紡がれる力 ―霊を宿す少年―

 差し出された手を、俺は見つめていた。黒い炎が、博仁の手のひらの上で静かに揺れている。それは熱そうなのに、不思議と恐ろしくはなかった。むしろ、どこか懐かしい温もりすら感じる。

 だけど、迷いはあった。こいつは霊を喰う。出逢ってすぐに、俺の体に無遠慮で勝手に入り込んだ。黒い霧で悪霊を丸ごと呑み込んだときのあの生々しい感触は、今も忘れられない。

 素直な感情を表現するなら恐怖――正直、ずっと怖かった。博仁が何者なのか、まだ全部は分かっていない。それでも脳裏に浮かぶのは、あの夢だった。

 イチョウの木に赤い鎖で縛られ、ひとりで何百年もの孤独を抱えていた姿。痛みに慣れたみたいに笑っていた横顔。そして――俺を喰わなかったこと。

 喰えたはずなのに、なぜかしなかった。むしろ、守ってくれた。俺を狙った悪霊を自分が喰ってまで、俺のことを守った博仁――。

 胸の奥で、何かがすとんと落ちる。腑に落ちる、というのはこういう感覚かもしれない。

「……ずるいよな」

 ため息混じりに、ぽつりと呟く。

(え?)

 博仁が少し目を瞬いた。

「そんな顔で頼まれたら、イヤだって断れないだろ」

 俺は、両肩の力を抜いて苦笑した。目の前にたくさんの悪霊が迫っている状況なのに、呑気に博仁と喋っているなんて、おかしいにもほどがある。

 迷わずその手を掴んだ刹那、ぶわっと黒い炎が弾けて博仁の存在が消える。しかも黒い炎は熱くない。炎は俺の腕を一瞬で這い上がり、白い霊光と絡み合って、その奥で黄金の神威と混ざり合う。

 三つの力が今度はぶつからず、綺麗に混ざるように溶け合ったその瞬間――ドクンと胸の奥が大きく脈動する。俺と博仁、二つの鼓動が重なって、視界が一気に開けた。

 俺の目でありながら、俺だけの視界じゃない。空気の流れや霊脈の歪み、怪物の核と弱点。目に映ったものから、全部が分かる。

(優斗、もしかして見える?)

 頭の中で、博仁の声が聞こえた。でも、いつもみたいに頭の奥じゃない。隣に立って、話しかけられてるみたいに近い。

「ああ」

 俺は口元を上げた。

「全部見える」
(それが共鳴だよ)

 柔らかく笑う気配が、俺を守るように包み込む。

(君の神威が僕を引き出して、僕の力が君を押し上げる)

 背中に、ぞくりと何かが生まれ振り返る。そこには巨大な翼があった。片翼は白銀の光、片翼は漆黒の炎。その中心を、黄金の光の粒子が星みたいに舞っている。

「うわ……」

 見たことのないファンタジーな異物に、思わず声が漏れた。

(へぇ。優斗、似合ってる)
「今、それを言う?」

 緊迫した状況なのに、博仁が少し笑う――その軽さに、不思議と体の力が抜けた。それと同時に怖さが消える。代わりに湧いてきたのは、妙な高揚感だった。

 いける、俺たちなら!

 目の前の怪物を見上げる。何百もの顔が呻き、唸り、憎悪を撒き散らしている。だけどもう、圧は感じない。俺の隣には、博仁がいる。

 いや――違う。

「一緒にいる」

 胸の奥に手を当てた。

「そうだろ、博仁」
(うん)

 優しく答える声に、自然と口角があがった。

(やっと、優斗の隣に立てた。すごく嬉しいよ)

