俺はノートを閉じると律と一階に下りた。
一階は物音一つ聞こえなかった。リビングに顔を出すと両親の姿はなく、テーブルに朝食だけが寂しく一人でいた。食パン一枚に色とりどりのサラダ。コンソメスープにヨーグルト。見事なまでの洋食だ。隣にはメモ帳から破いて書いたであろう手紙があった。
『お父さんもお母さんも仕事に行ってきます。今日も暑いみたいだから水分補給をちゃんとしてね。 お母さんより』
手紙を読み、大きな欠伸をすると洗面台に行き顔を洗う。ついでに歯磨きもした。鏡に映る自分の寝癖に笑う。今度からちゃんとワックスを落として寝よう。
「ご飯食べないの? 美味しそう」
「んー。食欲ないからスープだけ飲む。それにもうすぐ昼だし」
ペッ、と口の中の泡立った歯磨き粉を吐き出しうがいをする。髪に冷たい何かを感じ、鏡を見る。律が俺の寝癖を触っていた。触っていたといっても、律自身からも何かに触れる事は出来ないらしく、スカッ、スカッと手は空を切っていた。
「・・・・・・俺を押し倒したくせに髪には触れられないのな」
「⁉ お、押し倒してないし! 上に乗っただけ!」
「どっちも変わらねぇだろ。大胆な律くん」
律は揶揄うとすぐ顔を真っ赤にして慌てるもんだから、見ていて面白いし余計に揶揄いたくなる。
「俺に一体何をしようとしたんだか・・・・・・。エロいこと?」
「違う違う違う!」
また大きく首を左右に振る。俺は制止をかけやめさせる。それ、首がもげそうだから見てて怖いんだよな。
物には触れられない。けど、ベッドに横たわる事も椅子に座る事も出来る。定義が全くもって分からない。取りあえず今はシャワーを浴びよう。汗はかいたし、髪はワックスでベタベタ。今の俺は、律のサラサラヘアとサボンの良い匂いとはなにもかもが正反対だ。
俺はTシャツを脱ぐ。Tシャツと一緒に持ってきた枕カバーも洗濯機に放り込むと律がいない事に気付いた。何処に行ったのかと洗面所から顔を出すと昭和ならではの先生に怒られ廊下に立たされている生徒ような律がいた。
「なんでそんな所にいる・・・・・・あっ、分かった! お前、俺の裸を見るの恥ずかしいんだろ。一緒にシャワー浴びるか?」
いちいち顔を真っ赤にするから楽しくて止めたくても止められない。俺はハーフパンツを脱ぐ。日々、筋トレに励んでいる俺は身体には自信があった。ボディービルダーのようにポーズを取る。
「俺、結構筋肉ついてると思わねぇ?」
「知らない!」
そっぽを向いているんだ。そりゃあ分からないだろうな。俺は意地悪く口角を上げる。
律の目の前に行き、腰に手をあてる。
「ほら、シックスパックに割れてる。凄いだろ?」
腹筋は特に自信がある。見せびらかしたいのもあり、ドヤ顔で見せつける。律は腕を組み、そっぽを向いてるもをチラチラと俺の腹筋を見ている。
「ま、まぁ。凄いんじゃない?」
ツンデレのような態度に思わず噴き出す。
「左様ですか。ならリストに付けくわえておこうぜ。『海斗と風呂に入る』ってさ」
「絶対嫌だ!」
律は俺を叩こうと手を高々と上げ、勢いをつけて下ろす。が、もちろん当たらない。分かっていても反射で避けてしまう。朝から面白くて、楽しくて、堪らない。まるで気の合う友達か兄弟が出来たみたいだった。
「あー、さっぱりした。律も入りゃ良かったのに」
俺はバスタオルで頭をガシガシと拭き、律を見やる。関係ないが俺は髪は基本自然乾燥だ。
「幽霊にお風呂は必要ありません」
ダイニングテーブルの椅子に座る律は、姿勢が良かった。そういえば病院のベッドでも姿勢良く座ってたなと昨日の記憶を掘り起こす。育ちが良いのかもしれない。俺は席に触るとコンソメスープが入っているカップに口をつける。
「温めなおさないの?」
「面倒くさい」
「海斗って意外と面倒臭がり屋なんだね。温めた方が絶対美味しいのに」
「まぁな~。それにこの後パンケーキ食いに行くし」
「えっ⁉ さっそく『やりたい事リスト』実行してくれるの⁉」
律は椅子から立ち上がり、大きな目を輝かせて俺の顔を見つめる。
「家から歩いて二十分くらいの所にこぢんまりした喫茶店があるんだよ。そこに行こうかなって」
「なんて店?」
店名を訊かれ俺は口をあんぐりと開け停止した。高校に行く道にある喫茶店だが、いつもチラ見もせず自転車で通り過ぎてしまうくらいだから名前が思い出せない。
「えーっと、ハがついた気がする。ハ、ハ、ハー・・・・・・あ! 『ハイル』だ!」
律は「へぇー・・・・・・」と息が漏らすような声を出した。反応からして本人も知らないのだろう。
「そういえば、何処住み?」
空になったカップとラップで包まれたサラダの入った皿、食パンを持ちキッチンに行く。
