孤高の鬼神は、嘘つき巫女だけを信じている

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 どこまでも続くような暗さと静けさが不気味だった。
 夜気のような光の届かない闇。
 いつの間にか全身を圧迫していたような強い歪みは消えている。
 滑らかで抵抗一つない。
 軽やかに動く手足が逆に不自然だった。
 
(これも何らかの妖側の計略……?)

 一人になった和未は心細くてたまらなかった。
 
「……縁雅様?」

 もう一度、名を呼んでみる。
 返答はなかった。
 
(いつの間に、私はこんなに縁雅様を頼りにしていたのだろう……)

 当然のごとく、縁雅の存在を探す自分に和未は驚いていた。
 無意識に名前を呼んでしまうほどに。
 ふと、前方に闇の中でも更に暗く黒い一点の核があるのに気がついた。
 それを視界に入れた途端に強く意識が引き込まれていく。

(これは……)

 視界が真っ先に紅く染まる。
 燃え広がる炎だった。
 崩れている陣。
 血に濡れた旗が折れた刀の間に倒れている。
 
「熱い……喉が干上がってたまらない……」

 頭から血を流している兵が片腕で泥水をすくって懸命に喉を潤している。
 正視できない残酷な戦場の跡。
 和未には見覚えがあった。
 実際に目撃したわけはない。
 でも、知っている。

(兆視で……)
 
 和未は覚えていた。
 自分が”嘘つき巫女”と呼ばれるきっかけになった――3年前の兆視で見た場面。

(どうして……この場面が……今さら……)

 困惑しているうちに場面は切り替わる。
 薄い雲の膜に包まれたような朧月。
 巫女庁本殿の広大な中庭。
 討伐軍出立前に巫女庁で行われる祈念の儀式。
 中央の篝火が静かに燃え、周囲の闇を押し返していた。
 白い装束の儀式巫女たちが祈祷の唄を歌いながら、華麗に舞っている。
 その他の巫女たちは石畳の上に整然と並んで、目を閉じていた。
 列の前方に和未も並んでいる。

(……15歳だった私……)

 自分では変わっていないつもりだったが、客観的に見ると3年前の自分の顔立ちは今よりも幼い。
 周囲の巫女よりも年が若く、大人の中に一人うら若き少女が混ざっている。
 当時も自分がこの場に不釣り合いだと思っていたが、第三者の目から見てもまだ少女の和未がそこに立つのは異質だった。
 それでも与えられた役目を果たそうと和未は精一杯に背筋を伸ばし続けている。

(必死だったな……)

 経験が浅く、未熟で若い巫女。
 和未が前列という立ち位置を与えられているのは巫女庁から召しを受けた稀少な兆視巫女であるからに他ならなかった。
 また場面が差し替わる。
 和未には見覚えのない場所だった。
 広げられた地図と、最低限の駒。
 壁には結界図が並び、空気は常に張り詰めている。
 兵たちが並び立つ。
 
(ここは……討伐軍の軍議の間……?)

 広い一室で討伐軍の作戦会議が行われている。
 恐らく討伐軍の高官のみが集っていた。

「縁雅様。巫女庁から報告が入っております」

 中央に立ち、緋色の瞳で地図を見据えている縁雅に一人の男が声をかける。
 当時は副官が涼成ではなかったのだろう。
 涼成の姿は室内に見えなかったが玄信の姿はあった。
 
「兆視巫女が今回の進軍は多大な犠牲を出して大敗するため、危険だと進言しているとのことです」
「はっ……巫女庁は何を馬鹿なことを言っているんだ」

 集った兵たちは嘲笑う。
 縁雅だけはその報告を聞いても、顔色一つ変えなかった。

「作戦変更でもするか? 総大将」

 玄信も笑うことはせず、真顔で縁雅に問いかけた。

「何でも、若い巫女の兆視だそうで」
「若い巫女のものか。なら気にする必要はない」
「問題ないだろう」
「今さら変えられるか」

 討伐軍の高官たちの対応は冷ややかだった。

(あの時、私の兆視は討伐軍にこのように伝わっていたんだわ……)

 和未も知らなかった事実。
 あの兆視で和未が巫女庁で告げたこと。

「この戦は危険です。討伐軍は大きな被害を受けます」

 解釈の違いか討伐軍が大敗するとは伝えていない。
 和未の進言は取るに足らないと討伐軍の高官たちに軽んじられて一蹴されている。
 無表情のままだった縁雅が口を開く。
 最初に報告してきた兵にだけ聞こえる低く抑えられた声で。
 
「――その巫女の名は?」

 縁雅に問われた兵は報告書へと視線を落とす。

「結城和未とおっしゃるそうで……」

 縁雅の端然とした顔立ちからは感情が読み取れなかった。
 またも場面が転換する。
 先ほどの戦場だった。
 生々しく、容赦のない戦場の中に和未は立っている。
 音も匂いも、現実のようだった。
 それでも触れることすら出来ないし、声はかけられない。
 和未の存在は認知されず、まるで空気に溶け込んでいるようだった。
 防壁として張られていたはずの結界が破裂音と共に歪み、そのまま砕ける。
 支えを失った陣形が一気に乱れた。
 前衛の列が押し込まれ、一人が足をとられて倒れ込むと、別の兵がそこにぶつかり、隊列が崩れていく。
 怒号が飛び交う。
 悲鳴が上がる。
 指示が錯綜する。
 声が重なりすぎて、聞き分けることすら困難だった。
 泥水をすすっていた兵も前衛にいた。
 だいぶ混乱しているようだったが、まだ怪我をしていない。
 
(兆視で見たのは、この兵の少し先の姿……)