「また、ここに来てもいいかしら?」
「ええ、もちろんです。いつでも、いらっしゃってください」
「伝え忘れたけど、和未と同行していた6名の結界巫女の全員が務めへと復帰しているわ」
「……それは良かったです」
「和未も、たまには巫女庁に顔を出すといいわ。皆が和未に会いたがってるわよ」
「私が縁雅様の妻になったからではないでしょうか?」
「違うわよ。瑞國を救った誉れ高き巫女に会いたいのよ」
「もう私は巫女じゃないので」
「ええ。嘘つき巫女でもないわ」
茅乃から出た単語に、和未がびくついた反応を示さなかったのは初めてだった。
時として心境の変化は自覚を伴わない。
流れるように過去へと変わっていたのだと和未は感じていた。
「――次は夫婦お二人揃っている時に」
その言葉を残し、茅乃は山道を下っていく。
和未はその背中を完全に見えなくなるまで見送っていた。
いつの間にか薄暮の時間帯になっている。
和未は縁側へと腰を下ろし、ひんやりとした風を頬で感じていた。
すると庭先で、砂利の鳴る音がする。
和未は音の方角へと振り返った。
「縁雅様」
軍装に身を包んだ縁雅の帰宅だった。
縁雅の姿を認めるだけで不思議と安心し、また高揚もさせられる。
「戻られましたか?」
「ああ」
和未が縁雅に駆け寄るために立ち上がろうとした瞬間、ふらりと身体が揺れた。
倒れる前に縁雅の腕に支えられる。
何度も繰り返してきたように自然な動きだった。
「ありがとうございます」
「まだ慣れないか?」
「……少しだけ……」
気を抜くと視野の狭い左側の距離感を誤る。
その度に縁雅が先回りするように和未を支えてくれていた。
「縁雅様? もう自分で立てますが……」
「ああ」
そう答えながらも縁雅は和未から腕を離さず、そのまま自分へと抱き寄せてきた。
和未の頬が布越しに縁雅の鍛えられた厚い胸板に触れる。
今は軍装に隠れているが、縁雅の左胸の円環の紋は消失した。
縁雅の黒刀からも同様に。
禍津日神が完全に滅失した今、封印の器としての役割は不要となったからだろう。
「お疲れになられていますか?」
「――いや、」
離れている時間が長いと、こうして縁雅は和未の体温を求めるように無言で抱き締めてきた。
縁雅は多忙の身である。
しかし、この場所で縁雅は鬼神でも総大将でも九鬼家当主でもなく、ただの一人の男に戻れる。
――和未の隣でだけは。
和未も縁雅の存在を感じたくて、その逞しい背中に手を回す。
縁雅の全てに包み込まれているような感覚に心の芯まで温まって安堵していく。
この時間は当然のように訪れた未来ではないのだと、二人ともが痛切に感じていた。
「どうして和未は外に出ていた」
「茅乃様がお越しになってくださいました。ですので見送った後そのまま縁側で風を……」
「日が沈めば冷える」
「縁雅様は心配しすぎです」
「今さらだ」
縁雅の腕の中で和未が顔を上げれば、緋色の瞳から自分にだけ視線が注がれている。
鋭くて、どこか甘やかな眼差しで。
「和未の”無理をしない”だけは信用できない」
「……それは以前の話では?」
拗ねたように頬を膨らめる和未の顔へと、驚くほど優しい手つきで縁雅は触れた。
「――今も、だろう」
有無を言わせない低い声なのに威圧感はなく、落ち着いた甘さがある。
縁雅は、そっと和未へと口づけを落とした。
「……おかえりなさい。縁雅様」
気恥ずかしいのか、頬を染めたまま、あからさまに話題を変えた和未に縁雅は口角を上げて応える。
縁雅の妻となった和未だが、まだ初々しく無垢で不慣れな場面がたくさんあった。
遠くで鳥居の鈴が小さく鳴る。
縁雅が視線を上げた。
何かを感じ取ったかのように遠く輪郭を夕闇にぼやかし始めた山の稜線を見る。
それは和未へ向けられるものとは違い剣呑なものだった。
「どうされましたか?」
「――何でも」
縁雅は小さく首を振った。
「中に入りましょう」
「ああ」
当然のように縁雅と和未は手を繋ぐ。
和未に未来は、もう見えない。
しかし、互いの確かな温もりが、この先の道しるべとなるのだと和未は感じていた。
和未が辞退した国家功績である護国章を縁雅は授与している。
縁雅自身にこだわりはなかったが、討伐軍の総大将として選択肢に辞退はなく、特に涼成からの強い薦めがあったという。
禍津日神討伐の殊勲を以って、縁雅は護国の誉れを授かっていた。
瑞國の民にとって、縁雅は国を救った英雄である。
だが、民の多くは知らない。
この先も知ることはないだろう。
鬼神・九鬼縁雅が禍津日神を討伐した内実に一人の巫女がいたことを。
かつて嘘つき巫女と蔑まれた兆視巫女がいたことを。
そして、今は彼の最愛の妻であり、常に傍らにいることを。
【孤高の鬼神は、嘘つき巫女だけを信じている】end
