紡がれる力 ―霊を宿す少年―

 裂け目の奥で開いた巨大な眼は、生き物の目ではなかった。見るからに濁った黒は、底なしの闇という表現がピッタリだった。その中心に、赤い瞳孔が縦に走っている。

 見ただけで胃の奥が冷える。魂そのものを覗かれている感覚に、呼吸が浅くなって膝が勝手に笑う。

「ああ、クソっ……怖がってる場合じゃないのに」

 本能が叫ぶ。このまま逃げろ、これに関わるな。見てはいけない。あれは人が触れていいものじゃない。

 それなのに俺の右手は、まだ博仁の手を握っていた。霊体の彼には温度なんてないはずなのに、不思議とあたたかい。

(……優斗)

 頭の中で、博仁が呼ぶ。とても静かな声なのに、今までで一番真剣だった。

(今なら分かる)

 黒い霧が、彼の周囲で意志を持ったように揺れる。

(あれは"穢核"――穢れが意思を持ったものだ)
「穢核……?」
(悪霊が堕ちる先じゃない)

 一拍置いて、博仁が低い声で続ける。

(あれ本体が、悪霊を生むんだ)

 背筋が凍ると同時に、母さんが顔を強張らせる。

「そんなものが、ずっとこの土地の下にあったっていうのかい……?」
(はい。僕は昔、それを喰って封じました。危険なものだと判断したから)

 博仁の声に、わずかな苦みが滲む。

(だけど、完全には喰いきれなかった。核だけが残り続けていたみたいなんだ)

 巨大な眼がぎょろりと動き、視線が俺へ向く。

 ぞわり、と背筋が一瞬で凍りつく。魂の芯まで粟立つ次の瞬間、裂け目から黒い濁流が噴き出した。

 腕や顔、牙。何かを叫ぶ口。何百、何千という悪霊の群れで、空が一瞬で黒く埋まる。

「ううっ……!」

 俺は歯を食いしばった。怖い、本当に怖い。だけど――もう逃げない。そう決心したんだ!

「博仁」
(うん?)
「あれ……喰えるか?」

 博仁はすぐに答えなかった。間違いなく俺が無茶なことを言ったせい。なのに、しばらくすると彼が笑った。

(一応、僕にも許容量ってものがあるから、全部は無理だと思うよ)

 黒霧が膨れ上がる。

(でも――君と一緒なら)

 俺も博仁に合わせるように笑った。

「だったら十分だ」

 胸の奥が熱くなると、鼓動が雷になり血が光になる。そして博仁の黒霧が、それを呑み込んで混ざり合い練り上げた。

 金と黒がいい配分で合わさって、紫紺の稲妻が生まれる。さっきより遥かに大きくて、遥かに濃い。遥かに静かで、恐ろしいほど美しい力だった。

 母さんが目を見開く。

「あれは……神威が喰われてるんじゃない」

 震える声で呟く。

「浄化されながら増幅してる……!」

 そう――俺には分かる。これは破壊の力じゃない、救済の力だ。穢れを剥がして、魂だけを天に還す雷。

 俺たちは同時に叫んだ。

「――鎮魂雷・天穿(てんせん)!!」

 天地が裂けた瞬間、紫紺の雷龍が空へ一気に駆け上がる。群がる悪霊をすべて呑み込みながら、一体一体の穢れだけを焼き尽くす。

 悲鳴が祈りへ変わっていき、絶叫が涙へ変わる。真っ暗な闇が、徐々に光へ還っていく。最後に雷龍は、その巨大な眼へ牙を剥いた。穢核が咆哮したら空間が歪み、見えない壁が生まれる。だが――。

「博仁!!」
(大丈夫、分かってる!!)

 彼の黒霧が雷龍の口へ流れ込むと、牙が変わる。それは喰らう牙じゃない――封じる牙。博仁が最後の鍵を差し込むと同時に、俺が雷で閉じる。

「終わりだぁぁぁ!!」

 雷龍が穢核へ噛みついた。バキン、と世界の芯が砕ける音がした。巨大な眼に、初めて感情が宿る。

 恐怖……次いで――安堵が広がっていく。黒がポロポロと剥がれ落ちると、中から現れたのは小さな白い光だった。

 子供みたいに、か弱い光。ずっと穢れの殻に閉じ込められていた、本来の核。それがふわりと浮かぶ。

 そして博仁の胸へ、すっと吸い込まれた。黒い霧が消えると、彼の輪郭が澄んだ光になる。透明で穏やかで、あまりにも綺麗だった。

「……終わった」

 俺は息を切らしながら膝をつく。もう指一本動かない。その横で、博仁が静かに立っていた。見慣れた黒い瞳が、優しく細まる。

(ありがとう、優斗)

 その声は、いつもより遠い。そのせいで嫌な予感が走る。

「……おい?」

 博仁の身体が、光の粒になり始める。

「おい、ちょっと待てって!」
(僕はすべての核を取り込んだ)

 肩を竦めながら、困ったように笑う。

(今度こそ、僕が器になる番みたいだ)

「そんなの、ふざけんなよ!」
(大丈夫)

 彼は最後に、そっと俺の額に触れる。あたたかい――本当に不思議なくらい。

(もう君の中にはいない。でも――)

