孤高の鬼神は、嘘つき巫女だけを信じている

 今にも鼓動を抑え込んでしまいたい衝動を何とか押しとどめる。
 和未は涼成へと歩を進めていく縁雅の後ろ姿を見つめていた。
 歩き方でさえ凛然としている。
 涼成が何かを報告し、縁雅は言葉少なに返していた。
 会話の内容までは和未の位置からわからない。
 それでも夜営地の均衡を保つために必要な判断を、必要な順番で淡々と涼成に告げているのだろう。
 討伐軍の頂点に立つ鬼神と畏怖される男。
 表情の変わらない縁雅の端整な横顔から和未は目を離せなくなっていた。
 
(住む世界が違いすぎて、私とは関わりのない人だと思っていたのに……)

 縁雅から渡された水を飲み終わる。
 その時、結界巫女の一人が足早に和未の元へとやってきた。

「結城様」

 和未は確かに自分の名前を呼ばれたのに、違和感が先に出て返事が出来なかった。
 今まで”様”でなど呼ばれたことはない。

「東側の綻びが少し広がっています。結城様に確認してもらいたくて」

 向かい合っている結界巫女のほうが和未の倍近く、年齢を重ねている。
 他の結界巫女たちを含めても、和未が遥かに一番年下だった。
 
(本来であるならば茅乃様を頼りたい場面であるはず……)

 茅乃は現状を巫女庁へ報告するために、日中には夜営地を発って不在。
 和未は素直に結界巫女に指定された位置へ共に向かった。
 夜営地の東側の外縁は焚き火の明かりが届きにくい場所。
 木々の密度が高く、地面に描かれた結界のための線も見落としそうなほど。
 結界巫女たち3人が詠唱しながら護符を整えている。
 結界の流れの上を黒く薄い風のような何かが撫で続けていた。
 
「結城様。ここです」

 和未を呼びに来た結界巫女が地面の一点を指し示す。
 その位置に和未は膝をついて、指先で触れてみた。
 
(まだ浅くはあるけれど……)
 
 親指と人差し指で丸を示せば形づくれるほどの小さな綻び。
 それでも広がっていると結界巫女が言っているくらいだから、初めはもっと小さかったのだろう。
 和未には結界巫女たちのように結界を整える力も繕う力もない。
 縁雅のように一瞬で綻びを消滅させる力もない。

(……それでも……)

 和未は緩やかに瞼を伏せる。
 兆視は意図して見ることは難しい。
 頭で先ほどの綻びを描いていく。
 今のままだとどうなるのか、深まった綻びから結界を削られるのか、そこから瘴気が入り込むのか……。 

「この護符を五分ほど右へずらせますか?」

 立ち上がりながら伝えられた和未の言葉に結界巫女たちが顔を見合わす。
 この場で縋るように頼りながらも、”嘘つき巫女”と評判が芳しくない和未の言葉を採用していいのか悩んでいる様子だった。
 けれど試してみる価値はあると素直に指示通りに護符を動かし、繕いの作業を続けていく。 
 すると音もなく、その綻びが消滅した。

「収まりました……」

 結界巫女の一人が驚きながら呟く。
 和未は頭痛が強くなったのを自覚しながらも安堵した。
 少し先を意識して頭で描いていた結果、綻びが広がる点がわかり、そこを防ぐには護符をどう置いたら最適なのか伝えただけ。

(これも兆視なのかしら……)

 反動でめまいがしているのを和未は(おもて)に出さないように努めた。

「――削り方を覚えてきているな」

 背後から低い声が落とされる。
 大げさなほどに和未の鼓動が反応した。
 振り向かなくても誰なのかわかる。
 縁雅だった。
 そして、その声が現象を現象として認識せず、”相手”がいると。
 確かに今の綻びは結界のほんの僅かな緩みをつかなければ、ここで広がることはなかった。
 相手は学習している。
 どうやって、その緩みを見つけて入り込めるのかを。
 
「……意思があるみたいですね……」

 干渉したいという明確な悪意、敵意、戦意。
 それらが吐露してきているようだった。
 ただの災厄ではなく、理解を超越した相手。
 縁雅は黙っていた。
 無視をされているわけではない。
 森の奥へと縁雅は紅い瞳を据えている。
 まるで、待ち受けているものに対して睥睨するように。

「――休めと言ったはずだが」

 やがて、縁雅からかけられた言葉に和未は動揺で大きな目を瞠る。
 責められているわけではない。
 気遣われている。
 無理をしないと縁雅に宣言したのは和未だ。
 和未はいたずらが露呈した小さな子どものようにばつの悪い気持ちになる。

「……はい……」

 和未は言い訳をせず、小さな返事をするのが、やっとだった。 

「縁雅様のおっしゃる通りだ。今のままのお前を連れて行って、途中で潰れられても困る」

 涼成が背後から近寄りながら伝えた。
 あくまで実務的な科白(せりふ)だったが、和未を“連れて行く前提”が含まれている。
 和未の同行は討伐軍にとって当たり前であると。
 自分の存在を認めてもらえたようで、この状況下でも、えも言われぬ喜びの気持ちが和未に芽吹いていた。

「涼成、ちょっと来い。少し相談したい」

 遠くから玄信に呼ばれている涼成は踵を返す。
 去る前に一瞬だけ縁雅の表情を観察していた。
 その視線に含まれる意味を和未には読み切れない。
 この夜の先に何が待ち受けているのか。
 選択肢一つで未来が変わる。
 誰が残り、誰が命を落とすか、その選択の中心に和未の兆視がある。
 ”嘘つき巫女”と笑われた和未の兆視が……。
 重圧――確かにその通りだけれど、別の熱が内側にこもり続けている。

(縁雅様……)

 安らぎでも恐怖でもない。
 何か別の名前をした上がったり下がったりする不可思議な感情。
 和未はそれを持て余しながらも夜営地の中心へと戻った。