***
「……何はともあれ、上手い具合にコトが進んで一安心だよ。はあぁ……」
二日間続いた学祭が、ようやく終わった。片付けは自分たちでやるから、とクラスメイトに外へ追い出された俺は、校舎の壁にもたれてぼんやりしていた。校庭では、まだあちこちで生徒が忙しく動き回っている。
俺は邪魔にならない場所から、その様子を眺めていた。
「あ、メガネかけてくるの忘れた」
俺に気を留める生徒はいないだろうし、これだけ騒がしければ霊だってどこかに隠れてるだろう。
そう思って、その場を離れようとしたときだった。
「ううっ……なんだ?」
背筋に妙な寒気が走り、思わず足が止まる。周囲は相変わらず賑やかだった。笑い声も聞こえるし、特に変わった様子はない。なのに胸の奥が妙にざわつくせいで、どうにも嫌な感じが拭えない。この感じは霊がいるときの空気に、よく似ている。
俺は、ゆっくりと視線を巡らせた。するとある一点だけ、空気が重く沈んでいるのを感じた。
「あっちの方角にあるのは……弓道部の部室のあたりか?」
その奥、校庭の隅に立っている大きなイチョウの木から、濃いエネルギーが漏れている。まるで、何かが押し込められているみたいだった。明らかに、普通の霊気とは少し違っている。無駄に重くて、ねっとりしていて妙に濃い。
「これ……気のせい、じゃないよな」
俺は小さく呟いた。正直、関わりたくない。でも放っておくのも後味が悪い。
ため息をつきながら歩き出した。近づくにつれて、空気がどんどん重くなる。胸の奥が圧迫されていくように。
「……うわ、これ絶対にヤバいやつじゃないか?」
思わず足が鈍る。だけど、そのときだった。
『お前がほしい……』
男の声が、耳の奥に直接響いた。
『……こっちに来い』
「……いやいやいや!」
思わずツッコミが出る。
「男に欲しがられても、すっげぇ困るんですけど」
――って言ってる場合じゃない。俺は周囲を見回しながら、霊の気配を探る。すると、やっぱりイチョウの木のあたりから、強い霊気が溢れているのを感じた。
『こっちだ……僕を……解放してくれ』
(――解放? これって、地縛霊の類かもしれないな)
もしそうなら、俺の力だけでどうにかできるとは限らない。下手をすれば、母さんを呼ばないといけない案件だ。
「あーあ、ちゃんとした力さえあればなぁ……」
呑気な感じで悔しさを呟きつつ、木のそばまで歩いて行く。そのとき風もないのに、木がギリ、と嫌な音を立てた。
「……どなたか、いらっしゃいますか?」
自分でも変な声の掛け方だと思う。霊との正しいコンタクト方法なんて、正直まだよく分かっていない。
強い霊気を感じながら、ゆっくりと木へ近づいた。そして、思わず息を呑む。そこにいたのは、同じ制服を着た男子生徒が、真っ赤な鎖で木の中央に縛りつけられていた。
男子生の背は、俺より頭一つ分ほど高く見える。少し長めの黒髪が、風もないのにゆっくりと揺れていた。整った顔立ちなのに、口元にはどこか余裕めいた笑みが浮かんでいた。
――だけどその体には、真っ赤な鎖が幾重にも巻き付いている。
「……なんだよ、それ」
思わず声が漏れる。鎖は普通の鉄の色じゃない。血を煮詰めたみたいな、どす黒い赤。しかも、太さも異様だった。手首ほどある鎖が、男子生徒の体に何重にも絡みつき、胸、腕、脚、首元にまで食い込んでいる。ただ巻き付いているだけじゃない。鎖の一部が、体の中に沈み込んでいる。まるで肉を貫いて、骨に引っ掛けているみたいに。
見ているだけで、背筋が寒くなる。
さらに近づくと、鎖はイチョウの木へと繋がっていた。幹の中に、まるで釘のように打ち込まれている。その周囲だけ、木の表面が黒く焼け焦げたみたいに変色していた。
封印――そんな言葉が頭に浮かぶ。絶対に逃がさない、絶対に外に出さない。そんな意志が、鎖そのものから伝わってくる気がした。
そのとき男子生徒が、ゆっくりと顔を上げた。黒い瞳と目が合う。光を吸い込んでしまうみたいな、不思議な目だった。
(やあ! 来てくれて嬉しいよ)
「うわ……」
普通に喋った。しかも、妙に明るいせいで、違和感がすごい。
俺が鎖をじっと見ていると、男子生徒は楽しそうに笑い出した。
(君、すごい力を持っているね)
そして言う。
(その力で、この鎖を断ち切ってほしい)
「……いきなり言うなよ」
俺は恐るおそる鎖を見上げた。近くで見ると、ますます普通じゃない。赤い鎖は、まるで生き物みたいに微かに脈打っている。表面には黒い染みのようなものが浮かび、どろりと滲んでは消えていく。
こんなの、どう見てもヤバいやつだ。
「……これ、本当に触って大丈夫なやつ?」
(さあね)
男子生徒は、どこか楽しそうに肩をすくめた。