「心明町下山天神」
「隣じゃん」
心明町の中には上山天神と下山天神という場所がある。他にもいくつかあるが心明町で有名なのはこの二つだ。他の町民に名前を言えば「あー、あそこね!」と認識してもられるくらいには有名だ。俺が知る限り、特に卓越した物はないので何故そこまで名が知れているのかは分からない。ちなみに俺が通っている心明高校は俺の住む上山天神にある。
「じゃあ、行くか」
俺は腰に手を当て律を見る。窓から差し込んだ光が律を照らし、中性的な美しい顔をより一層際立てた。
外に出ると日差しが肌をジリジリと焼く感覚に襲われる。今日も今日とて三十五度越えだ。もうそれが当たり前になりつつある。キャップを被ってきて正解だったなと心中頷く。
律の様子を伺うと涼しげな顔をしていた。触ったら冷たいし、幽霊は暑さを感じないのだろうか。
「異常だわ、この暑さ・・・・・・」
少し歩いただけで額から汗が滲み出てくる。夏は汗を大量にかくからシャワーを浴びても爽快感は一時的だ。
念のため、冷えたスポーツドリンクを持ってきたが、この冷たさもいつまで保つのやら。自転車に乗ってくれば良かった。
歩いていると反対側の歩道に立っている電柱に何かが見えた。見えたというより、見えた気がした。俺は立ち止まり、その電柱・・・・・・というより電柱の前に置かれている『事故多発 注意!』という看板に目が釘付けになる。看板の下には枯れた花束と複数の缶ジュースやペットボトルが置かれている。
そういえばここの十字路、道が狭いから事故が多いんだよな。確か最近もあった気がする。二十代の女性が右折してきた車と衝突して頭を強く打ち亡くなったとか。歩道が狭いから車は特に曲がる時、減速しなければいけなのだが相手の車は減速せず曲がり、角を曲がってきた女性と衝突して頭を強く打ち、亡くなった―――。俺は何故か凄く悲しい気持ちになった。二十代なんて十代の俺が言うのもあれだが、まだまだ若い。これからって時に・・・・・・。
「海斗」
ハッと気付くと律が俺の顔を至近距離で見ていた。俺は「あ、あぁ、わりぃ。ボーッとしてたわ」と、持っていたスポーツドリンクを一口口に含むと軽く首を振り再び歩き出す。きっとこの暑さのせいだな。
「海斗。あそこは見ない方が良いと思うよ」
「なんで?」
「見たら駄目。・・・・・・海斗のためだから」
「・・・・・・?」
何か言いたそうだったが言葉を飲み込んだのが分かった。胸に引っ掛かりが残るも聞き返えさない方が賢明な気がして、大人しく「分かった」とだけ返事をした。俺はもう一度振り返り、看板を見た。不思議と律が言った通り見ない方が良い気がして視線を戻した。
店が見えると日差しから逃げるように足早で店内に駆け込んだ。中は冷房が効いていて凄く涼しい。
「いらっしゃいませ。一名様でしょうか?」
「ふたぁ・・・・・・一人です」
髪を一つに纏めた女性店員が待ってましたと言わんばかりの笑顔で傍に来た。何名か訊かれ、俺は「二人です」と言いそうになり、内心慌てつつも冷静に「一人です」と言い直した。初めて入ったハリスは夏休みもあってか、人が多かった。ほとんどが二人組か三人組で、見た感じカップルが多い。律はいつの間にか店の奥側にポツンとある席の前に立っていた。
「ここ! ここ空いてる!」
手をブンブンと振る律を尻目に「あそこの席でも良いですか?」と訊いた。店員は席を見ると笑顔で「いいですよ」と了承し、席に案内してくれた。
「ご注文がお決まりになりましたら、そちらのタブレットからご注文をお願いします」
いつの間に用意したのか木製のテーブルの上に水が入ったコップを置かれていた。
「ありがとうございます」
「失礼いたします。ごゆっくりどうぞ」
店員が去ると俺はコップを口に付け、辺りを伺う。
やっぱり客の大半はカップルが占めている。一人で来ている人は見た限り俺を含め四人程度・・・・・・少ない。俺は気まずさにタブレットを取る。
「今はどこもタブレット注文だね。美味しそうなのある?」
「うーん・・・・・・」
こういう女子が好きそうな物には疎い。チョコかイチゴかブルーベリーか。ただそれだけの違いにしか見えない。俺はタブレットを置き、メニュー表を取るとデザート一覧のページを開いた。写真付きで有り難いがどれもボリューミーだ。パン生地は厚いし、どのパンケーキにも律ご所望の生クリームがたっぷりと乗っかっている。見ているだけで胃もたれしそうだ。
「あ、これ食べたい!」
メニュー表を指差す先には『生クリームもりもりチョコバナナパンケーキ』と書いてあった。これを俺が一人で食べるのか?
