紡がれる力 ―霊を宿す少年―

***
「……何はともあれ、上手い具合にコトが進んで一安心だよ。はあぁ……」

 二日間続いた学祭が、ようやく終わった。片付けは自分たちでやるから、とクラスメイトに外へ追い出された俺は、校舎の壁にもたれてぼんやりしていた。校庭では、まだあちこちで生徒が忙しく動き回っている。

 俺は邪魔にならない場所から、その様子を眺めていた。

「あ、メガネかけてくるの忘れた」

 俺に気を留める生徒はいないだろうし、これだけ騒がしければ霊だってどこかに隠れてるだろう。

 そう思って、その場を離れようとしたときだった。

「ううっ……なんだ?」

 背筋に妙な寒気が走り、思わず足が止まる。周囲は相変わらず賑やかだった。笑い声も聞こえるし、特に変わった様子はない。なのに胸の奥が妙にざわつくせいで、どうにも嫌な感じが拭えない。この感じは霊がいるときの空気に、よく似ている。

 俺は、ゆっくりと視線を巡らせた。するとある一点だけ、空気が重く沈んでいるのを感じた。

「あっちの方角にあるのは……弓道部の部室のあたりか?」

 その奥、校庭の隅に立っている大きなイチョウの木から、濃いエネルギーが漏れている。まるで、何かが押し込められているみたいだった。明らかに、普通の霊気とは少し違っている。無駄に重くて、ねっとりしていて妙に濃い。

「これ……気のせい、じゃないよな」

 俺は小さく呟いた。正直、関わりたくない。でも放っておくのも後味が悪い。

 ため息をつきながら歩き出した。近づくにつれて、空気がどんどん重くなる。胸の奥が圧迫されていくように。

「……うわ、これ絶対にヤバいやつじゃないか?」

 思わず足が鈍る。だけど、そのときだった。

『お前がほしい……』

 男の声が、耳の奥に直接響いた。

『……こっちに来い』
「……いやいやいや!」

 思わずツッコミが出る。

「男に欲しがられても、すっげぇ困るんですけど」

 ――って言ってる場合じゃない。俺は周囲を見回しながら、霊の気配を探る。すると、やっぱりイチョウの木のあたりから、強い霊気が溢れているのを感じた。

『こっちだ……僕を……解放してくれ』

(――解放? これって、地縛霊の類かもしれないな)

 もしそうなら、俺の力だけでどうにかできるとは限らない。下手をすれば、母さんを呼ばないといけない案件だ。

「あーあ、ちゃんとした力さえあればなぁ……」

 呑気な感じで悔しさを呟きつつ、木のそばまで歩いて行く。そのとき風もないのに、木がギリ、と嫌な音を立てた。

「……どなたか、いらっしゃいますか?」

 自分でも変な声の掛け方だと思う。霊との正しいコンタクト方法なんて、正直まだよく分かっていない。

 強い霊気を感じながら、ゆっくりと木へ近づいた。そして、思わず息を呑む。そこにいたのは、同じ制服を着た男子生徒が、真っ赤な鎖で木の中央に縛りつけられていた。

 男子生の背は、俺より頭一つ分ほど高く見える。少し長めの黒髪が、風もないのにゆっくりと揺れていた。整った顔立ちなのに、口元にはどこか余裕めいた笑みが浮かんでいた。

 ――だけどその体には、真っ赤な鎖が幾重にも巻き付いている。

「……なんだよ、それ」

 思わず声が漏れる。鎖は普通の鉄の色じゃない。血を煮詰めたみたいな、どす黒い赤。しかも、太さも異様だった。手首ほどある鎖が、男子生徒の体に何重にも絡みつき、胸、腕、脚、首元にまで食い込んでいる。ただ巻き付いているだけじゃない。鎖の一部が、体の中に沈み込んでいる。まるで肉を貫いて、骨に引っ掛けているみたいに。

 見ているだけで、背筋が寒くなる。

 さらに近づくと、鎖はイチョウの木へと繋がっていた。幹の中に、まるで釘のように打ち込まれている。その周囲だけ、木の表面が黒く焼け焦げたみたいに変色していた。

 封印――そんな言葉が頭に浮かぶ。絶対に逃がさない、絶対に外に出さない。そんな意志が、鎖そのものから伝わってくる気がした。

 そのとき男子生徒が、ゆっくりと顔を上げた。黒い瞳と目が合う。光を吸い込んでしまうみたいな、不思議な目だった。

(やあ! 来てくれて嬉しいよ)
「うわ……」

 普通に喋った。しかも、妙に明るいせいで、違和感がすごい。

 俺が鎖をじっと見ていると、男子生徒は楽しそうに笑い出した。

(君、すごい力を持っているね)