(試してみれば分かるよ)
「軽く言うなよ……」
俺はため息をつきながら、そっと手を伸ばした。鎖に触れる寸前――ぞわっとして、その場の空気が震えた。
「……え?」
次の瞬間、鎖がわずかに動いた。ギ……ッ、と。硬い金属が擦れるような、不快な音が響く。
「……今、動いた?」
思わず手を引っ込める。だけど、鎖はまた微かに震えた。まるで、俺の手を追うみたいに。
(へぇ)
男が小さく笑った。
(やっぱりね)
「やっぱりって?」
(その鎖、普通の封印じゃないんだ)
俺は眉をひそめた。
「……どういう意味だよ」
(魂を縛る鎖なんだよ)
軽い口調で、さらっと言う。
(力を持つ者にしか、この鎖には触れない)
この時点で、嫌な予感がした。
「つまり……?」
(君だから反応した)
男子生徒は楽しそうに続けた。
(他の人間が触っても、ただの見えない鎖さ)
背中に冷たいものが走る。
「……それ、俺に触らせる前に言えよ」
(言ったら触らないだろ)
「当たり前だろ!」
思わず声が大きくなる。すると鎖がまたギリ、と鳴った。さっきよりもはっきりと、赤い鎖がゆっくりと軋む。まるで長い眠りから覚めたみたいに。
(この反応、実に面白いな)
楽しそうに男子生徒が呟く。
(まるで君に触れられるのを、この鎖が待ってたみたいだ)
「やめろよ……怖いことを言うなって」
でも――俺にも分かっていた。鎖の奥から、何かが伝わってくる。怒りとも殺意とも違う。もっと重い、何か。長い間、封じられていたものの気配。
「……くそ」
俺はもう一度だけ手を伸ばし、思いきって鎖に触れる。今度は、はっきり感じた。冷たくも熱くもない。だけど、妙に重い。触れた瞬間――鎖が強く震えた。
ギィン、と鋭い音が鳴る。
「うわっ!?」
(ははっ)
男子生徒が嬉しそうに笑った。
(やっぱり君だ)
「何がだよ!」
(この封印を壊せるのは)
黒い瞳が、楽しそうに細くなる。
(君だけだ)
俺は一歩後ずさった。
「……あんた、何者なんだよ」
男子生徒は一瞬だけ黙り、それから軽く肩をすくめた。
(ああ、まだ名乗ってなかったね)
そして、にこっと笑う。
(僕の名前は、風見博仁)
赤い鎖に縛られたまま、まるで初対面の挨拶でもするみたいに言った。
(ちなみに――)
鎖を軽く鳴らしながら続ける。
(見ての通り、現在封印中の幽霊だよ)
「そんなの、見れば分かるよ!」
思わずツッコミが出た。
「封印中の幽霊が、なんでそんな軽いノリなんだよ!」
博仁はくすっと笑った。
(だって深刻な顔しても、鎖が外れるわけじゃないだろ)
まるで、世間話でもするような口調だった。
(それより――)
黒い瞳がまっすぐ俺を見る。
(君の名前は?)
幽霊が自分から名乗った。正直、初めてだった。だからこそ、警戒心が一気に上がる。
「……三神優斗」
名乗りながら、俺は鎖を見上げた。
「で、その風見さんが――」
言いながら、赤い鎖を指差す。
「なんで、こんな禍々しい鎖で縛られてるわけ?」
博仁は一瞬だけ鎖を見下ろし、それから楽しそうに笑った。
(それを知りたいなら)
鎖が、また小さく軋む。
(まずは解いてくれないかな)
「……いやいや」
俺は即座に首を振った。
「無理」
(え)
「どう見てもヤバいやつだろ、その鎖」
指差すと赤い鎖はまるで反応するみたいに、かすかにギリ、と鳴った。
「こんなの解いたら、絶対あとで面倒なことになる」
(ひどいな)
博仁は肩をすくめる。
(人を危険人物みたいに言って)
「だって、この状況で信用しろって方が無理だろ」
俺は腕を組んだ。
「第一、あんた本当に幽霊なのか?」
(それも疑う?)
「疑うに決まってる!」
こんな幽霊、見たことがない。普通の霊は、もっとぼんやりしている。未練とか悲しみとか、そういうものが滲んでいるんだ。でも、この男子生徒は違う。封印中だというのに、妙に落ち着いている。それどころか、楽しんでいるみたいな感じに見てとれた。
「……なんで、そんなに余裕があるんだよ」
俺が言うと、博仁は少しだけ目を細めた。
(君が来たからだよ)
「は?」
(さっきも言っただろ)
体を揺すって、鎖を軽く鳴らす。
(この封印を壊せるのは、君だけだって)
「だからって……」
俺は仕方なく鎖を見上げる。赤い鎖は相変わらず、男子生徒の体に深く食い込んでいる。普通なら、もっと苦しんでいるはずだ。
「こんなにがんじ絡めなのに……痛くないのか?」
そんなことを訊ねると、博仁は一瞬だけ黙った。それから、ふっと笑う。
(最初はね)
さらっと言う。
(でも、もう慣れた)
軽い口調だった。なのに――その一言が妙に重く聞こえた。
俺は少しだけ視線を逸らす。
「……どれくらい」
(ん?)
