孤高の鬼神は、嘘つき巫女だけを信じている

 縁雅が語らずとも、和未には伝わっていた。
 ――その時……。
 不自然に風が止んだ。  
 さっきまであったはずの音が一度に消失する。  
 葉擦れの音も、鳥のはばたきも。
 和未の背に悪寒が走った。

(まだ早い……)

 夜と呼ぶには、まだ日が出ている。
 けれど、空気が重く淀んでいた。

「何かが……」

 結界巫女の一人が言いかけた次の瞬間には地面の影が大きく揺らいだ。
 光が作り出す影ではない。
 意思を持ち、地面を這うように瞬く間に広がっていった。

「敵襲!」

 涼成の尖った声に呼応し素早く兵が動き配置につく。  
 武器が抜かれた音が連なる。
 和未は隊の様子を目で追わずに黒く蠢きながら広がる影を見つめていた。
 
(これは影じゃない。その中心に何かがいる……)

 姿は見えない。
 なのに和未の危機感は膨れ上がっていく。
 その時、鞘が鳴った。
 縁雅が抜刀しただけで空気が変わる。  
 押し潰されるような縁雅からの圧に黒い影が怯むように波打った。
 縁雅が構える刀身は黒く沈んでいた。
 淡く円環の紋が浮かぶ。
 それは血のように静かに揺れている。

(あれは……)

 和未は息を呑んだ。
 和未の本能があの刀は普通のものではないと訴えかけてきたことと、縁雅の死の兆視で見てきた黒刀と同じものだったからだ。
 
(直接、見たのは初めて……。あの黒刀で縁雅様は自らの生命を……)

 和未は脳内の映像を振り切るように、小さく首を横に振った。
 
(今はそちらの兆視を考えている場合じゃない……)
 
 縁雅は迷いなく踏み込む。
 光のような高速で黒い影の中心へと。

「――下がれ」

 短い命令だった。
 誰に向けてのものかわからなくても、和未は後ろへと下がる。
 結界巫女が位置を詰め、陣には守りの形が作られていた。
 縁雅の切っ先が地面の影を貫くように突き刺す。
 影が一気に膨れ上がった。
 毒々しく空気を侵し、地が裂ける。
 和未の頭の中ではっきりと繋がった。

(ここだわ……)

 昼に見た兆視の断片。
 少し背景が違っているけれど間違いない。
 あの影が膨れ上がって弾けて現れる。
 中心から”それ”が……。
 
「うわあ……!!」

 兵の一人が声を上げた。
 音もなく、影は黒く形を変える。
 人の形に近しいもの。
 それは巨体の玄信よりも倍近く大きい。 
 どす黒い瘴気の固まりが人型の輪郭を象っている。
 ただ不安定で、常に揺らいでいた。
 地面に影のように溶けたり、人の輪郭に戻ったり、変動を繰り返す。

(兆視で見た妖と同じだわ……)

 その正体の定まらなさが見ているものの不安を余計に煽る。
 息を吸うだけで肺が痛むのを和未は感じていた。

「中位の異形(いぎょう)か……」

 涼成が刀を構えたまま、低く零す。
 誰の頭にも先ほどの和未の言葉が浮かんでいた。

『先ほど出てきた妖よりも大きく……人の形をしていて知性もあるようで……』

 和未が告げた通りの妖が実際に目の前に現れたのだ。
 
「総員、陣形を維持せよ。前衛は足を止めるな」

 涼成が指示をとばす。
 兵が動く。
 しかし、一人その動きに遅れをとった兵がいた。
 敵の“形”が曖昧で掴めない。
 距離を測ろうとしても形が変わる。
 これでは刃を振るうべき位置が定まらない。
 その迷いが動作を鈍らせた。

「来るぞ!」

 黒い影が地面を滑るように一人の兵の足元に伸びてくる。
 それは兵の足元に広がった。

「ぎゃああああ……」

 悲鳴は途中で途切れた。
 兵の姿は跡形もなく黒い影の奥へと呑み込まれていた。
 さきほどまで普通に生きていた命が、あっけなく失われる。
 惨い現実を目の当たりにして和未は身をすくませた。
 他の兵たちがざわめく。
 犠牲者が出たことで恐怖が伝播していた。

「散るな!」
 
 涼成の声が飛ぶ。

「集中力を切らすな。目を向けよ」

 統制が戻っても、まるで翻弄するように異形の妖は姿を変え続ける。
 地面に溶けて大きくうねった異形の妖は一直線に中央へと進む。

(確実に、私の元にくる……)

 異形の妖は和未を標的に猛烈な勢いで接近していた。
 
(避けなければ……でも、動きたいのに足が言うことを聞かない……)

 和未が目を閉じた瞬間、風が裂けた。
 遅れて音が届く。
 次に和未が目を開いた時、真っ先に映る縁雅の後ろ姿。
 風にはためく黒の軍装。
 縁雅が異形の妖を斬ったのだと和未は後から理解する。
 形が崩れ、散る。
 でも、それは消えなかった。

「――下がってろ」

 縁雅から低く指示を受ける。
 和未は自分が縁雅に守られていることを自覚しながら、一歩後退した。
 刀を下ろしたまま、縁雅は僅かに角度を変える。
 異形の妖は縁雅に(おのの)くように距離を作っていった。
 この妖には知性がある。
 振るわれた一太刀で縁雅の力量を理解したのだろう。
 それでも妖から放たれる殺気は変わらなかった。