***
――熱い。
最初に和未に戻ってきた感覚は、それだけだった。
焼けた空気。
燃える音。
苦悶する人の低い呻き。
瘴気なのか黒煙なのか夜が訪れているのか、もはや判別もつかない。
「いっ……」
全身に走る激痛に耐えながら、両腕で地を押して身体を起こしていく。
息を吸うたびに肺が軋む。
ゆっくりと重い瞼を持ち上げていく。
和未が違和感に気づくまでに時間がかかった。
黒い瘴気のせいか煙のせいか、ひどく暗くて視認性が悪かったからだ。
(……左目が見えていない……)
普段より視野が狭いとしか感じなかった。
そっと触れて確かめた。
左目が開いていないわけじゃない。
皮膚ではなく、眼球の濡れた感覚はある。
でも、見えない。
何も映していない。
和未の左目は視力を失っていた。
(頭を打ったから? それとも兆視で視すぎたせい……?)
考えたところで理由はわからない。
けれども、十中八九、原因は過剰な兆視だろうと和未は思い当たっていた。
(何も見えないわけじゃないわ……)
座り込んだまま、右目だけで周囲を見渡して言葉を無くす。
(同じ……)
兆視で繰り返し見てきた破滅の光景。
倒れている兵。
崩れた結界。
地に広がる炎。
封印の社が燃え始めている。
兆視ではなく、現実として和未の目の前に広がっていた。
(縁雅様は……?)
この惨状で起き上がることが出来ているのは和未だけのようだった。
右足を捻ったのか、思うように動かない。
骸なのか失神しているのか判別できない人間。
折れた刀、破れた護符、炎……それらの合間を抜けて、和未は片足を引きながら必死に縁雅を探した。
涼成が血を流してうつ伏せで倒れている。
結界巫女たちも、それぞれ気絶していた。
苦悶の呻きを上げている兵は目を開けることすらできず、一様に意識が混濁している。
――彼だけが見つからない。
「縁雅様……!」
和未は思わず大声で叫んでいた。
頬が涙に濡れている。
封印の社の前方に縁雅の黒い刀が地に突き刺さっているのを発見した。
円環の紋が形を結んでいる。
(これも兆視で見た光景と同じ……)
縁雅が腕を支えに起き上がっていくのが目に入る。
「……縁雅様!」
和未は右足を引き摺る走り方で縁雅に寄って行く。
縁雅は遠目で見てもわかるほどに手負いだった。
鬼神と畏怖される縁雅であっても、禍津日神からの万物を凌駕する衝撃は防ぎきれるものではなかったのだろう。
まさに存在そのものが災厄。
絶望をもたらす天変地異。
(これで、まだ禍津日神は封印されている状態だなんて……)
上半身を起こした縁雅の傍へ和未は膝をついて屈んだ。
「――和未……」
揺れる炎が縁雅の顔を照らす。
裂かれた軍装から左胸に刻まれた円環の紋が見える。
黒刀のそれと呼応するように光がゆっくりと明滅していた。
呼吸も通常より浅い。
肩から胸にかけて深く裂けた傷もあり流血している。
けれど緋色の瞳と無二の風格の揺らがなさは僅かたりとも損なっていなかった。
縁雅が双眸を細める。
和未は縁雅が自身の左目へと視線を向けていることを悟った。
焦点が定まっていないことを察したのだろう。
いつだって縁雅は和未の異変に誰よりも、いち早く気づいてきた。
「……見えなくなりました……」
縁雅に問われる前に和未は答えていた。
自然と伏し目がちになる。
縁雅は黙していた。
この沈黙を和未も享受する。
適切な言葉を見つけ出すことすら出来なかった。
「――悪かった」
やがて発せられた低く響いた縁雅からの詫び。
弾かれたように和未は顔を上げた。
「……どうして縁雅様が謝罪されるのですか?」
「……」
「縁雅様にとって私は庇護すべき対象でしかありませんか……?」
和未は並びたかった。
縁雅の隣に。
――縁雅だけだった。
”嘘つき巫女”と呼ばれた自分を信じてくれたのは。
何かにも、誰かにも、惑わされることはなく、疑うという概念すらないかのように一貫して。
和未を信じていた。
それが和未をどれほど救済していたのか……。
想いは溢れても、言葉に変えることが出来なかった。
「……おこがましいかもしれませんが、私は縁雅様と並びたいです……」
和未にもわかっていた。
その言葉が何を意味するのかを。
不思議と照れはない。
面映ゆくもない。
ただ和未の本心が声に変わっただけ。
「――俺は今から器としての役目を果たす」
和未の問いかけに縁雅は答えなかった。
決意ではなく、ただ受け入れていた宿命を口にしただけ。
諦観した低い声音。
和未は何度となく兆視で見てきた。
今から縁雅が何をするのかを。
自分を犠牲に、禍津日神の封印を器として引継ぐ。
だから和未に答えないのだと。
縁雅にはこの先が――未来がないのだから。
――熱い。
最初に和未に戻ってきた感覚は、それだけだった。
焼けた空気。
燃える音。
苦悶する人の低い呻き。
瘴気なのか黒煙なのか夜が訪れているのか、もはや判別もつかない。
「いっ……」
全身に走る激痛に耐えながら、両腕で地を押して身体を起こしていく。
息を吸うたびに肺が軋む。
ゆっくりと重い瞼を持ち上げていく。
和未が違和感に気づくまでに時間がかかった。
黒い瘴気のせいか煙のせいか、ひどく暗くて視認性が悪かったからだ。
(……左目が見えていない……)
普段より視野が狭いとしか感じなかった。
そっと触れて確かめた。
左目が開いていないわけじゃない。
皮膚ではなく、眼球の濡れた感覚はある。
でも、見えない。
何も映していない。
和未の左目は視力を失っていた。
(頭を打ったから? それとも兆視で視すぎたせい……?)