「どれくらい、ここにいるんだよ」
博仁は空を見上げた。校庭の向こうでは、まだ文化祭の後片付けをしている声が聞こえる。笑い声も、運ぶ音も、全部遠い。
(さあ)
そして言う。
(数えてないな)
「……」
(でも)
黒い瞳が、また俺を見た。
(長かったのは、確かだ)
その言葉のあと、赤い鎖がまた小さく鳴った。ギリ、と。まるで何かを思い出したみたいに。
俺は無意識に手を伸ばしていた。鎖に、そっと触れた次の瞬間――ギィンッ!
鎖が強く震えた。
「うわっ!」
思わず手を引っ込める。赤い鎖が、さっきよりもはっきり動いた。まるで、喜んでいるみたいに。
(ほら)
博仁が、くすっと笑う。
(やっぱり君だ)
俺は鎖を睨んだ。
「……本当に、俺にしか触れないのか」
(ああ)
博仁はあっさり言った。
(だから、こうして頼んでるんだよ)
そして、少しだけ真面目な声になる。
(優斗)
名前を呼ばれて、思わず顔を上げる。
(僕を――)
一拍置いて、静かに続けた。
(自由にしてくれないか)
校庭のざわめきが遠くで響く。赤い鎖が、わずかに軋む音を立てた。俺の胸の奥で、何かが小さくざわく。
「……」
正直、嫌な予感しかしない。こんな鎖で封印されている幽霊なんて、普通じゃない。解いたら――絶対に何かが起きる。それは分かっている、分かっているのに――俺の手は、また鎖へと伸びていた。
「……ちょっとだけだからな」
自分に言い訳するみたいに呟く。
「無理そうだったら、すぐやめる」
(もちろん!)
博仁は、なぜか楽しそうだった。
俺は深く息を吸って、赤い鎖を両手で掴んだ。冷たくもないし、熱くもない。だけど――やけに重い。ただの金属じゃない。何か、とてつもなく濃いものが詰まっている感じがする。
「くっ……」
少し力を入れてみる。当然、びくともしない、やっぱり無理だ。
「……ほら見ろ」
諦めて、手を離そうとしたとき。
(優斗)
博仁の声が頭の中で聞こえた。
(目を閉じて)
「え?」
(鎖が壊れるイメージを思い描くんだ)
静かな声だった。
(そうだな。鎖が砕けるところを、はっきり思い浮かべてみるといい)
俺は少し迷った。でも目を閉じる。頭の中で、鎖を思い浮かべる。赤い鎖――太くて重くて、絶対に切れそうにない鎖。それが砕ける。
粉々になる、バラバラに砕け散るイメージ――その瞬間、ぐにゃりとした感触が手に伝わった
「……え?」
目を開ける。するとさっきまで硬かった鎖が、まるで飴みたいに柔らかくなっていた。
(そのまま、引っ張ってみてくれ)
博仁の声がする。言われるまま力を込めると、鎖がゆっくりと伸びる。
ギ……ギィ……嫌な音を立てながら。
「うそだろ……」
さらに力を入れる。するとぷつん。あっけないほど簡単に、鎖が切れた。赤い破片が、霧みたいに空へ溶けていく。その瞬間、校庭の空気がふっと軽くなった。
(……やっと自由だ)
博仁が、小さく息を吐く。体に巻き付いていた鎖が、次々とほどけていく。赤い鎖は音もなく崩れ、やがてすべて消えた。
博仁は肩を回し、大きく伸びをする。
(空気が美味しい)
まるで、長い昼寝から起きたみたいな口調だった。俺は彼の姿を見ながら、呆然と突っ立っていた。
「……マジで切れた」
信じられない、あんな鎖がこんな簡単に。
そのとき博仁が、すっと近づいてきた。気づいたときには、もうすぐ目の前にいた。
「……あのさ、博仁って呼んで」
距離を詰められて、思わず一歩下がる。博仁はくすっと笑った。
「僕が怖いの?」
黒い瞳が、じっと俺を見る。
「君、眩しいくらい輝いてるのに」
その言葉の意味が分からなくて、俺は思わず眉をひそめた瞬間、博仁の手が俺の胸に触れた。
「……え?」
触れられた、と思った。だけど感触がおかしい。服の上から触れたはずなのに――手が胸の中に沈んでいく。
「ちょっ……待て!」
慌てて後ろに下がる。でも博仁の腕は、俺の体の中へずぶりと入り込んでいた。
「な、何して――」
(安心して)
耳元で声がして振り向く。そこには――誰もいない。
(少し借りるだけだから)
声だけが聞こえる。ぞわり、と背筋が粟立った。
「ふざけんな!」
体を振り払おうとする。だが動きが、急に鈍くなる。腕が重いし、足も動かない。
「……え?」
視界の端が、暗くなった。胸の奥が、じんわり冷えていく。
(ああ……)
博仁の声が、頭の中に響く。
(やっぱりいいな)
楽しそうに言う。
(すごく居心地がいい)
「やめろ……!」
声を出したつもりだった。でも声が出ない。喉が、俺のものじゃないみたいな感覚がある。代わりに――笑い声が漏れた。
「……はは」
俺じゃない声。俺の口から出ているのに、俺の声じゃない。
「っ!?」
体が勝手に動く。右手がゆっくり持ち上がり、指を開いたり、握ったりを繰り返した。まるで、新しい玩具を確かめるみたいに。
「なるほど」
今度は、はっきり聞こえた。俺の声で、俺じゃない誰かが喋っている。
「これは……確かにすごい」
ゆっくりと顔を上げる。夕方の校庭が見える。文化祭の片付けをしている生徒たち。遠くで笑っている声。何も知らない世界。その景色を見ながら、俺の体は静かに呟いた。
「こんなに綺麗な魂、初めて見た」
胸の奥で、俺は必死に叫んだ。
(出ていけ!!)
