どこかから唾を呑み込む音がした。
それくらいに場は静まり返っている。
全員が否が応でも理解出来てしまう。
この先は想像を超えるほど、過酷になるのだと。
「引き返したい者は、ここで帰って構わん。家族が待っている者も多いだろう。責めはしない」
玄信の呼びかけに場の温度が一段下がる。
苦渋の表情を浮かべる兵も多い。
重いほどの静けさの中、挙手した者も、この場から立ち去った者もいなかった。
一人一人の覚悟の重さを窺い知る。
玄信はふっと口許を緩めた。
「全員で帰還して無礼講で宴会でも開こう。うまい酒でも酌み交わそうや」
玄信の軽い口振り。
堅かった兵たちの顔つきも緩む。
結界巫女たちも互いに目を見合わせ、表情の強張りは解けている。
あえて玄信は退路を選択しやすくしたのだろう。
この奥は覚悟の上での死地になる。
その認識が、全員に共有された。
玄信なりの結界巫女も含めての討伐軍全体への檄の飛ばし方だったのだろう。
「――玄信」
縁雅が玄信の名を呼ぶ。
「――久遠は次の器が俺だと気づいている」
全体への言葉ではない。
けれど、和未には縁雅の低く抑制された声音が耳に入る。
久遠は最後に縁雅を”器”と呼んでいた。
和未も目撃している。
「“器“とは何ですか?」
涼成が縁雅と玄信に向かって問う。
玄信は先に縁雅を見つめてから、その後に和未を目視した。
(私……)
その玄信の目線に意味が忍んでいる気がして、和未は落ち着かなくなる。
「知らぬ者はいない。古代から残る大妖・禍津日神」
玄信から出された単語に再び全体の緊迫感が増した。
――禍津日神。
その名だけで全員の顔つきが変わる。
「その昔、国家を滅ぼしかけた妖の頂点にして災厄である禍津日神が我々祖先の尽力で社に封印されていることは皆も知るところだろう」
誰も玄信の言葉に頷かなかった。
頷く必要がないほど瑞國の民の共通認識であった。
「この先に禍津日神の封じられている領域がある可能性が高い。そして、禍津日神ほどの大妖の封印が過去の一度だけで済んでいると思うか?」
玄信の問いかけに全員が息を呑んだ。
――禍津日神は封印の社に封じられている。
それは例外なく皆が知ること。
けれど改めて考えれば理解できることだ。
驚異的な力を持つ禍津日神を封印するほどの力の維持がどれだけ難しいのかを。
「封印が綻んでは、代々封じてきた。”器”がその身を以って」
その身を以って――和未にその言葉が刺さる。
「今、禍津日神を封じているのは先代である、あの方……。総大将の父親だ」
縁雅の父親――九鬼家の元当主。
彼もまた鬼神と呼ばれていた男。
和未もその名と存在だけは知っていた。
戦で還らぬ人となっていることも。
「だが、すでに綻びかけている。想定よりも速い。これまで、されてきている干渉も禍津日神の影響だろう。封印の綻びがだいぶ進んでいる可能性が高い。その時は」
玄信は言葉を区切った。
「次の器が、封じる。それがこの家の――“器“の役割だ」
それだけで、この場にいる誰もが理解した。
何を意味するのかを。
「――以上だ」
玄信の語りは終わる。
終わったことで、何かが始まった。
兵たちは何も言わない。
去来する複雑な気持ちを言葉で表現できずにいた。
玄信が先ほど全体に伝えた全員での帰還。
それがどれほど確率の低い希望的観測であるか誰もが理解している。
低確率でも明るい未来に賭けようと、一念発起していた。
けれども、次の封印の器にならなければならない縁雅だけは実現不可能であると。
和未だけは受け入れられなかった。
意味はわかる。
けれど納得できないし、したくない。
兆視で何度も見てきた縁雅の死の場面――縁雅は最期に自身の手で胸元に刀を突き刺した。
どうして、縁雅が自ら命を絶つような行動をしていたのか、全てが繋がってしまう。
(禍津日神を封印するために、縁雅様が器として身を捧げるため……)
和未は、はっと気づく。
縁雅の黒刀と左胸に刻まれている欠けた円の形をした紋。
息づいているように見えるそれは熱を帯びたように発光していた。
あれは恐らく――器の証。
縁雅の紅い瞳から和未へと視線を投げられる。
目が合った。
偶然ではない、視線の重なり。
「――気にするな」
縁雅はそれだけを和未に伝えた。
短く、静かに、強く。
「……はい」
和未は素直に頷いた。
(気にしないなんて無理なのに……)
和未はもどかしくてたまらなかったが、何をどう踏み込んだところで縁雅を困らせるだけだろう。
縁雅は余りにも自然だ。
――自分の宿命を当然のごとく受け入れているかのように。
他の兵と同様に適切な言葉が見つけられなかった。
「――進めるぞ」
縁雅が森の奥を見据えている。
この場にいる全員に迷いはなかった。
隊は再び動く。
先ほどよりも確実に、奥へと。
和未も足を踏み出す。
今までよりもわずかに前。
縁雅の隣に近い位置へと。
誰かに指示されたわけではなく、和未が自分で選んだ場所。
縁雅は和未を一瞥した。
何も言わない。
位置を変えずに、ただそのまま進む。
それだけで縁雅が和未の立ち位置を認めたのだと伝わった。
