孤高の鬼神は、嘘つき巫女だけを信じている

 涼成の号令に兵たちが揃って動いた。
 配置が若干変わり、刀が抜かれ最小限の音と共に一斉に刃が現れる。
 無数の銀が閃く。
 結界巫女も護符を足し、防衛の術式を重ねた。
 空気がわずかに震える。
 それでも異質な何かは止まらない。
 じわりと、染み出すように、結界の外側に、広がっていく。  
 和未は苦しそうに眉間を歪ませた。
 
(何で、こんなに曖昧なんだろう……)

 数日前に遭遇した異形の妖とは違う。

(あれも輪郭を変化させていく実体が掴みにくい妖だったけれど、もっと不確かで朧げで……比較にならないほど身の毛がよだつ感覚で……)

 際限なく広がっていく怖気立つ何かがいつの間にかすぐ傍まで迫っているように思えて、和未はそっと拳を握る。
 ここで退けば、見えるものを見失うかもしれない。
 その思いだけで、恐怖に耐えて立っていた。

「――平気か?」
 
 縁雅の低い声が鼓膜を震わせる。  
 いつの間にか、和未のすぐ前に立っていた。
 距離が、近い。
 先ほどまで縁雅と和未に生まれていたはずの距離感が消えている。

「結界を越えない限り、干渉は弱い」

 縁雅は短く、状況を切り分けていた。

「……平気です」

 和未は浅く頷く。
 縁雅が傍にいる。
 それだけで押し潰されそうだった気配が引いた。
 
(まだ、見られる……)

 焦点は外さない。
 あの濃度から目を離すと、何かを見失いそうだった。
 一定ではなく波のように揺れ、広がろうとしては抑えられる。
 押し返されて、また滲む。
 結界と“それ”が見えないところで、拮抗している。
 
(兆視……)

 急に閉ざされた瞼の奥に映像が押し寄せるように流れ込む。
 和未の身体が傾き、下半身から力が抜ける。
 その瞬間、強く腕を引かれて意識が引き戻された。
 縁雅だった。
 前に立っていたはずの縁雅が和未の隣にいる。
 更に和未との距離が接近していた。

「支えはいるか?」
 
 縁雅に問われる。
 普段の和未なら遠慮したり頬を染める場面。
 だが和未は目を閉じたまま、引かなかった。

「……お願いします。今、ちょうど見えていて……」

 縁雅の腕に力がこめられる。
 和未を離さずに、そのまま支えていた。

「――どこだ?」

 縁雅に短く問われる。
 全ての言動に縁雅は迷いがない。
 和未は目を開いた。
 結界の外。
 濃度が密になりつつある、その先。

「森の……あの場所から」

 和未の呼吸は自覚以上に乱れていた。

「流出してきているのか」

 少し離れた場所で涼成が反応した。

「やはりこの森にあるのか。禍津日神の封印の社が」
「可能性は高いな。しかも封じきれていない可能性がある……」

 玄信が低く唸る。

「面倒なことになってきた」

 玄信はそう嘆きつつも、その声音に恐れはない。
 戦う準備が整った者の声だった。  
 討伐軍に参加している時点で腹を括り、覚悟を決めているのだろう。
 和未はそれを遠くに聴覚で捉えながらも、視野を保とうとする。
 崩れそうになっても、視界を崩さない。
 縁雅が隣で支えてくれている。

「――和未、限界だ」

 寄り添われたままの距離で縁雅に断言される。
 
「……あと少しだけ……」

 和未は反射的に縁雅に答えた。
 限界なのは和未もわかっていた。
 ここを振り切ってしまったら、どうなってしまうのか自分でもわからない。

「今、見ておかないと、次は……」  

 そこまで言いかけて和未は唇を噤む。
 視界の奥で、何かが動く。
 曖昧で不確かだった歪みのような何かを和未から見ているだけだった。  
 それが和未を認識したかのような。
 取り込まれそうな背筋が凍った感覚に和未が襲われた瞬間、縁雅に強く手を引かれた。

「もう、やめておけ」

 低くも響きのよい縁雅の声。
 和未は目を覚ますように、睫毛を瞬かせた。
 目に見える世界に色が戻ってくる。
 周囲の音が鼓膜を突き抜けるように一気に流れ込む。
 
「はあ……はあ……」

 和未は肺で大きく呼吸をしていた。
 胸元が激しく上下する。

(苦しい……。身体が熱いのか、冷えているのか、よくわからない……)

 崩れそうになった和未の身体は華奢な肩へと回された縁雅の腕に支えられていた。
 縁雅は決して和未を離そうとはしない。
 和未も縁雅の硬い身体に身を寄せて呼吸を整えることだけで精一杯だった。
 どれくらいの間そうしていたのか、少しずつ現実が和未にも見えてくる。
 結界はまだ維持されていた。
 外の不安定な気配の濃度も完全には消えていない。 
 しかし、先ほどまでよりわずかに弱まり、拮抗が崩れ押し返しているように思えた。
 広がろうとして、弾かれ、また滲む。
 目に見えないはずの境界が確かに生まれていた。

「……縁雅様……」

 ゆっくりと和未が顔を上げた。
 どんな宝玉よりも美しい紅い瞳と視線が交差する。
 縁雅は何も言わない代わりに鋭い双眸を細めて応答した。
 そのまま支え続けられている線の細い和未の身体。
 縁雅は離そうとしない。
 和未も離れようとしない。
 言葉を交わさずに、互いの瞳の奥まで透かすほど深く見つめあっていた。