その瞬間、体がびくんと震えた。
「……おや」
博仁の声が、少しだけ楽しそうになる。
「抵抗するんだ」
俺の体が、ゆっくり首を傾げた。
「面白い」
次の瞬間、ぐっと胸が締め付けられたせいで、息が詰まる。視界がぐらりと揺れた。
「……でも」
博仁が、低く囁く。
「まだ、君の体だ」
一瞬、力が緩んだ。その隙に、俺は必死で息を吸う。
「はっ……!」
膝が崩れて、地面に手をつく。体の支配が、少しだけ戻ってくる。頭の奥で、くすくす笑う声が聞こえた。
(大丈夫)
博仁の声が頭の中で響く。
(全部、奪うつもりはないよ)
「……は?」
(しばらく――)
楽しげに言う。
(一緒に使わせてもらうだけ)
その言葉を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。つまりそれは、コイツがこれからもずっと体の中にいるってことだ。
「……ふざけんな」
俺は歯を食いしばった。胸の奥で、博仁がまた笑う。
(よろしくね、優斗)
頭の中で、静かに囁いた。
(僕の新しい相棒)
「……ふざけんな」
俺は歯を食いしばった。体の奥で、博仁がくすくす笑う。
(怒らないでよ。少し体を借りてるだけだって言っただろ)
「誰が許すか」
拳を握ろうとする。だが指が震えるだけで、うまく力が入らない。まるで体の中に、もう一人いるみたいだ。
(ほら見て)
博仁が言う。俺の左腕が、勝手に持ち上がる。
「……やめろ」
(すごいな、この体)
感心したように呟く。
(霊力が濃い。こんなの初めてだ)
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。怒りか、恐怖か。それとも霊能者としての本能か。
「……だったら」
俺は低く言った。
「見せてやるよ」
(ん?)
俺は、全身の力を抜いた。体の感覚をすっと手放す。呼吸も筋肉も重さも、全部――外に置いていく感じ。次の瞬間。ふわり、と視界が揺れた。地面が遠くなる。
俺は――自分の体を見下ろしていた。
(……へぇ)
博仁の声が、少し驚いたように響く。
(体から出た?)
「霊体離脱してみた」
俺は空中に浮いたまま言った。
「ひとつの身体に、ふたつの魂が入っているのは苦しいから」
下を見る。そこには俺の体が立っていた。でもその瞳の奥には――博仁がいる。
「その体」
俺は腕を組んだ。
「元は、俺のなんだよ」
校庭の空気が、ひやりと冷える。霊体になると分かる。この世界は、普段見えているものと全然違う。空気の流れや霊の残滓、人の感情。全部が、色を持って漂っている。そして――博仁。俺の体の中にいるその存在は、他の霊とは比べものにならないほど濃かった。
(なるほど)
博仁が呟く。
(面白い能力だ)
俺は、ゆっくり手を伸ばした。校庭の隅、古い体育倉庫の近く。そこに小さな霊がいた。文化祭の人混みに、うまいこと紛れてきたのだろう。ぼんやりとした人の形、未練だけが残る弱い霊だった。
「ちょうどいい」
俺はその霊に近づく。霊は俺を見ると、怯えたように揺れた。
「安心しろ」
俺は静かに言った。
「すぐ終わる」
右手をかざして、霊が求めるものを感じ取る。それを頭の中でイメージして、手のひらの上に形作った。霊が求めたのは野球帽。それを頭に被せてやり、いつものように霊道を作る。霧の中に光り輝く一本道ができて、嬉しそうに霊が歩いて行った。
「お気を付けて」
ただ静かに、朝霧みたいに消えていく。残ったのは、わずかな光の粒だけだった。それもすぐ空に溶ける。完全な――浄霊。
俺は振り返って、自分の体を見る。博仁が、俺の目で俺を見上げていた。その表情は、さっきまでと少し違う気がした。
(……すごいな)
「言っただろ」
俺は腕を組む。
「半人前だけどな」
(いや)
博仁は小さく笑った。
(それでも十分だ)
その目が、楽しそうに細くなる。
(ますます、君に興味が湧いたよ)
次の瞬間、ぐっと胸が引っ張られて視界が回る。
「うわっ!」
気づいたときには、俺はまた自分の体の中に戻っていた。膝が崩れ、地面に手をつく。
「はっ……!」
息が荒くなる。霊体離脱は体力を使うせいか、頭も少しクラクラした。その奥で、博仁が楽しそうに呟いた。
(いいね。やっぱり君の体、最高だ)
「……出てけ」
(それは無理)
あっさり言う。
(だって)
くすっと笑う気配。
(もう入っちゃったし)
俺は額を押さえた。
(――最悪だ。体の中に幽霊がいるなんて。こんな話、母さんにしたら絶対笑われるだろ)
そう思った瞬間、背後から聞き覚えのある声がした。
「……あんた」
声の主がすぐに分かり、俺は固まった。そして、渋々振り向く。そこには――腕を組んで立っている母さんがいた。
