和未の呼吸は無意識に浅くなっていた。
確かにいる。
そこに存在しているはずなのに、何かがずれていた。
先ほど、見たのと同じ人の形をした影。
輪郭があり、視線も合う。
それでも、実体が曖昧だった。
妖なのだろうことはわかる。
それでも距離が測れず、近いのか、遠いのか、和未が判断する前に基準がずれてしまう。
(何なの、この得体のしれない寒気は……)
揺れている地で崩れないように両足で抗っているような心地悪さ。
地ではなく、空間そのものが固定されず、視界が一致しない。
「――動くな」
低く抑えられた縁雅の声音。
誰に向けられたものなのか定かではなくとも、兵たちはその場で固まった。
前にも出ず、後ろにも下がらない。
その均衡の中で初めて影が動いた。
と、思った次の瞬間には和未の目の前にいる。
移動していないはずなのに、距離がなくなった。
無自覚に和未は一歩よろけるように下がりかける。
その手首を、強く掴まれた。
縁雅だった。
「――踏みとどまれるか?」
縁雅の問いに身体のほうが素早く素直に足を前へと戻す。
(……視線が逸らせない……)
相手の焦点はわからないのに、影と目が合い続けていた。
この集団の中で和未一人が選ばれ、観察するように見られ続けている。
和未に思い当たる理由はなかった。
けれど逃げ場もない。
『ほう……』
影から声が落ちる。
人の声、なのに抑揚が噛み合っていない。
声に近い音の振動に近かった。
『ここまでの力を持った女が人間にいるのか……』
言葉が何を指しているのかはわからないものの、自分のことを言われているのだと。
いつの間にか和未の全身に鳥肌が立っていた。
『どこに隠れていた……』
「――黙れ」
縁雅の鋭い声音が影の音を遮る。
怒りが滲んだ低い声。
和未は縁雅に視線を向ける。
そこで初めて和未は影から目を逸らすことが出来た。
縁雅は紅い瞳で前を見据えている。
(縁雅様はこの妖を知っている……)
確信とまではいかなくても、そうとしか思えなかった。
妖と呼ぶには人に近く、人に近い割には瘴気が充満して輪郭をぼやかしている。
その時、後方で涼成の声がした。
「――久遠か……」
名の響きだけ。
詳細の説明はない。
けれど、その響きだけで全軍の空気が変わる。
兵たちの緊張が更に引き締まった。
存在を熟知しているわけではない。
でも知らないわけではない。
”危険だ”という認識だけが名を呼ぶだけで共有されるほどの存在。
影――久遠は静かに笑った。
口の辺りだけが上を向いた三日月のように不気味に。
『――なるほど』
久遠の視線が和未から外されていた。
討伐軍の総大将――孤高の鬼神と畏怖される縁雅へと。
『やはり、お前が……』
確信を持った久遠の声。
その時、足場が大きく揺らいだ。
「左が……!!」
和未の上ずった声が駆け抜ける。
涼成は即座に動き、兵が左へと位置を詰めた。
けれど間に合わない。
空間の綻びが歪みながら広がっていく。
「うわああああ!!」
兵の一人がその綻びに吸い込まれそうになった。
――瞬間。
縁雅が拡大していく綻びめがけて黒刀を一直線に奔らせる。
すると、ずれていた空間が一点で正確に重なった。
兵は前のめりで地面に倒れ込む。
間一髪での救出。
同時に波のように揺れていた地が静まった。
『やはり、お前は違う他の人間とは違う……。面白い』
久遠が場そのものを扱って、縁雅の力量を測ったように思えた。
間を入れず縁雅は前へ出る。
黒の軍装が夜の闇へと溶けた。
音すらない、疾風迅雷の進撃。
縁雅と久遠の間合いが消える。
黒刀が闇を切り裂く。
久遠の輪郭が揺れる。
縁雅の切っ先は確かに久遠を捉えていた。
けれども空間のほうが軋む。
久遠の肉体ではなく、立っている位置そのものを裂いたように見える。
(あれは実体ではないのだわ……)
和未は息をもつかせない縁雅と久遠の攻防に呼吸をすることも忘れていた。
影のように見えた久遠が徐々に姿を現していく。
銀の長髪が、夜の光を淡く返している。
その顔立ちは男とも女ともつかず、ただ人ならぬほどに整っていた。
きっと、これは仮の姿。
妖である久遠の実体ではないのだろう。
兵の中には久遠の妖艶な容姿に見惚れているものもいた。
「――奴を見るな!! 取り込まれるぞ!!」
玄信の声が飛ぶ。
それだけで兵たちは立て直される。
前衛二列が半歩引いて、左右へと開く。
結界巫女たちが護符を切り、詠唱を唱える。
久遠の周囲に見えない結界が二重に重なった。
封じ、捕らえるためではない。
縁雅が祓った綻びを再度広げないため。
そして守備の強化に結界を張る。
全体を見ている涼成が、続けて命令した。
「右列は三歩中央へ。左は開け」
兵たちは即座に動いた。
その一糸乱れぬ動きは討伐軍がいかに訓練されているか一見して伝わる。
誰も慌てず、命じられた通りに隊列を変えた。
久遠は空間に浮かびながら、それを興味深げに見つめている。
人間には出来ない芸当だ。
――どうやって、崩してやろうか。
そう壊し方を策略している目。
『……なるほど。相変わらず人間は群れるのが好きだな』