甘い物は嫌いじゃないが進んで食べたいとは思わない。が、律のやりたい事が叶うならと俺はタブレットから生クリームもりもりチョコバナナパンケーキとアイスコーヒーを注文するとタブレットを定位置に戻す。
「ありがとう海斗」
「おー」
外で律と会話するときは特に細心の注意が必要だ。周りの人には律が見えないから普通の声量で喋ったら俺が一人で喋っていることになる。変な目で見られるのはごめんだ。
「こちらアイスコーヒーになります」
いち早く運ばれてきたアイスコーヒーにストローをさすと一気に吸う。ほろ苦くて、冷たくて、熱を帯びた体内が冷やされていく感じがまた良かった。そんな俺を律は対面の席で頬杖をついて微笑ましそうに見ていた。細められた目はまるで母親が小さな子供を見るような・・・・・・恋人を愛おしそうに見つめるような・・・・・・そんな優しい目をしていた。
「結局、海斗は俺に一目惚れしたの?」
―――ゴフッ! 流したはずの質問を唐突に蒸し返され、気道に入ったアイスコーヒーで激しく噎せる。周りの客の視線が痛いほどに刺さった。
「ゴホッ! ゲホッ! っ・・・・・・・・・・・・か、可愛いとは思う。綺麗だし」
口許を紙ナプキンで拭き、周りをこっそり伺いながら声を潜めて喋る。
「えっ。格好いいじゃなくて?」
「いや、可愛いと綺麗が勝ってるな。誰似?」
「周りからは母さんに似てるってよく言われるけど・・・・・・」
「なら、お前の母ちゃんも綺麗なんだろうな」
カラカラとストローで氷を弄ぶ。律似のお母さん。ちょっと見てみたいな。
「お待たせしました。こちら生クリームもりもりチョコバナナパンケーキです」
直前まで店員の存在に気付かなかった俺は思わず「うぉっ!」と声が出てしまった。店員はパンケーキの大きさに驚き、声を出したと勘違いしたようで「大きいですよね~」と笑っていた。実際、パンケーキは大きかった。パンは二重に重ねられていたが一つがとても厚い。上にはソフトクリームのように大量の生クリームが高々と渦を巻き、天辺にはミントの葉が乗っていた。しかもそれでは飽き足らず網掛け状にチョコソースがかけられている。端っこに沢山のバナナも添えられて・・・・・・。
俺、今からコレを一人で食うの? この異様にデカいのを?
高校生男子の胃袋は最強だと思う。けどこれは見ただけでお腹がいっぱいになりそうだった。俺は手を伸ばし紙ナプキンの上に置かれたフォークとナイフを手に取る。目の前いる律に無駄だと分かっていても助けを求める視線を投げかける。と、・・・・・・口を大きく開けて待機していた。
「・・・・・・いや、お前食えねぇじゃん」
「あっ」
そうだったとでも言いたそうな顔をすると口を真一文字に閉じる。俺は小さく笑いミントの葉を皿の端に避け、生クリームを掬い、口に運ぶ。うん、普通の生クリームだ。だけどここは大袈裟に表現してやろう。
「うっまぁー。こんな甘い生クリーム初めて食べたわ」
俺は口に次々と生クリームを運び、リポーターにでもなった気分で何回も頷き、口に広がる甘さを噛みしめた。
「・・・・・・・・・・・・海斗って演技下手だね」
「あ?」
グッと眉間に皺が寄る。ニコニコと楽しそうに俺を見つめる律に眼を飛ばした。
