三神心霊相談所――それが俺の家の名前だ。築五十年以上の古い日本家屋で、門の横には達筆すぎて読みにくい木札が掛かっている。庭には盛り塩があちこちにあり、軒先には鈴、玄関には見慣れない札が貼ってあった。友達を気軽に家に呼べない理由が、ここに全部詰まっている。
玄関のすぐ横には、母さんの仕事部屋がある。霊に悩まされた人が訪ねてきたとき、家の奥まで入らなくて済むように――という配慮らしい。
母さんの職業は霊媒師――昔、悪霊に取り憑かれて死にかけていた父さんを助けたのが母さんで、それがきっかけでなぜか恋に落ちて結婚した……という、どう考えても漫画みたいな馴れ初めから俺は生まれた。
まさかその霊媒体質が、息子にまで遺伝するとは思わなかったが。
俺は、一階の仏間に連れてこられた。仏壇の前に正座して待っていると、母さんは引き出しを開ける。その手には、小さな手鏡が握り締められていた。それを何の気なしに手渡される。
「ほら。これで、自分の顔を見てみな」
言われるまま鏡をのぞき込んだ瞬間――一瞬で息が止まった。
「うわっ!?」
思わず変な声が出る。黒いはずの瞳が、血のような赤に染まっていた。
「ちょっ、なんだよこれ!」
鏡を持つ手がブルブル震える。
「こんな目で学校に行ったら、絶対コンタクトとか言われるだろ! っていうか、それ以前に怖がられる!」
「大丈夫だよ」
母さんはあっさり言い、仏壇の引き出しから眼鏡を取り出した。それはどこにでも売っていそうな、茶色い縁の地味な眼鏡だった。
「これをかけな」
半信半疑で装着し、恐るおそるもう一度鏡を見た。
「……え?」
そこに映っていたのは、いつもの俺の目だった。さっき見た赤い瞳は、キレイに消えている。
「すげぇ……」
しかも眼鏡越しに母さんを見ると、背中に張り付いていた血まみれ幽霊の姿まで消えていた。
「気づいただろ。そのレンズがフィルターになってるんだよ」
母さんは腕を組み、得意げに言う。
「霊を視る力を抑えてくれる。私が毎日、願掛けして作ったんだよ」
「……毎日?」
嫌な予感がした。
「つまり俺がこうなることを、母さんは予想してたってこと?」
「そういうことになるね」
やけにあっさり言う。
「三神の血と衣笠の血を継いでるんだ。避けて通れるわけないだろう?」
そう言うと母さんは仏壇の前に座り、蝋燭に火を灯した。それだけで、部屋の空気が少しだけ変わる。
「優斗。眼鏡を外して視ていなさい」
逆らえないので、渋々眼鏡を外す。すると、さっきまで血まみれだった女の幽霊が――普通の女性の姿になっていた。
「え……?」
頭も割れていないし、顔も崩れていない。まるで最初からそうだったみたいに、静かにそこに立っている。
母さんは幽霊の額にそっと手を当てながら、目を閉じる。それから数秒後――母さんの手のひらに、小さな光の玉が生まれた。光はゆっくり回転しながら形を変え、やがて真っ赤なヒールになった。
「お探し物は、これでしょう?」
母さんがそれを差し出すと幽霊は目を見開き、震える手でヒールを抱きしめた。その目から、一筋だけ涙が零れる。
(これ……探してたの……)
声はもう、かすれていない。若い女性の、穏やかな声だった。
(これを履いて……彼に会いに行く約束だったの……)
そう言って、嬉しそうにヒールを履く。カツ、カツと小さな音を立てて歩く姿は、さっきの恐ろしい幽霊とは別人のようだった。
喜ぶ幽霊を尻目に、母さんは静かに仏壇へ手を合わせる。部屋の中に、白い霧が現れた。その霧の中央に――一本の光の道が伸びる。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
幽霊はぺこりと頭を下げ、光の道を歩いていった。霧がゆっくりと閉じていき、部屋は元の静かな仏間に戻った。
ひと仕事終えた母さんが振り向く。
「これが、私のやっている浄化だよ」
「……」
俺は、しばらく声が出なかった。
「これから、お前もやるんだからね」
「……はい?」
間抜けな声が出る。母さんは肩をすくめながら、話を続けた。
「三神の血じゃなくて、問題は私の実家である衣笠の方なんだ」
