「お、美香じゃん!いつもギリギリだね〜。いつか顧問に怒られるよ」
朝、学校の門を通って部室に向かう途中同じ部活仲間の紗友里と鉢合わせた。
紗友里は部活の中でも一番仲が良く、こうやって部活中や校内でも普通に話す仲だった。
「あはは。間に合ってるからセーフ」
私は笑みを作っていつもの調子で答える。紗友里と別れ、部室に入り部活用のシューズを取り、荷物を荷物置き場に置いた。するとちょうど、ミーティングが始まった。
今は夏休み中なため部活が朝から昼まである。普段通りの練習であれば休憩含めて三時間。たまに伸びることはあるけど基本は三時間だった。八時から十一時までの練習が基本だった。三時間と言っても真夏の朝や昼間なんて暑くて仕方なかった。
私達は陸上部で、私や紗友里は短距離走を主に練習している。
私は陸上部のエースとかではまったくなく、何ならその真逆の存在だった。かろうじて他の部活の子よりは足が速いものの、部活の中では下から数えたほうが早いほどだった。
それに比べ、紗友里はエースだった。調子がいいと市内大会で優勝してくるほどだった。それに私とは違って部活を楽しんでいるようでいつも生き生きして練習している。
私はと言うと、部活をやっていて楽しいとは思えなかった。陸上部に入ったのは運動音痴のせいで体育の成績が下がるのが嫌という理由からだった。結局体育の成績はそこまで上がっていないのだけれど。
顧問から自主練をやってみたらもっと伸びるよと言われているのだけれど、私にそんな余裕はなかった。
気づいたらミーティングが終わっていた。全然聞いていなかった。まあいつものことだけれど。
いつも顧問は同じことしか言わないので部員の中でもちゃんと聞いているのは部長くらいだった。
ミーティングが終わるとみんなでウォーミングアップとして少し走りその後は各々の課題や種目に合わせた練習をするようになる。
私も一応は練習中くらいは一生懸命やるようにしている。サボらず休憩も最小限にして走る。
でも、紗友里は私より真剣に取り組んでいるんだろうな。いや私以外みんなそうなのだろうな。部活で成績のいい子は決まって自主練をしている。紗友里も夏休み中ほとんど毎日十一時に一度家に帰ってご飯を食べて十三時くらいからまた練習していた。
改めて部活にそんなに熱心になれるってすごいことだなと考える。でもいい。私はそうじゃなくていい。部活に対しては全力じゃなくていい。練習中さえ頑張っていればそれでいいのだ。
そう強く思って自分のネガティブな考えを忘れるようにした。
部活を終え、玄関を開くとすぐにお母さんが気づいたのかリビングから声が聞こえた。
「おかえりー」
ただいまと答える元気もなくてそのまま靴を脱いでリビングに入った。
「お昼ご飯何にする?」
そんなに食べたくもない、時間もかけたくない。それに親に迷惑をかけるのも嫌だった。
「おにぎり一個でいい」
そう答えて、もっと食べなさいというお母さんの声を無視して二階にある自分の部屋に戻った。ドアを開くと何故か安心感を感じた。もうベッドで寝てしまおうかと思ったけれど、そんなことをするわけにはいけない。
部屋着に着替え、ノートとワークを開き、学校から配布されいてるパソコンのパスワードを入力する。そして、数学のデジタル教材開いてシャーペンを持って問題をとき始める。わからない問題があればデジタル教材で確認する。
これが私の勉強法だった。とにかく全問正解するまでワークを解き続ける。勉強は苦手なので何周してもケアレスミスなどで全問正解できないことも多く、そのたびに自分に嫌気が差していた。
中学二年生の夏休みだからといって気は抜けない。ここでくじけると三年生になったとき不利になる。
それに、私から勉強を取ったら何も残らない。ただの出来損ないになってしまう。別に部活で好成績を残せるわけじゃない。美術や音楽、技術家庭科、体育の実技で成績を取れるわけじゃない。特別友だちが多いとかリーダーシップがあるとかでもない。それなら勉強を全力で頑張るしかないじゃないか。
ワークを3ページほど進めたところでご飯に呼ばれた。リビングに降りるとおにぎりが何個も置いてあった。全部食べろと言うことなのだろう。でも私にそんな時間はなかった。おにぎりを一個だけ食べて階段を上がった。
「そんなんじゃ勉強に集中できないよ!」
お母さんは少し怒った口調でそう言ってきた。
そんなことわかっていた。でも、食べている時間をもったいないと感じてしまえばもっと集中できなくなってしまうのだ。
