孤高の鬼神は、嘘つき巫女だけを信じている

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 山の風は、まだ少し冷ややかだった。
 厳しい冬を越えたばかりの新鮮な空気が、木々の隙間を静かに抜けていく。
 枝先には新芽が覗きながらも、吹き下ろしてくる風だけは、まだ春に染まりきらない。
 山麓に建てられた平屋の家は、ひっそりと佇んでいた。
 誰かがきちんと手を入れているとわかる掃き清められた土間。
 縁側脇に積まれた薪。
 軒下には吊るされた乾きかけの薬草が新鮮な冷えた空気に揺らされている。
 遠くで水の音が聞こえる。
 山から流れる細い沢が絶え間なく石を打つ。
 人里から離れた場所で、静かな時間が緩やかに流れていた。
 家には客人が訪れている。
 縁側に差し込む陽は柔らかい。
 二人の湯呑みから立ち上る湯気が、冷たい山の空気にゆっくり溶けていく。

「静かで、のどかな良い場所ね」
「……はい。都より落ち着きます」

 客人として来訪した円山茅乃は庭先を眺めたまま、和未に向かって微笑んだ。
 和未も笑みを返す。
 
「怪我の具合は、もう良いのかしら?」
「はい。包帯は全てとれました」
「片目が見えなくて不自由していないの?」
「だいぶ慣れたように思います」

 和未の左目の視力が回復することはなかった。
 強い光の下では輪郭が滲むし、まだ物との距離感を誤ることもある。
 けれど、不都合だと思ったことはなかった。
 
「和未が巫女庁を辞めたと聞いた時は驚いたわ」

 茅乃の言葉に和未は弱々しく笑う。

「あれから、兆視が使えなくなりましたので」

 茅乃の表情が曇る。
 幹子から聞かされていなかったのだろう。
 和未から兆視の能力は消えた。
 酷使した代償なのか、それとも禍津日神が自身の死と道連れにしたのか。
 しかし和未がそれを嘆くことはなかった。
 遠くで鳥が鳴く。
 和未と茅乃は雲が緩やかに流れる空を見上げた。
 ――あれは、もう半年前のことだ。
 封印の社は崩壊し、禍津日神は葬り去られた。
 鬼神・九鬼縁雅の手によって。
 各地で頻発していた空間の綻びも同時に無くなった。
 しかし、残念ながら黒い瘴気が無くなったわけでも妖そのものが消えたわけでもない。
 討伐軍も、巫女庁も、その役割を今日も果たしている。
 これからも人間は妖に抗わなければならない。
 ただ”禍津日神の脅威の時代”は終わったのだと、誰もが感じていた。
 生を授かった、この世界で空気が吸いやすくなった――それが人々が手に入れた最も大きな変化だった。
 
「和未の勲功を讃えて朝廷から護国章を授かったのに辞退するなんて、もったいないわ。この上ない栄誉を断るなんて前例がないと大久保様も困っていたわよ」

 和未は苦笑いで返す。

「――私一人で成し得たものではありませんので。それに目立つのは不得手でして……。私は、ただ生きていられる今があることが大切で幸せです」

 湯呑みに目線を落として穏やかに笑う和未の横顔を茅乃は見つめていた。

「結城和未らしいわね。そう大久保様もおっしゃっていたわ」

 茅乃の笑顔も、また柔らかなものだった。
 禍津日神が死滅した今、各人に張り詰めていた何かも緩やかになっている。

「あら、間違えたわ。今は九鬼和未でしたよね?」

 茅乃からの問いかけに面映ゆいのか和未は浅く頷いたまま顔を上げなかった。

「初々しい反応ね。和未の耳まで赤くなっているわ」
「これは湯呑みの茶が少々熱く……」
「もう、すっかり冷めてるわよ。けれど、九鬼家の立派なお屋敷ではなくて、この慎ましやかな討伐軍の管理地に住むとはね」
「はい。ですので、結界灯に守られていますし、巡回は軍の方が定期的にいらっしゃってくださっていて不便はありません」
「けれど、和未は九鬼家ご当主の妻なのよ。豪華な屋敷に住めば身の回りのことは全て使用人にやってもらえるし、快適に暮らせたわ」
「……二人で決めたことですので……」

 縁雅は九鬼一族の当主籍のままであるし、討伐軍の総大将の任も引き続き務めている。
 けれども、二人は静かに小さな暮らしを送れる場所を選んだ。

「……本当に仲睦まじいことね」
「……」
「そんなに照れなくてもいいでしょう?」
「まだ妻という響きに慣れなくて……」
「祝言もまだのようね」
「はい。私も縁雅様も禍津日神との戦いで負った傷が深く、癒えるまでに時間を要したこともありましたので……。ただ、大々的に祝言を挙げるということはないかと」
「どこまでも和未は慎み深いわね」
「そうでしょうか……」
「あの九鬼縁雅様の妻なのよ。私でしたら誇らしくて、きっと自慢の種にしてしまいます」

 茅乃が冗談混じりに笑い、和未も釣られて笑顔に変わる。
 茅乃とこんな風に穏やかに会話できる日が来るとは巫女庁にいた頃の和未だったら考えられなかった。
 お互いに肩の力が抜け、自然に接することができている。
 互いに会話に花が咲き、日が傾き始めた頃、茅乃は長居を詫び、帰り支度を始めた。