孤高の鬼神は、嘘つき巫女だけを信じている

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 森の最奥の領域へと踏み込むのは夜明け前となった。
 理由については涼成から討伐軍全体へ向けて説明されている。

「妖どもが力を得る夜は瘴気の干渉が濃くなりすぎて、視界も悪い。迂闊(うかつ)に近づいて踏み込めば確実に呑まれて崩される。昼は逆に閉ざされている可能性が高い。以上のことから境界が不明瞭な夜明けしか好機がない」

 誰の目にも合理的な判断だった。
 陰鬱な森の深い夜。
 夜営地の張り詰め方は(きた)る出立と今日も夜を越えるため変化を見せた。
 外縁では見張りの兵同士の間隔を詰め、結界巫女たちが符を確かめている。
 乱れの出やすい箇所にはすでに手が入れられていた。
 妖も数体、出てきていたが、全て玄信や兵の手で夜営地の外側で速やかに討伐されている。
 中央では装具や武具を点検している兵。
 後方には壁に背を預けて目を閉じている兵の姿もあった。
 交代で休息をとっている。
 ただ誰もが完全に眠るわけではなく、抜きやすい位置に刀は置かれ、備えていた。
 夜は妖の活動が本格化する危険な時間帯。
 共通認識で休めるうちにわずかでも体力を残す。
 戦略としての休息は不可欠だった。
 夜営地全体が各自が役割を全うし、まるでひとつの生物に見える。

(皆がまとまっている……)
 
 和未はその輪の外に立って夜営地全体を後方付近から眺めていた。
 追いやられているわけではない。
 和未が出来るのは兆視であり、見ることだけ。
 それが自分の役目だと何度も和未は思い知らされてはいるものの、力不足に苛まれるのはどうしようもなかった。 

(私がちゃんと見られなければ……誰かの生死を左右してしまう……)

 指先が震えている。
 地面に沈み込むほどに身体全体が重い。

(……今までにないほどに緊張している……)

 待っているだけでしかない時間が余計に和未の負の感情を煽った。

(実際に動き出してしまえば、考えを散らせるかもしれないのに……)

「――水を飲め」

 低い声とともに目の前に差し出された竹筒。
 慌てて顔を上げれば、縁雅だった。

(いつの間に、お近くにいらっしゃったのかしら……)

 黒の軍装は夜の色を吸い込んだように深く、火明かりに縁雅の冴えた美貌が照らされている。
 幻想的なほどに縁雅の姿は美しく、和未の目を奪った。

「……ありがとうございます」

 受け取る時に指先同士が触れてしまった。
 たったそれだけで、和未の内側の心臓はひどく跳ね上がる。

(落とさないようにしないと……)

 ただ水を飲むだけなのに縁雅に見られていると思うと、和未は妙に気持ちが上ずった。
 水は冷たく、頭を覚醒させる。
 自分が今しがたまでどれほどに息を詰めていたのか自覚した。

「――休んでろ」

 愛想など欠片もない縁雅の口調。

「兆視は消耗が激しいと聞く」

 それでも縁雅の気遣いはしっかり伝わってきた。

 ――私もお役に立ちたいので、必要であるのなら……。

 そう言ってしまいそうなのを和未は唇を噤んで止める。
 同じようなことを言って、縁雅と空気が悪くなってしまった。

(二度と繰り返したくない……)

 それほどまでに縁雅と出来た距離は痛みを伴う時間だった。

「……無理はしないようにします」

 縁雅は無理をしないよう和未に伝えるだろう。
 だから和未は先回りして告げた。
 無理をしないと縁雅に約束できるほど、きっと和未は自分を調整しきれない。
 誰かが死ぬ未来を見てしまったのなら。
 そして、それが縁雅であるのなら、なおのこと。
 誰かに必要とされたいわけでも、役に立ちたいからでもない。
 ”嘘つき巫女”と揶揄された自分の価値を認めさせたいわけでもない。

(縁雅様に生きていてほしい……。そのためなら私は……)

 和未にはただそれだけだった。
 縁雅の紅い瞳から注がれる視線は強いのに、押しつけがましくはない。
 和未の考えの奥底まで見透かしていそうだった。
 それでも縁雅は言葉を返してこない。
 ただ和未の傍から立ち去りもしなかった。
 和未は戸惑う。
 用は済み、言葉も尽きた。
 それでも縁雅は和未の近くにいる。

(不自然……ではないのかしら)

 和未は顔を上げられないまま、小鳥よりも少しずつ水を飲んでいた。

「縁雅様」

 涼成が離れた場所から大股で近づいてきた。

「西側の符列、組み替え終わりました」
「――確認する」

 縁雅は短く返し、縁雅は涼成の方へと足を向ける。
 急に自分の周りの風が吹き抜けていく。
 縁雅と距離が近すぎたのだと、ようやく和未は気がついた。
 
(胸の奥が騒がしいわ……)