「うるさい」
お母さんに聞こえるか聞こえないかの声でそう呟いて自室に戻った。
開いたままのワークとノートに向き合いまた問題を解き始める。
夏休み明けにあるテストで絶対に今まで以上の点数を出したかった。課題の内容を主に出すテストなので課題さえちゃんとやっていれば、自己最高点数を出せるようなテストだった。みんなが気を抜いて大して勉強しないテスト。だからこそ高順位を狙えるのだ。
私はまだ学年一位というのを経験できないでいた。テスト前じゃなくとも部活をしながら一日三時間勉強してテスト前は平日なら五時間、休日は八時間から十二時間勉強しても学年一位を取ることはできなかった。
学年一位の子の勉強時間を聞いたことがあったのだけれど私より遥かに少なかった。
要するに私は人より要領が悪い。私の学校の二年生でこんなに勉強に必死になっている人はいないのだろう。私はどれだけ頑張っても学年順位一桁が限界だった。悔しくて悲しくてもう勉強なんてやめてしまおうかなんて思うこともあった。学年順位二桁を取ったときはもう私なんていらないのかもしれないと思うことまであった。
でもそんなことできるはずもなく、今も勉強を続けているわけだ。
ふと時計を確認すると昼の二時を指していた。そろそろ家を出ようと思ってワークやらノートやら教科書やらパソコンやらをリュックサックに詰めてそれを背負って玄関に向かう。
「塾行ってくる」
「わかったわ。はい、これお弁当。気をつけていくのよ」
お母さんからお弁当を受け取り、今回はちゃんと笑顔でありがとうと言って家を出た。塾の授業は十七時から二十一時まであるので、塾の授業が始まるまで自習室で勉強して塾の授業が終われば一時間また自習室で勉強してから家に帰る。夏休み中は予定がなければだいたいそういう生活を送っていた。
塾に着くとエントランスで自習室利用者名簿に名前を書き二階にある自習室へ向かった。
自習室の席は半分くらいが埋まっていた。
私は空いていればいつも窓側の角の席に座るようにしている。理由はあまり気を使わなくていいから。というのも、両サイドに人がいるとどちらにも気を使わければいけなくなるけど、角の席だと隣は一人なのでまだマシなのだ。まあ実際そんな変わらないので気分的な問題だった。
隣の席とは仕切りがあるとはいえど、どうしても気を使わなければいけない。最大限に勉強に集中したいのでなるべく角の席を取るようにしている。
次は理科のワークとノートを開き解き始める。どちらかというと苦手科目なので時間をかけなければならない。ワークと向き合い黙々と問題を解いた。
塾の授業が終わり、一時間の自習も終わったので、家に帰りお風呂に入った。部屋に戻り、スマホを開く。友達の投稿を確認していく。そこで部活友達の投稿を見つけた。部活の女子で集まって遊びに行ったようで私以外の殆どの部員がいた。
「…私これ誘われてない」
もしかしてハブられてる?なんで私はいつもこうなの。なんで何もうまくいかないの。
別に部活中いろんな子と話すし、嫌がらせを受けているわけでもない。それでも誘われてないというのはこの部活で私は必要ないということなのだろう。
そう思うと途端に涙が溢れてきた。誰かに認めてほしくて勉強を頑張ってきた。なのにどうして周りの人は私から離れていくのだろう。
私は一体何のために頑張ってきたのだろう。何を求めて頑張ってきたのだろう。
でも、ここで勉強をやめてしまえばもっと見放されてしまう。お母さんもお父さんも友達ももっと私を見てくれなくなる。
誰からも「頑張ったね。すごいね。偉いね」って言ってもらえなくなってしまう。そんなのハブられるよりもっと嫌だった。誰か一人でもそう言ってくれる人がいてくれると信じて私はがむしゃらに頑張るしかないのだ。
塾の先生から君なら市内トップ校を目指せると言われていた。本当に行けるなら行きたい。誰かにすごいと言われる存在でいたかった。じゃないと私にはなんの価値もないのだから。
その高校に行けたら高校の名前を出すだけで褒めてもらえる。それに大学受験でも有利になる。
だから私は勉強を続けなければいけない。どれだけ辛くても苦しくても。勉強は私の存在意義になっていた。
そういう考え方が自分を苦しめ縛り付けているというのはどこかで気づいていた。でも、私の生きる希望にもなっているのも事実だった。
私はきっと一生勉強に助けられ苦しめられて生きていくしかないのだろうと思っていた。
「みんなで遊びに行ってたんだよね。楽しかった?」