そして語られたのは、信じがたい話だった。
衣笠家は昔――金のために人を騙し、奪い、殺し、呪いすら商売にしていた、なんでもありの一族だったらしい。人の不幸で繁栄した家系は、結果的に呪われた。子どもが生まれなくなり、跡取りも育たなくなった。
そこで先祖は、有名な霊媒師を頼った。告げられたものは、たったひとつ――これまでの罪は消えない。ならば生涯、霊を救い続けなさい。
「つまりだ」
母さんは、やけに爽やかな笑顔で言い放った。
「子孫が、ずっと浄化し続けてるってわけさ」
俺は自分の目を指した。
「……この赤目も?」
「正解」
母さんは首を縦に振る。
「それは霊を見る印だよ」
そして目を閉じた次の瞬間、母さんの瞳が俺と同じ赤に変わった。
「うわっ!」
「修行すればできるよ」
母さんは仏壇の引き出しから、見慣れない数珠を取り出した。
「これは、お前のもの」
紫と黒の石が連なる、とても綺麗な数珠だった。
「おじいちゃんの形見だよ」
「俺のじいちゃん?」
「お前が四歳のとき、霊になってここまで会いに来た」
「……え?」
「優斗の力が目覚めたら渡してくれってね」
俺は数珠を見つめた。紫の石の中に、雲みたいな模様が浮かんでいる。
「その数珠は、必ずお前を守る……まあ、本当に危なくなったら“向こう”も放っておかないだろうしね」
「向こう?」
「さあね」
母さんはニヤリと笑った。
「ただし!」
母さんの口調が強くなった時点で、嫌な予感がした。
「学校終わったら、まっすぐ帰ってきな」
「なんで?」
「お前が調節できない霊力が、だだ漏れしてるから」
母さんは楽しそうに言う。
「簡単に言うと優斗の霊力は、霊にとって撒き餌だ」
「それ、全然安心できないじゃないか!」
「大丈夫」
母さんは軽く言った。
「数珠が守ってくれるから」
(それ……本当かよ――)
一抹の不安を抱えながら、俺は数珠を胸ポケットに入れた。
そして登校時間、いつものように学校へ向かう。そのときの俺は、まだ知らなかった。母さんが言った俺の霊力が撒き餌になっている意味を、校門の前で知ることになる。
人ではない“何か”が、まるで餌に群がる魚みたいに俺をじっと見ていた。
玄関のすぐ横には、母さんの仕事部屋がある。霊に悩まされた人が訪ねてきたとき、家の奥まで入らなくて済むように――という配慮らしい。
母さんの職業は霊媒師――昔、悪霊に取り憑かれて死にかけていた父さんを助けたのが母さんで、それがきっかけでなぜか恋に落ちて結婚した……という、どう考えても漫画みたいな馴れ初めから俺は生まれた。
まさかその霊媒体質が、息子にまで遺伝するとは思わなかったが。
俺は、一階の仏間に連れてこられた。仏壇の前に正座して待っていると、母さんは引き出しを開ける。その手には、小さな手鏡が握り締められていた。それを何の気なしに手渡される。
「ほら。これで、自分の顔を見てみな」
言われるまま鏡をのぞき込んだ瞬間――一瞬で息が止まった。
「うわっ!?」
思わず変な声が出る。黒いはずの瞳が、血のような赤に染まっていた。
「ちょっ、なんだよこれ!」
鏡を持つ手がブルブル震える。
「こんな目で学校に行ったら、絶対コンタクトとか言われるだろ! っていうか、それ以前に怖がられる!」
「大丈夫だよ」
母さんはあっさり言い、仏壇の引き出しから眼鏡を取り出した。それはどこにでも売っていそうな、茶色い縁の地味な眼鏡だった。
「これをかけな」
半信半疑で装着し、恐るおそるもう一度鏡を見た。
「……え?」
そこに映っていたのは、いつもの俺の目だった。さっき見た赤い瞳は、キレイに消えている。
「すげぇ……」
しかも眼鏡越しに母さんを見ると、背中に張り付いていた血まみれ幽霊の姿まで消えていた。
「気づいただろ。そのレンズがフィルターになってるんだよ」
母さんは腕を組み、得意げに言う。
「霊を視る力を抑えてくれる。私が毎日、願掛けして作ったんだよ」
「……毎日?」
嫌な予感がした。
「つまり俺がこうなることを、母さんは予想してたってこと?」
「そういうことになるね」
やけにあっさり言う。