確かにいる。
そこに存在しているはずなのに、何かがずれていた。
先ほど、見たのと同じ人の形をした影。
輪郭があり、視線も合う。
それでも、実体が曖昧だった。
妖なのだろうことはわかる。
それでも距離が測れず、近いのか、遠いのか、和未が判断する前に基準がずれてしまう。
(何なの、この得体のしれない寒気は……)
揺れている地で崩れないように両足で抗っているような心地悪さ。
地ではなく、空間そのものが固定されず、視界が一致しない。
「――動くな」
低く抑えられた縁雅の声音。
誰に向けられたものなのか定かではなくとも、兵たちはその場で固まった。
前にも出ず、後ろにも下がらない。
その均衡の中で初めて影が動いた。
と、思った次の瞬間には和未の目の前にいる。
移動していないはずなのに、距離がなくなった。
無自覚に和未は一歩よろけるように下がりかける。
その手首を、強く掴まれた。
縁雅だった。
「――踏みとどまれるか?」
縁雅の問いに身体のほうが素早く素直に足を前へと戻す。
(……視線が逸らせない……)
相手の焦点はわからないのに、影と目が合い続けていた。
この集団の中で和未一人が選ばれ、観察するように見られ続けている。
和未に思い当たる理由はなかった。
けれど逃げ場もない。
『ほう……』
影から声が落ちる。
人の声、なのに抑揚が噛み合っていない。
声に近い音の振動に近かった。
『ここまでの力を持った女が人間にいるのか……』
言葉が何を指しているのかはわからないものの、自分のことを言われているのだと。
いつの間にか和未の全身に鳥肌が立っていた。
『どこに隠れていた……』
「――黙れ」
縁雅の鋭い声音が影の音を遮る。
怒りが滲んだ低い声。
和未は縁雅に視線を向ける。
そこで初めて和未は影から目を逸らすことが出来た。
縁雅は紅い瞳で前を見据えている。
(縁雅様はこの妖を知っている……)
確信とまではいかなくても、そうとしか思えなかった。
妖と呼ぶには人に近く、人に近い割には瘴気が充満して輪郭をぼやかしている。
その時、後方で涼成の声がした。
「――久遠か……」
名の響きだけ。
詳細の説明はない。
けれど、その響きだけで全軍の空気が変わる。
兵たちの緊張が更に引き締まった。
存在を熟知しているわけではない。
でも知らないわけではない。
”危険だ”という認識だけが名を呼ぶだけで共有されるほどの存在。
影――久遠は静かに笑った。
口の辺りだけが上を向いた三日月のように不気味に。
『――なるほど』
久遠の視線が和未から外されていた。
討伐軍の総大将――孤高の鬼神と畏怖される縁雅へと。
『やはり、お前が……』
確信を持った久遠の声。
その時、足場が大きく揺らいだ。
「左が……!!」
和未の上ずった声が駆け抜ける。
涼成は即座に動き、兵が左へと位置を詰めた。
けれど間に合わない。
空間の綻びが歪みながら広がっていく。
「うわああああ!!」
兵の一人がその綻びに吸い込まれそうになった。
――瞬間。
縁雅が拡大していく綻びめがけて黒刀を一直線に奔らせる。
すると、ずれていた空間が一点で正確に重なった。
兵は前のめりで地面に倒れ込む。
間一髪での救出。
同時に波のように揺れていた地が静まった。
『やはり、お前は違う他の人間とは違う……。面白い』
久遠が場そのものを扱って、縁雅の力量を測ったように思えた。
間を入れず縁雅は前へ出る。
黒の軍装が夜の闇へと溶けた。
音すらない、疾風迅雷の進撃。
縁雅と久遠の間合いが消える。
黒刀が闇を切り裂く。
久遠の輪郭が揺れる。
縁雅の切っ先は確かに久遠を捉えていた。
けれども空間のほうが軋む。
久遠の肉体ではなく、立っている位置そのものを裂いたように見える。
(あれは実体ではないのだわ……)
和未は息をもつかせない縁雅と久遠の攻防に呼吸をすることも忘れていた。
影のように見えた久遠が徐々に姿を現していく。
銀の長髪が、夜の光を淡く返している。
その顔立ちは男とも女ともつかず、ただ人ならぬほどに整っていた。
きっと、これは仮の姿。
妖である久遠の実体ではないのだろう。
兵の中には久遠の妖艶な容姿に見惚れているものもいた。
「――奴を見るな!! 取り込まれるぞ!!」
玄信の声が飛ぶ。
それだけで兵たちは立て直される。
前衛二列が半歩引いて、左右へと開く。
結界巫女たちが護符を切り、詠唱を唱える。
久遠の周囲に見えない結界が二重に重なった。
封じ、捕らえるためではない。
縁雅が祓った綻びを再度広げないため。
そして守備の強化に結界を張る。
全体を見ている涼成が、続けて命令した。
「右列は三歩中央へ。左は開け」
兵たちは即座に動いた。
その一糸乱れぬ動きは討伐軍がいかに訓練されているか一見して伝わる。
誰も慌てず、命じられた通りに隊列を変えた。
久遠は空間に浮かびながら、それを興味深げに見つめている。
人間には出来ない芸当だ。
――どうやって、崩してやろうか。
そう壊し方を策略している目。
『……なるほど。相変わらず人間は群れるのが好きだな』