次の日部活に行ってSNSに投稿していた子にしれっと聞いてみることにした。
「そうそう!楽しかったよ。でも、ごめんね。美香ちゃん勉強で忙しそうだったから誘うのも悪いかなと思って誘わなかったの」
この子が嘘をついている雰囲気はなかった。本当に気を使って誘わないでいてくれたのだろう。
でも、私は行きたかったな。私だって息抜きにみんなと遊びたい。誘われたらいくらでも時間作ったのに。
いや、これは私のわがままだな。自分から友達を誘ったりとかしないくせに、遊びたいなん言っちゃだめだ。
それに行けなかったのは勉強ばかりしている自分のせいでもあるのだから。
「全然気にしないで。気遣ってくれてありがとう」
さっきより笑顔で答えると相手の子は安心したように笑い、練習に戻った。
そこから抜け殻のように練習するようになった。なんだか、誰かにお前は遊ぶことすら許されないと言われているような気がした。
気遣ってくれる気持ちは嬉しいのだけれど、その気遣いが痛かった。
遊びに行きたかったっていうのもあったけれど、私もみんなと同じ時間を過ごしたかった。
勉強ばかりじゃなくて普通の中学生でいたかった。でも私にはそんなことは許されない。他の子にはそれぞれの長所がある。足が速い、絵がうまい、笑顔が可愛い、みんなをまとめられる、私はどれも持ち合わせていない。だから勉強を頑張るしかない。
誰かに言われたわけでもなく、親に怒られたからでもなくただ単に自分で自分の首を絞めているだけだった。
そんな気持ちを紛らわすため、お盆休みで部活がない日も部活がある日も部活が終わったら勉強しかしなかった。
夏休み明けのテストを迎え、緊張しつつもほとんどの問題が自信があったので案外すんなりと終わった。
結果は学年一位。嬉しかった。やっと自分の努力が報われたような気がした。
「え、美香!すごい!!」
終礼が終わり、教室から出ようとすると紗友里にテストの結果を聞かれたので小さな声で答えると両手を顔の前で合わせて褒めてくれた。
ああ、私はこのときのために勉強を頑張ってきたんだ。きっと家に帰ればお母さんも褒めてくれるだろう。夜にはお父さんも帰ってきて喜んでくれるだろう。おじいちゃんやおばあちゃんにも報告したい。
やっとだ。やっと一番になれた。小さな箱の中の一番でしかないけれど、一番は一番だった。
でも嬉しさよりも安心感が強かった。一位を取れたという安心感。あんなに勉強したんだから一位を取れてよかった。
「美香、でもそれってしんどくない?」
紗友里が真剣な顔で尋ねてきた。
「え?」
言われている意味がわからなかった。一位を取ってしんどいはずがない。今はしんどくない。過程がしんどいなんて全てにおいて言えることだし、きっと紗友里だって陸上の練習中しんどいことなんてたくさんあるのだろう。
だからわざわざそんな質問をされたことにびっくりしてしまった。
「だって、テスト前になったとき美香いつもしんどそうな顔してるんだもん」
そんな自覚なかった。テスト前はプレッシャーと焦りで苦しいことなんてたくさんある。でもそんな自分の弱いところを見せるわけにはいかない。だから隠してきたつもりだった。なのに紗友里にバレていたなんて。
「本当は勉強苦しいんじゃない?どうして美香はそんなに頑張るの?それに、部活いつもギリギリなのって直前まで勉強してるからなんでしょ?」
図星だった。いつも朝は5時に起きて部活に間に合うギリギリまで勉強してから家を出る。それくらい私は勉強中心の生活を送っていた。
でも、本当は勉強なんてしたくない。みんなみたいに適度に勉強をして遊んでいたい。
将来なりたい職業なんて一つもなく、勉強しているのなんてただの自己満足。苦しくないわけがなかった。何度も何度も自分が勉強する理由を考えたけれど、結局はみんなに認めてもらって自分を納得させるための材料でしかないのだ。
でも、きっと私に勉強がなければもっと追い詰めてしまう。なのに、体と心は限界を迎えていた。毎日夜まで勉強してテスト前なんて五時間寝れるかどうか。
親には勉強なんてしなくていいと何度も言われたけれど、そんなことできるはずがなかった。だって、勉強をやめてしまったら私は誰からも褒められなくなってしまう。
よく、生きてるだけで偉いよと小説やドラマとかで言っていることがある。でも、生きてるだけで褒めてくれる人なんてそういない。みんながみんな生きていることにプラスしてなにか人より優れているところがあれば称賛する。
それが世界の基本。だから私は勉強して色んな人からの称賛を求めるしかないのだ。