 その一言がなぜか胸に響いたそのとき、黒い怪物がいきなり咆哮した。

『器ガ……交ワッタ……!』

 俺たちの目の前に巨大な腕が振り下ろされ、空気がびゅっと裂けて、地面が大きく震える。でも巨大すぎるせいで――。

「遅いんだよ!」

 腕を避けるべく、横に跳んでいた。反射的な行動ゆえに、地面を蹴った感覚すらない。飛んだ勢いを使って、一瞬で怪物の懐へ潜り込む。

 右手には白黒金の剣、左手には黒炎。全身に神威が巡る。

「これは――」

 自然と口から言葉が零れた。

「俺と博仁の力だ!!」

 思いっきり剣を振り抜く。斬撃と同時に、左手の黒炎が奔流となって怪物へ噛みついた。

 俺たちの合わさった力――喰らい、浄め、裁く。三つの力が同時に発動する。怪物の巨体が、初めて悲鳴を上げた。

『ギャアアアアアア!!』

 夜空を裂く絶叫で、校庭全体がゆらゆら揺れる。その光景を見ながら、母さんがぽつりと呟いた。

「……はは」

 乾いた笑いが、引きつった唇から漏れ出た。

「優斗」

 母さんは目を丸くしたまま、腰に手を当てながら俺に話しかけた。

「アンタ、とんでもない男を拾ったね」

 そして、すぐに首を振る。

「いや――今回は違うか」

 細めた目が、まっすぐ俺たちを見る。

「拾われたのは、博仁の方かもしれないね」

 夜空の下で、俺は笑った。胸の奥でも、博仁が笑っているのが分かる。初めて本当に、同じ気持ちで笑い合うことができた瞬間だった。

 怪物の巨体が、大きくのけぞった。白黒金の斬撃が深々と刻まれた胸元から、黒い泥のようなものが溢れ出す。どろり、どろりと地面へ落ちたそれは、落ちた先の土を腐らせるように黒く染めていった。

 鼻を突く臭い。それは腐臭じゃない。もっと生々しい感じ――長年積もった憎しみの臭いだった。

『アアアアア……』

 怪物が呻く。だが、その声がさっきと違った。怒りの咆哮じゃない。もっと弱々しい、苦しそうな声となって俺の耳に届く。

(優斗)

 胸の中から、博仁が呼ぶ。

(怪物の胸の奥を見て)
「胸の奥?」
(そう。あそこに、核があると思うんだ)

 俺は、怪物の裂けた傷口をよく見る。黒泥が吹き出す奥の方――もっと深い場所に、何かが見え隠れた。

 目をよく見開き凝視したら、赤く脈を打っている何かが見えた。それは心臓……じゃない。繭みたいな赤黒い塊だった。何本もの赤い鎖が、その中心へと繋がっている。まるで何かを守るように。

「……繭の中に、何かいる感じがする」
(うん)

 珍しく、博仁の声が硬い。

(きっとあれは、魂の核だ)
「魂?」
(ああ。災厄は、自然には生まれない)

 静かな声で説明が続く。

(誰かひとりの強烈な想いが核になって、周囲の怨念を吸い集め、巨大化する仕組みなんだ)

 ぞくり、とした。

「つまり……あの中に、人がいるってことなのか?」
(正確には、人だったものだよ)

 博仁の口から告げられた言葉が、やけに重く感じた。

(救われず終われず、憎しみに呑まれた魂だ)

 怪物が大きく身をよじる。その巨体の奥から――。

『……た……すけ……て……』

 か細い声が聞こえた。

「!」

 俺の体が強張る。聞こえた、確かに。子どもみたいな声だった。

『ううっ、くるしい……よ』

 怪物の咆哮の隙間から、泣き声が混じって聞こえる。

『いたい……よ。さ、むい……』

 泣きじゃくる声を聞いた瞬間、胸がぎゅっと掴まれた。これは、怪物の声じゃない。核の中の魂の叫びだ。

 母さんも気づいたらしい。顔色を変えて叫ぶ。

「優斗! この怪物は斬っちゃ駄目だ!」
「え?」
「核を壊すと、間違いなく魂ごと砕ける!」

 その場の空気が凍る。

 じゃあ、どうすればいいんだろう。このままじゃ、怪物は暴れ続ける。しかも放置すれば、確実に人を襲う。だから、倒さなければいけない。でも、中にある核は壊せない。

 どうにもならない矛盾を感じて、下唇を噛みしめたら――。

(優斗)

 博仁の声が、静かに胸の奥から響く。

(君の神威なら、きっと届く)
「どうやって?」
(斬るんじゃない、手を伸ばしてみるんだよ)
「……え?」
(あの魂を掴んで。僕の魂を掴んだみたいに)

 信じられないような、無茶を平然と言う。

「このサイズの化け物の中に、俺が飛び込むのかよ?」
(大丈夫)

 柔らかく笑う気配を感じた。

(僕の力が君を守る)

 その一言に、不思議と怖さが薄れた。代わりに、覚悟が座る。

「博仁……信じるぞ」
(うん)
「絶対、守れよ」
(もちろん!)

