
「忘れません」
意味がわからない。
俺はまだ頭の中がはてなだらけなのに、風のように帰って行った一ノ瀬は学校で見た姿とは、少し違う。
誰にでも優しい王子様。そう聞いていたのと何かが違った。
バイトだから? 俺が制服を間違えたからおかしいやつだと思われた?
「……変なやつ」
帰り道でぽつりと呟く。胸の奥に、ほんの少しだけ引っかかるものを残したまま。
なぜか今日の出来事だけで凪いでいたはずの風が、少しだけ靡いた気がした。