 そして言う。

(その力で、この鎖を断ち切ってほしい)
「……いきなり言うなよ」

 俺は恐るおそる鎖を見上げた。近くで見ると、ますます普通じゃない。赤い鎖は、まるで生き物みたいに微かに脈打っている。表面には黒い染みのようなものが浮かび、どろりと滲んでは消えていく。

 こんなの、どう見てもヤバいやつだ。

「……これ、本当に触って大丈夫なやつ?」
(さあね)

 男子生徒は、どこか楽しそうに肩をすくめた。

(試してみれば分かるよ)
「軽く言うなよ……」

 俺はため息をつきながら、そっと手を伸ばした。鎖に触れる寸前――ぞわっとして、その場の空気が震えた。

「……え?」

 次の瞬間、鎖がわずかに動いた。ギ……ッ、と。硬い金属が擦れるような、不快な音が響く。

「……今、動いた?」

 思わず手を引っ込める。だけど、鎖はまた微かに震えた。まるで、俺の手を追うみたいに。

(へぇ)

 男が小さく笑った。

(やっぱりね)
「やっぱりって?」
(その鎖、普通の封印じゃないんだ)

 俺は眉をひそめた。

「……どういう意味だよ」
(魂を縛る鎖なんだよ)

 軽い口調で、さらっと言う。

(力を持つ者にしか、この鎖には触れない)

 この時点で、嫌な予感がした。

「つまり……?」
(君だから反応した)

 男子生徒は楽しそうに続けた。

(他の人間が触っても、ただの見えない鎖さ)

 背中に冷たいものが走る。

「……それ、俺に触らせる前に言えよ」
(言ったら触らないだろ)
「当たり前だろ!」

 思わず声が大きくなる。すると鎖がまたギリ、と鳴った。さっきよりもはっきりと、赤い鎖がゆっくりと軋む。まるで長い眠りから覚めたみたいに。

(この反応、実に面白いな)

 楽しそうに男子生徒が呟く。

(まるで君に触れられるのを、この鎖が待ってたみたいだ)
「やめろよ……怖いことを言うなって」

 でも――俺にも分かっていた。鎖の奥から、何かが伝わってくる。怒りとも殺意とも違う。もっと重い、何か。長い間、封じられていたものの気配。

「……くそ」

 俺はもう一度だけ手を伸ばし、思いきって鎖に触れる。今度は、はっきり感じた。冷たくも熱くもない。だけど、妙に重い。触れた瞬間――鎖が強く震えた。

 ギィン、と鋭い音が鳴る。

「うわっ!?」
(ははっ)

 男子生徒が嬉しそうに笑った。

(やっぱり君だ)
「何がだよ!」
(この封印を壊せるのは)

 黒い瞳が、楽しそうに細くなる。

(君だけだ)

 俺は一歩後ずさった。

「……あんた、何者なんだよ」

 男子生徒は一瞬だけ黙り、それから軽く肩をすくめた。

(ああ、まだ名乗ってなかったね)

 そして、にこっと笑う。

(僕の名前は、風見博仁)

 赤い鎖に縛られたまま、まるで初対面の挨拶でもするみたいに言った。

(ちなみに――)

 鎖を軽く鳴らしながら続ける。

(見ての通り、現在封印中の幽霊だよ)
「そんなの、見れば分かるよ!」

 思わずツッコミが出た。

「封印中の幽霊が、なんでそんな軽いノリなんだよ!」

 博仁はくすっと笑った。

(だって深刻な顔しても、鎖が外れるわけじゃないだろ)

 まるで、世間話でもするような口調だった。

(それより――)

 黒い瞳がまっすぐ俺を見る。

(君の名前は?)

