孤高の鬼神は、嘘つき巫女だけを信じている

 久遠が目にも止まらぬ斬撃を捌きながら言う。
 瞬きした瞬間には二人の位置が様変わりしている目まぐるしい攻防。
 観覧することしか出来ずにいる者たちは優劣の判定すらつけられなかった。
 しのぎを削る激突に映るものの、当人たちは力の底を見せ合ってはいない。
 久遠の刃を縁雅が躱す。
 黒い装束の襟の合わせが少し裂け、普段は隠れている縁雅の素肌が露出した。
 左の胸元。
 そこに刻まれていた紋の輪郭。
 円環の紋が、熱を帯びたように淡く光っている。
 縁雅の黒刀に刻まれているものと同じだった。
 一瞬だけで再び縁雅の動きによって隠れてしまう。

(あれは縁雅様の死の兆視で見たものと同様の……)

 ただの紋章ではない。
 何かを示しているかのように息づいている。
 久遠も目を細めて、和未と同じものを捉えていた。

『――近い……な』

 久遠は常人の域を逸した攻防を縁雅と繰り広げている最中とは思えぬ落ち着いた声で言った。
 ――鬼神の宿命。
 それを久遠は当然のごとく知っている。
 寿命というものが存在せず、人間より遥かに長く歴史を見てきた久遠であるならば。
 玄信は顔を歪める。
 涼成は隙ですらならない久遠の僅かな綻びを見逃さなかった。 

「結界、固定に切り替えろ!」

 結界巫女たちの詠唱が変化する。
 久遠の足元に幾重もの細い線が作られていった。

『ほう……』

 元より久遠ほどの妖の動きを封じられるとは念頭にない。
 それでも少しでも位相を固定できれば。
 ずっと、ゆとりのある笑みを讃えていた久遠が僅かに眉を歪めた。
 完全ではなくとも、効いている。
 縁雅は踏み込む。
 迷いのない速さ。
 重さで押し切るように刀身を振るう。
 久遠も退こうと身構える。
 まだ身のこなしは軽やかだ。
 けれど、結界のあおりを食い、足の動きが一瞬だけ遅れた。
 
「左です!」

 久遠は目を剥いた。
 自分の動きが和未に読まれたと思った次の瞬間には縁雅の刃が先回りしていた。
 久遠の胸元を深く裂く。
 血ではなく、黒い煙とも液体ともつかないものが大気中へと溢れていく。

『ちっ……』

 舌打ちをして久遠は後退する。
 初めて、はっきりと縁雅から距離を取った。
 己を守るために。

『お前のような女は例がない』

 久遠が声をかけた先は和未だった。

『――いずれ知る。また会おう、女』

 和未は意味がわからないながらも久遠の声を聞き流すことは出来なかった。

「この好機を逃がすか」
「今のうちに圧し切れ!」

 玄信と涼成が口々に声を飛ばす。
 兵が前へと出る。
 隊全体が一つの刃となって久遠に牙をむく。
 縁雅ひとりに戦わせるわけにはいかないと。
 討伐軍の矜持だった。
 久遠の身体が薄くなっていく。
 縁雅は追わなかった。
 深追いすれば、隊が崩れると知っている。
 そして、今見えているものが久遠の実体でないことも縁雅は理解していた。
 常軌を逸した縁雅と久遠の戦闘だったが、互いに本気を見せたわけではない。
 けれど、久遠に一時撤退を選択させただけでも大きな戦果だった。

『またな。(うつわ)

 和未から縁雅へと視線を移行させ、久遠は闇に溶けた。
 音もなく、静かに。
 静寂が戻ってくる。
 誰もすぐには動けなかった。

「負傷者の救護にあたれ」

 涼成が最初に口を開いた。
 非現実的な縁雅と久遠の攻防から現実へと引き戻される。
 兵は動き、結界巫女たちは位置を戻す。
 玄信が周囲を確認している。
 討伐軍は崩れていない。
 けれど、傷は残った。
 身体についたものだけではなく、これから先の危険を示唆させるような久遠の残痕(ざんこん)

(あの妖……久遠は何を私に言いたかったのかしら……)

 異常なほどに速くなった脈を落ちつけながら、縁雅へと視線を巡らせる。
 久遠の消えた先を紅い瞳で見ていた。
 久遠と戦った直後なのに、呼吸ひとつ乱していない。
 静かで、揺らがない、無類の強さ。
 
(また縁雅様に救われた……)

 そして、縁雅は和未を混乱に落としただけの久遠の科白の意味を全て知っている。
 そんな気がしてならなかった。

(……遠い……)

 縁雅には近づけないと和未は感じていた。
 物理的な距離だけではなく、心の距離も。
 自分と縁雅との違いが時間を共にすればするほどに際立ってしまう。
 その感覚が和未の胸の奥に棘のように刺さっていた。