「ええ、もちろんです。いつでも、いらっしゃってください」
「伝え忘れたけど、和未と同行していた6名の結界巫女の全員が務めへと復帰しているわ」
「……それは良かったです」
「和未も、たまには巫女庁に顔を出すといいわ。皆が和未に会いたがってるわよ」
「私が縁雅様の妻になったからではないでしょうか?」
「違うわよ。瑞國を救った誉れ高き巫女に会いたいのよ」
「もう私は巫女じゃないので」
「ええ。嘘つき巫女でもないわ」
茅乃から出た単語に、和未がびくついた反応を示さなかったのは初めてだった。
時として心境の変化は自覚を伴わない。
流れるように過去へと変わっていたのだと和未は感じていた。
「――次は夫婦お二人揃っている時に」
その言葉を残し、茅乃は山道を下っていく。
和未はその背中を完全に見えなくなるまで見送っていた。
いつの間にか薄暮の時間帯になっている。
和未は縁側へと腰を下ろし、ひんやりとした風を頬で感じていた。
すると庭先で、砂利の鳴る音がする。
和未は音の方角へと振り返った。
「縁雅様」
軍装に身を包んだ縁雅の帰宅だった。
縁雅の姿を認めるだけで不思議と安心し、また高揚もさせられる。
「戻られましたか?」
「ああ」
和未が縁雅に駆け寄るために立ち上がろうとした瞬間、ふらりと身体が揺れた。
倒れる前に縁雅の腕に支えられる。
何度も繰り返してきたように自然な動きだった。
「ありがとうございます」
「まだ慣れないか?」
「……少しだけ……」
気を抜くと視野の狭い左側の距離感を誤る。
その度に縁雅が先回りするように和未を支えてくれていた。
「縁雅様? もう自分で立てますが……」
「ああ」
そう答えながらも縁雅は和未から腕を離さず、そのまま自分へと抱き寄せてきた。
和未の頬が布越しに縁雅の鍛えられた厚い胸板に触れる。
今は軍装に隠れているが、縁雅の左胸の円環の紋は消失した。
縁雅の黒刀からも同様に。
禍津日神が完全に滅失した今、封印の器としての役割は不要となったからだろう。
「お疲れになられていますか?」
「――いや、」
離れている時間が長いと、こうして縁雅は和未の体温を求めるように無言で抱き締めてきた。
縁雅は多忙の身である。
しかし、この場所で縁雅は鬼神でも総大将でも九鬼家当主でもなく、ただの一人の男に戻れる。
――和未の隣でだけは。
和未も縁雅の存在を感じたくて、その逞しい背中に手を回す。
縁雅の全てに包み込まれているような感覚に心の芯まで温まって安堵していく。
この時間は当然のように訪れた未来ではないのだと、二人ともが痛切に感じていた。
「どうして和未は外に出ていた」
「茅乃様がお越しになってくださいました。ですので見送った後そのまま縁側で風を……」
「日が沈めば冷える」
「縁雅様は心配しすぎです」
「今さらだ」
縁雅の腕の中で和未が顔を上げれば、緋色の瞳から自分にだけ視線が注がれている。
鋭くて、どこか甘やかな眼差しで。
「和未の”無理をしない”だけは信用できない」
「……それは以前の話では?」
拗ねたように頬を膨らめる和未の顔へと、驚くほど優しい手つきで縁雅は触れた。
「――今も、だろう」
有無を言わせない低い声なのに威圧感はなく、落ち着いた甘さがある。
縁雅は、そっと和未へと口づけを落とした。
「……おかえりなさい。縁雅様」
気恥ずかしいのか、頬を染めたまま、あからさまに話題を変えた和未に縁雅は口角を上げて応える。
縁雅の妻となった和未だが、まだ初々しく無垢で不慣れな場面がたくさんあった。
遠くで鳥居の鈴が小さく鳴る。
縁雅が視線を上げた。
何かを感じ取ったかのように遠く輪郭を夕闇にぼやかし始めた山の稜線を見る。
それは和未へ向けられるものとは違い剣呑なものだった。
「どうされましたか?」
「――何でも」
縁雅は小さく首を振った。
「中に入りましょう」
「ああ」
当然のように縁雅と和未は手を繋ぐ。
和未に未来は、もう見えない。
しかし、互いの確かな温もりが、この先の道しるべとなるのだと和未は感じていた。
和未が辞退した国家功績である護国章を縁雅は授与している。
縁雅自身にこだわりはなかったが、討伐軍の総大将として選択肢に辞退はなく、特に涼成からの強い薦めがあったという。
禍津日神討伐の殊勲を以って、縁雅は護国の誉れを授かっていた。
瑞國の民にとって、縁雅は国を救った英雄である。
だが、民の多くは知らない。
この先も知ることはないだろう。
鬼神・九鬼縁雅が禍津日神を討伐した内実に一人の巫女がいたことを。
かつて嘘つき巫女と蔑まれた兆視巫女がいたことを。
そして、今は彼の最愛の妻であり、常に傍らにいることを。
【孤高の鬼神は、嘘つき巫女だけを信じている】end