 胸の奥で、微かな灯りがともる。

(ちゃんと、ここにいる)

 光が弾けて、夜空へ無数の粒が舞い上がる。金木犀みたいな、優しい香りだけを残して。

 静寂のあとで、柔らかな風が吹く。それに反応するように、イチョウの葉がさらさらと揺れた。そして一枚だけ、俺の手のひらへ葉が落ちた。

 そこから、かすかに声がした。

(……また呼んで)

 くすっと笑う声が頭の中に響く。

(今度はちゃんと許可を取って、君の中に入るから)
「何言ってんだよ……馬鹿」

 涙が落ちる。でも、笑ってしまった。

「……終わった」

 俺は膝をついた。肺が焼けるみたいに熱いし、腕は痺れている。全身から力が抜けて、指一本まともに動かせない。それでも、空を見上げた。裂け目は閉じている。あれほど濃かった穢れの気配も、もうない。

 静かな夜だった。再び風が吹く。イチョウの葉が、さらさらと揺れる。

「……博仁」

 呼ぶが返事がない。胸がざわついた、そのとき――。

(いるよ)

 頭の中で声がした。思わず顔を上げ、キョロキョロ辺りを見渡す。

「……っ!」

 俺の横に博仁が立っていた。けれど以前とは違う。黒かった霧は消えている。その代わり、彼の輪郭を淡い金と紫の光が縁取っていた。夜の闇を溶かしたような深い紫と、神威の名残のような金色の粒子が静かに舞っている。

 禍々しさはない。むしろ神聖ですらあった。

 博仁は自分の手を見下ろし、少し驚いたように笑う。

(へぇ……)

 指先を握って開く。

(こうなるのか)
「消えて……ない、のか?」
(実際、消えかけたけどね)

 いつもの調子で肩をすくめる。

(でも最後に取り込んだ穢核が、僕の核になったみたいなんだ)

 母さんが目を見開く。

「核の再構築……?」

 信じられないものを見る顔だった。

「そんなこと、あり得るのかい」

 博仁は少し考えて、薄く笑った。

(普通は、ないだろうね)

 そして、俺を見る。黒――いや、今は紫紺の瞳が細くなる。

(でも僕には、器がある)

 とん、と俺の胸を指先でつつく。そこが熱く光った。

「うわっ!?」

 服の上からでも分かる。胸の中心に、何か刻まれている感覚があった。

 母さんが目を凝らす。

「印……契約紋かい?」
「契約?」

 俺が聞き返すと、母さんは珍しく真面目な顔になった。

「守護霊契約だよ」

 ため息まじりに静かに言う。

「強い霊が特定の人間の魂と、正式に結びつく古い契約のことさ」
「え?」
「人間の魂と、一心同体になる代わりに」

 指を一本立てる。

「霊は現世に留まれる」

 言いながら、二本目の指を立てる。

「人間は、その霊の力を借りられる」

 母さんは三本目の指を立てながら、瞳を細めた。

「ただし――」

 意味深に、にやりと笑う。

「縁は、一生モノなんだよ」
「……は?」

 固まる俺の隣で、博仁がくすっと笑う。

(つまり僕たち、正式に相棒になったってわけ)
「待て待て待て!」

 俺は立ち上がる。

「俺、そんなこと承諾してないぞ!?」
(したよ)
「いつ!?」
(手を握って『俺が助ける番だ』って言ったとき)
「なっ、あれは勢いだって!」
(契約って、案外そういうものだよ)

 博仁は楽しそうに笑うが、顔が良いせいで余計に腹が立つ。

「こんなの無効に決まってる!」
(無理だよ)
「もう解除!」
(もっと無理)
「なんでだよ!」

 博仁が、少しだけ優しく笑った。

(だって僕がもう――全身全霊で君を守ると決めたから)

 真面目に告げた言葉を聞いて、反論が詰まる。いつもの軽口じゃない、本気なのを雰囲気で感じ取ってしまった。本当にこの男は、自分を削ってでも俺を守る気でいる。

 だから、余計にムカついてしまった。

「そんな大事なことをさ……勝手に決めるなって」
(うん)
「俺に相談しろよ」
(分かった、善処する)
「絶対しない顔だろ、それ」
(あ、バレた?)

 博仁が笑ったそのとき、母さんがぽんと手を叩いた。

「よし決まりだね」
「何が!?」
「今日から家族が一人増えた」

 とんでもないことを、さらっと言う。

「部屋は、優斗の部屋でいいだろ」
「なんで!?」
(これからよろしくね、相棒!)
「勝手に住むな!」

 俺の抗議をよそに、母さんは楽しそうに自宅に向かった。

「めでたいから、赤飯でも炊こうか」
「これって、祝い事なのかよ!?」

 夜空には、穢れの残滓ひとつない。ただ、澄んだ星だけが瞬いていた。

 胸の奥がほんのり温かい。そこに、確かに博仁がいる。厄介で胡散臭くて、でも不思議と嫌じゃない。

(優斗)
「なんだよ」
(きっとこれから、忙しくなるよ)

 博仁が楽しそうに笑う。

(だって僕たち、いろんな意味でかなり目立つから)
「マジかよ……最悪だ」

 そう言いながらも、少しだけ口元が緩んでいた。