じゃないと存在意義がなくなる。誰も私を見てくれなくなる。
「今日ちょっと一緒に帰ろう」
「…うん」
紗友里と一緒に帰るなんていつぶりだろう。家の方向は同じだったのだけれど、私は勉強のために走って帰ってしまったり、紗友里も自主練があったりなので一緒に帰れるタイミングがなかったのだ。
二人で何も喋らず並んで歩いた。学校の近くにある少し大きな公園が見えてくると紗友里がちょっとベンチに座ろうよと言ったので、一緒にベンチに座った。
しばらく公園で遊んでいる子供を眺めたあと、紗友里が口を開いた。
「あのさ、私ね幼稚園から水泳やっててね」
「え、そうなの?全然知らなかった」
私は紗友里とは中学生からの仲で陸上以前にやっていたことなど全然知らず、てっきりずっと前から陸上でもしていたのかと思っていた。
「親にやりなさいって言われて仕方なくやってたの。本当は走るほうが得意だったし、好きだった。でも、水泳じゃないとお母さんたちは喜んだり褒めたりしてくれないから必死に練習したの」
そうだったんだ。紗友里にもそんな過去があったんだ。部活でも好成績を収め、友達との関係も良好な紗友里にはなんの悩みもないように見える。
でも、どこか今の私と似ているところがあったのかもしれない。誰かに特に親にくらいは自分はすごい子なんだと言ってほしくてがむしゃらに自分が嫌なことでも頑張る。そういう経験を紗友里もしてきたということなんだろう。
「でも、やっぱりしんどくなっちゃって、水が怖くなるようになった。怖くなるのもしんどくて、もう死んでしまおうかと思う日もあったよ。だんだん泳げなくなって、親にも失望されて、もう何も失うものはないなって思った。それなら中学校では好きなことしようと思って陸上始めてみたの。そしたらさ、努力するのも楽しくて色んな人に褒めてもらえるようにもなって、すごく充実した日々を送れるようになったの」
あぁ、そうか。この子は私と同じように見えて全然違うんだ。紗友里は自分を縛り付けるものを自分から脱ぎ捨てた。そして自分の好きなものを見つけた。
本当にすごい。私にはできない。まだ、私の好きなことを見つけれないでいる。
称賛するようなことなのに羨ましいと暗い感情も抱いてしまう。だから私は相槌を打てずにいた。
「美香もあるんじゃない?好きなこと」
「…ないよ」
「きっとあると思うよ。昔やってて楽しかったことって何か考えてみて」
昔やってて楽しかったこと。なんだろう。思いつけず俯いていると紗友里が候補を出してくれた。
「ダンスとか絵を描くとか音楽とか料理とか」
あ、そうだ。私、お母さんと一緒に料理を作るのが好きだったんだ。お母さんのお手伝いとして毎日毎日一緒に調理していた。
卵焼きがうまく巻けなくて泣いてしまったのも今ではいい思い出だった。
なんで忘れていたんだろう。きっと私は視野が狭くなっていたのだと思う。勉強ばかりに目がいってしまって、本当の自分を見れないでいた。
思い出すとなんだか楽しくなってくる。私は料理がしたい。それが本音だった。
「紗友里、ありがとう。私したいこと見つかった」
「そっか、良かった。しんどいときは世界が狭く見えちゃうけど、案外世界って広いしいろんな選択肢があるからね。わからなくなったら、誰かに他の選択肢を聞いてみたらいいんだよ。それ聞かれて失望する人なんて大した人じゃないよ。それに私だって今失望したりしてないでしょ?思ったより人は他人の弱いところを突いたりしないよ」
そう言われてハッとした。わからなかったら誰かに聞いていいんだ。誰かを頼っていいんだ。それで誰かに失望されることもないんだ。失望されてもその人のことをちっぽけな人間って思っていいんだ。
「ありがとう。紗友里の友達で良かった。私を救ってくれて本当にありがとう」
いつのまにか目から涙がこぼれ落ちていた。
「大げさだよー」
「ううん。大げさじゃないよ。私このままなら死んじゃってたかも」
本当にそうだ。このままなら私はきっとこの世にいることすら辛くなっていなくなっていたのだろう。
「そっか。それくらい辛かったんだよね。お疲れ様」
こんなにあたたかいお疲れ様を言われたのは初めてだった。
「そろそろ帰ろうか」
紗友里の言葉を聞いて、腕で涙を脱ぐて立ち上がった。
ありがとう。今までの私。よく頑張ったよ。でも頑張り過ぎたかもね。もう休もうか。大丈夫だよ、きっとこれからの未来は明るい。だってこんなにいい友達がいて、こんな温かい言葉をもらったんだから。
