孤高の鬼神は、嘘つき巫女だけを信じている


 和未は、はっと大きく息を吸い込んだ。
 気がついた時には壁に身体を持たれかけ、床へ膝をついている。
 和未には見慣れた巫女庁(みこちょう)の廊下。
 巫女庁の本殿は、庭園を隔てて俗世からわずかに距離を置くように建っていた。
 平屋は白木の柱と黒塗りの梁が規則正しく並び、ここが格式高い場所であると物語る。
 官署としての機能を持ちながら、その厳かな空気は明らかに神域のものだった。
 磨かれた床。
 庭の小鳥たちの(さえず)り。
 青々と茂る庭園。
 和未が今し方まで見ていた惨状が嘘のように、普段通りの平穏な風景。

(また見てしまった……)

 苦しげに息を乱しながら、和未の額にじわりと汗が浮かぶ。
 そのまま一筋、頬を伝って落下した。
 まだ鼓動が激しく脈打っている。
 未来視。
 この世界では未来を見る力を兆視(ちょうし)と呼ぶ。
 和未は何度も同じ映像を悪夢のように繰り返し見ていた。
 兆視巫女は瑞國(ずいこく)で6名しか存在しない。
 現在18歳の結城(ゆうき)和未(なごみ)は兆視巫女の中でも最年少である。
 稀少な兆視巫女は瑞國でも重宝される存在のはずだった。

「――結城和未」

 女性ながら低い声に呼ばれて、顔を上げる。
 巫女庁の大広間には巫女たちが集っていた。
 揃いの白衣の袖、緋袴の裾。
 白衣の縁には細い刺繍が走り、階位を示している。
 装いは統一されているが、その細部にのみ差があった。
 正面の一段上の中央。
 和未の目の前に立つのは全ての巫女の上に立つ巫女頭である大久保(おおくぼ)幹子(みきこ)
 黙って、そこに立つだけで内側からにじみ出る貫録が備わっていた。
 その両隣には巫女の中でも位の高い精鋭、上級巫女たちがずらりと控える。
 上級巫女の中でも異質なほど若い円山(まるやま)茅乃(かやの)の姿もある。
 幹子の御前にいる和未には周囲の巫女たちから冷たい視線が突き刺さっていた。

「また兆視かしら?」

 淡々とした幹子の上品な声に和未は小さく頷いた。

「……はい。繰り返し見るものがありまして……」
「内容をお話なさい」

 和未は言い淀むように桃色の唇を閉じ合わせる。
 あの恐ろしい光景を口にすることさえ(はばか)られたのと、もう一つ理由があった。

「……封印の社が崩壊します……」

 大広間にざわめきが広がる。
 封印の社が崩壊することの意味を知らぬ者はこの中にいない。
 
「瘴気が溢れて……多くの兵士が倒れていまして……」
「――で?」

 和未を遮った幹子の声は氷のように冷ややかだった。

「また外して、巫女庁と討伐軍を混乱させるの?」

 幹子の声に大広間中が凍りつく。
 その空気を壊すように誰かがくすりと笑い、嘲笑はあっという間に広がる。
 和未の指先は震えていた。
 でも幹子から視線だけは外さない。

「今回は違います。何度も繰り返し同じものを見ていまして……」
「――前にも同じことを言っていたわよね……」

 幹子は温度の感じられない声で言った。
 同情も苛立ちもなく、ただ事実だけが置かれている。
 和未の脳裏にあの時の記憶が(よみがえ)った。
 和未が“嘘つき巫女“と呼ばれるきっかけになった3年前、15歳の時の兆視。
 ――この戦は危険だと和未は事前に告げた。
 だが結果は討伐軍の勝利。
 誰の目にも、それは和未の兆視が外れたことを意味していた。

「またあの“嘘つき巫女“が嘘を言い始めたわよ」

 巫女の誰かの声に、大広間中が笑いに包まれる。
 和未は握る拳に力を入れた。

(違う……のに……)