 幽霊が自分から名乗った。正直、初めてだった。だからこそ、警戒心が一気に上がる。

「……三神優斗」

 名乗りながら、俺は鎖を見上げた。

「で、その風見さんが――」

 言いながら、赤い鎖を指差す。

「なんで、こんな禍々しい鎖で縛られてるわけ?」

 博仁は一瞬だけ鎖を見下ろし、それから楽しそうに笑った。

(それを知りたいなら)

 鎖が、また小さく軋む。

(まずは解いてくれないかな)
「……いやいや」

 俺は即座に首を振った。

「無理」
(え)
「どう見てもヤバいやつだろ、その鎖」

 指差すと赤い鎖はまるで反応するみたいに、かすかにギリ、と鳴った。

「こんなの解いたら、絶対あとで面倒なことになる」
(ひどいな)

 博仁は肩をすくめる。

(人を危険人物みたいに言って)
「だって、この状況で信用しろって方が無理だろ」

 俺は腕を組んだ。

「第一、あんた本当に幽霊なのか?」
(それも疑う?)
「疑うに決まってる!」

 こんな幽霊、見たことがない。普通の霊は、もっとぼんやりしている。未練とか悲しみとか、そういうものが滲んでいるんだ。でも、この男子生徒は違う。封印中だというのに、妙に落ち着いている。それどころか、楽しんでいるみたいな感じに見てとれた。

「……なんで、そんなに余裕があるんだよ」

 俺が言うと、博仁は少しだけ目を細めた。

(君が来たからだよ)
「は?」
(さっきも言っただろ)

 体を揺すって、鎖を軽く鳴らす。

(この封印を壊せるのは、君だけだって)
「だからって……」

 俺は仕方なく鎖を見上げる。赤い鎖は相変わらず、男子生徒の体に深く食い込んでいる。普通なら、もっと苦しんでいるはずだ。

「こんなにがんじ絡めなのに……痛くないのか?」

 そんなことを訊ねると、博仁は一瞬だけ黙った。それから、ふっと笑う。

(最初はね)

 さらっと言う。

(でも、もう慣れた)

 軽い口調だった。なのに――その一言が妙に重く聞こえた。

 俺は少しだけ視線を逸らす。

「……どれくらい」
(ん?)
「どれくらい、ここにいるんだよ」

 博仁は空を見上げた。校庭の向こうでは、まだ文化祭の後片付けをしている声が聞こえる。笑い声も、運ぶ音も、全部遠い。

(さあ)

 そして言う。

(数えてないな)
「……」
(でも)

 黒い瞳が、また俺を見た。

(長かったのは、確かだ)

 その言葉のあと、赤い鎖がまた小さく鳴った。ギリ、と。まるで何かを思い出したみたいに。

 俺は無意識に手を伸ばしていた。鎖に、そっと触れた次の瞬間――ギィンッ!

 鎖が強く震えた。

「うわっ!」

 思わず手を引っ込める。赤い鎖が、さっきよりもはっきり動いた。まるで、喜んでいるみたいに。

(ほら)

 博仁が、くすっと笑う。

(やっぱり君だ)

 俺は鎖を睨んだ。

「……本当に、俺にしか触れないのか」
(ああ)

 博仁はあっさり言った。

(だから、こうして頼んでるんだよ)

 そして、少しだけ真面目な声になる。

(優斗)

 名前を呼ばれて、思わず顔を上げる。

(僕を――)

 一拍置いて、静かに続けた。

(自由にしてくれないか)

 校庭のざわめきが遠くで響く。赤い鎖が、わずかに軋む音を立てた。俺の胸の奥で、何かが小さくざわく。

「……」

 正直、嫌な予感しかしない。こんな鎖で封印されている幽霊なんて、普通じゃない。解いたら――絶対に何かが起きる。それは分かっている、分かっているのに――俺の手は、また鎖へと伸びていた。

「……ちょっとだけだからな」

 自分に言い訳するみたいに呟く。

「無理そうだったら、すぐやめる」
(もちろん!)

 博仁は、なぜか楽しそうだった。

 俺は深く息を吸って、赤い鎖を両手で掴んだ。冷たくもないし、熱くもない。だけど――やけに重い。ただの金属じゃない。何か、とてつもなく濃いものが詰まっている感じがする。

「くっ……」

 少し力を入れてみる。当然、びくともしない、やっぱり無理だ。

「……ほら見ろ」

 諦めて、手を離そうとしたとき。

(優斗)

 博仁の声が頭の中で聞こえた。

(目を閉じて)
「え?」
(鎖が壊れるイメージを思い描くんだ)

 静かな声だった。

(そうだな。鎖が砕けるところを、はっきり思い浮かべてみるといい)