「……何はともあれ、上手い具合にコトが進んで一安心だよ。はあぁ……」
二日間続いた学祭が、ようやく終わった。片付けは自分たちでやるから、とクラスメイトに外へ追い出された俺は、校舎の壁にもたれてぼんやりしていた。校庭では、まだあちこちで生徒が忙しく動き回っている。
俺は邪魔にならない場所から、その様子を眺めていた。
「あ、メガネかけてくるの忘れた」
俺に気を留める生徒はいないだろうし、これだけ騒がしければ霊だってどこかに隠れてるだろう。
そう思って、その場を離れようとしたときだった。
「ううっ……なんだ?」
背筋に妙な寒気が走り、思わず足が止まる。周囲は相変わらず賑やかだった。笑い声も聞こえるし、特に変わった様子はない。なのに胸の奥が妙にざわつくせいで、どうにも嫌な感じが拭えない。この感じは霊がいるときの空気に、よく似ている。
俺は、ゆっくりと視線を巡らせた。するとある一点だけ、空気が重く沈んでいるのを感じた。
「あっちの方角にあるのは……弓道部の部室のあたりか?」
その奥、校庭の隅に立っている大きなイチョウの木から、濃いエネルギーが漏れている。まるで、何かが押し込められているみたいだった。明らかに、普通の霊気とは少し違っている。無駄に重くて、ねっとりしていて妙に濃い。
「これ……気のせい、じゃないよな」
俺は小さく呟いた。正直、関わりたくない。でも放っておくのも後味が悪い。
ため息をつきながら歩き出した。近づくにつれて、空気がどんどん重くなる。胸の奥が圧迫されていくように。
「……うわ、これ絶対にヤバいやつじゃないか?」
思わず足が鈍る。だけど、そのときだった。
『お前がほしい……』
男の声が、耳の奥に直接響いた。
『……こっちに来い』
「……いやいやいや!」
思わずツッコミが出る。
「男に欲しがられても、すっげぇ困るんですけど」
――って言ってる場合じゃない。俺は周囲を見回しながら、霊の気配を探る。すると、やっぱりイチョウの木のあたりから、強い霊気が溢れているのを感じた。
『こっちだ……僕を……解放してくれ』
(――解放? これって、地縛霊の類かもしれないな)
もしそうなら、俺の力だけでどうにかできるとは限らない。下手をすれば、母さんを呼ばないといけない案件だ。
「あーあ、ちゃんとした力さえあればなぁ……」
呑気な感じで悔しさを呟きつつ、木のそばまで歩いて行く。そのとき風もないのに、木がギリ、と嫌な音を立てた。
「……どなたか、いらっしゃいますか?」
自分でも変な声の掛け方だと思う。霊との正しいコンタクト方法なんて、正直まだよく分かっていない。
強い霊気を感じながら、ゆっくりと木へ近づいた。そして、思わず息を呑む。そこにいたのは、同じ制服を着た男子生徒が、真っ赤な鎖で木の中央に縛りつけられていた。
男子生の背は、俺より頭一つ分ほど高く見える。少し長めの黒髪が、風もないのにゆっくりと揺れていた。整った顔立ちなのに、口元にはどこか余裕めいた笑みが浮かんでいた。
――だけどその体には、真っ赤な鎖が幾重にも巻き付いている。
「……なんだよ、それ」
思わず声が漏れる。鎖は普通の鉄の色じゃない。血を煮詰めたみたいな、どす黒い赤。しかも、太さも異様だった。手首ほどある鎖が、男子生徒の体に何重にも絡みつき、胸、腕、脚、首元にまで食い込んでいる。ただ巻き付いているだけじゃない。鎖の一部が、体の中に沈み込んでいる。まるで肉を貫いて、骨に引っ掛けているみたいに。
見ているだけで、背筋が寒くなる。
さらに近づくと、鎖はイチョウの木へと繋がっていた。幹の中に、まるで釘のように打ち込まれている。その周囲だけ、木の表面が黒く焼け焦げたみたいに変色していた。
封印――そんな言葉が頭に浮かぶ。絶対に逃がさない、絶対に外に出さない。そんな意志が、鎖そのものから伝わってくる気がした。
そのとき男子生徒が、ゆっくりと顔を上げた。黒い瞳と目が合う。光を吸い込んでしまうみたいな、不思議な目だった。
(やあ! 来てくれて嬉しいよ)
「うわ……」
普通に喋った。しかも、妙に明るいせいで、違和感がすごい。
俺が鎖をじっと見ていると、男子生徒は楽しそうに笑い出した。
(君、すごい力を持っているね)
そして言う。
(その力で、この鎖を断ち切ってほしい)
「……いきなり言うなよ」
俺は恐るおそる鎖を見上げた。近くで見ると、ますます普通じゃない。赤い鎖は、まるで生き物みたいに微かに脈打っている。表面には黒い染みのようなものが浮かび、どろりと滲んでは消えていく。
こんなの、どう見てもヤバいやつだ。
「……これ、本当に触って大丈夫なやつ?」
(さあね)
男子生徒は、どこか楽しそうに肩をすくめた。