考えたところで理由はわからない。
けれども、十中八九、原因は過剰な兆視だろうと和未は思い当たっていた。
(何も見えないわけじゃないわ……)
座り込んだまま、右目だけで周囲を見渡して言葉を無くす。
(同じ……)
兆視で繰り返し見てきた破滅の光景。
倒れている兵。
崩れた結界。
地に広がる炎。
封印の社が燃え始めている。
兆視ではなく、現実として和未の目の前に広がっていた。
(縁雅様は……?)
この惨状で起き上がることが出来ているのは和未だけのようだった。
右足を捻ったのか、思うように動かない。
骸なのか失神しているのか判別できない人間。
折れた刀、破れた護符、炎……それらの合間を抜けて、和未は片足を引きながら必死に縁雅を探した。
涼成が血を流してうつ伏せで倒れている。
結界巫女たちも、それぞれ気絶していた。
苦悶の呻きを上げている兵は目を開けることすらできず、一様に意識が混濁している。
――彼だけが見つからない。
「縁雅様……!」
和未は思わず大声で叫んでいた。
頬が涙に濡れている。
封印の社の前方に縁雅の黒い刀が地に突き刺さっているのを発見した。
円環の紋が形を結んでいる。
(これも兆視で見た光景と同じ……)
縁雅が腕を支えに起き上がっていくのが目に入る。
「……縁雅様!」
和未は右足を引き摺る走り方で縁雅に寄って行く。
縁雅は遠目で見てもわかるほどに手負いだった。
鬼神と畏怖される縁雅であっても、禍津日神からの万物を凌駕する衝撃は防ぎきれるものではなかったのだろう。
まさに存在そのものが災厄。
絶望をもたらす天変地異。
(これで、まだ禍津日神は封印されている状態だなんて……)
上半身を起こした縁雅の傍へ和未は膝をついて屈んだ。
「――和未……」
揺れる炎が縁雅の顔を照らす。
裂かれた軍装から左胸に刻まれた円環の紋が見える。
黒刀のそれと呼応するように光がゆっくりと明滅していた。
呼吸も通常より浅い。
肩から胸にかけて深く裂けた傷もあり流血している。
けれど緋色の瞳と無二の風格の揺らがなさは僅かたりとも損なっていなかった。
縁雅が双眸を細める。
和未は縁雅が自身の左目へと視線を向けていることを悟った。
焦点が定まっていないことを察したのだろう。
いつだって縁雅は和未の異変に誰よりも、いち早く気づいてきた。
「……見えなくなりました……」
縁雅に問われる前に和未は答えていた。
自然と伏し目がちになる。
縁雅は黙していた。
この沈黙を和未も享受する。
適切な言葉を見つけ出すことすら出来なかった。
「――悪かった」
やがて発せられた低く響いた縁雅からの詫び。
弾かれたように和未は顔を上げた。
「……どうして縁雅様が謝罪されるのですか?」
「……」
「縁雅様にとって私は庇護すべき対象でしかありませんか……?」
和未は並びたかった。
縁雅の隣に。
――縁雅だけだった。
”嘘つき巫女”と呼ばれた自分を信じてくれたのは。
何かにも、誰かにも、惑わされることはなく、疑うという概念すらないかのように一貫して。
和未を信じていた。
それが和未をどれほど救済していたのか……。
想いは溢れても、言葉に変えることが出来なかった。
「……おこがましいかもしれませんが、私は縁雅様と並びたいです……」
和未にもわかっていた。
その言葉が何を意味するのかを。
不思議と照れはない。
面映ゆくもない。
ただ和未の本心が声に変わっただけ。
「――俺は今から器としての役目を果たす」
和未の問いかけに縁雅は答えなかった。
決意ではなく、ただ受け入れていた宿命を口にしただけ。
諦観した低い声音。
和未は何度となく兆視で見てきた。
今から縁雅が何をするのかを。
自分を犠牲に、禍津日神の封印を器として引継ぐ。
だから和未に答えないのだと。
縁雅にはこの先が――未来がないのだから。