 少し嬉しそうに、博仁が笑った。

(今度こそ、ちゃんと守り抜いてみせるよ)

 その言葉と同時に、黒い炎が翼となって俺を包む。白銀の光が腕へ集まり、黄金の神威が右手に灯る。三つの力が、一点に収束する。

 迷いなく俺は飛んだ。怪物の咆哮の中へ。黒泥を裂き、赤い鎖をかわしながら、胸の裂け目へ真っ直ぐ突っ込む。どろりとした闇の膜を抜けると――そこは、静かな空間だった。

 赤い光に満ちた、小さな世界。真ん中に、ひとりの少女が膝を抱えて座っている。中学生くらいだろうか。着ている制服はぼろぼろで、長い黒髪が顔を覆っている。

 全身に赤い鎖が巻きつき、細い手足に深く食い込んでいた――あのときの博仁と同じ様子に、眉根を寄せる。

「……っ」

 否応なしに胸が痛む。立ち尽くす俺に気づいた少女が、ゆっくり顔を上げた。涙で濡れた瞳。虚ろなのに、どこか綺麗な瞳だった。

『あなた……だれ?』

 小さな声を聞いて、俺は迷わず右手を差し出した。

「俺は三神優斗」

 まっすぐ名乗る。

「君を迎えに来た」

 少女の瞳が揺れる。

『……うそ』
「嘘じゃない」

 一歩近づく。鎖がギリ、と威嚇するように鳴ったが俺は止まらない。

「ここから出なきゃ。もう終わりにしよう!」

 黄金の光が、手のひらから優しく溢れる。

「苦しいのも寒いのも、ひとりぼっちも」

 少女の前で膝をつく。そして、優しく微笑んで口を開く。

「もう、しなくていい」

 差し出した手を、もう一度見せる。

「一緒に帰ろう」

 少女の唇が、小さく震えた。今にも泣き崩れそうな顔で――恐るおそる、そっと俺に手を伸ばす。

 その瞬間、赤い鎖が狂ったように暴れたら少女の姿が消え去り、背後にある闇がぐにゃりと裂ける。そこから現れたのは――巨大な一本の腕だった。心の闇を表すような漆黒の腕は、爪の先まで憎悪でできたみたいな感じに見えた。そして、低い声がどこからともなく響く。

『――返セ』

 博仁の気配が、初めて剣呑に震えた。

(優斗!! 後ろ!!)

 振り向いた先にいたのは――俺たちが本当に相手にしていた“災厄の本体”だった。赤い鎖が砕け散ったあとも、空間の裂け目はまだ蠢いていた。黒と赤が混じった瘴気が渦を巻き、まるで巨大な口みたいに開いている。

 その中心で――博仁が膝をついていた。肩で息をしている。霊体が薄くなっていて、輪郭が崩れかけている。

「博仁!」

 俺は駆け寄ろうとした瞬間、母さんが叫ぶ。

「行くんじゃない優斗!!」

 かけられた声で、反射的に足が止まる。空間の裂け目から、無数の手が伸びていた。黒い手や細い手。骨ばった手に腐った手。全部が博仁を掴もうとしている。

『返せ』
『返せ』
『返せ』

 頭の中へ直接響く声を聞いているだけで、背筋がぞわっと凍る。その中心で博仁が笑った。いつもの余裕ぶった笑みじゃない。それは諦めた笑いだった。

「……やっぱり来たか」
「何がだよ!」

 俺が叫ぶと、博仁は静かに言う。

「これね、僕が喰ったものたちだよ」

 信じられない事実に、空気が凍った。

「え……?」
「悪霊だけじゃない」

 黒い瞳が切なげに、ゆらゆら揺れる。

「堕ちかけた魂も、呪われた霊も穢れも――僕は全部、この身に喰らって封じてきたんだ」

 母さんが息を呑む。

「まさか……器……?」

 博仁が薄く笑う。

「そう。僕は昔――人柱だった」

 その瞬間、俺の頭に映像が流れ込んだ。知らない景色、古い時代と社。それを囲って祈るたくさんの人々。どこからか漂う血の匂い。不安そうに、泣いている子供たち。そして――イチョウの木の下。赤い鎖に、自分から繋がれる一人の少年。

 見慣れた黒髪と静かな目。人柱になっているというのに、笑っている。泣きそうな顔で――。

(――これで、みんなが助かるなら)

 その声は博仁だった。

 胸が痛い。見ているだけで息が詰まる。何百年もの孤独と喰らい続ける苦痛。それをすることによって、自分が壊れていく恐怖。それでも、誰かを守り続けた時間。全部が一気に流れ込む。

