低い美声が割って入った。
駐屯地の空気が一瞬で感化される。
たった一人の男の出現によって……。
兵士たちの背筋は自然と伸びていた。
(いつの間に……)
和未が振り向いた先にいたのは討伐軍総大将である九鬼縁雅――その人だった。
黒の装束に、血のような深紅が差す軍装。
ただ立っているだけで、その場の空気が引き締まった。
縁雅の紅い瞳は真っ直ぐに和未へ焦点をあてている。
「縁雅様」
涼成は縁雅に対して丁寧に頭を下げた。
「今のは事実だ」
端的に縁雅は涼成に告げる。
涼成の表情が訝しげに歪んだ。
「いや、しかし……」
「事実だ」
縁雅は繰り返す。
それ以上の反論など許さない絶対的な響き。
「この者は連れて行く」
「……承知いたしました」
あれだけ和未を疑っていた涼成が縁雅には従順である。
ただ縁雅が討伐軍の総大将である地位だけで大人しく従っているのではない。
涼成が縁雅に対して敬意を払っていることは誰の目にも手にとるようにわかった。
「――行けるか?」
縁雅の紅い瞳が和未を映しこむ。
多くを語らない縁雅だが、かけられる端的な言葉はいつも和未の胸の奥を大きく揺り動かした。
「はい」
小さくも凛とした和未の返答に縁雅はその双眸を細めた。
「なら、俺たちと来い」
それだけ告げて背を向ける。
迷いのない歩み。
威を張っていないにも関わらず、縁雅の纏う気高い雰囲気は自然と逆らうという発想そのものを失わせる重みがあった。
人目を奪いながらも、誰も寄せ付けない孤高の鬼神。
和未はその揺るがない後ろ姿を潤んだ瞳で見つめていた。
(また私を信じてくれた……)
言葉数は少ない。
しかし、縁雅の行動は明確な意思表示だった。
――”嘘つき巫女”の結城和未を信じると。
止まらない今の先に待っている未来。
(縁雅様のご意思に報いるような私であれるように……)
縁雅の背中を追いかけ、和未は力強く一歩を踏み出した。
討伐軍の選抜隊が駐屯地を出立してより久しい。
先頭を行くのは縁雅だった。
その背から数歩遅れて前衛が続き、さらにその後ろに和未と結界巫女たちが置かれている。
隊列の中央を挟むように涼成が目を配り、最後尾を玄信と後衛たちが守っていた。
山道は次第に細くなっていく。
踏み固められていたはずの土は、いつの間にか崩れやすい湿った土に変わり、足を運ぶたびにかすかな音を立てる。
和未が底を革で補強された草履を履くのは初めてだった。
草履の底で乾いた葉の潰れる感触が、やけに生々しく伝わってくる。
風は冷えていて、肌を撫でるというよりは削りとるように通り過ぎていく。
空は明るいはずなのに、森の中は薄暗く、光の色が沈んで見える。
まるで、この場所だけが世界から切り離されたようだった。
(誰も言葉を発さない……。呼吸も乱していない……)
前を行く縁雅の背は、揺れない。
歩幅も呼吸も一定だった。
斜面も、大きな岩の塊も、気にする様子はなく、ただ進んでいく。
それだけで、この場にいる誰よりも力量があるのだと和未には伝わった。
和未は息切れしてきていたが、隊を乱さないよう必死に足を前に出す。
和未の両脇では結界巫女たちが低く抑えられた詠唱を繰り返し、結界を維持していた。
誰も和未に声をかけないものの頻繁に視線だけが値踏みするように向けられる。
(縁雅様のご判断だとはいえ、まだ私は討伐軍の全員に認められたわけじゃない……)
和未は気にしない振りをしながらも、気持ちまで沈みそうになった。
「ここで一度、結界を張り直す」
涼成が指示を出し、隊列が止まった。
結界巫女たちは前に進み出て、迷いなく位置につき、印を結び始める。
一連の慣れた動作は二人の習熟度を物語っていた。
二人の詠唱が重なり、周囲の空気がゆっくりと変化を見せる。
地面に刻まれた術式が淡く光を帯び、目に見えない結界の膜として広がっていく。
和未はその様子をただ眺めていることしか出来なかった。
「お前は手伝わないのか?」
いつの間にか和未の隣に立っていた涼成に問われる。
「私は出来ません……」
それは事実だった。
和未に結界は張れない。
「兆視しか出来ないのか?」
和未に問いかけた涼成だが、その答えはわかっているのだろう。
肯定するように浅く頷いたまま、和未は押し黙った。
涼成からは和未への拒絶が伝わってくる。
「役に立たないな」
はっきりと涼成に言い切られる。
事実だった。
けれど、何を言うわけにも、表情に出すわけにもいかない。
和未が下唇を噛んで耐えていた時、視界が歪んだ。
(これはこの森……? でも、もっと暗い……ということは夜?)