もうひとりじゃないよ。
朝、学校の門を通って部室に向かう途中同じ部活仲間の紗友里と鉢合わせた。
紗友里は部活の中でも一番仲が良く、こうやって部活中や校内でも普通に話す仲だった。
「あはは。間に合ってるからセーフ」
私は笑みを作っていつもの調子で答える。紗友里と別れ、部室に入り部活用のシューズを取り、荷物を荷物置き場に置いた。するとちょうど、ミーティングが始まった。
今は夏休み中なため部活が朝から昼まである。普段通りの練習であれば休憩含めて三時間。たまに伸びることはあるけど基本は三時間だった。八時から十一時までの練習が基本だった。三時間と言っても真夏の朝や昼間なんて暑くて仕方なかった。
私達は陸上部で、私や紗友里は短距離走を主に練習している。
私は陸上部のエースとかではまったくなく、何ならその真逆の存在だった。かろうじて他の部活の子よりは足が速いものの、部活の中では下から数えたほうが早いほどだった。
それに比べ、紗友里はエースだった。調子がいいと市内大会で優勝してくるほどだった。それに私とは違って部活を楽しんでいるようでいつも生き生きして練習している。
私はと言うと、部活をやっていて楽しいとは思えなかった。陸上部に入ったのは運動音痴のせいで体育の成績が下がるのが嫌という理由からだった。結局体育の成績はそこまで上がっていないのだけれど。
顧問から自主練をやってみたらもっと伸びるよと言われているのだけれど、私にそんな余裕はなかった。
気づいたらミーティングが終わっていた。全然聞いていなかった。まあいつものことだけれど。
いつも顧問は同じことしか言わないので部員の中でもちゃんと聞いているのは部長くらいだった。
ミーティングが終わるとみんなでウォーミングアップとして少し走りその後は各々の課題や種目に合わせた練習をするようになる。
私も一応は練習中くらいは一生懸命やるようにしている。サボらず休憩も最小限にして走る。
でも、紗友里は私より真剣に取り組んでいるんだろうな。いや私以外みんなそうなのだろうな。部活で成績のいい子は決まって自主練をしている。紗友里も夏休み中ほとんど毎日十一時に一度家に帰ってご飯を食べて十三時くらいからまた練習していた。
改めて部活にそんなに熱心になれるってすごいことだなと考える。でもいい。私はそうじゃなくていい。部活に対しては全力じゃなくていい。練習中さえ頑張っていればそれでいいのだ。
そう強く思って自分のネガティブな考えを忘れるようにした。
部活を終え、玄関を開くとすぐにお母さんが気づいたのかリビングから声が聞こえた。
「おかえりー」
ただいまと答える元気もなくてそのまま靴を脱いでリビングに入った。
「お昼ご飯何にする?」
そんなに食べたくもない、時間もかけたくない。それに親に迷惑をかけるのも嫌だった。
「おにぎり一個でいい」
そう答えて、もっと食べなさいというお母さんの声を無視して二階にある自分の部屋に戻った。ドアを開くと何故か安心感を感じた。もうベッドで寝てしまおうかと思ったけれど、そんなことをするわけにはいけない。
部屋着に着替え、ノートとワークを開き、学校から配布されいてるパソコンのパスワードを入力する。そして、数学のデジタル教材開いてシャーペンを持って問題をとき始める。わからない問題があればデジタル教材で確認する。
これが私の勉強法だった。とにかく全問正解するまでワークを解き続ける。勉強は苦手なので何周してもケアレスミスなどで全問正解できないことも多く、そのたびに自分に嫌気が差していた。
中学二年生の夏休みだからといって気は抜けない。ここでくじけると三年生になったとき不利になる。
それに、私から勉強を取ったら何も残らない。ただの出来損ないになってしまう。別に部活で好成績を残せるわけじゃない。美術や音楽、技術家庭科、体育の実技で成績を取れるわけじゃない。特別友だちが多いとかリーダーシップがあるとかでもない。それなら勉強を全力で頑張るしかないじゃないか。
ワークを3ページほど進めたところでご飯に呼ばれた。リビングに降りるとおにぎりが何個も置いてあった。全部食べろと言うことなのだろう。でも私にそんな時間はなかった。おにぎりを一個だけ食べて階段を上がった。
「そんなんじゃ勉強に集中できないよ!」
お母さんは少し怒った口調でそう言ってきた。
そんなことわかっていた。でも、食べている時間をもったいないと感じてしまえばもっと集中できなくなってしまうのだ。
「うるさい」