(縁雅様に並びたい……)
それくらいに場は静まり返っている。
全員が否が応でも理解出来てしまう。
この先は想像を超えるほど、過酷になるのだと。
「引き返したい者は、ここで帰って構わん。家族が待っている者も多いだろう。責めはしない」
玄信の呼びかけに場の温度が一段下がる。
苦渋の表情を浮かべる兵も多い。
重いほどの静けさの中、挙手した者も、この場から立ち去った者もいなかった。
一人一人の覚悟の重さを窺い知る。
玄信はふっと口許を緩めた。
「全員で帰還して無礼講で宴会でも開こう。うまい酒でも酌み交わそうや」
玄信の軽い口振り。
堅かった兵たちの顔つきも緩む。
結界巫女たちも互いに目を見合わせ、表情の強張りは解けている。
あえて玄信は退路を選択しやすくしたのだろう。
この奥は覚悟の上での死地になる。
その認識が、全員に共有された。
玄信なりの結界巫女も含めての討伐軍全体への檄の飛ばし方だったのだろう。
「――玄信」
縁雅が玄信の名を呼ぶ。
「――久遠は次の器が俺だと気づいている」
全体への言葉ではない。
けれど、和未には縁雅の低く抑制された声音が耳に入る。
久遠は最後に縁雅を”器”と呼んでいた。
和未も目撃している。
「“器“とは何ですか?」
涼成が縁雅と玄信に向かって問う。
玄信は先に縁雅を見つめてから、その後に和未を目視した。
(私……)
その玄信の目線に意味が忍んでいる気がして、和未は落ち着かなくなる。
「知らぬ者はいない。古代から残る大妖・禍津日神」
玄信から出された単語に再び全体の緊迫感が増した。
――禍津日神。
その名だけで全員の顔つきが変わる。
「その昔、国家を滅ぼしかけた妖の頂点にして災厄である禍津日神が我々祖先の尽力で社に封印されていることは皆も知るところだろう」
誰も玄信の言葉に頷かなかった。
頷く必要がないほど瑞國の民の共通認識であった。
「この先に禍津日神の封じられている領域がある可能性が高い。そして、禍津日神ほどの大妖の封印が過去の一度だけで済んでいると思うか?」
玄信の問いかけに全員が息を呑んだ。
――禍津日神は封印の社に封じられている。
それは例外なく皆が知ること。
けれど改めて考えれば理解できることだ。
驚異的な力を持つ禍津日神を封印するほどの力の維持がどれだけ難しいのかを。
「封印が綻んでは、代々封じてきた。”器”がその身を以って」
その身を以って――和未にその言葉が刺さる。
「今、禍津日神を封じているのは先代である、あの方……。総大将の父親だ」
縁雅の父親――九鬼家の元当主。
彼もまた鬼神と呼ばれていた男。
和未もその名と存在だけは知っていた。
戦で還らぬ人となっていることも。
「だが、すでに綻びかけている。想定よりも速い。これまで、されてきている干渉も禍津日神の影響だろう。封印の綻びがだいぶ進んでいる可能性が高い。その時は」
玄信は言葉を区切った。
「次の器が、封じる。それがこの家の――“器“の役割だ」
それだけで、この場にいる誰もが理解した。
何を意味するのかを。
「――以上だ」
玄信の語りは終わる。
終わったことで、何かが始まった。
兵たちは何も言わない。
去来する複雑な気持ちを言葉で表現できずにいた。
玄信が先ほど全体に伝えた全員での帰還。
それがどれほど確率の低い希望的観測であるか誰もが理解している。
低確率でも明るい未来に賭けようと、一念発起していた。
けれども、次の封印の器にならなければならない縁雅だけは実現不可能であると。
和未だけは受け入れられなかった。
意味はわかる。
けれど納得できないし、したくない。
兆視で何度も見てきた縁雅の死の場面――縁雅は最期に自身の手で胸元に刀を突き刺した。
どうして、縁雅が自ら命を絶つような行動をしていたのか、全てが繋がってしまう。
(禍津日神を封印するために、縁雅様が器として身を捧げるため……)
和未は、はっと気づく。
縁雅の黒刀と左胸に刻まれている欠けた円の形をした紋。
息づいているように見えるそれは熱を帯びたように発光していた。
あれは恐らく――器の証。
縁雅の紅い瞳から和未へと視線を投げられる。
目が合った。
偶然ではない、視線の重なり。
「――気にするな」
縁雅はそれだけを和未に伝えた。
短く、静かに、強く。
「……はい」
和未は素直に頷いた。
(気にしないなんて無理なのに……)
和未はもどかしくてたまらなかったが、何をどう踏み込んだところで縁雅を困らせるだけだろう。
縁雅は余りにも自然だ。
――自分の宿命を当然のごとく受け入れているかのように。
他の兵と同様に適切な言葉が見つけられなかった。
「――進めるぞ」
縁雅が森の奥を見据えている。
この場にいる全員に迷いはなかった。
隊は再び動く。
先ほどよりも確実に、奥へと。
和未も足を踏み出す。
今までよりもわずかに前。
縁雅の隣に近い位置へと。
誰かに指示されたわけではなく、和未が自分で選んだ場所。
縁雅は和未を一瞥した。
何も言わない。
位置を変えずに、ただそのまま進む。
それだけで縁雅が和未の立ち位置を認めたのだと伝わった。
(縁雅様に並びたい……)



