孤高の鬼神は、嘘つき巫女だけを信じている

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 夜は無事に明けた。
 こんなにも日の出が待ち遠しいと感じた夜を過ごしたのは和未には初めての経験である。
 恐ろしいほどに静かな一夜だった。
 風はある。
 枝も揺れている。
 葉擦れの音。
 火の爆ぜる音。
 鳥の声がない。
 獣の気配もない。
 本来あるはずの“生き物の気配”だけが、きれいに削ぎ落とされている。
 ただ存在しているだけで、周囲の生を押しのけてしまうような何かが森の奥に潜んでいるという証明のようだった。
 深く、重く、確かに。
 和未は夜明けの前に目を開けていた。
 眠っていたのではない。
 身体を横たわらせていただけ。
 夜は崩れなかった。
 兆視で見た、あの未来は来なかった。
 だが、終わったわけではない。
 むしろ、全ての崩壊の“始まり”がはっきり見えてしまったのだと和未は思った。
 この先に待っている縁雅の死。
 細い煙がまだ立ち上っている焚き火の跡を和未は見つめていた。  
 夜を越えられたという事実。
 火は消えていたが、石の表面にはわずかな熱が残っていて、近づけばまだ熱がある。
 
(未来は……変わる……)

 和未は呼吸を整えようと、ゆっくりと息を吐いた。
 
「――行くぞ」

 縁雅の低い声が落とされる。
 もう準備は終わっているらしい。
 縁雅が纏う黒の装束は夜露にも乱れず、腰の刀は鞘におさめられている。
 濃紺でも墨色でもなく、もっと深い黒だった。
 何にも侵されない漆黒。
 動けば裾の内側にわずかに深紅がのぞき、それが逆に静けさを際立たせていた。
 その後ろに涼成が立っている。
 さらに少し離れた位置に玄信。  
 残る兵たちはすでに配置を固め終えていて、結界巫女たちも持ち場を離れていない。
 討伐軍の方針は明確だった。  
 夜営の陣は維持した上で、原因を探る。
 全軍は動かさない。
 動かせば守りが薄くなる。

「同行は3名」

 涼成が再確認するように告げる。

「縁雅様、私、それから結城和未」

 名前を呼ばれ、返事をするように和未は背筋を伸ばした。

「妥当な判断だが、俺も行きたかった」

 玄信が不満を口にした。

「ここを空ける方がまずい。維持はお前に任せる」
「言われなくてもわかってるよ」

 不服ではありそうだったが玄信が口にしたのは反論ではない。
 玄信は和未に目線を向けた。
 玄信の巨体ゆえ、和未はずいぶんと上から見下ろされる形になる。

「嬢ちゃん。無茶するなよ」

 それだけ。
 けれども、玄信の気遣いが伝わって和未の胸の奥を温めた。

「はい」

 縁雅が先に歩き出す。
 和未もその背を追った。
 涼成が和未の後ろにつく。
 たった3人だけの隊列。
 結界巫女によって、結界こそ張ってもらっているものの、精鋭なだけに迷惑をかけまいと和未は気を張る。
 昨夜までの軍の一団よりもずっと静かだった。
 森の奥へ進むほど、世界が細く、尖っていくように感じられる。
 道らしい道はない。
 獣道よりも細い、踏み跡とも呼べない隙間を縫って進んでいく。
 枝が袖を掠め、濡れた葉が頬に触れる。
 足元には腐りかけた落葉が厚く積もっていて、その下に隠れた根が何度も草履の裏を取ろうとした。

(3人しかいないから遅れが目立ってしまう……)

 和未は意識して足を運ぶ。  
 遅れないように。
 転ばないように。
 足手まといにならないように。
 今はまだ縁雅と涼成の2人に守られる位置にいられる。
 だが、ここから先に進むほど、その余裕は少しずつ失われていくだろうということが、肌でわかった。
 前を行く縁雅の歩みには迷いがない。
 地形を読んでいるのか、それとも関係なく進んでいるのか、その背を追うだけでも懸命な和未にはわからない。
 森を知っているようにも見えたし、あるいは森ごと実力で押し切っているようにも見えた。
 足場の悪い斜面へと差しかかる。
 湿った土は脆く、踏み込むたびにわずかに地が崩れていく。
 縁雅の足が止まった。
 振り返りはしない。
 でも、視線だけが、ほんの一瞬和未へ向けられる。

「――そこ、気をつけろ」

 縁雅の端的な低い美声。
 和未は反射的に視線を落とす。
 縁雅に指摘された場所の土だけ色が違っている。
 和未が踏み込めば、そのまま崩れていたかもしれない。

「……ありがとうございます」
 
 和未が縁雅に返したお礼は小さくもはっきりとしていた。
 縁雅はそれ以上、何も言わずにまた進む。
 歩調は幾分(いくぶん)か緩んでいた。

(私に気を遣っていただけているわ……)

 和未も縁雅の足かせにならないよう、より注意して前へと足を踏み出し続ける。
 涼成は縁雅と和未2人の様子を一番後ろから観察しながらも特に言葉をかけようとはしなかった。