お母さんに聞こえるか聞こえないかの声でそう呟いて自室に戻った。
開いたままのワークとノートに向き合いまた問題を解き始める。
夏休み明けにあるテストで絶対に今まで以上の点数を出したかった。課題の内容を主に出すテストなので課題さえちゃんとやっていれば、自己最高点数を出せるようなテストだった。みんなが気を抜いて大して勉強しないテスト。だからこそ高順位を狙えるのだ。
私はまだ学年一位というのを経験できないでいた。テスト前じゃなくとも部活をしながら一日三時間勉強してテスト前は平日なら五時間、休日は八時間から十二時間勉強しても学年一位を取ることはできなかった。
学年一位の子の勉強時間を聞いたことがあったのだけれど私より遥かに少なかった。
要するに私は人より要領が悪い。私の学校の二年生でこんなに勉強に必死になっている人はいないのだろう。私はどれだけ頑張っても学年順位一桁が限界だった。悔しくて悲しくてもう勉強なんてやめてしまおうかなんて思うこともあった。学年順位二桁を取ったときはもう私なんていらないのかもしれないと思うことまであった。
でもそんなことできるはずもなく、今も勉強を続けているわけだ。
ふと時計を確認すると昼の二時を指していた。そろそろ家を出ようと思ってワークやらノートやら教科書やらパソコンやらをリュックサックに詰めてそれを背負って玄関に向かう。
「塾行ってくる」
「わかったわ。はい、これお弁当。気をつけていくのよ」
お母さんからお弁当を受け取り、今回はちゃんと笑顔でありがとうと言って家を出た。塾の授業は十七時から二十一時まであるので、塾の授業が始まるまで自習室で勉強して塾の授業が終われば一時間また自習室で勉強してから家に帰る。夏休み中は予定がなければだいたいそういう生活を送っていた。
塾に着くとエントランスで自習室利用者名簿に名前を書き二階にある自習室へ向かった。
自習室の席は半分くらいが埋まっていた。
私は空いていればいつも窓側の角の席に座るようにしている。理由はあまり気を使わなくていいから。というのも、両サイドに人がいるとどちらにも気を使わければいけなくなるけど、角の席だと隣は一人なのでまだマシなのだ。まあ実際そんな変わらないので気分的な問題だった。
隣の席とは仕切りがあるとはいえど、どうしても気を使わなければいけない。最大限に勉強に集中したいのでなるべく角の席を取るようにしている。
次は理科のワークとノートを開き解き始める。どちらかというと苦手科目なので時間をかけなければならない。ワークと向き合い黙々と問題を解いた。
塾の授業が終わり、一時間の自習も終わったので、家に帰りお風呂に入った。部屋に戻り、スマホを開く。友達の投稿を確認していく。そこで部活友達の投稿を見つけた。部活の女子で集まって遊びに行ったようで私以外の殆どの部員がいた。
「…私これ誘われてない」
もしかしてハブられてる?なんで私はいつもこうなの。なんで何もうまくいかないの。
別に部活中いろんな子と話すし、嫌がらせを受けているわけでもない。それでも誘われてないというのはこの部活で私は必要ないということなのだろう。
そう思うと途端に涙が溢れてきた。誰かに認めてほしくて勉強を頑張ってきた。なのにどうして周りの人は私から離れていくのだろう。
私は一体何のために頑張ってきたのだろう。何を求めて頑張ってきたのだろう。
でも、ここで勉強をやめてしまえばもっと見放されてしまう。お母さんもお父さんも友達ももっと私を見てくれなくなる。
誰からも「頑張ったね。すごいね。偉いね」って言ってもらえなくなってしまう。そんなのハブられるよりもっと嫌だった。誰か一人でもそう言ってくれる人がいてくれると信じて私はがむしゃらに頑張るしかないのだ。
塾の先生から君なら市内トップ校を目指せると言われていた。本当に行けるなら行きたい。誰かにすごいと言われる存在でいたかった。じゃないと私にはなんの価値もないのだから。
その高校に行けたら高校の名前を出すだけで褒めてもらえる。それに大学受験でも有利になる。
だから私は勉強を続けなければいけない。どれだけ辛くても苦しくても。勉強は私の存在意義になっていた。
そういう考え方が自分を苦しめ縛り付けているというのはどこかで気づいていた。でも、私の生きる希望にもなっているのも事実だった。
私はきっと一生勉強に助けられ苦しめられて生きていくしかないのだろうと思っていた。
「みんなで遊びに行ってたんだよね。楽しかった?」
次の日部活に行ってSNSに投稿していた子にしれっと聞いてみることにした。