(試してみれば分かるよ)
「軽く言うなよ……」
俺はため息をつきながら、そっと手を伸ばした。鎖に触れる寸前――ぞわっとして、その場の空気が震えた。
「……え?」
次の瞬間、鎖がわずかに動いた。ギ……ッ、と。硬い金属が擦れるような、不快な音が響く。
「……今、動いた?」
思わず手を引っ込める。だけど、鎖はまた微かに震えた。まるで、俺の手を追うみたいに。
(へぇ)
男が小さく笑った。
(やっぱりね)
「やっぱりって?」
(その鎖、普通の封印じゃないんだ)
俺は眉をひそめた。
「……どういう意味だよ」
(魂を縛る鎖なんだよ)
軽い口調で、さらっと言う。
(力を持つ者にしか、この鎖には触れない)
この時点で、嫌な予感がした。
「つまり……?」
(君だから反応した)
男子生徒は楽しそうに続けた。
(他の人間が触っても、ただの見えない鎖さ)
背中に冷たいものが走る。
「……それ、俺に触らせる前に言えよ」
(言ったら触らないだろ)
「当たり前だろ!」
思わず声が大きくなる。すると鎖がまたギリ、と鳴った。さっきよりもはっきりと、赤い鎖がゆっくりと軋む。まるで長い眠りから覚めたみたいに。
(この反応、実に面白いな)
楽しそうに男子生徒が呟く。
(まるで君に触れられるのを、この鎖が待ってたみたいだ)
「やめろよ……怖いことを言うなって」
でも――俺にも分かっていた。鎖の奥から、何かが伝わってくる。怒りとも殺意とも違う。もっと重い、何か。長い間、封じられていたものの気配。
「……くそ」
俺はもう一度だけ手を伸ばし、思いきって鎖に触れる。今度は、はっきり感じた。冷たくも熱くもない。だけど、妙に重い。触れた瞬間――鎖が強く震えた。
ギィン、と鋭い音が鳴る。
「うわっ!?」
(ははっ)
男子生徒が嬉しそうに笑った。
(やっぱり君だ)
「何がだよ!」
(この封印を壊せるのは)
黒い瞳が、楽しそうに細くなる。
(君だけだ)
俺は一歩後ずさった。
「……あんた、何者なんだよ」
男子生徒は一瞬だけ黙り、それから軽く肩をすくめた。
(ああ、まだ名乗ってなかったね)
そして、にこっと笑う。
(僕の名前は、風見博仁)
赤い鎖に縛られたまま、まるで初対面の挨拶でもするみたいに言った。
(ちなみに――)
鎖を軽く鳴らしながら続ける。
(見ての通り、現在封印中の幽霊だよ)
「そんなの、見れば分かるよ!」
思わずツッコミが出た。
「封印中の幽霊が、なんでそんな軽いノリなんだよ!」
博仁はくすっと笑った。
(だって深刻な顔しても、鎖が外れるわけじゃないだろ)
まるで、世間話でもするような口調だった。
(それより――)
黒い瞳がまっすぐ俺を見る。
(君の名前は?)
幽霊が自分から名乗った。正直、初めてだった。だからこそ、警戒心が一気に上がる。
「……三神優斗」
名乗りながら、俺は鎖を見上げた。
「で、その風見さんが――」
言いながら、赤い鎖を指差す。
「なんで、こんな禍々しい鎖で縛られてるわけ?」
博仁は一瞬だけ鎖を見下ろし、それから楽しそうに笑った。
(それを知りたいなら)
鎖が、また小さく軋む。
(まずは解いてくれないかな)
「……いやいや」
俺は即座に首を振った。
「無理」
(え)
「どう見てもヤバいやつだろ、その鎖」
指差すと赤い鎖はまるで反応するみたいに、かすかにギリ、と鳴った。
「こんなの解いたら、絶対あとで面倒なことになる」
(ひどいな)
博仁は肩をすくめる。
(人を危険人物みたいに言って)
「だって、この状況で信用しろって方が無理だろ」
俺は腕を組んだ。
「第一、あんた本当に幽霊なのか?」
(それも疑う?)
「疑うに決まってる!」
こんな幽霊、見たことがない。普通の霊は、もっとぼんやりしている。未練とか悲しみとか、そういうものが滲んでいるんだ。でも、この男子生徒は違う。封印中だというのに、妙に落ち着いている。それどころか、楽しんでいるみたいな感じに見てとれた。
「……なんで、そんなに余裕があるんだよ」
俺が言うと、博仁は少しだけ目を細めた。
(君が来たからだよ)
「は?」
(さっきも言っただろ)
体を揺すって、鎖を軽く鳴らす。
(この封印を壊せるのは、君だけだって)
「だからって……」
俺は仕方なく鎖を見上げる。赤い鎖は相変わらず、男子生徒の体に深く食い込んでいる。普通なら、もっと苦しんでいるはずだ。
「こんなにがんじ絡めなのに……痛くないのか?」
そんなことを訊ねると、博仁は一瞬だけ黙った。それから、ふっと笑う。
(最初はね)
さらっと言う。
(でも、もう慣れた)
軽い口調だった。なのに――その一言が妙に重く聞こえた。
俺は少しだけ視線を逸らす。
「……どれくらい」
(ん?)