 和未が何を言っても言い訳にしかならない。
 証明する術を持たないからだ。

「もういいわ」

 幹子のたった一言で大広間のざわめきが一瞬で静まる。

「結城和未。あなたの兆視は参考程度に扱います」

 そうして幹子は和未から視線を外して周囲へと走らせた。

「今まで通り重大な任は他の兆視巫女に任せますので」

 幹子の言葉に和未の胸が軋む。
 “嘘つき巫女“その名が広まってから、兆視が関わる任務には呼ばれない。
 頼まれるのは巫女庁の雑用ばかり。
 兆視巫女は頭である幹子と最年少の和未を含めても瑞國で6名しかいない。
 和未以外の5名は瑞國で手厚く重宝されていても、“嘘つき巫女“の和未だけは扱いが軽かった。

「――下がってよろしい」
「失礼いたします」

 頭を下げて素直に和未は大広間を出た。
 巫女たちの嘲笑を和未は背中で受け止めている。
 廊下へと出たら、和未の視界は滲み、景色がぼやけて映った。
 
(どうして……信じてもらえないのだろう……) 
 
 自分に問いかけてみたところで答えは決まっていた。
 和未は過去に兆視を外したことになっている。
 当時、巫女庁は和未の兆視を受けて討伐軍に掛け合ったものの、討伐軍は問題ないと判断して戦を強行し、結果として勝利を収め、巫女庁は体面を損なった。

(確かに見えているのに……。私は誰のことも救えない……)

 こぼれ落ちそうになった涙を和未が堪えたところで、和未は廊下に違和感を覚えた。
 空間に一部、(ほころ)びが出来ている。

「そこ、危ないから触らないで」
 
 傍にいた巫女に言われる。

「今、(つくろ)っているから」

 巫女庁は瑞國の中枢の一角とされるゆえ、守りもまた尋常ではない。
 結界は幾重にも張られ、妖どころか悪事を企てる人間ですら何人たりとも侵入を許したことはない。
 それでも理屈で説明できない綻びが稀有に空間へと発生することもある。
 原因はわかっていない突発的に生まれる例外の綻び。
 黒い瘴気の干渉なのか、封印されている“あれ“の影響なのか……。
 放っておいて大きくなってしまうと、妖が生まれたり、人が取り込まれて消されることもある厄介な現象。
 神隠しと呼ばれることもある。
 特に最近は綻びの発生が増えていると耳に入るが、巫女庁で起こるのは異例だった。
 結界巫女であろう3名が繕いの作業を行っている。
 
「……私に何かお手伝いできますか?」
「忙しいんだから話しかけないで」
「嘘つき巫女は下がっててよ」

 結界巫女たちに素気無く言われて、和未は足袋を履いた足で擦るように後ろへ下がる。
 その時、一対の足音が耳に入ってきた。
 重く、迷いのない足取りが段々と近づいてくる。
 廊下の向こうから和未の前に現れたのは黒い軍装の男。
 細身でありながら鍛えられた長身。
 紅い瞳から放たれる鋭い視線。
 艶やかな漆黒の髪。
 彼の周囲だけ空気が張り詰めている。
 今まで和未が出会ってきた誰よりも別格で圧倒的に存在感が違っていた。
 和未は思わず息を止める。
 彼はその綻びの内側に踏み込んだ。

「待っ……」

 焦った結界巫女たちだが、それはすぐに驚きへと変わる。
 彼が綻びに入っても、何も起きなかった。
 崩れず、弾かれず、呑み込まれもしない。
 男は足を進めたまま、少し視線を落とし、何かを払うように指先で空間に触れる。
 その刹那(せつな)、綻びが音もなく整って跡形もなく消失した。
 一瞬で、こともなげに。
 繕いの作業をしていた結界巫女たちは一様に言葉を失って目を丸くしていた。