禍々しい瘴気が黒い影として蠢いている。
(この妖は先ほど見た妖と比較にならないほど大きく強く知性もある……)
兆視が終わり、昼の森へと目の前の世界に意識が戻った。
和未の身体には疲労が倍になって圧しかかる。
兆視は精神力も体力も消耗が激しい。
和未の呼吸は荒くなっていた。
駐屯地の空気が一瞬で感化される。
たった一人の男の出現によって……。
兵士たちの背筋は自然と伸びていた。
(いつの間に……)
和未が振り向いた先にいたのは討伐軍総大将である九鬼縁雅――その人だった。
黒の装束に、血のような深紅が差す軍装。
ただ立っているだけで、その場の空気が引き締まった。
縁雅の紅い瞳は真っ直ぐに和未へ焦点をあてている。
「縁雅様」
涼成は縁雅に対して丁寧に頭を下げた。
「今のは事実だ」
端的に縁雅は涼成に告げる。
涼成の表情が訝しげに歪んだ。
「いや、しかし……」
「事実だ」
縁雅は繰り返す。
それ以上の反論など許さない絶対的な響き。
「この者は連れて行く」
「……承知いたしました」
あれだけ和未を疑っていた涼成が縁雅には従順である。
ただ縁雅が討伐軍の総大将である地位だけで大人しく従っているのではない。
涼成が縁雅に対して敬意を払っていることは誰の目にも手にとるようにわかった。
「――行けるか?」
縁雅の紅い瞳が和未を映しこむ。
多くを語らない縁雅だが、かけられる端的な言葉はいつも和未の胸の奥を大きく揺り動かした。
「はい」
小さくも凛とした和未の返答に縁雅はその双眸を細めた。
「なら、俺たちと来い」
それだけ告げて背を向ける。
迷いのない歩み。
威を張っていないにも関わらず、縁雅の纏う気高い雰囲気は自然と逆らうという発想そのものを失わせる重みがあった。
人目を奪いながらも、誰も寄せ付けない孤高の鬼神。
和未はその揺るがない後ろ姿を潤んだ瞳で見つめていた。
(また私を信じてくれた……)
言葉数は少ない。
しかし、縁雅の行動は明確な意思表示だった。
――”嘘つき巫女”の結城和未を信じると。
止まらない今の先に待っている未来。
(縁雅様のご意思に報いるような私であれるように……)
縁雅の背中を追いかけ、和未は力強く一歩を踏み出した。
討伐軍の選抜隊が駐屯地を出立してより久しい。
先頭を行くのは縁雅だった。
その背から数歩遅れて前衛が続き、さらにその後ろに和未と結界巫女たちが置かれている。
隊列の中央を挟むように涼成が目を配り、最後尾を玄信と後衛たちが守っていた。
山道は次第に細くなっていく。
踏み固められていたはずの土は、いつの間にか崩れやすい湿った土に変わり、足を運ぶたびにかすかな音を立てる。
和未が底を革で補強された草履を履くのは初めてだった。
草履の底で乾いた葉の潰れる感触が、やけに生々しく伝わってくる。
風は冷えていて、肌を撫でるというよりは削りとるように通り過ぎていく。
空は明るいはずなのに、森の中は薄暗く、光の色が沈んで見える。
まるで、この場所だけが世界から切り離されたようだった。
(誰も言葉を発さない……。呼吸も乱していない……)
前を行く縁雅の背は、揺れない。
歩幅も呼吸も一定だった。
斜面も、大きな岩の塊も、気にする様子はなく、ただ進んでいく。
それだけで、この場にいる誰よりも力量があるのだと和未には伝わった。
和未は息切れしてきていたが、隊を乱さないよう必死に足を前に出す。
和未の両脇では結界巫女たちが低く抑えられた詠唱を繰り返し、結界を維持していた。
誰も和未に声をかけないものの頻繁に視線だけが値踏みするように向けられる。
(縁雅様のご判断だとはいえ、まだ私は討伐軍の全員に認められたわけじゃない……)
和未は気にしない振りをしながらも、気持ちまで沈みそうになった。
「ここで一度、結界を張り直す」
涼成が指示を出し、隊列が止まった。
結界巫女たちは前に進み出て、迷いなく位置につき、印を結び始める。
一連の慣れた動作は二人の習熟度を物語っていた。
二人の詠唱が重なり、周囲の空気がゆっくりと変化を見せる。
地面に刻まれた術式が淡く光を帯び、目に見えない結界の膜として広がっていく。
和未はその様子をただ眺めていることしか出来なかった。
「お前は手伝わないのか?」
いつの間にか和未の隣に立っていた涼成に問われる。
「私は出来ません……」
それは事実だった。
和未に結界は張れない。
「兆視しか出来ないのか?」
和未に問いかけた涼成だが、その答えはわかっているのだろう。
肯定するように浅く頷いたまま、和未は押し黙った。
涼成からは和未への拒絶が伝わってくる。
「役に立たないな」
はっきりと涼成に言い切られる。
事実だった。
けれど、何を言うわけにも、表情に出すわけにもいかない。
和未が下唇を噛んで耐えていた時、視界が歪んだ。
(これはこの森……? でも、もっと暗い……ということは夜?)
禍々しい瘴気が黒い影として蠢いている。
(この妖は先ほど見た妖と比較にならないほど大きく強く知性もある……)
兆視が終わり、昼の森へと目の前の世界に意識が戻った。
和未の身体には疲労が倍になって圧しかかる。
兆視は精神力も体力も消耗が激しい。
和未の呼吸は荒くなっていた。