「どれくらい、ここにいるんだよ」
博仁は空を見上げた。校庭の向こうでは、まだ文化祭の後片付けをしている声が聞こえる。笑い声も、運ぶ音も、全部遠い。
(さあ)
そして言う。
(数えてないな)
「……」
(でも)
黒い瞳が、また俺を見た。
(長かったのは、確かだ)
その言葉のあと、赤い鎖がまた小さく鳴った。ギリ、と。まるで何かを思い出したみたいに。
俺は無意識に手を伸ばしていた。鎖に、そっと触れた次の瞬間――ギィンッ!
鎖が強く震えた。
「うわっ!」
思わず手を引っ込める。赤い鎖が、さっきよりもはっきり動いた。まるで、喜んでいるみたいに。
(ほら)
博仁が、くすっと笑う。
(やっぱり君だ)
俺は鎖を睨んだ。
「……本当に、俺にしか触れないのか」
(ああ)
博仁はあっさり言った。
(だから、こうして頼んでるんだよ)
そして、少しだけ真面目な声になる。
(優斗)
名前を呼ばれて、思わず顔を上げる。
(僕を――)
一拍置いて、静かに続けた。
(自由にしてくれないか)
校庭のざわめきが遠くで響く。赤い鎖が、わずかに軋む音を立てた。俺の胸の奥で、何かが小さくざわく。
「……」
正直、嫌な予感しかしない。こんな鎖で封印されている幽霊なんて、普通じゃない。解いたら――絶対に何かが起きる。それは分かっている、分かっているのに――俺の手は、また鎖へと伸びていた。
「……ちょっとだけだからな」
自分に言い訳するみたいに呟く。
「無理そうだったら、すぐやめる」
(もちろん!)
博仁は、なぜか楽しそうだった。
俺は深く息を吸って、赤い鎖を両手で掴んだ。冷たくもないし、熱くもない。だけど――やけに重い。ただの金属じゃない。何か、とてつもなく濃いものが詰まっている感じがする。
「くっ……」
少し力を入れてみる。当然、びくともしない、やっぱり無理だ。
「……ほら見ろ」
諦めて、手を離そうとしたとき。
(優斗)
博仁の声が頭の中で聞こえた。
(目を閉じて)
「え?」
(鎖が壊れるイメージを思い描くんだ)
静かな声だった。
(そうだな。鎖が砕けるところを、はっきり思い浮かべてみるといい)
俺は少し迷った。でも目を閉じる。頭の中で、鎖を思い浮かべる。赤い鎖――太くて重くて、絶対に切れそうにない鎖。それが砕ける。
粉々になる、バラバラに砕け散るイメージ――その瞬間、ぐにゃりとした感触が手に伝わった
「……え?」
目を開ける。するとさっきまで硬かった鎖が、まるで飴みたいに柔らかくなっていた。
(そのまま、引っ張ってみてくれ)
博仁の声がする。言われるまま力を込めると、鎖がゆっくりと伸びる。
ギ……ギィ……嫌な音を立てながら。
「うそだろ……」
さらに力を入れる。するとぷつん。あっけないほど簡単に、鎖が切れた。赤い破片が、霧みたいに空へ溶けていく。その瞬間、校庭の空気がふっと軽くなった。
(……やっと自由だ)
博仁が、小さく息を吐く。体に巻き付いていた鎖が、次々とほどけていく。赤い鎖は音もなく崩れ、やがてすべて消えた。
博仁は肩を回し、大きく伸びをする。
(空気が美味しい)
まるで、長い昼寝から起きたみたいな口調だった。俺は彼の姿を見ながら、呆然と突っ立っていた。
「……マジで切れた」
信じられない、あんな鎖がこんな簡単に。
そのとき博仁が、すっと近づいてきた。気づいたときには、もうすぐ目の前にいた。
「……あのさ、博仁って呼んで」
距離を詰められて、思わず一歩下がる。博仁はくすっと笑った。
「僕が怖いの?」
黒い瞳が、じっと俺を見る。
「君、眩しいくらい輝いてるのに」
その言葉の意味が分からなくて、俺は思わず眉をひそめた瞬間、博仁の手が俺の胸に触れた。
「……え?」
触れられた、と思った。だけど感触がおかしい。服の上から触れたはずなのに――手が胸の中に沈んでいく。
「ちょっ……待て!」
慌てて後ろに下がる。でも博仁の腕は、俺の体の中へずぶりと入り込んでいた。
「な、何して――」
(安心して)
耳元で声がして振り向く。そこには――誰もいない。
(少し借りるだけだから)
声だけが聞こえる。ぞわり、と背筋が粟立った。
「ふざけんな!」
体を振り払おうとする。だが動きが、急に鈍くなる。腕が重いし、足も動かない。
「……え?」
視界の端が、暗くなった。胸の奥が、じんわり冷えていく。
(ああ……)
博仁の声が、頭の中に響く。
(やっぱりいいな)
楽しそうに言う。
(すごく居心地がいい)
「やめろ……!」
声を出したつもりだった。でも声が出ない。喉が、俺のものじゃないみたいな感覚がある。代わりに――笑い声が漏れた。
「……はは」
俺じゃない声。俺の口から出ているのに、俺の声じゃない。
「っ!?」
体が勝手に動く。右手がゆっくり持ち上がり、指を開いたり、握ったりを繰り返した。まるで、新しい玩具を確かめるみたいに。
「なるほど」
今度は、はっきり聞こえた。俺の声で、俺じゃない誰かが喋っている。
「これは……確かにすごい」
ゆっくりと顔を上げる。夕方の校庭が見える。文化祭の片付けをしている生徒たち。遠くで笑っている声。何も知らない世界。その景色を見ながら、俺の体は静かに呟いた。
「こんなに綺麗な魂、初めて見た」
胸の奥で、俺は必死に叫んだ。
(出ていけ!!)