「そうそう!楽しかったよ。でも、ごめんね。美香ちゃん勉強で忙しそうだったから誘うのも悪いかなと思って誘わなかったの」
この子が嘘をついている雰囲気はなかった。本当に気を使って誘わないでいてくれたのだろう。
でも、私は行きたかったな。私だって息抜きにみんなと遊びたい。誘われたらいくらでも時間作ったのに。
いや、これは私のわがままだな。自分から友達を誘ったりとかしないくせに、遊びたいなん言っちゃだめだ。
それに行けなかったのは勉強ばかりしている自分のせいでもあるのだから。
「全然気にしないで。気遣ってくれてありがとう」
さっきより笑顔で答えると相手の子は安心したように笑い、練習に戻った。
そこから抜け殻のように練習するようになった。なんだか、誰かにお前は遊ぶことすら許されないと言われているような気がした。
気遣ってくれる気持ちは嬉しいのだけれど、その気遣いが痛かった。
遊びに行きたかったっていうのもあったけれど、私もみんなと同じ時間を過ごしたかった。
勉強ばかりじゃなくて普通の中学生でいたかった。でも私にはそんなことは許されない。他の子にはそれぞれの長所がある。足が速い、絵がうまい、笑顔が可愛い、みんなをまとめられる、私はどれも持ち合わせていない。だから勉強を頑張るしかない。
誰かに言われたわけでもなく、親に怒られたからでもなくただ単に自分で自分の首を絞めているだけだった。
そんな気持ちを紛らわすため、お盆休みで部活がない日も部活がある日も部活が終わったら勉強しかしなかった。
夏休み明けのテストを迎え、緊張しつつもほとんどの問題が自信があったので案外すんなりと終わった。
結果は学年一位。嬉しかった。やっと自分の努力が報われたような気がした。
「え、美香!すごい!!」
終礼が終わり、教室から出ようとすると紗友里にテストの結果を聞かれたので小さな声で答えると両手を顔の前で合わせて褒めてくれた。
ああ、私はこのときのために勉強を頑張ってきたんだ。きっと家に帰ればお母さんも褒めてくれるだろう。夜にはお父さんも帰ってきて喜んでくれるだろう。おじいちゃんやおばあちゃんにも報告したい。
やっとだ。やっと一番になれた。小さな箱の中の一番でしかないけれど、一番は一番だった。
でも嬉しさよりも安心感が強かった。一位を取れたという安心感。あんなに勉強したんだから一位を取れてよかった。
「美香、でもそれってしんどくない?」
紗友里が真剣な顔で尋ねてきた。
「え?」
言われている意味がわからなかった。一位を取ってしんどいはずがない。今はしんどくない。過程がしんどいなんて全てにおいて言えることだし、きっと紗友里だって陸上の練習中しんどいことなんてたくさんあるのだろう。
だからわざわざそんな質問をされたことにびっくりしてしまった。
「だって、テスト前になったとき美香いつもしんどそうな顔してるんだもん」
そんな自覚なかった。テスト前はプレッシャーと焦りで苦しいことなんてたくさんある。でもそんな自分の弱いところを見せるわけにはいかない。だから隠してきたつもりだった。なのに紗友里にバレていたなんて。
「本当は勉強苦しいんじゃない?どうして美香はそんなに頑張るの?それに、部活いつもギリギリなのって直前まで勉強してるからなんでしょ?」
図星だった。いつも朝は5時に起きて部活に間に合うギリギリまで勉強してから家を出る。それくらい私は勉強中心の生活を送っていた。
でも、本当は勉強なんてしたくない。みんなみたいに適度に勉強をして遊んでいたい。
将来なりたい職業なんて一つもなく、勉強しているのなんてただの自己満足。苦しくないわけがなかった。何度も何度も自分が勉強する理由を考えたけれど、結局はみんなに認めてもらって自分を納得させるための材料でしかないのだ。
でも、きっと私に勉強がなければもっと追い詰めてしまう。なのに、体と心は限界を迎えていた。毎日夜まで勉強してテスト前なんて五時間寝れるかどうか。
親には勉強なんてしなくていいと何度も言われたけれど、そんなことできるはずがなかった。だって、勉強をやめてしまったら私は誰からも褒められなくなってしまう。
よく、生きてるだけで偉いよと小説やドラマとかで言っていることがある。でも、生きてるだけで褒めてくれる人なんてそういない。みんながみんな生きていることにプラスしてなにか人より優れているところがあれば称賛する。
それが世界の基本。だから私は勉強して色んな人からの称賛を求めるしかないのだ。