 俺は少し迷った。でも目を閉じる。頭の中で、鎖を思い浮かべる。赤い鎖――太くて重くて、絶対に切れそうにない鎖。それが砕ける。

 粉々になる、バラバラに砕け散るイメージ――その瞬間、ぐにゃりとした感触が手に伝わった

「……え?」

 目を開ける。するとさっきまで硬かった鎖が、まるで飴みたいに柔らかくなっていた。

(そのまま、引っ張ってみてくれ)

 博仁の声がする。言われるまま力を込めると、鎖がゆっくりと伸びる。

 ギ……ギィ……嫌な音を立てながら。

「うそだろ……」

 さらに力を入れる。するとぷつん。あっけないほど簡単に、鎖が切れた。赤い破片が、霧みたいに空へ溶けていく。その瞬間、校庭の空気がふっと軽くなった。

(……やっと自由だ)

 博仁が、小さく息を吐く。体に巻き付いていた鎖が、次々とほどけていく。赤い鎖は音もなく崩れ、やがてすべて消えた。

 博仁は肩を回し、大きく伸びをする。

(空気が美味しい)

 まるで、長い昼寝から起きたみたいな口調だった。俺は彼の姿を見ながら、呆然と突っ立っていた。

「……マジで切れた」

 信じられない、あんな鎖がこんな簡単に。

 そのとき博仁が、すっと近づいてきた。気づいたときには、もうすぐ目の前にいた。

「……あのさ、博仁って呼んで」

 距離を詰められて、思わず一歩下がる。博仁はくすっと笑った。

「僕が怖いの?」

 黒い瞳が、じっと俺を見る。

「君、眩しいくらい輝いてるのに」

 その言葉の意味が分からなくて、俺は思わず眉をひそめた瞬間、博仁の手が俺の胸に触れた。

「……え?」

 触れられた、と思った。だけど感触がおかしい。服の上から触れたはずなのに――手が胸の中に沈んでいく。

「ちょっ……待て!」

 慌てて後ろに下がる。でも博仁の腕は、俺の体の中へずぶりと入り込んでいた。

「な、何して――」
(安心して)

 耳元で声がして振り向く。そこには――誰もいない。

(少し借りるだけだから)

 声だけが聞こえる。ぞわり、と背筋が粟立った。

「ふざけんな!」

 体を振り払おうとする。だが動きが、急に鈍くなる。腕が重いし、足も動かない。

「……え?」

 視界の端が、暗くなった。胸の奥が、じんわり冷えていく。

(ああ……)

 博仁の声が、頭の中に響く。

(やっぱりいいな)

 楽しそうに言う。

(すごく居心地がいい)

「やめろ……!」

 声を出したつもりだった。でも声が出ない。喉が、俺のものじゃないみたいな感覚がある。代わりに――笑い声が漏れた。

「……はは」

 俺じゃない声。俺の口から出ているのに、俺の声じゃない。

「っ!?」

 体が勝手に動く。右手がゆっくり持ち上がり、指を開いたり、握ったりを繰り返した。まるで、新しい玩具を確かめるみたいに。

「なるほど」

 今度は、はっきり聞こえた。俺の声で、俺じゃない誰かが喋っている。

「これは……確かにすごい」

 ゆっくりと顔を上げる。夕方の校庭が見える。文化祭の片付けをしている生徒たち。遠くで笑っている声。何も知らない世界。その景色を見ながら、俺の体は静かに呟いた。

「こんなに綺麗な魂、初めて見た」

 胸の奥で、俺は必死に叫んだ。

(出ていけ!!)

 その瞬間、体がびくんと震えた。

「……おや」

 博仁の声が、少しだけ楽しそうになる。

「抵抗するんだ」

 俺の体が、ゆっくり首を傾げた。

「面白い」

 次の瞬間、ぐっと胸が締め付けられたせいで、息が詰まる。視界がぐらりと揺れた。

「……でも」

 博仁が、低く囁く。

「まだ、君の体だ」

 一瞬、力が緩んだ。その隙に、俺は必死で息を吸う。

「はっ……!」

 膝が崩れて、地面に手をつく。体の支配が、少しだけ戻ってくる。頭の奥で、くすくす笑う声が聞こえた。

(大丈夫)

 博仁の声が頭の中で響く。

(全部、奪うつもりはないよ)
「……は?」
(しばらく――)