その瞬間、体がびくんと震えた。
「……おや」
博仁の声が、少しだけ楽しそうになる。
「抵抗するんだ」
俺の体が、ゆっくり首を傾げた。
「面白い」
次の瞬間、ぐっと胸が締め付けられたせいで、息が詰まる。視界がぐらりと揺れた。
「……でも」
博仁が、低く囁く。
「まだ、君の体だ」
一瞬、力が緩んだ。その隙に、俺は必死で息を吸う。
「はっ……!」
膝が崩れて、地面に手をつく。体の支配が、少しだけ戻ってくる。頭の奥で、くすくす笑う声が聞こえた。
(大丈夫)
博仁の声が頭の中で響く。
(全部、奪うつもりはないよ)
「……は?」
(しばらく――)
楽しげに言う。
(一緒に使わせてもらうだけ)
その言葉を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。つまりそれは、コイツがこれからもずっと体の中にいるってことだ。
「……ふざけんな」
俺は歯を食いしばった。胸の奥で、博仁がまた笑う。
(よろしくね、優斗)
頭の中で、静かに囁いた。
(僕の新しい相棒)
「……ふざけんな」
俺は歯を食いしばった。体の奥で、博仁がくすくす笑う。
(怒らないでよ。少し体を借りてるだけだって言っただろ)
「誰が許すか」
拳を握ろうとする。だが指が震えるだけで、うまく力が入らない。まるで体の中に、もう一人いるみたいだ。
(ほら見て)
博仁が言う。俺の左腕が、勝手に持ち上がる。
「……やめろ」
(すごいな、この体)
感心したように呟く。
(霊力が濃い。こんなの初めてだ)
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。怒りか、恐怖か。それとも霊能者としての本能か。
「……だったら」
俺は低く言った。
「見せてやるよ」
(ん?)
俺は、全身の力を抜いた。体の感覚をすっと手放す。呼吸も筋肉も重さも、全部――外に置いていく感じ。次の瞬間。ふわり、と視界が揺れた。地面が遠くなる。
俺は――自分の体を見下ろしていた。
(……へぇ)
博仁の声が、少し驚いたように響く。
(体から出た?)
「霊体離脱してみた」
俺は空中に浮いたまま言った。
「ひとつの身体に、ふたつの魂が入っているのは苦しいから」
下を見る。そこには俺の体が立っていた。でもその瞳の奥には――博仁がいる。
「その体」
俺は腕を組んだ。
「元は、俺のなんだよ」
校庭の空気が、ひやりと冷える。霊体になると分かる。この世界は、普段見えているものと全然違う。空気の流れや霊の残滓、人の感情。全部が、色を持って漂っている。そして――博仁。俺の体の中にいるその存在は、他の霊とは比べものにならないほど濃かった。
(なるほど)
博仁が呟く。
(面白い能力だ)
俺は、ゆっくり手を伸ばした。校庭の隅、古い体育倉庫の近く。そこに小さな霊がいた。文化祭の人混みに、うまいこと紛れてきたのだろう。ぼんやりとした人の形、未練だけが残る弱い霊だった。
「ちょうどいい」
俺はその霊に近づく。霊は俺を見ると、怯えたように揺れた。
「安心しろ」
俺は静かに言った。
「すぐ終わる」
右手をかざして、霊が求めるものを感じ取る。それを頭の中でイメージして、手のひらの上に形作った。霊が求めたのは野球帽。それを頭に被せてやり、いつものように霊道を作る。霧の中に光り輝く一本道ができて、嬉しそうに霊が歩いて行った。
「お気を付けて」
ただ静かに、朝霧みたいに消えていく。残ったのは、わずかな光の粒だけだった。それもすぐ空に溶ける。完全な――浄霊。
俺は振り返って、自分の体を見る。博仁が、俺の目で俺を見上げていた。その表情は、さっきまでと少し違う気がした。
(……すごいな)
「言っただろ」
俺は腕を組む。
「半人前だけどな」
(いや)
博仁は小さく笑った。
(それでも十分だ)
その目が、楽しそうに細くなる。
(ますます、君に興味が湧いたよ)
次の瞬間、ぐっと胸が引っ張られて視界が回る。
「うわっ!」
気づいたときには、俺はまた自分の体の中に戻っていた。膝が崩れ、地面に手をつく。
「はっ……!」
息が荒くなる。霊体離脱は体力を使うせいか、頭も少しクラクラした。その奥で、博仁が楽しそうに呟いた。
(いいね。やっぱり君の体、最高だ)
「……出てけ」
(それは無理)
あっさり言う。
(だって)
くすっと笑う気配。
(もう入っちゃったし)
俺は額を押さえた。
(――最悪だ。体の中に幽霊がいるなんて。こんな話、母さんにしたら絶対笑われるだろ)
そう思った瞬間、背後から聞き覚えのある声がした。
「……あんた」
声の主がすぐに分かり、俺は固まった。そして、渋々振り向く。そこには――腕を組んで立っている母さんがいた。