「……ううっ……」

 涙が勝手に零れた。博仁が驚いた顔をする。

「優斗……?」

 俺は震える手を握った。

 怖い。ものすごく怖い。でももう知ってしまった。彼がずっと、一人きりで戦っていたことを。ずっと、誰にも助けを求められなかったことを。

 だから俺は叫ぶ。

「ふざけんな!!」

 自分でも、驚くほど大きな声だった。

「なんで一人で抱え込んでんだよ!」

 博仁が目を見開く。

「優斗――」
「俺がいるだろ!!」

 叫んだ瞬間、神威が爆ぜる。金色の光が腕を走って、雷みたいに迸る。俺は迷うことなく手を伸ばす。怖くても震えても、博仁に向かって右手を伸ばした。

「今度は――俺がお前を助ける番だ!!」

 そして――その手を掴む。伸ばした指先が、博仁の手に触れた瞬間だった。

 ――バチッ。

 静電気なんて、生易しいものじゃない。天地そのものが弾けた。

「くぅっ――!?」

 視界が、真っ白に染まる。俺の腕から迸った金色の雷が、博仁の霊体へ一気に流れ込んだがそこで終わらない。博仁の内側から、あの黒い霧が一気に溢れ出す。

 悪霊を呑み込んだ、あの禍々しい霧。けれど今は違った。黒の中に、金の光が走っている。

 雷を孕んだ黒霧は、龍のようにうねりながら二人の周囲を旋回する。金と黒。相反するはずの力が、ぶつかり合うどころか――次第に溶け合っていく。

(……優斗)

 頭の奥で、博仁の声がした。いつもの軽薄さはない。驚きと――戸惑いがあるのが伝わってくる。

(君は僕に、何を流し込んだんだ?)
「そんなの、分かるわけない!」

 必死になって叫び返す。

「でも――」

 博仁の手を握った右手に力を込めて、ぎゅっと引っ張り上げる。

「このままお前を連れていかせる気は、ないんだからな!」

 その言葉に呼応するように、胸の奥が熱くなる。鼓動とは違う、もっと深い場所。血の奥から魂の芯。そこで何かが目を覚ます。

 ――ゴウッ。

 金雷が爆ぜた。黒霧を芯にして、黄金の稲妻が奔る。雷鳴が空気を裂き、地面が揺れる。その衝撃で、イチョウの木が大きくしなった。無数に伸びていた黒い手が、一斉にこちらへ襲いかかる。

『返せ』
『返せェェ』
『我らを返せェェ!!』

 怨嗟が木霊する。その瞬間、俺の口が勝手に動いた。

 いや、違う。俺と博仁、二人の声が重なっていた。

「――鎮魂雷」

 名を呼んだだけで、力が完成する感覚があった。

 黒霧が収束する。黄金の雷を喰らい圧縮し、一筋の巨大な奔流へと変わる。それは禍々しい黒でも、神々しい金でもない。夜明け前の空みたいな、深い紫紺の光だった。

 静かで美しいのに、圧倒的な力を感じる。

「――穿てぇぇぇ!!」

 放った瞬間、世界が無音になった。

 光が一直線に走る。裂け目から伸びる無数の黒い腕を、触れた先から塵に変えながら。

 でも――消している感覚じゃない。

 なんとなく分かる。怨みも苦しみも飢えも、黒く濁ったものだけが綺麗に剥がれ落ちて、中に眠っていた淡い光が解き放たれていった。無数の魂が、光の粒となって空へ向かって昇っていく。

 それは泣いているようにも、笑っているようにも見えた。

 その光景を見上げながら、博仁が小さく呟く。

(……救われてる)

 震える声だった。

(僕が喰った魂が……ちゃんと……)

 そこで初めて気づく。博仁は「食べていた」んじゃない。ずっと、その身に穢れを引き受けて封じていたんだ。食べた魂の本体が壊れないように、どこからも溢れ出さないように。

 しかも、たった一人で――。

「……馬鹿だな、お前」

 思わず言う。

「そんな大事なこと、先に言えよ」

(優斗に言ったら)

 博仁が、困ったように笑う。

(間違いなく、君は無茶をするだろう?)
「もうしてるわ!」

 言い返した、そのとき。

 ――ビキッ。

 嫌な音がした。イチョウの幹に、深い亀裂が走る。地の底からドクン、と鼓動のような振動が響いた。

 母さんの顔色が変わる。

「優斗! まだ終わってない!!」

 裂け目の奥。闇のさらに奥から、何かが目を開く気配がした。それは圧倒的な「核」。今までの悪霊とは比べものにならない。

 そして博仁が低く呟く。

(……ああ、そうか)

 いつになく硬い声に聞こえた。

(やっと思い出した)

 沈黙のあと、静かに続ける。

(僕を封じていた、本当の理由は――)

 黒い瞳が、その闇を見据える。

(あれを、喰っていたからなんだ)

 次の瞬間、裂け目の奥から巨大な“眼”が開いた。その眼が大きく見開き、世界がこちら側を見た気がした。