 楽しげに言う。

(一緒に使わせてもらうだけ)

 その言葉を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。つまりそれは、コイツがこれからもずっと体の中にいるってことだ。

「……ふざけんな」

 俺は歯を食いしばった。胸の奥で、博仁がまた笑う。

(よろしくね、優斗)

 頭の中で、静かに囁いた。

(僕の新しい相棒)
「……ふざけんな」

 俺は歯を食いしばった。体の奥で、博仁がくすくす笑う。

(怒らないでよ。少し体を借りてるだけだって言っただろ)
「誰が許すか」

 拳を握ろうとする。だが指が震えるだけで、うまく力が入らない。まるで体の中に、もう一人いるみたいだ。

(ほら見て)

 博仁が言う。俺の左腕が、勝手に持ち上がる。

「……やめろ」
(すごいな、この体)

 感心したように呟く。

(霊力が濃い。こんなの初めてだ)

 その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。怒りか、恐怖か。それとも霊能者としての本能か。

「……だったら」

 俺は低く言った。

「見せてやるよ」
(ん?)

 俺は、全身の力を抜いた。体の感覚をすっと手放す。呼吸も筋肉も重さも、全部――外に置いていく感じ。次の瞬間。ふわり、と視界が揺れた。地面が遠くなる。

 俺は――自分の体を見下ろしていた。

(……へぇ)

 博仁の声が、少し驚いたように響く。

(体から出た?)
「霊体離脱してみた」

 俺は空中に浮いたまま言った。

「ひとつの身体に、ふたつの魂が入っているのは苦しいから」

 下を見る。そこには俺の体が立っていた。でもその瞳の奥には――博仁がいる。

「その体」

 俺は腕を組んだ。

「元は、俺のなんだよ」

 校庭の空気が、ひやりと冷える。霊体になると分かる。この世界は、普段見えているものと全然違う。空気の流れや霊の残滓、人の感情。全部が、色を持って漂っている。そして――博仁。俺の体の中にいるその存在は、他の霊とは比べものにならないほど濃かった。

(なるほど)

 博仁が呟く。

(面白い能力だ)

 俺は、ゆっくり手を伸ばした。校庭の隅、古い体育倉庫の近く。そこに小さな霊がいた。文化祭の人混みに、うまいこと紛れてきたのだろう。ぼんやりとした人の形、未練だけが残る弱い霊だった。

「ちょうどいい」

 俺はその霊に近づく。霊は俺を見ると、怯えたように揺れた。

「安心しろ」

 俺は静かに言った。

「すぐ終わる」

 右手をかざして、霊が求めるものを感じ取る。それを頭の中でイメージして、手のひらの上に形作った。霊が求めたのは野球帽。それを頭に被せてやり、いつものように霊道を作る。霧の中に光り輝く一本道ができて、嬉しそうに霊が歩いて行った。

「お気を付けて」

 ただ静かに、朝霧みたいに消えていく。残ったのは、わずかな光の粒だけだった。それもすぐ空に溶ける。完全な――浄霊。

 俺は振り返って、自分の体を見る。博仁が、俺の目で俺を見上げていた。その表情は、さっきまでと少し違う気がした。

(……すごいな)
「言っただろ」

 俺は腕を組む。

「半人前だけどな」
(いや)

 博仁は小さく笑った。

(それでも十分だ)

 その目が、楽しそうに細くなる。

(ますます、君に興味が湧いたよ)

 次の瞬間、ぐっと胸が引っ張られて視界が回る。

「うわっ!」

 気づいたときには、俺はまた自分の体の中に戻っていた。膝が崩れ、地面に手をつく。

「はっ……!」

 息が荒くなる。霊体離脱は体力を使うせいか、頭も少しクラクラした。その奥で、博仁が楽しそうに呟いた。

(いいね。やっぱり君の体、最高だ)
「……出てけ」
(それは無理)

 あっさり言う。

(だって)

 くすっと笑う気配。

(もう入っちゃったし)

 俺は額を押さえた。

(――最悪だ。体の中に幽霊がいるなんて。こんな話、母さんにしたら絶対笑われるだろ)

 そう思った瞬間、背後から聞き覚えのある声がした。

「……あんた」

 声の主がすぐに分かり、俺は固まった。そして、渋々振り向く。そこには――腕を組んで立っている母さんがいた。