「三神の血と衣笠の血を継いでるんだ。避けて通れるわけないだろう?」
そう言うと母さんは仏壇の前に座り、蝋燭に火を灯した。それだけで、部屋の空気が少しだけ変わる。
「優斗。眼鏡を外して視ていなさい」
逆らえないので、渋々眼鏡を外す。すると、さっきまで血まみれだった女の幽霊が――普通の女性の姿になっていた。
「え……?」
頭も割れていないし、顔も崩れていない。まるで最初からそうだったみたいに、静かにそこに立っている。
母さんは幽霊の額にそっと手を当てながら、目を閉じる。それから数秒後――母さんの手のひらに、小さな光の玉が生まれた。光はゆっくり回転しながら形を変え、やがて真っ赤なヒールになった。
「お探し物は、これでしょう?」
母さんがそれを差し出すと幽霊は目を見開き、震える手でヒールを抱きしめた。その目から、一筋だけ涙が零れる。
(これ……探してたの……)
声はもう、かすれていない。若い女性の、穏やかな声だった。
(これを履いて……彼に会いに行く約束だったの……)
そう言って、嬉しそうにヒールを履く。カツ、カツと小さな音を立てて歩く姿は、さっきの恐ろしい幽霊とは別人のようだった。
喜ぶ幽霊を尻目に、母さんは静かに仏壇へ手を合わせる。部屋の中に、白い霧が現れた。その霧の中央に――一本の光の道が伸びる。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
幽霊はぺこりと頭を下げ、光の道を歩いていった。霧がゆっくりと閉じていき、部屋は元の静かな仏間に戻った。
ひと仕事終えた母さんが振り向く。
「これが、私のやっている浄化だよ」
「……」
俺は、しばらく声が出なかった。
「これから、お前もやるんだからね」
「……はい?」
間抜けな声が出る。母さんは肩をすくめながら、話を続けた。
「三神の血じゃなくて、問題は私の実家である衣笠の方なんだ」
そして語られたのは、信じがたい話だった。
衣笠家は昔――金のために人を騙し、奪い、殺し、呪いすら商売にしていた、なんでもありの一族だったらしい。人の不幸で繁栄した家系は、結果的に呪われた。子どもが生まれなくなり、跡取りも育たなくなった。
そこで先祖は、有名な霊媒師を頼った。告げられたものは、たったひとつ――これまでの罪は消えない。ならば生涯、霊を救い続けなさい。
「つまりだ」
母さんは、やけに爽やかな笑顔で言い放った。
「子孫が、ずっと浄化し続けてるってわけさ」
俺は自分の目を指した。
「……この赤目も?」
「正解」
母さんは首を縦に振る。
「それは霊を見る印だよ」
そして目を閉じた次の瞬間、母さんの瞳が俺と同じ赤に変わった。
「うわっ!」
「修行すればできるよ」
母さんは仏壇の引き出しから、見慣れない数珠を取り出した。
「これは、お前のもの」
紫と黒の石が連なる、とても綺麗な数珠だった。
「おじいちゃんの形見だよ」
「俺のじいちゃん?」
「お前が四歳のとき、霊になってここまで会いに来た」
「……え?」
「優斗の力が目覚めたら渡してくれってね」
俺は数珠を見つめた。紫の石の中に、雲みたいな模様が浮かんでいる。
「その数珠は、必ずお前を守る……まあ、本当に危なくなったら“向こう”も放っておかないだろうしね」
「向こう?」
「さあね」
母さんはニヤリと笑った。
「ただし!」
母さんの口調が強くなった時点で、嫌な予感がした。
「学校終わったら、まっすぐ帰ってきな」
「なんで?」
「お前が調節できない霊力が、だだ漏れしてるから」
母さんは楽しそうに言う。
「簡単に言うと優斗の霊力は、霊にとって撒き餌だ」
「それ、全然安心できないじゃないか!」
「大丈夫」
母さんは軽く言った。
「数珠が守ってくれるから」
(それ……本当かよ――)
一抹の不安を抱えながら、俺は数珠を胸ポケットに入れた。
そして登校時間、いつものように学校へ向かう。そのときの俺は、まだ知らなかった。母さんが言った俺の霊力が撒き餌になっている意味を、校門の前で知ることになる。
人ではない“何か”が、まるで餌に群がる魚みたいに俺をじっと見ていた。