じゃないと存在意義がなくなる。誰も私を見てくれなくなる。
「今日ちょっと一緒に帰ろう」
「…うん」
紗友里と一緒に帰るなんていつぶりだろう。家の方向は同じだったのだけれど、私は勉強のために走って帰ってしまったり、紗友里も自主練があったりなので一緒に帰れるタイミングがなかったのだ。
二人で何も喋らず並んで歩いた。学校の近くにある少し大きな公園が見えてくると紗友里がちょっとベンチに座ろうよと言ったので、一緒にベンチに座った。
しばらく公園で遊んでいる子供を眺めたあと、紗友里が口を開いた。
「あのさ、私ね幼稚園から水泳やっててね」
「え、そうなの?全然知らなかった」
私は紗友里とは中学生からの仲で陸上以前にやっていたことなど全然知らず、てっきりずっと前から陸上でもしていたのかと思っていた。
「親にやりなさいって言われて仕方なくやってたの。本当は走るほうが得意だったし、好きだった。でも、水泳じゃないとお母さんたちは喜んだり褒めたりしてくれないから必死に練習したの」
そうだったんだ。紗友里にもそんな過去があったんだ。部活でも好成績を収め、友達との関係も良好な紗友里にはなんの悩みもないように見える。
でも、どこか今の私と似ているところがあったのかもしれない。誰かに特に親にくらいは自分はすごい子なんだと言ってほしくてがむしゃらに自分が嫌なことでも頑張る。そういう経験を紗友里もしてきたということなんだろう。
「でも、やっぱりしんどくなっちゃって、水が怖くなるようになった。怖くなるのもしんどくて、もう死んでしまおうかと思う日もあったよ。だんだん泳げなくなって、親にも失望されて、もう何も失うものはないなって思った。それなら中学校では好きなことしようと思って陸上始めてみたの。そしたらさ、努力するのも楽しくて色んな人に褒めてもらえるようにもなって、すごく充実した日々を送れるようになったの」
あぁ、そうか。この子は私と同じように見えて全然違うんだ。紗友里は自分を縛り付けるものを自分から脱ぎ捨てた。そして自分の好きなものを見つけた。
本当にすごい。私にはできない。まだ、私の好きなことを見つけれないでいる。
称賛するようなことなのに羨ましいと暗い感情も抱いてしまう。だから私は相槌を打てずにいた。
「美香もあるんじゃない?好きなこと」
「…ないよ」
「きっとあると思うよ。昔やってて楽しかったことって何か考えてみて」
昔やってて楽しかったこと。なんだろう。思いつけず俯いていると紗友里が候補を出してくれた。
「ダンスとか絵を描くとか音楽とか料理とか」
あ、そうだ。私、お母さんと一緒に料理を作るのが好きだったんだ。お母さんのお手伝いとして毎日毎日一緒に調理していた。
卵焼きがうまく巻けなくて泣いてしまったのも今ではいい思い出だった。
なんで忘れていたんだろう。きっと私は視野が狭くなっていたのだと思う。勉強ばかりに目がいってしまって、本当の自分を見れないでいた。
思い出すとなんだか楽しくなってくる。私は料理がしたい。それが本音だった。
「紗友里、ありがとう。私したいこと見つかった」
「そっか、良かった。しんどいときは世界が狭く見えちゃうけど、案外世界って広いしいろんな選択肢があるからね。わからなくなったら、誰かに他の選択肢を聞いてみたらいいんだよ。それ聞かれて失望する人なんて大した人じゃないよ。それに私だって今失望したりしてないでしょ?思ったより人は他人の弱いところを突いたりしないよ」
そう言われてハッとした。わからなかったら誰かに聞いていいんだ。誰かを頼っていいんだ。それで誰かに失望されることもないんだ。失望されてもその人のことをちっぽけな人間って思っていいんだ。
「ありがとう。紗友里の友達で良かった。私を救ってくれて本当にありがとう」
いつのまにか目から涙がこぼれ落ちていた。
「大げさだよー」
「ううん。大げさじゃないよ。私このままなら死んじゃってたかも」
本当にそうだ。このままなら私はきっとこの世にいることすら辛くなっていなくなっていたのだろう。
「そっか。それくらい辛かったんだよね。お疲れ様」
こんなにあたたかいお疲れ様を言われたのは初めてだった。
「そろそろ帰ろうか」
紗友里の言葉を聞いて、腕で涙を脱ぐて立ち上がった。
ありがとう。今までの私。よく頑張ったよ。でも頑張り過ぎたかもね。もう休もうか。大丈夫だよ、きっとこれからの未来は明るい。だってこんなにいい友達がいて、こんな温かい言葉をもらったんだから。
もうひとりじゃないよ。
