孤高の鬼神は、嘘つき巫女だけを信じている

(茅乃さんのおっしゃるように間隔をあけよう……。役割が果たせなくなってしまう……)

 和未は立ち上がり足を動かして、護符に守られた一角から抜けた。
 足取りはしっかりしている。

(この分なら、まだやれる)

 和未はそう判断した。

「結城和未」

 背後から涼成に声をかけられる。
 その場に立ち止まって振り向いた。
 涼成は腕を組んで難しそうな表情を浮かべている。
 
「先ほどの件」
「……はい」

 和未の心臓がきゅっと警戒し始める。
 ずっと考え続けていること。
 触れられるのが怖くて侵入を拒みたいような心もとない気分だった。

「自分が必要であるか(いな)か、それがお前の判断基準なのか?」

 涼成は真っ直ぐに問いかけてくる。
 
(初めて顔を合わせた時、価値がないとはっきりおっしゃったのは涼成殿のほうなのに……)

「はい。足手まといにはなりたくありません」

 和未がそう告げると、涼成は自分が放った単語に自覚があるのか気まずそうに一度視線を逸らした。

「……何よりも見えているはずなのに、誰も救えないでいることのほうが苦しいです……」

 それが和未の基準だった。
 それ以外を持ち合わせていない。
 涼成はすぐに言葉を返さなかった。
 やがて、ゆっくりと吐息とともに言葉を吐き出す。

(あや)うい女だな」
 
 和未を肯定しているのか否定しているのか、どっちつかずの台詞。

「自覚はあるんだろう? 長くはもたないぞ」

 涼成も和未を気遣ってくれているようだった。
 理由の説明はなくても、和未にも意味はわかる。
 初めて顔を合わせた時と比較したら想像もつかない涼成の変化だと和未は思えた。
 
「……問題ありません……」
 
 和未は言い切った。
 迷いはないはずだった。
 それでも和未の声は頼りなく、自分の鼓膜に届いた。
 涼成は何も返さない。
 和未もこれ以上、何も言えなかった。

「休む時は休め」

 涼成は立ち去る時、和未の肩に手を置こうとする仕草を見せたが、ついには触れないままだった。
 一定の間隔を保ち、それ以上は踏み込んでこない。
 それが涼成と和未の距離だった。

(だったら縁雅様は……)

 立ち尽くしたままだった和未は縁雅の姿を視線の先で追いかけた。
 少し離れた位置。
 森の奥を睨むように緋色の瞳で見据えている。

(縁雅様は何を見て、何を考えているのだろう……)

 縁雅の揺るぎのない眼差し、背中。
 鬼神と畏怖される強さを誇る討伐軍の総大将。
 自分とは違う世界に住んでいると思っていた人。
 それは変わっていないはずなのに、どうしようもなく和未には遠く感じていた。
 
(気のせい……)

 和未は視線をさ迷わせた。
 やるべきことも、考えるべきことも他にたくさんある。
 森の奥のあの場所。
 兆視で探知すること。

(それが私に課せられた使命……)

 和未は自分に言い聞かせた。
 その時、結界の外縁がわずかに揺れた。
 結界巫女だけではなく兵たちも、そちらに視線を向ける。
 侵入ではなく、外からの干渉でもない。
 でも空気が張り詰め始めた。

「何か変じゃないか」
「お前もそう思う?」
 
 兵たちがざわめき出す。
 誰もが目には見えないのに変質した空気を悟っているらしい。
 呼吸した時、肺の奥に残る感触が、ほんのわずかに重い。
 湿り気とも冷たさとも違う”偏り”。
 目には見えない、何かが迫ってきている物騒な感覚。
 遠く森の奥から響いてくるように。
 己の存在を知らしめるように、影響を及ぼしてくる。 
 和未は息を呑んでいた。
 縁雅も目線を尖らせて、同じ方向を向いている。
 和未は三方に護符が打たれた一角まで足早に戻った。
 立ったまま、瞼を閉じる。
 森の奥、あの場所へと意識ごと馳せた。
 あの建物の中、要領を得ない歪み。
 以前よりも増幅しているように和未には思えた。

「……来るぞ」

 玄信は臨戦態勢に構えている。
 周囲の兵も玄信につられるように緊張が一段、引きあがった。
 涼成は夜営地の外周、結界の縁へと歩み寄った。
 片足を地につけてしゃがみ込み、手で地面に触れる。
 指先が土を掠め、そのまま感触を確かめるように涼成は静止していた。
 次の瞬間、顔を顰めていた。

「感触が違う」

 ひとり言のように涼成は呟いた。

「何かが変化している」

 異常は確かに起きていると涼成も身をもって実感していた。
 結界は壊れていない。
 侵入されているわけでもない。
 それでも、変わっている”何か”。
 根拠のある説明は不要だった。

「総員、備えよ」

 涼成の短い指示に兵員が呼応して体勢を整える。

(こちらへ来ている……)

 和未は瞼を閉ざしたまま、自分の感覚を繊細に拾っていた。
 空気が不均衡である。
 何もなかった場所へと生み出される”濃さ”。
 影でも形でもなく、曖昧なそれが緩やかな速度で着実に広がっていく。

「構え」